田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

15年前の日記「農業を濁った眼で見る人達」

2015年12月21日 09時03分20秒 | 時評

 臨床主義--現実の世界で具体的なものにかかわる(2000)

 現場を奪われ、その結びつきを断たれる、抽象の世界で理論化作業を行う学者にとってホントの仕事が出来にくくなることは明らかだ。多くの学者、研究者は「人はなぜ農業を営むのか」という問いには答えられない。人間学としての農学、社会学としての農学が消えた。農業は創意工夫によっては儲かるという営利事業だけの論理で農業を見る経営工学は華やかだ。人が座布団(農業)の上に乗るのではなく、座布団(農業)が人の上に乗る。農業をしている人は電車に揺られて通勤したり、遠くの地に単身赴任しない。農業経営の基盤は家族にあり、地域にある。家族が衰えると農業が衰え、地域が衰える。農業を「儲からなくした」のは全然別の要因が語られなければならない。そしてその要因を克服し「儲かるようにする」までだ。

 今、生きのいい官民を問わず、専門家は自由な研究活動が出来ない。例えば農村に長期滞在し、上記のような研究をする必要を感じるところまでは多くの専門家は必要と思っているに違いない。しかし、そんなことをするやつは、下手をすれば学者や官僚のコースから外れる。現役を引退したボランテアの中に現場を結びつく人材を求めるしかないのではないか。これが自分の結論である。 

農業は目に見えない富が原料(2000)  

農業経営を語る場合、論者は知らず知らずの前提に「高能率、高生産性」を実現する競争を意識しそこに論点を絞る。能率と生産性の二つの概念は、フローの大きさとその形成速度だけを問題にする。経営を水の流れにたとえ、瞬間でいかに沢山水を取り出すか、いかに速く水を取り出し流しさるかが問われる。前者は期中の売上高(収量)であり後者は期中の資本回転率(単価)である。フローは所詮ストックなしには発生しない。貯水池にどれだけ水をためることが出来るかというストックの大きさとストックを形成する速度については考慮の外においてはならない。

 生命のある自然を対象として生産活動を営む有機的、生物的性格の農業経営の場合は工業経営と比べてストックの形成方式が多岐にわたり複雑である。一例を挙げれば畑作には直接関係の無いように思える圃場の周辺緑地(なにげない山や河)が土壌補給やミネラル、水の保持、防風、気象調節等を見えざる手で支援しているという事実は経営的にはカウントされない。だから「土づくり」「水管理」等といわれている労働をコストから省き、実際にもそれを怠けてしまう。「人づくり」はもっと重要である。自然には一人では立ち向かえない。共同体という単位で一つの意識を共有して立ち向かえる。農業は協同でなければ出来ないから、市場で買える労働力を使い捨てられる工業とは原理が違う。つまりコストで割り切れない。人を作る(教育)は、コストで見れば最もかかるものである。農業の継続のためには「人づくり」コストを含めなければならない。貯水池に継続的に集水することを無視した水道経営が成り立たないと同じように、環境(地力などのストック)や人間(労働力だけではない精神力)をうっかり使い捨てする農業経営をフローの活力(例えばニンジンで儲けた、ブドウで儲けたなど)だけで間違って評価をしてはならない。農業は目に見えない資源、言い換えれば市場で買えない資源が土づくりや人づくりなどを通じて永遠に補充されているところで成り立つのである。


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