陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

プア5-(4) 井戸を掘るに-孟子 vs プア問答

2009-04-26 16:10:50 | Weblog
雨があがって、今日は五月晴れ。風が強いけれど。
4月23日のNHK BShiでの宮城谷氏の後半部分の話しを録画で見た。
「宮城谷昌光が語る 中国・戦国時代」(後編)。

孟子の井戸を掘る話が紹介されていた。
ワタシ自身の「プア」に大いに関係するので、それに触れる。

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【1】 何かをなすということ
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●孟子曰、有爲者辟若掘井、堀井九靱而不及泉、猶爲棄井也
(訓読)孟子曰く、為すことある者は例えば井を掘るが如し、井を掘ること九靱(きゅうじん)、而も泉に及ばざれば、なお井を棄つと為すなり(盡心章句上)

(通釈)何かをなすということは、たとえば井戸を掘るようなものだ。九靱(約14.2m)の深さまで掘ったとしても、水脈に達しないうちに止めてしまったのでは、井戸を棄てたのも同然である。

井戸をいくら深く掘っても水が出なければ意味がない。
自分はこんなに深く掘ったぞ、というのは単なる自己満足。
井戸は水が出るまで掘るものだ。物事は途中で放棄するな、という戒め。

氏はもう一つ紹介していた。
これはよく知られている。「木に縁(よ)りて魚(うお)を求む」

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【2】 努力をするには
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●以若所爲、求若所欲、猶縁木而求魚也
(訓読)若(かくのごと)き為す所を以って、若(かくのごと)き欲する所を求むるは、なお木に縁(よ)りて魚(うお)を求むるがごときなり(梁恵王上)

(通釈)かくのごとき方法で、かくのごとき欲求を満たそうとするのは、丁度木によじのぼって魚を求めるのと同じことである。

魚をとるのに木に登るような間違った手段をとる、即ち、方法を誤ると目的を達するのは不可能、という戒め。

この二つは、宮城谷氏が印象に残った言葉を紹介したもの。
判る人は、これら孟子の言葉で、人の世のありよう全てを理解する。
しかし、プアなワタシは、孟子の戒めそのままに、
つまり、「やってはいけないよ」ということを、
その轍を見事そのままに踏襲し、そしてプアな人生を歩んでいる。

だから、というわけではないが、一言、先生(孟子)にお聞きしたい。
そして、願わくばこの哀れなプアに是非ご教授を賜りたい。
無論、上を比喩としておっしゃっていることを承知の上で。
ということで申入れをした結果、今般、孟子との面談が実現したので、当ブログに収録する。
(この面談内容は歴史的な出来事かも? とワタシは勝手に独り言。)

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■ 孟子 vs プア 問答(?)
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【1】 而も泉に及ばざれば、なお井を棄つと為すなり

井戸を掘るに、どこでも掘れば良いものではないことは誰もが知っておりやす。
しかし、掘る場所の選定には、名人はいざ知らず、凡人にはリスクが伴いますよね?
予定の深さまで掘って水が出ない場合、さてどうすればよござんしょう?
撤退するか、それとも更に掘り進めるか、の判断が必要でござんす。

以前のブログ(2008-12-05、絶対に成功する方法(2))で福岡氏(青学大教授)の話しを引いた、
それと同じ内容でござんすが、この判断は容易じゃあござんせん。
○○mと目標を決めて掘り進め、そこまで掘っても水が出ない場合はどうすればよござんすか?
更に次の目標まで掘っても出ない場合は?

申すまでもなく、途中で放棄すると成果は得られやしません。
一方、そのまま進めても、成果を得る保証はありませんやね。

A氏は3mで水が出た。B氏は10mで水脈に達した。
ワタシは、500m掘ってもまだ水が出ない。
仕方がないので、今、もう100mと思い、更に掘り続けておりやす。
それでも、まだ水は出ません。
先生、ワタシはどうすべきでありましょうや?
お言葉に従い、
ここまで来たら、気分としては、地球の裏側まで掘ってやろうとは思っているんですがね。
今となっては、もう意地でござんすよ。
手段と目的がさかさまになって、今では掘るために掘っている毎日でございやす。

勿論、不測の事態を想定し、昼間掘る以外に別の井戸を掘ったこともございやす。
夜も寝ないで100mほどを数本掘りやした。
いずれも水は全然出ないのでやんす。
最近はだんだんと疲れてきて、スピードが落ち、1年で1mほどがせいぜいで、
遠からず、くたばってしまいそうなんでやんすが。。。

(先生があきれてしまい、返答なし。)

ところで先生、先生は実際にご自身で井戸を掘ったご経験は?
大変僭越ながら、掘ったことがないのなら、例えにせよ、余り触れない方が宜しいのでは?
あ、これは、亜聖と呼ばれるお方に大変失礼いたしました。
今の発言は無かったことに。

【2】 木に縁りて魚を求む

確かに、木に登っても魚は得られませんねぇ。
しかし、そんな子供でも判ることは誰もしませんやね。
え? - 今の日本の政治家や役人は、そうした子供の判断もできておらんではないか?
イヤハヤ。お説、ごもっとも。それをおっしゃられると、返す言葉はござんせん。
それらアホどもはワキへ置き、
努力の方向や手段が正しいのか、間違っているのか、その判断がつかない場合が問題でやんすよ。
この世の中、絶対に正しいと断定できるものは少ないですからなあ。
人は、正解の確率が高い方法で何かに挑み、結果として間違うこともありますがね。
正しい筈でも、環境や状況の変化で、間違った道に流されることも。

先生、それら正誤をどう判断するかの要諦をご教授願いたいんでやんすが。
ワタシだけじゃあなく、ついでに日本の各界のリーダーに対しても。
つまり、先生の様な高潔高邁鋭敏なる判断力が欲しいんですけど。。。
ワタシの様なアホにも分かる様に。

そうですか、修養しかありませんか?
その場合、修養するための基礎能力が欠けてる者、すなわちプアはどうすべきでありましょうや?

あっ、ついに秘伝をご教授いただいた!
え? 「プアにつける薬はない?」
ありがたい孟子の教えも、ついにプアのアタマには入らないようでございます。  
あ~あ、プアはいつまでたってもプアでありますなあ。

=蛇足&後記=
ところで、先生、魚を得るにはどこへ行けば宜しいので?
え? 海なり、川なり、池や湖に決まっておる?
先生が生きておられた時代はそうかも知れませんなあ。
先生はご存知なくても当然なんでやんすが、
ご参考に申しやすと、今の中国は、海や川には魚はいないのでござんす。
もう獲りつくしてしまいましてな。
いたとしても、水が汚くなり、とても食べられたもんじゃあござんせん。
汚染物質で変な病気になる覚悟があるなら別でやんすが。
せいぜい養殖場かと思いやすが、それも最近は問題が出ておりましてな。

従って、正解は、水がきれいな、川や湖の水源近く、つまり山の中が魚を得る場所なんでがんす。
更には、稀に、魚を空輸してきた飛行機がアクシデントに遭遇し、荷物がバラバラに放りだされることがありやしてな、
つまり、魚は空からふって来るのでやんす。
ということで、魚を得るには山の中へ行くのでやんす。
そして、場合によっては、木に登って網を使うのも魚を得る方法の一つでありんすよ。
今の中国では。
先生が、間違った手段とおっしゃった方法は、今では正しい方法なんでがんす。
何が正解かは、なかなか難しいものでござんすなあ。

以上で面談は終わったが、帰り際に、先生が一言つぶやいておられた。
よくは聞きとれなかったが、次の様だった。
『後世、アホとプアだらけの世界になり、世の正邪がおかしくなるとはのう。世も末じゃ』
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プア5-(3) 「不運を嘆く」のは「覚悟ができていないから」

2009-04-23 08:41:00 | Weblog
4/18(日)の朝日新聞に、
「不運を嘆く」のは「覚悟ができていないから」の文章があった。
作家の車谷長吉氏の言。
「覚悟」とは「生きる覚悟」のこと。

氏曰く、
不運を嘆くのは、虫のいい考えで、考えが甘いのだ、覚悟がないのだ」と。
更に次の様におっしゃる。(以下、ポイントを記事から抜粋)
「世には運・不運があり、それは人間世界が始まった時からのこと」
「不運な人は、不運なりに生きていけばよい」
「この世の苦みを知ったところから真(まこと)の人生は始まる」
「真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人」
「己れの不運を知った人だけが、美しく生きている」
「己れの不運を知ることは、ありがたいこと」

すごいことをおっしゃいますのう!
まことにごもっとも。
反論のしようがない。というか、反論する気が萎える。
あまりにもストレートすぎて。
覚悟ができていない者に、そうおっしゃられてもねぇ。

少し違うかもしれないが、
煙草を吸い、肺癌になってしまって嘆く者に対し、
「肺癌になったのは、煙草を吸ったからだ!」といわれても、
その辺りは本人が一番承知。
それを承知の上で嘆く。
マンガみたいだけれど、それが人間。
そういうのをプアというのよ。
ワタシの様に。

氏は毅然と生きておられ、自身の生き様が背景にあるから、
氏の言は言として通用する。
仮に、同じことをワタシが言ったら、嘲笑を浴びせられたあげくに無視されるだけ。
しかし、世の中、覚悟も何もなく、日々身もだえしながら生きている者も多い(と思う)。
ワタシの様に。

覚悟ができていないのは、人間に欲望があるから。
言うのは簡単だけど、欲望を滅することが如何に難しいか。
お釈迦さんが説かれたときから、解脱した人は何人いるんだろうね?

ワタシの場合は、不運を嘆いても仕方がないから、それはないが(いや、少ないが)、
ただただ、オノレの能力のナサを嘆くのみ。
もっとも、車谷氏なら(上にならうと)次の様におっしゃるかも。

「世には利口もアホもいて、それは人間世界が始まった時からのこと」
「アホな者は、アホなりに生きていけばよい」
「自身がアホであることを知ったところから真(まこと)の人生は始まる」
「真の人生を知らずに生を終えてしまう人は、醜い人」
「己れのアホを知った人だけが、美しく生きている」
「己れのアホを知ることは、ありがたいこと」

そうか、ワタシは美しく生きているのか!
しかし、美しく生きるのは結構であるが、
ワタシにとっては、今日を、そして明日をどうやって食うかが先決なんだけど。。。
そして、雀の涙、蚊のナミダほどの夢と希望を何とかしたいんだけど。。。
なんて書くと、「まだ自身のアホさ加減が判っていない!」と、氏に大喝をくらいそう。 
「一からやり直せ」と。
ワタシも、できるものなら、そうしたいんだけどね。
一からではなくゼロから。

【注 そして 後記】
本文は、車谷氏の茶化しではなく、オマージュです。
ワタシは、氏の背筋がピシと張った生き様を尊敬すると同時に、
とても自分にはできないなあ、という思いを呼びおこされる。
下に記した氏のアウトラインを見ただけでも、ハンパではないことが判る。
何ごとも、中途ハンパはあかんのです。ワタシの様に。
これを読んだ、あなた。
あんさんは生きる覚悟ができてはる? 口先だけじゃあダメでっせ。

【参考】(Wikipedia より)
車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)氏
1945年生、「反時代的毒虫」としての「私小説家」を標榜する異色の作家。
夫人は詩人の高橋順子氏。
播州地方の方言を使った民衆言語で書く下層庶民的な生活実感は、近代と自己に疑問を投げかけている。
『赤目四十八瀧心中未遂』で第119回(1998年上半期)直木賞を受賞。
伊藤整が嫌いという理由で、同作による1998年の伊藤整文学賞の小説部門の受賞を拒否。
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「素読」の補足

2009-04-20 08:52:15 | Weblog
4/18 のプア5-(2)で、ワタシの基礎力不足の例として「素読」について書いた。
それを補足しようと書きはじめたが、その前に、

前のブログで「さすがにNHKは違う」と書いたが、書いたとたんにNHKの間違いに遭遇した。
NHKよ、おまえもか、とタメイキ。

19日(日)に家人が録画した番組を見た。
NHK BShi「宮城谷昌光が語る 中国・戦国時代」(前編)。(4/16)

宮城谷氏の語りと、ナレーションの構成で、
中国・戦国時代の社会変化の中で時代を織りなす人物をとりあげたもの。
春秋・戦国時代は、人間の典型が続々登場する面白さがある。
それを一般向けに分かりやすく解説したものは参考になる。

後半に、ナレーションで「こう・そんおう」と読んだ人物が出てきた。
はっきりと「こう」で切った。
何のことか分からなかったが、話が進行する中で、公孫鞅(商鞅)だと分かった。
宮城谷氏は、「こうそんおう」と言っていた。

(ナレーションの)原稿段階では、当然にチェックを入れていると思う。
ナレーションを語った後のチェックは、しなかったのか、気づいたがまあいいやと思ったのか、
その辺りの事情は知らないが、
結果として、変なナレーションになった。
この一点で、せっかくの宮城谷氏の番組の価値が若干下がった。
氏がかかわらないところで。

古代中国を語る者であれば、「公」などという氏はないことは、常識以前の話。
一方、「公孫」という氏は、文字どおり公族の家系で、その様な人物はあまたいる。
それを「こう・そんおう」と読むとはねぇ。
我々の様な一般人ならともかく、天下のNHKの、しかもその種の番組でですよ!
ニュースで名前を読み違えるのとはワケが違う。
なさけない。

さて、なさけない話は以上までとし、本論へ。と言っても補足だが。

「素読」の意味するところは、何も本格的な学問だけをいっているのではない。
修養というか、(子供のときを含む)基礎訓練を指している。
この基礎訓練が人生にわたってその人を規定する、ということ。
基礎訓練ができていないと、努力の100が、成果なり効果として100が出ないということ。
勿論、子供のときだけでなく、成人してからの基礎訓練や修養も、大いに結構。

上で宮城谷氏に触れたので、失礼ながら、氏を例にあげる。
ワタシより少々年配の方だが、
読んだ本によると、
氏は、作家として名が売れるまで苦しい生活を続け、その間、文章力を磨く、すなわち自分の表現を確立すべく、
日本語と漢字を追う様になり、結果、甲骨文字や金文を独学で学んだという。

この「甲骨文字や金文を独学で学んだ」の部分が、その人の基礎力。
つまり、本物の力。
無論、甲骨文字は宮城谷氏の場合。
大方の作家は、こうした基礎訓練を経ている訳だが、
そうでない作家だと、1~2作は何かのハズミで売れたとしても、ただそれだけの話し。

ワタシは読まないけど、数年前からケータイ小説が人気を呼んでいるそうな。
この種のものが、上記の基礎訓練を経たものかどうかは、言わずもがな。
訓練を経ていないものは、大天才の作品を除き、ただの雑文。
ワタシのこのブログなぞ、雑文にも劣るゴミ文。
雑文は、例え一時人気を博しても、すぐに消えてゆく。
そんなものは、時間と紙のムダ。

凡人が雑文を書くのは、それは趣味としては結構なこと。
しかし、プロの基礎訓練と凡人の趣味とでは次元が違う。

ブログで書いた「素読」及び「基礎力」の補足でした。
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プア5-(2) あがく

2009-04-18 15:04:45 | Weblog
あがく、足掻く -
辞書をひいたら、
1 手足を振り動かしてもがく。じたばたする。
2 活路を見いだそうとして必死になって努力する。あくせくする。
3 馬などが前足で地面をかく。また、そのようにして進む。

とあった。
時々「あがく」のは、誰しもあること。
しかし、この「あがき」が常だと本当にしんどい。
また、大きな目標があって、それに向かっての「あがき」なら、それは当然だが、
ワタシの場合なぞ、蚊のナミダほどの目標なのにねぇ。

過日(4/03)のブログ「プア5-(1)」に対するコメント(とおりすがり氏)で、
「もっとじぶんでがんがれ」とあったが、
これもキツイお言葉でござんすなあ。今のワタシにとっては。
このトシでは、現状の努力が精一杯で、これ以上は難しい。
マラソンの後半で、ばてばてのランナーに対し「もっと手をふり、足を出せ」とハッパをかけても、
ランナー自身はもう限界、というのと同じ。
前半だったら、気力で走ることも可能だろうけど。

改めて思うのだが、
世の中、当人は一生懸命頑張っているのに、結果が出ない、出せない人がいる。
どうも、ワタシはその口らしい。

「運」を語ってもはじまらないから、それは別問題とすると、
また、このトシになって「人格」や「人徳」を持ち出してもしようがないから、それも除くと、
頑張っても成果が出ないのは、何かが欠けているから。
それは何かと自問すると、やはり「能力がない」からなんでしょうなあ。
残念ながら。
グランドデザインを描いたり、方向をキチンと見定めたり、やり方などを含めた能力。

勿論のこと、そもそも能力不足は分かっているから、
ワタシはワタシなりに、それを補う努力はしてきたつもりなのだが、
それでもダメとなると、何なんだろう?
つらつら思うに、能力の中でも、とりわけ最も基本の部分、基礎力不足に起因している様だ。
教養というと少し違う。もっとベースの部分。
加えて、それらが体系的に身についていない点。
遅まきながら、だんだんと自分が見えてきた(ような気がする)。

例えば、
子供のころ、四書五経など漢籍の素読をやっていればなあ、と思う。
ワタシ自身も、自分の子供にそうした環境を整えてやれなかったから、親には何も言えない。
もっとも、戦後は、それまでの大家族制度が崩壊したから、
爺さんから素読をならった子は、ゼロではないにしても、稀だとは思う。
父親は働くから、本来は爺さんの役割だが、
仮に同居していても、最近の爺さんは、孫が小学校にあがる前の頃はまだ働いている。
そう考えると、子供の頃の素読は、そもそもが無理な時代ではあるんだけどね。
【注】この素読は、欠けている基礎力の例。⇒ 本件、誤解を招きかねないので、次回のブログで補足する。

だからと言い訳をするわけじゃあないけれど、
ワタシはまともな日本語が、文章を書くことであれ、スピーチであれ、できない。
まして、他国の言語なんて、言うまでもない。

書いているじゃあないか、という人がいるとすれば、
仕方がないから、ヘタクソな日本語なり、英語なりを恥をさらしつつ書いているだけ。
ワタシの表現を見る人が見れば、基礎力のなさが一目瞭然。
ただ書けばいいというものではない。

これからは、小さい頃から英語なり、外国語を習う様になるらしい。
それが悪いとは思わないけど、
日本語もマトモにできない子供が、外国語を習ってどうするの、と思う。
現に、最近のテレビでは、アドリブではなく、物語やドキュメンタリーのナレーションでさえ、
つまり、事前のチェックが十分できる番組でさえ、
間違った言葉の使い方や、歴史的基礎知識が欠如している表現や解説がときどきある。
え? と思ったり、苦笑する様な説明があったりする。
例えば、最近はやりの中国歴史紀行のような番組の解説にたずさわる人間なら、
せめて史記や十八史略くらいは読んでおきなさいね、と思う。
白文でなくても、訳文でいいから。
現地で仕入れた断片的&表面をなぞっただけのハンパな知識だと恥をかくよ、と言いたくなる。
もっとも、「せめて」と書いたが、また十八史略なんて書くとバカにする人もいるけど、
本格的に読みこなすとなると一筋縄ではゆかないんだけどね。
それにしても今のテレビ局の力量も大したことはないなあ、と感じる。
基礎力不足のプアマンにそう思われるんじゃあ、もうお手あげ。
さすがにNHKでは、まだそういう場面に直面していない。

素読をやらなかった者は、オマエ一人じゃあないよ、と人は言うだろう。
勿論、素読が全てではない。基礎力の一。
素読なしで、学校教育なりを通じてそうした基礎力を身につける人はいる。
また、基礎力が不足していても、他の能力で十分カバーできる人もいる。
問題なのは、ワタシの場合、どうも、それら全てが劣ること。
その原点なり核心部分が、基礎の基礎の領域。
子供のころの、更には学童期・学生期のタイマンが、
ここまで人生全体に大きく影響するとは、想像だにしなかった。
(今の政官財のリーダのレベルをみると、基礎力不足は単にワタシだけじゃあない様だが。。)

単に努力するだけじゃあ、あるいは方向が間違った努力じゃあ、
人生どうにもならんのだよね。
ただ、ただ、あがくだけ。
あ~あ、と溜息。

一言そえると、
もし、基礎力不足のワタシに、そうではないかの様に見える部分があるとすれば、
それは単に砂上の楼閣を見ているだけ。
陽炎(かげろう)と同じ。一見、そう見えるだけ。
自分でよく分かる。

しかし、今ごろになって嘆いてもラチはあかない。
自分の人生を後悔したくはないが、
また、後悔するほど寸暇を惜しんで精励恪勤(せいれいかっきん)したわけじゃあないが、
もう少し何とかならないか、ならなかったのかと、自分に問う日々でござんすよ。
身の丈にあった生活を、人生をもう一度考えなおすべきでありましょうなあ。

=蛇足=
ところで、「身の丈にあった生活」は英語でどう表現する?
勿論、日本語でも「分をわきまえた生活」なり、いろいろな言い方ができる。
さる、おつきあいのある人が、"living within your means" (自分の資力の範囲内で生活する)と表現していた。
シンプルな表現だね。
勿論、シンプル is best.
日本語のニュアンスとは少し違うけど、言葉とはそういうもの。
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IOC委員? オリンピック?

2009-04-14 08:55:30 | Weblog
東京都の2016年オリンピック招致とやらで、
日本オリンピック委員会(JOC)が決起集会を開いたって。
ニュースでいっていた。
国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会の来日、視察の前に世論喚起を狙ったものだという。

受け入れる都の予算は3億1000万円とのこと。
IOC委員様は、まるで王侯貴族ですのう。
(都のオリンピック招致予算は150億円だって! あぁ。何たるムダ!)

元々のオリンピック精神は悪くないと思うけど、
今のオリンピックは、ただの商業大運動会。
裸の王様。

ワタシは、オリンピックの映像も記事も一切見ないから関係ないけど、
本来のオリンピック精神を求め、
最貧国の最貧都市で順番に開催し、その地に相応しい開催内容としたらどうかね?
名づけて「プアリンピック」。

その都市の底あげに何がしかの寄与をし、世界もいろいろなプアがあることを知る。
いいと思うけどね。
例えば、ボウフラが湧き、ピラニアやワニがいる川で泳ぎ、どこの水着を着ようが関係ない競泳、
デコボコ道で、ただただ脚力と体力勝負を競う陸上、 とか。
また、ムダな役員は派遣せず、行くのは選手だけ。
食料は自分で持参し自炊するもよし、土地の食事をするもよし。  などなど。

IOC委員の滞在中の移動ルートは非公開とのこと。
みなさん、見かけたら、卵でも投げて歓迎してあげたら?
いや、卵はもったいない。
残飯なり、ゴミで十分。
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レッドクリフ

2009-04-13 08:59:11 | Weblog
昨夜、テレビでの レッドクリフ part1 を見た。
観たではなく、見たと書く。
一言でいうと、三国志を舞台になぞらえたアクション映画だった。
金を使っている、というのだけは分かる。
途中からは、タバコを吸うために外へ出たり、風呂に入ったり。

「三国志の完全映画化」というキャッチコピーではあるが、
完全映画化と表現すると、三国志全体をカバーした中での赤壁の戦いかと思いきや、
そうではなかった。
また、「赤壁」と表現した方がワタシや多くの日本人にとっては遥かに具体的なイメージになるのでは?

映画の中では、「赤壁」の地名が、戦いの前から既にあったかの様な取り扱いをしているね。
会話の中で使われ、曹操が指示を出している地図にも「赤壁」と記されてあった。
その方が分かりやすいといえば分かりやすいけれども。。。
例えれば、江戸を舞台とする時代劇で「東京」と表現するのと同じ。
古い地層から遺物が出て、その土器なりにBC5000年と書かれているからといって、
まさか、「やったぞ! 紀元前5000年の土器だ!」という人はいないよね?
それとも、いる?

また、この戦いで曹操が敗れたことから、三国鼎立状態になったから、
その意味では重要な出来事だが、
曹操の力が弱まった訳ではなく、拡大を食い止めた戦い。
その証拠に、この戦いの後も、曹操の力は衰えていない。

今一、今二の印象が残る映画だが、それ以上を期待するのは所詮無理というもの。
しかし、この時代は、日本では卑弥呼の時代だからねぇ。
三国志に触れるたびに、その彼我の差を感じさせられる。
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サクラ チル

2009-04-11 16:03:24 | Weblog
桜が散ってゆく。
花吹雪は風情があるが、散りぎわの桜本体は見た目に無残でもある。
しかし、それもいっとき。
次の若葉がぐんぐん育つ。

「桜散る」は季語だが、
昔、受験の結果を電報で知らせるときの表現で用いた。誰が最初に使ったんだろうね?
今は、そんなサービスはないと思うけど。

   桜散る プアのアタマも 堕ちてゆく 上がるは北の テポドン2号

もうひとつ、

   桜散る 赤字国債 ヒラヒラと そのうち周りは 紙クズだらけ

プアな歌で失礼しました。
芸術センスゼロなもので。。。
恥さらしブログでの、恥さらし歌もまたよし。

桜、そして歌というと、誰もが連想するのは西行。
出家した後は、心のおもむくまま諸国をめぐる漂泊の旅に出たというが、
そういう人生もいいですなあ。
もっとも、西行は所領があり、才能もあったから、そういうことができたわけで、
アタマもフトコロもプアな者に真似ができる訳じゃあない。
せいぜい野たれ死にがいいところ。

そして、西行と桜といえば、吉野。
ワタシは、吉野の桜を一度は観たいと思いながらも、その機会を得ないが、
多分、観ないままなんでしょうなぁ。
行ったところで、ヒト、ヒト、ヒトだろうから、それを想像するだけでウンザリでもある。

西行と清盛は、生まれが同年というのを知ってる?
西行が鎌倉に行ったとき、頼朝から話しを所望されたから、西行の方が若いイメージがあるが、
同年なんだよね。
西行と頼朝とは、親子の年代の差がある。
そりゃあそうだ。
頼朝の父親の源義朝は、清盛と同世代なんだから。

西行の名にちなんで「東行」と号した者は高杉晋作。
僭越ながら、ワタシが更にそれに倣って号するとすれば、
う~ん、 北行? 南行? 何だか、列車か何かの行き先みたいな名前になる。
いっそ、「東西南北行」とでもするか?
その名のとおり、全国の桜を、南から北まで、桜前線と共に探訪する。
これも、一度やってみたいとは思うが、実現は不可能だねぇ。
カネも時間もない。

この土・日が(首都圏では)今年最後の桜になるが、 
夢と希望が、そして人生が、「サクラチル」にならないようにしたいものですのぉ。
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世の中、アホだらけ

2009-04-09 08:59:25 | Weblog
ブログの投稿に日があいたが、その間、世の中、いろいろなことがありましたなぁ。

【1】 先ずは北朝鮮の「テポドン2号」-
いわく、実験通信衛星「光明星2号」の「銀河2号」ロケットでの打ち上げ。
食うにこと欠いて何を血迷っているのかねえ。
将軍様のアタマは、以前にも増して相当におかしくなっている。
人工衛星が周回軌道に乗ったとか、その成功を日本のマスコミ各紙が報じているとか、
「民族の歴史に特記すべき大慶事」だという国威発揚万々歳の偉そうな報道!

物乞いをせず、食うものも食わずで成功させたのなら、それはそれで立派だが、
次の物乞いの材料+権力基盤の維持強化のためだとすると、
ああぁ、こんなアホ国家がこの世にあるとは。。。

あの偉大なる高句麗の末裔が北朝鮮だとすると、祖先の高句麗人は泣いているぞよ。
遠い将来を期して苦労したのに、こんな物乞い+アホ国家になってしまった、と。。。
行進やマスゲームの練習など止めて、コツコツと畑でも耕したらどうかね?
と、思うのはワタシだけじゃあない。

【2】 それを倣ってか、防衛省の誤発表、それも二度!
発射(5日)の前日で、予行演習にはなったのかもしれないが、何ともおそまつな話し。
無能力をさらけ出した。
それも、システムのミスかの様な「誤探知」などと表現している。
敗走を転進という、旧陸軍の体質そのまま。
妙な遺伝子だけは温存している。
実践経験がない(戦後の)「ごっこ」軍隊の一端。
「防衛トホホ省」とでも名称を変えた方がいいんじゃあないの?

いくらシステムに金をかけても、運用する人間がアホじゃあ、宝の持ち腐れ。
日本の緊急情報ネットワークシステム(Mネット)。
よく知らないものの、金を投じて構築したシステムなんだろうが、FAXも使うの?
自治体では、かなり事前訓練をしたそうで、
県庁によっては、人間がFAXの場所まで走って市町村に流す。
ロートルのワタシでさえ唖然!

【3】 15兆円の補正予算
日本も北朝鮮のバカさ加減に負けないゾ! か、どうか知らないけど、
追加経済対策として15兆円とのこと。
金があるなら大変結構な話。しかし、どこにそんな財源があるの?
赤字国債を印刷&発行すれば良い?
そりゃあ、当座はいいかも。
けど、その償還は誰が負うの?
欧州では、日本は国家破綻レースのトップランナーとささやかれているんだよ。

加えて、それを何に使うの?
関係機関が要求するものを集めて、適当に「らしき」計画を作り、ただまとめただけ。
国としての青図(将来を見据えた中での今の対策)が感じられない。
未来があるとすれば、子孫と歴史学者は、何というだろうね?

時間切れで、今日はここまで。
しかし、ワタシの様な(アタマの)プアマンにアホといわれるんじゃあ、どうしようもないね。
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プア5-(1) 天知る 地知る 我知る プア人生

2009-04-03 08:43:11 | Weblog
春らんまん。
家の桜は、とっくに散ってしまったが、世は満開。
寒い冬(昨今の冬はだいぶ暖かくなったが)の後の春は、縮こまった身体に有り難い。
不景気な時代にも、プアのところにも等しく訪れるのが良い。
また、春は、新しい息吹きを感じさせ、新年度に相応しい。
黄砂と共に汚染された空気が西から来るのは困ったことだけれど。

毎度のことだが、新年度になるとプアを脱する様にならないものかと考える。
春は、小学校にあがったときの子供なりのときめきや、社会に出たときの高揚感を想いださせる。
桜のせいだと思う。
しかし、それは一時で、アタマを抱えアクセクする季節が来ては過ぎてゆく。
いつまでたってもプアは相変わらず。
最後までこんな調子なんでしょうなぁ。

そんなことばかり考えても仕方がないから、何か気分を変えるものはないかと周りを探す。
けれど、そんなものはありはしない。
無いものねだり。
無い無いづくしのプア人生。

結局、その繰り返しで、五年、十年、六十年。
我ながら感心するね。
よくぞ飽きないでというか、いつまでもプアを続けられるもんだと。
継続は力なり、というが、すごい継続力+忍耐力。
生来、継続力や忍耐力には極めて縁遠いのだが、結果として、そういう面だけは結構いけるみたい。
と、言うか、要するにアホなんでしょうなぁ。
基本的なところが。

フトコロのプアもさることながら、アタマとココロのプアは、もう変えようがない。
変える意欲もなく、ただタナボタを待つのみ。
それじゃあ、変わる筈もないか。

「守株待兔」(しゅしゅたいと)-株を守りて兔を待つ(韓非子)
切り株にうさぎが衝突して死んだのに味をしめ、切り株の番をして暮らし、国中の笑いものになったという故事で、
タナボタと同じ。

しかし、その株で一度うさぎが死んだのなら、一万年後には同じことが起こるかも知れない。
じゃあ、一万年ぢっと待ってやろうかい。
国中の笑いものになったというが、笑う輩は、何を笑うのかね?
笑う輩は、うさぎを待つ者よりどれほど価値のある人生を送っているというんだね?
何が価値なのか知らないけど。
所詮、五十歩百歩じゃあないの。

なあんて、アホなことをひとりよがりで考えながら日が暮れる。
人間、すぐに自分を正当化するんだよね。
ワタシなんぞ、その典型。
何でも人のせい、国のせいにしてしまう。

ああ、天知る 地知る 我知る プア人生。
人は言う。 運命は人を変えるが、人は運命を変えられない、と。 
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第2創業の終焉

2009-04-01 08:51:42 | Weblog
今日から新年度。
この3月末でネット事業を廃止した。
windows 95の発売にあわせ、ネットビジネスのチャレンジを始めたが、幕を閉じた。
第2創業の核としたが、結局は「ビジネス」にならなかった。
出来なかった。
当初の取組み方向は悪くなかったと思うが、思い切った投資をしなかったこと(できなかった)、
人材を確保しての組織化ができなかったことが敗因、だと思う。
途中から積極的なチャレンジをしなくなり、零細規模の現状維持ベースになったことも大きい。
もっとも、そういうベースだったから、細々とであっても今まで続いたともいえる。
関係者には多謝。

残念ではあるが、これからは、アタマを切り換え、芽が出はじめた第3創業の種を育てることに注力する。
第1弾、第2弾のロケットエンジンが燃料不足で推進力が出ず、
一時の高さを失い、現在の高度は家屋の2階レベルだから、
これからの第3弾ロケットが達する高度も大したことはない。
が、今回は高さではない部分で努力にみあう「実」を求めたい。
能力不足のプアマンが、高さを求めて「あがく」のは、
自身は必死であっても、周囲からみると、風車に向かうドン・キホーテであった。

例えでロケットと表現したが、考えてみれば、中身は木炭エンジンだったかも。
つまり、ロケットの形をした張子。
張子の虎ロケットを本物にしようと張り切ってやってはみたが、何のことはない、
やっぱり張子の虎だった、ということ。
だから、エンジン全開でいくら噴射しても、木炭の馬力では如何ともしがたい。
これからの第3創業では、高さを求めないとはいえ、「実」を得るには一定の高度は不可欠。
せめて、近くの愛宕山の頂上レベルにはしたいもの。
愛宕山の高さ?
25m。
都内で最高峰の山。

「ごっこ」をするな?
うむ、的確なるご指摘、有難う。
けれど、諸賢には「ごっこ」に見えても、能力のないプアには命がけの高さなのよ。
それだって墜落すれば命を落とす。
反省点は、25m位なら凧をあげる方法でも十分だったということ。
自分は地上にいるままだが、凧にカメラを積んで飛ばせば、25m位はすぐに到達しただろうし、
もっと高くあげることだって可能。
自分を大気圏外へ運んでやろうと、人・物・金がないからといって張子のロケットにした、
その最初の選択が今の事態を招いた。
最初から判っていることじゃあないかって?
そうなんだよね。
順次、張子をホンモノに置き換えてゆく予定ではあったんだけどねぇ。
最初のグランドデザインがダメだと、いくら努力しても無意味という、
当たり前のことを努力でカバーしようとしたが、
結局は、その轍を踏んでしまった、ということ。
さてさて、これからの第3創業の展開がお楽しみ。 
1年後には方向が見えるだろう。
今までの木炭エンジンに、手作りで、自転車をこいで電気をおこす装置を追加してやろう。
これこそ自家流ハイブリッド。
一生懸命こげば、少しは足しになるだろう。
疲れてこげないときがあるかもしれないけど。。。
このハイブリッドこそ字づらのままの「自転車操業」。プアにピッタリ!

第3創業の種は何かって?
それはブログでは非公開。
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