陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ドラマ「ニセ医者と呼ばれて ~沖縄・最後の医介輔~」

2010-12-19 | テレビドラマ・アニメ
プロフェッショナルを描いたドラマのなかで、医者というのはおよそシナリオライターが好んで素材にしたがるけれど、これほど難しい素材はないのではないでしょうか。そもそもプロフェッショナルというオーソリティが著しく低下しつつある文筆家の描く物語で、職業の専門性などというものが描ききれるのかとすら疑っているのです。

このたびの日本テレビ系列で放映されたスペシャルドラマ「ニセ医者と呼ばれて ~沖縄・最後の医介輔~」は、日本の戦後、アメリカに占領された沖縄にあって、ひとりの医者を描いたドラマでした。当時、沖縄には医師不足を補うために医師免許を持たない医介輔(いかいほ)と呼ばれる職種があったのです。

堺雅人が演じるこのドラマの主人公・宮前良明は、その最後の医介輔にしておよそ六十年間も地域住民の健康を支えてきた実在の人物をモデルとしています。手塚治虫の名作漫画「ブラックジャック」を地でいくようなニセ医者のお話。興味をそそられないわけはないでしょう。しかし、これもまた、二時間を無駄にしたと感じさせる退屈きまわりないドラマでした。「Dr. コトー診療所」などのような辺境での医療にあたるドラマとダブって見えた方も多かったのでは。

医療ドラマというのは、たいがい、医師の腕前を争うようなエピソードがふんだんに盛り込まれ、それは患者の病状が指数となります。このドラマもその例から外れてはいないでしょう。

主人公は正式な医師ではないという負い目を感じつつも、献身的に医療にあたっています。彼を慕って診療所には多くの患者が寄ってくるのです。その主人公の技量のものさしとなる患者がしめて三名登場します。一人目は不発弾で足を負傷した少年。二人目は、望まない妊娠をしてしまった猟師の妻。そして、三人目は宮前を偽医者だと罵っている傲慢な男。

この三人目の患者の診察結果をめぐって、大病院の医師との対決があり、最終的には宮前の診断の正しさが立証されます。免状をもたぬ宮前の腕前が認められたのです。ありきたりな展開ではありますが、そこまでは納得はいくでしょう。患者のサインを見逃し、椅子に座ってふんぞり返っていた医師を、宮前が誠意のある態度ではあるがとっちめるあたりは、なんとも小気味いいものです。

だが、このあとがはっきりいっていけない。
宮前の自信を粉々に打ち砕くために用意されたエピソードが、あまりに酷いことこのうえないのです。二人目の尾野真千子演じる妊娠した猟師の妻の扱いが、なんともおざなり。宮前がとりあげた赤子を目にした母親は泣き叫び、事情を一切合切知らされていなかった父親は絶望し、妻の不貞を疑ったあげく姿をくらましてしまう。そして、母親は赤子を残して哀しい末路を迎えてしまうのです。

米兵による暴行事件が絶えない現実を訴えたかったのでしょうが、穿った見方をすれば、ショッキングな暴行シーンを盛り込んで興味を引きたい、というメディアの悪趣味さも感じずにはいられないのです。数年前までは、サスペンスものでもない限り、首吊りのシーンは露骨に全体を示さず、宙ぶらりん足もとだけを映していたような。正直、ヒューマンドラマという触れ込みで番組紹介されていただけに、この演出はいただけないことこのうえないものです。

母親はさいしょ、夫に内緒で中絶をするために、宮前を頼ってきたのです。
しかし、宮前は、自分が衛生兵として従軍しサイパン島から独り生き残った過去を涙ぐましく語り、自分が生かされたのは人を救うためだ、だからお腹に宿る新しい命も奪うことはできない、としゃにむに説得します。母親も、子種のない夫との間に万が一授かった子かもしれぬと思い直し、やむなく生む決心をするのです。生まれくる子が黒人の子かもしれないという映画「ナイロビの蜂」のようなサスペンスを匂わせますが、なんのことはない。結果は視聴者も予想できたような悪い方向へと転がってしまいます。

このお産のシーンの演出が微妙にいやらしさ(にこにこ顔の医師が妊婦の股ぐらを覗きこむシーンなんて、エロ親父みたいで悪趣味すぎやしないか)を感じさせるだけでなく、宮前のあまりの楽観ぶりに呆れてしまうのですよ。

まず第一に、自分が医師としての職責だのなんだのを熱く語り、その理想に振り回されて母親は身重になってしまったこと。そして、出産は夫婦の問題であるにも関わらず、子どもが父親と血がつながらぬ子である可能性を父親にあらかじめ告知しなかったこと。インフォームドコンセントを怠ったと言われてもしかたがなくはありませんか。

そして、これがまったく困りどころなのですが、宮前が生まれた子を見て拒絶した父親を説得することも失敗したこと。宮前は母親に対し、生まれてくる子が異人の子であったとしても、責任を取りますからという口約束をしていたのに、です。父親に、あんたの奥さんがこんな目に遭ったら、父親面としてその子を祝福して抱けるのかよ、と詰め寄られても、宮前は何も言い返せない。忸怩たる想いが募ります。

最後に、宮前はまたしても自分なりの青くさい生命観(それは、あたかも女性の堕胎手術をあつかった「サイダーハウス・ルール」でトビー・マグワイアが演じた青年のような初心な正義漢としか言いようがない)から、生まれてきた子を愛せない母親に授乳を強いて、母としての自覚を持たせようとします。その結果、母親は精神的に追いつめられてしまうのです。

この主人公は、およそ、患者をいたわる気持ちというものが足りないのではないでしょうか。
患者の心境を慮る想像力が、まったくといいほど欠けていやしませんか。免状の有無など関係ない。この時点での宮前は、医師として失格でしょう。患者がどうして欲しいかをないがしろにし、理想のために患者を蔑ろにした医者など、すべて医者としての資格がないも同然ではありませんか。

エコー検査などない時代であろうから、胎児の状態など判らないゆえの悲劇といえるのかもしれません。(エコー検査であっても、子どもの肌の色までは判らないし、そもそもエコー検査の異常診断もあてにならないという事例も報告されている)
が、しかし。母親は生まれた子を見るたびに、痛ましい過去を呼び起こすのです。そんな子を可愛がられるだろうか、と不安になって助けを求めたのです。宮前は、その母親の心境をすこしでも汲み取ったのでしょうか。私は思います。自分の腕で中絶ができないのであれば、他の信頼のおける医療機関を紹介すべきではなかったか、と。父親を説得してはみたものの、こんな狭い集落でおしどり夫婦と呼ばれた妻に起きたできごとを巡って、噂が立たないはずはないのです。父親を説得するのならば、子が生まれる前に誠意を傾けて、事情をきっちりと説明し、その子を育てる覚悟があるかどうかを確認するべきではなかったのか、と。
すでに子が三人もいる立派な父親である宮前が、そんなことも判らぬとは思えません。あったとしたら、自分の医療はまちがいなく人に幸せにしているという過信がそうさせたとしか言い様がありません。

宮前はこの一件をきっかけに医介輔を辞めようと決意します。
それを止めるのが、寺島しのぶ演じる賢夫人とした妻。今年大流行したNHKドラマ「ゲゲゲの女房」にあやかってなのか、昭和らしい夫婦善哉でお茶を濁されたようで、なんともしっくりこないのです。宮前の妻は、自分が医介輔の妻として支えてきた苦労をここぞとばかりに語り出し、夫が医療上のいざこざに関する悩みを相談してくれなかったことを愚痴り(患者のプライバシーをおいそれと家族に洩らすような医師こそおかしいのですが…)、夫が職を辞するならば自分は妻も母もやめる、などと言い出して。三人の食べざかりの子を抱えた母の台詞とは思えないのです。
宮前は改心しはするけれども、彼の吐いた弱音の数々はすべて自分が懸命にやったの報われない、その辛さを語るばかりで、あの母親に対する懺悔の念は微塵もないのです。

夫が猛烈仕事人間のために妻や子どもを省みないという典型的な描かれ方で、その解決も、一歩控えめな妻が夫を激励するというありきたりさ。子どもが生まれたせいで家庭が崩壊したあの漁師夫妻の嘆き悲しみがこんなもので消化できるわけがないでしょう。この妻が不幸な母親へなんとか女性なりの気づかいで接していればまだしも救われただろうに。なんとも味気ないドラマです。

主人公の自信をぐらつかせるエピソードならば、なにもこんな話でなくともよかったのではないでしょうか。これでは、犯された女はみな自分に隙があってそうなったのだから自業自得、不幸なけじめをつけろと言われているようなものです。せめて、自殺を図った母親をすんでのところで宮前が救い、必死の救命行為でいのちを呼び戻すという扱いであったら、まだ救われただろうに。なんとも後味の悪い。

望まれない妊娠をしても、授かった命は責任をもって育てなくてはいけない、なんて聖母幻想もいいところなのではないでしょうか。イクメンブームで男性も育児に理解を示すのは喜ばしい傾向だけれども、子を孕むのがどんなに女性にとって重荷であるかを把握していないと、出産・育児=すべてめでたい、女性の責務、みたいな押しつけがましいドラマになってしまいます。

ラストでとりあげた赤子が成人して老いさらばえた宮前を訪ねる締めくくりも、なんとも中途半端。
自分をこの世に誕生させてくれたことを感謝させて、宮前の積年の医療行為を称えるねらいがあるが、なんともあざとい。生まれながらに両親がいないために、その赤子がどれだけ苦労したかを知る術はないのですから。

医介輔というのは、専門知識を持ちながらも、きわめて患者の目線に近い立場で医療を行った者のことではないでしょうか。聴診器を当てて五分足らずでカルテを書いて、薬をたんまり施して金儲けするような威丈高な医者ではない、患者の心身のことを親身になって考えてくれる医者のことではないですか。そういう金本主義に飼いならされたエリート医者の襟を正すような展開を、視聴者は待ち望んでいたはずなのに。

正当な医師とほぼ同等の技能を備えているということを強調したいあまりに、診断結果が正しいだの、応急措置が手早いだの、縫い目がきれいだの、従来のありがちな医者からの固定された観点で描いてしまったのが惜しい。

いっそ安直なドラマなどではなく、ドキュメンタリーのほうがよかったのではないでしょうか。せっかく実力派の演技人を揃えているのに、筋書きがその演技を台なしにしてしまっています。ちなみに尾野真千子は、河瀬直美の「萌の朱雀」でデヴューし、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「殯の森」でも主演を張った実力派女優なのに、「Mother」の児童虐待をするすさんだ母親役といい、今回の役柄といい、ひどい汚れ役で可哀想としか言いようがないですね。

最近、医者でありながら実績を生かして作家デビューする方が多く、たしかに現場の空気が伝わっておもしろいかもしれないですが、人を救うという本職に専念するか、せめて廃業してからにしてほしいと思います。自分が精神障害であることを話の種にして、自分のリハビリと公言して売り飛ばすような方はとくに、小説や脚本なんか書かないでほしい。自分の心身の健康を管理できない時点で医者として失格なのだからして。

漫画の違法な性描写を規制するのは構わないのですが、その前に、被害者意識や暴力性をさかんに呷るだけで何も救わない暴行シーンのあるドラマや映画を、子どもでも見れる時間帯に公然と(しかもヒューマンドラマなどと冠して)垂れ流すのを規制したらどうでしょうかね。扱うのならば、被害者の心のケアを念頭において、もっと慎重にしてほしい。

ところで今年は戦後六十五年の節目だからなのか、第二次大戦をあつかったドラマを夏場以降によく見かけました。このドラマについても不満を並べてしまいましたが、戦争によって一般市民の運命がどれほど狂わされ、そしていまもなお、その戦渦を引きずっていることを後世に伝えるドラマは今後とも必要であることはいうまでもありません。

(2010年12月09日)

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