田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

151222 15年前の日記から「主語になるなと教えられた」

2015年12月22日 11時49分06秒 | 時評

主格になるな(2000)

 

  マスコミ報道では「○○の今後の成り行きが注目されます」の類の報道が多い。「成り行き」とはなるようになるという物事の結末である。某局のニュース番組は「やじうまニュース」という。「やじうま」とは無関係の観衆のこと。どんな社会的に重要な出来事でも、なるようになり、人々はかやの外のやじうま。「4月から公共料金がウン%値上げされることになりました。」誰が、どのように、どうしてそうしたのかとをオブラードに包む自動詞の多用、受け身の多用は大組織の常套手段である。

「注目される」などという主格のない受身形は空文句そのものである。生活でも仕事でも、人々は、もっと良い稼ぎにしたいとか、この病気を治そうとか、環境を変革するために、脂汗を流して働いている。5つのWと一つのH、誰が、何を、いつ、どこで、どうして、どのようにという、日常生活では主格を明確にした生きた情報が必要なのだ。

  

  私が大企業に勤めていた駆け出しの時である。私の部署が事務局になって、一定範囲の担当者を集めて会議をすることになった。課長はその会議の案内状を私が書くよう命じた。私は、「×月×日×時より、××の件で会議を開くので関係各位の出席をお願いいたします」という文書をしたため承認の印をもらいに課長席に行った。その時、課長が言った言葉を生涯忘れることが出来ない。「きみ、会議を開きますではだめだ、会議が開かれますにしなさい」。この課長は切れ者で、30代で役員候補に列せられていた。課長はこう言った。「きみ、開きますというのでは、きみまたは自分が主語になるだろう。開かれますとしておけば、誰が主語かあいまいだろう、自動詞を使うか、受身形にすることが、組織にある人の言葉の使い方だよ」自分が主語になって、物事を切り込まず、自動詞を使うか、受身形で、誰がやるのか分からない形にして、分かったような、分らないような形にして、ことを運んでいく、その中で何となく昇進していく、こういう処し方が奏功する。当然、頭のいい人は受身形を使うのがうまい。

  私がいつも困るのが、人から仕事を依頼される時である。例えばある企業から私に依頼が来るとする。会社は人をよこして、「○○を指導して下さい」という。その場合、問題の解決にあたる当事者はやって来た本人なのか、それとも別の人間なのか、よく分からないことが多い。「誰に」教えるのかが分からない。使者は「行ってこいといわれた」という受身形で来る。「じゃあ当事者はあなたの上司ですか」というと、そうでもない。さらに上の社長だったりする。上司が受け身で、部下が相似形でそれを引継ぎ、2人とも情報を集めそれを社長に「報告すること」が仕事なのである。2人とも、情報を使って「自分が」やるという主体性が見られない。仕事とは本来、周辺を改革することである。意志を持たない社員は企業にとっては「やじうま」にすぎず、実際的な力にならないのである。しかし、「会議が開かれます」という類の会議には結構「社内的説得力」を持っていたりする。

 

 自分が本当に解決したい問題ならば、当事者の自分が一番深く考えているものである。プロの囲碁でも将棋でも対局者が解説者よりよく手を読んでいる。企業でも、役所でも、自分の仕事に当事者意識があれば、誰よりも深く考えるし、その深さに比例して生きた情報が集まる。こういう人は問題意識を育てながら「主格として、他動詞を使って」どんどん外に向かっていく。この当事者意識を持った人間のいない組織はやがて衰退していくのは自明のことだ。


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