所作です。新作ものっぽい味わいがありますが、江戸の末期の作です。
西行法師は、鎌倉時代の有名な歌人で、諸国を旅して歌を詠んだかたですよ。「山家集」という歌集が有名です。
一応言うと、この時代の「法師」と呼ばれる人は、いわゆる「お坊さん」ではありません。在家出家みたいなかんじで、一応社会生活を送っていますよ。「徒然草」の兼行法師もそうです。お芝居関係ないですが一応ー。
旅をする西行法師が時雨にあって野中の一軒家に「ひとばん泊めて」と言いますよ。
住んでいるのはキレイなお姉さんです。遊女なのです。
西行のころだと鎌倉時代、遊郭システムもいいかげんですから、遊女がそのへんのあばら家に住んでいてもアリとしよう。
というか、歌舞伎ですので細かいことは気にしてはいけません。
チナミにこれは「江口」という能由来で、この「江口」は実在した高級遊女です。正確には大阪の「江口」という遊郭の遊女たちの一人をさします。
このかたは歌が上手で西行と歌のやりとりをしました。
歌舞伎版の「時雨西行」では遊女さんはとくに名前はないですよ(たしか)。
で、西行の話を聞いて世の無常を悟る遊女、やがて遊女は菩薩になって消えるのでした。
という内容です。
この部分は、上空上人が、江口の遊女が菩薩に変ずるのを見た、という説話から取られているようです。ふたつの伝説を「江口」「遊女」というキーワードでひとつにまとめたのです。
能だと遊女江口は既に無常を悟っているという設定です。そして西行に無常を説き、最後に菩薩という正体を顕して消えます。
遊女の境涯は決まった男を持てず、ある意味無常を体現しています。
その意味で、遊女という存在はそれ自体「菩薩」なのです。そういう内容です。
この「時雨西行」は西行さん中心の舞台ですから、西行が無常を説いて遊女を救う、という流れになっていますよ。
とはいえ基本テーマは同じですし、遊女が舞いながら菩薩になる幻想的なシーンも共通しています。
江口の遊女と西行との歌のやりとりを書きます。長唄にも入っているはずですよ。
西行「泊めて」
江口「ダメ」
西行
世の中を 厭うまでこそ 難からめ
仮の宿りを 惜しむ君かな
山家集にも入っているのですが、ワタクシ山家集読んだワリにまったく印象にありません。まいっか。
で、この「世を厭う」は「出家する」意味です。
出家して仏の道に入るのは覚悟もいるし難しいけど、法師に宿を貸すくらいはできそうなもん、
それすらも惜しいんですねあんたは
みたいな意味です。
そして西行が遊女に世の無常を説き、仕事柄「無常」を身にしみて実感している遊女は悟りを開いて菩薩になります。
おわりです。
チナミに能の「江口」ですと、西行は出てきません。時代くだって旅の僧たちが江口の墓の前で西行との歌のやりとりの話をして盛り上がっていたら、江口の幽霊が出て来るのです(能の定番)。
江口の言い分
ケチで宿を貸さなかったんじゃなくて、江口は、世を厭うようなヒトが一夜の宿にこだわるなんてヘンだと言いたかったのです。
歌
世を厭う 人とし聞けば 仮の宿に
心留むなと 思うばかりぞ
この「仮の宿」は「仮寝」、つまり行きずりの男女の仲も指すと思います。
法師なんだから、女ひとりの家に泊まろうとしないでそういうときはいさぎよく野宿しなさい。
男女の仲も、仮の宿であるこの世の出来事(野宿でつらいとか)も全て無常なのだから、心を留めてはいけません。
そういう意味です。
そんな感じで無常を説いた遊女は、菩薩の姿を顕して消えるのでした。
能の「江口」、以上です。
一応、能の内容わからないと楽しみにくいかなと思うので両方の説明書きました。
内容は単純なので、雰囲気や西行の枯れた味わい、遊女の格調高い美しさなんかを楽しんでいただければいいかと思います。
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