陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「天使のタブロー」(三)

2013-10-10 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


かおんを描くたび、ひみこがいつも秘かに目標にしていた絵があった。
あの大崩壊にあっても奇跡的に自然林が残されていた、翠深い一帯の、美しい湖畔に接したアトリエ。ひみこが亡き両親から遺された、ゆいいつの憩いの場所。ふだんから訪問者はおらず、そこで暮らす生活の音の主はただひとりという、もの静かな場所。画商であった父がもともとは複数名の芸術家たちを住まわせて創作させていた場らしく、それなりに広い間取りであり、画室だけでなく、宿泊施設のあるちょっとした工房といった趣きがある。

そして、そこは、ひみことかおんがはじめて出逢った場所でもあった。
そこに、あの絵はイーゼルに立てかけられたままで、いまだに誰にも知られないまま残されているはずだった。真実を知らないふたりが、理想と夢とをつかのまに紡いだ、あの奇蹟の一枚が。ひみこはその絵をいまでも失われた貴重なもののごとく、恋い焦がれるような気持ちで思い出す。


****

当時、第61北芸術高校の生徒であったひみこは、大学園祭の美術展の出品作の制作のために、その人気のないアトリエに泊まり込んでいた。高校生でありながら、名の通った画家に師事し、駆け出しとはいいながら画壇ではそこそこの評価も得られはじめていた。ひみこがいつも描いていたのは、静物画か風景画であったが、これは彼女の内向的な性格が災いして、モデルを近しい人に頼みにくいからであった。事物や景色ならば、余分な感情を画面に注ぎ込むことがない。

当時、ひみこはスランプだった。描いても描いても納得がいかない。
誰にもじゃまされない画家の聖域に引き蘢ったというのに、上手い具合に着想が湧いてこなかった。絵筆をへし折って、湖水に投げ入れてしまおうかとさえ思いつめた。愚挙を押しとどめたのは、幼い頃に読み親しんだ『金の斧 銀の斧』のお話。きこりが自分の愛用する道具を大事にして、落とし物を正直に答えると、神が金銀の斧を与えたという。出来映えが悪いからといって、ものに八つ当たりしてはいけない。

筆をとる手を休めて、湖面にボートを浮かべて気慰みに月見でもしていた、ある晩のこと。
ひみこは見たのだった。湖の水面が割れて、光球のようなものが浮かび上がっている。舟を近づけてみれば、それは人のかたちをしていた。黒髪で美しい裸体を宙に晒したまま、立っている少女。まるで、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』を想起させるように、しかし、目は瞑ったまま。

その謎の女神にボートを寄せるの待ちかねたかのように、その人はひみこに倒れかかってきた。
ひみこよりも背丈が高いはずなのに、なぜか重いとは感じなかった。呼びかけても起きない。頬をかるく触れても動じない。事切れているわけではなさそうだった。ひみこは慌てて、そのひとをアトリエの寝床に運び入れ、そして目覚めるのを待ちあぐねるうちに、うっかり眠ってしまった。

その夜はまことに不思議な夢を見た。
ひみこと、その女神のようなひととが、花咲きあふれる園で相対している。巫女装束のようなものを纏っているふたりは笑い、手をつなぎ、そのうち顔が重なって…──。そこでひみこは目を覚ました。ひみこは腰に腕を回されていて、まるでぬいぐるみのように抱かれていた。こんなことがあるはずがない。誤解されたらどうしよう、わたし…。目を開けないで、起きないで、どうかそのままで、お願いだから。祈るような気持ちでその腕をそろりと外し、目前に眠る少女の顔をうっとりと眺め下ろし、こんなことがあってはいけない、とふるふると首を振った。夢の余韻をなぞるかのように唇に手を当てて、ひみこときたら耳たぶまで真っ赤になっていた。




この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「天使のタブロー」(四) | TOP | 「天使のタブロー」(二) »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女