陋巷にさまよう (野を拓く 第2部)

プアなわが道とこの世を嗤笑するブログ

「素読」の補足

2009-04-20 08:52:15 | Weblog
4/18 のプア5-(2)で、ワタシの基礎力不足の例として「素読」について書いた。
それを補足しようと書きはじめたが、その前に、

前のブログで「さすがにNHKは違う」と書いたが、書いたとたんにNHKの間違いに遭遇した。
NHKよ、おまえもか、とタメイキ。

19日(日)に家人が録画した番組を見た。
NHK BShi「宮城谷昌光が語る 中国・戦国時代」(前編)。(4/16)

宮城谷氏の語りと、ナレーションの構成で、
中国・戦国時代の社会変化の中で時代を織りなす人物をとりあげたもの。
春秋・戦国時代は、人間の典型が続々登場する面白さがある。
それを一般向けに分かりやすく解説したものは参考になる。

後半に、ナレーションで「こう・そんおう」と読んだ人物が出てきた。
はっきりと「こう」で切った。
何のことか分からなかったが、話が進行する中で、公孫鞅(商鞅)だと分かった。
宮城谷氏は、「こうそんおう」と言っていた。

(ナレーションの)原稿段階では、当然にチェックを入れていると思う。
ナレーションを語った後のチェックは、しなかったのか、気づいたがまあいいやと思ったのか、
その辺りの事情は知らないが、
結果として、変なナレーションになった。
この一点で、せっかくの宮城谷氏の番組の価値が若干下がった。
氏がかかわらないところで。

古代中国を語る者であれば、「公」などという氏はないことは、常識以前の話。
一方、「公孫」という氏は、文字どおり公族の家系で、その様な人物はあまたいる。
それを「こう・そんおう」と読むとはねぇ。
我々の様な一般人ならともかく、天下のNHKの、しかもその種の番組でですよ!
ニュースで名前を読み違えるのとはワケが違う。
なさけない。

さて、なさけない話は以上までとし、本論へ。と言っても補足だが。

「素読」の意味するところは、何も本格的な学問だけをいっているのではない。
修養というか、(子供のときを含む)基礎訓練を指している。
この基礎訓練が人生にわたってその人を規定する、ということ。
基礎訓練ができていないと、努力の100が、成果なり効果として100が出ないということ。
勿論、子供のときだけでなく、成人してからの基礎訓練や修養も、大いに結構。

上で宮城谷氏に触れたので、失礼ながら、氏を例にあげる。
ワタシより少々年配の方だが、
読んだ本によると、
氏は、作家として名が売れるまで苦しい生活を続け、その間、文章力を磨く、すなわち自分の表現を確立すべく、
日本語と漢字を追う様になり、結果、甲骨文字や金文を独学で学んだという。

この「甲骨文字や金文を独学で学んだ」の部分が、その人の基礎力。
つまり、本物の力。
無論、甲骨文字は宮城谷氏の場合。
大方の作家は、こうした基礎訓練を経ている訳だが、
そうでない作家だと、1~2作は何かのハズミで売れたとしても、ただそれだけの話し。

ワタシは読まないけど、数年前からケータイ小説が人気を呼んでいるそうな。
この種のものが、上記の基礎訓練を経たものかどうかは、言わずもがな。
訓練を経ていないものは、大天才の作品を除き、ただの雑文。
ワタシのこのブログなぞ、雑文にも劣るゴミ文。
雑文は、例え一時人気を博しても、すぐに消えてゆく。
そんなものは、時間と紙のムダ。

凡人が雑文を書くのは、それは趣味としては結構なこと。
しかし、プロの基礎訓練と凡人の趣味とでは次元が違う。

ブログで書いた「素読」及び「基礎力」の補足でした。
コメント
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