陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

自分の気持ちを誰かとシェアする必要はない

2022-03-09 | PC・通信・情報・メディア・SNS

私が好きなとあるアニメの最終回には、こんなセリフがある。
──「悲しいことも苦しいことも、みんな、わたしに分けて」。うろ覚えなので仔細は違うかもしれないが。相手が好きだという気持ちに蓋をしてしまい、自己犠牲的な世界の救い方をしようとしたヒロインに対して、主人公が放つ言葉だ。何かにつけ受け身で流されがちな主人公の成長がうかがえる言葉でもある。

当時はじつに救われたような気分になったものだ。
抱えているものを誰かに背負って、軽くしたい。いっしょに苦楽を歩むのが、愛というものだ。でも、視聴後十年経ったあたりから、私は疑問に思いはじめてしまった。なんでもかんでも、好きな人と分かち合う、それは本当に良いことなのか? 肩を貸すというのは、相手の同意了解あってこそ成り立つもので、勝手に無造作に寄りかかっていいわけではない…ではないか。


何かの本で読んだが、最近はモノを所有するよりも、感動体験をする消費活動が流行っているらしい。映画を観るのでも、旅行に出かけるのでも、本を読むのでも。行ったことをSNSにアップして、その感動を誰かと分かち合いたい。それが幸せなのだという。

私もかつては出かけた先の写真をブログに掲載していた。
当時の業務上慣れる必要があって、買ったばかりのデジカメを使い倒したかったからだった。これが携帯になり、スマホになったのだが、いつのまにか撮影をしなくなった。写す必要があるのは、何かの証拠を残したい時だけで、ネットには流さない。食べたものですら、そうだ。買った漫画の表紙は撮影ではなく、プリンタでスキャンしておく。なぜなのだろうか。

ひとつには、画像よりも、文章で私生活を記録する方が無駄がないと考えるからだろう。
写真は採光やらトリミングやらがめんどくさい。画像の保管も手間がかかる。結局いいや、となる。

さらには、プライバシー保護の観点もある。
買った本を持ったまま撮影する。自分の手先が映る。あるいは部屋の一部。窓からの景色。それだけで流れてしまう個人情報がある。

みっつめ。そんなに生活のあちこちを記録して何になるのか、という疑問。
撮影してSNS映えすることばかりを目指すため、疎かになってしまうことは多い。子どものキャラ弁をつくって撮影に凝ってるうちに、冷めて食べられなくなった。受験生が学習の進捗をつぶやいているうちに、ネット漬けになって合格できない。目的と手段が逆になってしまう。何かをやりたい、作りたいという動機付けを外部に頼っていては、楽しめなくなる。

よっつめ、これが重要なのだが。
なぜ、いちいち、自分の感動を誰かと分かち合い、分かりあい、喚かねばならないのか。この本良かったよ、拡散してください。そりゃ、著者は喜ぶだろう。広報宣伝費が浮く。でも、ほんとうに消費活動に結びついているのだろうか? リツイートだけして、結局、興味薄れて買わなくなった、なあんてことはよくありがちだ。マーケティング戦略としての難しさがある。ネット通販もそうだが、今は人柄を売る時代だから、顧客トラブルも多い。

この共有がまだ買ったもの自慢ならいいが。
不幸自慢、病気自慢、不正行為暴露などなど、あきらかに読んだら他人の気分を下げるものまでシェアしたがるのが、昨今の事情なのである。おかげでコロナワクチン反対キャンぺーンがそうだったが、出所不明のデマがはびこってしまいかねない。

私だってブログに腹立たしいことや嘆かわしいことを書いてしまう。
けれども、それを誰かとシェアしたいわけではない。慰めてほしいわけでもない。気休めの評価をもらっても、私の問題は自分が解決しなければ、何も始まらないからだ。ネットの向こう側の人は何も手伝ってはくれない。課題解決は自分主体なのだ。

評価やら反応やらをもらってしまうと、注目されたいがあまり、同じようなことを延々書き続けてしまう。
そうすれば、いつもいつもネガティブなことばかり連ねるか、もしくはうさんくさくポジティブアピールするかのどちらかだ。考えなくともいいようなネタを拾ってきて記事にしてしまう。常態化すると、記事ネタのために取材ばかりして、自分が抱えた課題を先送りばかりしてしまう。コメントを開けば似たような被害者がわんさか集まり、サロンで救世主気分にはなれる。でも、そうしたメンター紛いの人間がどす黒い感情を、よそでまき散らしているのを私は知っている。

それは、自分の気持ちに嘘をついているのではないだろうか。
ブログでも、ツイッターでもなんでもいいが。ほんらいこうしたメディアは自分の気持ちを振り返るためのツールとしてあるのではないだろうか。けれども、妙に励まされたり、あるいはダメだしをくらったり、あるいは情報過多であちこち検索しまくることで、逆に傷口が深くなってしまうことはある。平気な素振りで元気を装うものの、内心は動悸がとまらない。そんなことはあるのではないか。

SNS上に書くことは、自分の気持ちの整理になっているのだろうか。
下手に他人の感情が混ざり合ってしまうことで、自分の確固たる信念がゆらぎ、数字に流され左右されて、判断力を損なってしまうのではないだろうか。

自分がイイというものは、自分だけがイイと言えばイイ。ワルイもまたしかり。
なぜ、それがいいのか悪いのか、突き詰めて自分ひとりで考える時間をつくらないと、なぜそれを選んだのかわからなくなるのではなる。好きも嫌いも他人任せ、そんな人生楽しいのだろうか。

誰かの気持ちを動かしたいというのは、表現者の傲慢でしかない。
自分の本当の感情に気づかないのに、他人に気づきを与えたり、行動を変えたりするのはできやしないからである。

ちなみにこれはネット上のお話だが。
現実でも、何ごとかあると、どうしても自己に有利なように陳情してしまうことはよくあるもので。自分の感情に浮かれてしまって、周囲が見えないことはままある。自分の行く先々の不安を消したくてうさんくさい占い師に頼ったり、優しい言葉をくれそうな人に依存したりとか、子どもや親を甲斐性のない愚痴の慰め相手にするとか、友人を不満のサンドバッグにするとか。女性は共感だけしてほしくて解決を求めないというが、こういう負の感情でつながるのがすごくモヤモヤするのである。

その最たる手段がLINEなので、私は極力、それだけは勘弁こうむりたいのである。
注目されたいあまりに、過剰な話の方向性になったり、わざと気分を逆なでするようなことを言われるのならば距離を置いた方が心の安定になる。

(2022/01/20)




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