今日でぐぅでブログを初めて丸1年。
去年の今日、私は一睡もすることが出来なかった。
去年の今日は前に勤めていた会社へ退職の手続きに行った日だ。
「会社を辞める」
これから自分がどうなるのか、どうやって生きていくのか何にも決まってないままに放り出される不安の大波の間を漂っていた。
帰りの電車に乗り込んだ時、不安で涙がとまらなくなった。
私はこれからどうやって生きてけばいいんだろうか。
仕事も失い、キャリアも失い、婚約者まで失った。
私にはもう何も残っていない。
私がいなくなっても誰も困らないんだよね…。
また私の中でそんな考えが頭の中をぐるぐるしていた。
「このまま誰も知らないところへ行ってしまおうか」
そう思った時、何かを察したのか母が携帯に電話をかけてきた。
「ちゃんと会社に行けた?手続きはちゃんと出来たね?気分はどうね?きつくないね?」
「鹿児島に帰ってくるね?でも帰ってきてもすることないし、また気分も沈むでしょ?
しばらくはそっちにいて東京のお友達と会ったり、色々そっちでしか出来ないことしてゆっくりしなさいよ。
どこか旅行に行くのもいいんじゃないね?
でも、行き先はちゃんと言いなさいよ。お母さん心配だからね。
でも慌ててこっちに帰ってこなくてもいいが。
もう少し元気になったら専門学校でも行けばいいよ。お金はお母さんが出してあげるから。
鹿児島に帰ってきたって、やっちゃんに本当にあっている仕事に巡り会えるとは限らんし、勉強とかしたくても学校もないしね。
家の契約もあと1年残ってるし、それから決めてもいいんだが。
1年、遊びでも何でも自分でやりたいことをやって、どうしてもだめなら帰っておいで」
この25歳の秋から今までいろんなことがあった。
母は
「生きてくれてさえいてくれたら、お母さんはそれでいいんだから」
とそういって私を抱きしめてずっと泣いていた。
眠れない私が部屋の隅っこに行って、うずくまって泣いていた時、翌日仕事があるのに私が眠るまでずっと手を握り、子供にするように背中をとんとんとして、寝かしつけてくれていた。
具合が悪いといえば仕事を放り出して帰ってきて、病院を梯子して。
普段は温厚な父には初めてぶたれた。
「かわってやれるのならかわってやりたい」
そう言って父が泣いていた。
父が泣くのを見たのは初めてだった。
医療過誤で病院を転院した時も私のために両親はいろんなところで頭を下げて、いい先生を探してくれた。
転院先の病院の先生はとても温厚なおじいちゃん先生で私の話をいつでもじっくり聞いてくれた。
普通は私のような患者は励ましてはいけないといわれているけど、先生がいつも帰りがけに
「頑張らんね~。大丈夫、僕が保証するよ。ちゃんとまた元の生活に戻れるから。焦らんで、じっくりやっていこうね」
と背中を叩かれ、いつも元気をもらっていた。
先生、先生の言ったとおり、ちゃんと元の生活へ少しずつですが戻れている気がしますよ。
こうして1年、無事に過ごせて、こうして今があるのは、抜け殻のようになって帰ってきた私を東京でまた一人で暮らせるまで立ち直らせてくれたのは、両親と2人の妹たち、そして私の病気のことを知っても私と根気強く付き合ってくれた友人たち。、そしてここにきてくれるブログフレンズの皆さんのおかげです。ありがとう。
去年の今日はこんなふうにまた普通に仕事が出来るって想像はしてなかった。
仕事は順調ですし、同僚にも恵まれ、その意味では幸せ。
でも、私は自分の存在の意義と自信をまだ取り戻したわけではない。
自分が生きている意味を未だ見出せないし、目標もない。
ただその日その日を漠然と過ごす、今の生活がとても不安だ。
時々、とても不安になりすぎて、消えてしまいたくなることもある。
自分の弱さと重過ぎる過去とまだまだ私は付き合わなくてはならないようだ。
来年の今日は今日よりももっと笑って過ごせたら…今はそれだけを願っている。
小さなことの積み重ねがきっと大きくなって、やがてまた大きな花が咲く。
そう信じたい。
去年の今日、私は一睡もすることが出来なかった。
去年の今日は前に勤めていた会社へ退職の手続きに行った日だ。
「会社を辞める」
これから自分がどうなるのか、どうやって生きていくのか何にも決まってないままに放り出される不安の大波の間を漂っていた。
帰りの電車に乗り込んだ時、不安で涙がとまらなくなった。
私はこれからどうやって生きてけばいいんだろうか。
仕事も失い、キャリアも失い、婚約者まで失った。
私にはもう何も残っていない。
私がいなくなっても誰も困らないんだよね…。
また私の中でそんな考えが頭の中をぐるぐるしていた。
「このまま誰も知らないところへ行ってしまおうか」
そう思った時、何かを察したのか母が携帯に電話をかけてきた。
「ちゃんと会社に行けた?手続きはちゃんと出来たね?気分はどうね?きつくないね?」
「鹿児島に帰ってくるね?でも帰ってきてもすることないし、また気分も沈むでしょ?
しばらくはそっちにいて東京のお友達と会ったり、色々そっちでしか出来ないことしてゆっくりしなさいよ。
どこか旅行に行くのもいいんじゃないね?
でも、行き先はちゃんと言いなさいよ。お母さん心配だからね。
でも慌ててこっちに帰ってこなくてもいいが。
もう少し元気になったら専門学校でも行けばいいよ。お金はお母さんが出してあげるから。
鹿児島に帰ってきたって、やっちゃんに本当にあっている仕事に巡り会えるとは限らんし、勉強とかしたくても学校もないしね。
家の契約もあと1年残ってるし、それから決めてもいいんだが。
1年、遊びでも何でも自分でやりたいことをやって、どうしてもだめなら帰っておいで」
この25歳の秋から今までいろんなことがあった。
母は
「生きてくれてさえいてくれたら、お母さんはそれでいいんだから」
とそういって私を抱きしめてずっと泣いていた。
眠れない私が部屋の隅っこに行って、うずくまって泣いていた時、翌日仕事があるのに私が眠るまでずっと手を握り、子供にするように背中をとんとんとして、寝かしつけてくれていた。
具合が悪いといえば仕事を放り出して帰ってきて、病院を梯子して。
普段は温厚な父には初めてぶたれた。
「かわってやれるのならかわってやりたい」
そう言って父が泣いていた。
父が泣くのを見たのは初めてだった。
医療過誤で病院を転院した時も私のために両親はいろんなところで頭を下げて、いい先生を探してくれた。
転院先の病院の先生はとても温厚なおじいちゃん先生で私の話をいつでもじっくり聞いてくれた。
普通は私のような患者は励ましてはいけないといわれているけど、先生がいつも帰りがけに
「頑張らんね~。大丈夫、僕が保証するよ。ちゃんとまた元の生活に戻れるから。焦らんで、じっくりやっていこうね」
と背中を叩かれ、いつも元気をもらっていた。
先生、先生の言ったとおり、ちゃんと元の生活へ少しずつですが戻れている気がしますよ。
こうして1年、無事に過ごせて、こうして今があるのは、抜け殻のようになって帰ってきた私を東京でまた一人で暮らせるまで立ち直らせてくれたのは、両親と2人の妹たち、そして私の病気のことを知っても私と根気強く付き合ってくれた友人たち。、そしてここにきてくれるブログフレンズの皆さんのおかげです。ありがとう。
去年の今日はこんなふうにまた普通に仕事が出来るって想像はしてなかった。
仕事は順調ですし、同僚にも恵まれ、その意味では幸せ。
でも、私は自分の存在の意義と自信をまだ取り戻したわけではない。
自分が生きている意味を未だ見出せないし、目標もない。
ただその日その日を漠然と過ごす、今の生活がとても不安だ。
時々、とても不安になりすぎて、消えてしまいたくなることもある。
自分の弱さと重過ぎる過去とまだまだ私は付き合わなくてはならないようだ。
来年の今日は今日よりももっと笑って過ごせたら…今はそれだけを願っている。
小さなことの積み重ねがきっと大きくなって、やがてまた大きな花が咲く。
そう信じたい。