昨日の続き。
裁判は、ある意味、嘘のつきあいみたいなところがあると裁判関係者は
思っているはず。
嘘というよりは、人間、意識するしないに関わらず、自分に都合よく
捉えるところがある。
どうしても偏向してしまう。
勿論、個人により程度はあるが、バイアスがかかるのは、
許容限度はあるにしてもやむを得ないだろう、というわけである。
それでもどうしても許せない嘘があるようだ。
昨日はその例と思う。
めったにないが、以前にも経験したことがある。
嘘の証拠をつくることである。
偽造する、あるいはこれに近いものである。
ただ、偽造、あるいはこれに近いものを、証明するのは不可能に近い。
なぜか、それは騙す意図で作成されるので、最初からバレないように
計画されているからだ。
どうしても納得できないときは、あれこれと一枚の書面と向き合うのである。
何十回と細かな所まで、観察する。眼力でボロボロになるほどに。
何か違和感を持つ。どこに違和感を感じるのか?
これって意外に難しいのである。
昨日のケースでは、こんなどうでもいいものを何故という感じだった。
にもかかわらず、関係が、とても関係があるように感じてしまうものだった。
非常に巧妙だった。
誰もがだまされてしまう。当然、裁判所もだ。
それで、全部の記録を読み直すところから始めた。
嘘や巧妙なわなを暴くきっかけは、些細なところに潜んでいるのである。
全部の事情を解明することは難しい。それでも、絶対に、嘘(事実でない)と
いうしかないところまで解き明かすことができた。
しかも、その嘘は巧妙に仕組まれたものでしかあり得ないことも。
ちょっとした論文を作成した感じだった。
大満足だった。
こういうときの裁判所は、決して、表立ってはそれをいわない。
今回の場合も、相手方と話しているので少し待つように言われた間に、何かがあったようだ。
全部の要求を引っ込めたというのである。
多分、何かのやり取りがなされたものと思われる。
そして、部屋に呼びこまれたときには、裁判所の結論はこちらの言い分を認めるもの
あること、相手方もそれに納得していること、話合い解決を勧めること
を告げられただけである。
こちらが望む最高の解決を、してはどうでしょうか、と丁寧に話されたというわけである。
(せっかく嘘を暴いたのだから、それをキチンと認めてほしいという気持ちは
残るのであるが)
ちょっとした醍醐味である。
ということは、いつも、こういう危険があるということだし、
気が付かないとか、気が付いても証明ができないという危険がいつもあると
いうことでもある。
用心してもしきれないのかもしれない。