杉並からの情報発信です

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【YYNews】■【ブログ記事週間まとめ】2018年05月15日(火)-05月19日(土)

2018年05月20日 05時30分19秒 | 政治・社会
いつもお世話様です。                          

【杉並からの情報発信です】【YYNews】【YYNewsLive】を主宰する市民革命派ジャーナリスト&社会政治運動家の山崎康彦です。

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*今回は2018年05月15日(火)-05月19日(土)に掲載した4本のブログ記事を以下にまとめました。

■【ブログ記事週間まとめ】2018年05月15日(火)-05月19日(土)

①2018.05.15(火) 日本語ブログ

■『戦前の日本』と『戦後の日本』は1945年の敗戦による『大日本帝国崩壊』によって断絶したかのように見えるがその『支配体制』は現在まで継承されている!(No1)

その最大のものは①『天皇制』、②『カルト宗教天皇教』、③『田布施システム』である!

①『天皇制』
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▲『日本国憲法』第一条【天皇の地位、国民主権】

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
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もしも我々が『日本国憲法』第一条の規定に忠実に従うのであれば、天皇の地位は主権を持つ国民の総意に基づくものである以上、主権者の国民はその都度『天皇』を直接選挙によって選ばなければならないことになる。

しかし『日本国憲法』下の戦後日本で実際に行われたことは、GHQ(米国支配階級)によってアジア・太平洋侵略戦争の戦争犯罪を100%免罪・免責され、助命され、イメージチェンジした昭和天皇裕仁が名前を変えた『天皇制=象徴天皇制』のトップに再び座ったことである。

そして1898年に昭和天皇が死去した際には、直系男子の皇太子が明人天皇として第125代天皇に就いたのである。

そして来年2019年4月に明人天皇が生前退位する際には、直系男子の現皇太子が第126代天皇に就くことがすでに決まっている。

私にとって誠に不思議なことは、『日本国憲法』第一条『天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基く』の規定をもって『来年の生前退位の際には後継天皇を国民の直接選挙で選ぶべきである』あるいは『天皇制の存続の是非を問うべきである』と主張する政治家や官僚や学者やマスコミやオピニオンリーダーがこの日本には誰もいないことである。

すなわち『日本国憲法』第一条の規定は。全くの絵空事であり有名無実だということなのだ。

戦後日本で実際に行われていることは、英国政府と改宗ユダヤ・ロスチャイルド国際金融マフィアの財政援助、軍事援助、戦略指南で『明治維新』の武力クーデターで江戸幕府を倒した『田布施マフィア』の司令塔・伊藤博文が一人で起案し1890年に施行した『大日本帝国憲法』第1条そのものなのだ。
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▲『大日本帝国憲法』第一条

大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する。
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(No1終わり)

(以下に続く)

②『カルト宗教天皇教』

③『田布施マフィアによる「支配と搾取の基本構造=田布施システム」』

(終り)

②2018.05.16(水) 日本語ブログ

■追悼 アニメーション監督高畑勲(いさお)さん!

【画像1】2017年4月東京で行われた三上智恵監督とのトークイベントでの高畑勲監督

20180515高畠駿

【画像2】追悼の言葉を述べる宮崎駿監督 (2018年5月15日三鷹の森ジブリ美術館)

20180515宮崎駿

①高畑勲さん「お別れ会」 宮崎駿監督は声を詰まらせながら、亡き盟友を偲んだ

ハフィントンポスト日本語版

2018年05月15日

https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14/isao-takahata-farewell_a_23434642/?utm_hp_ref=jp-homepage

4月5日に肺がんで亡くなったアニメーション監督の高畑勲さんを偲ぶ「お別れの会」が5月15日に東京・三鷹の森ジブリ美術館で開かれた。

冒頭、宮崎監督が"開会の辞"として挨拶。宮崎監督は高畑さんと出会った東映動画時代を振り返りつつ、「パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた」と、声を詰まらせながら盟友を偲んだ。

その全文を紹介する。

(追悼文全文)

パクさんというあだ名の言われはですね、まあ定かでない部分もあるんですが、大体もの凄く朝は苦手な男でして、東映動画に勤め始めた時もギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして。買ってきたパンをタイムカードを押してからパクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたと。それで、パクパク、パクになったという噂です。

追悼文という形ではありませんが、書いてきたものを読ませていただきます。

パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた。

そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。

9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら高畑監督のタバコをやめさせなさい」。真剣な怖い声だった。

主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。

「パクさんタバコを止めてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」。これは鈴木さん。

弁解やら反論が怒涛のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」。パクさんはキッパリ言って頭を下げた。そして本当に、パクさんはタバコをやめてしまった。

僕はわざとパクさんのそばへタバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも、ぜんぜん吹いたくならない」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、ひとりの青年が近づいてきた。

「瀬川拓男さんのところへ行くそうですね」

穏やかで賢そうな青年の顔が目の前に遭った。それが高畑勲こと、パクさんに出会った瞬間だった。

55年前のことなのに、なんとはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を今もありありと思い出す。

瀬川拓男氏は人形劇団「太郎座」の主催者で、職場での講演を依頼する役目を僕は負わされていたのだった。

次にパクさんに出会ったのは東映動画労働組合の役員に推し出されてしまったときだった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまった。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。

それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、僕はパクさんと夢中に語りあかした。ありとあらゆることを。中でも作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか。

すみません、どうやって...。

パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった。その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのはパクさんと出会えたのと同じくらい幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。ある日大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。

ちょっと、すみません...。

それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲で無くてはならないという会社への申入書だった。当時、東映動画では「監督」と呼ばず「演出」と呼んでいました。

パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感に湧き上がっていました。

そしてその日がきた。長編漫画第10作目(「太陽の王子 ホルスの冒険」)が大塚・高畑コンビに決定されたのだった。ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。会社近くの借家の一室にパクさんも来ていた。

ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組合事務所と同じように、すぐ畳に寝転んだ。なんと僕も寝転んでいた。

(大塚さんの)奥さんがお茶を運んでくれたとき、僕はあわてて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。

女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていてだるいのだそうだった。

大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会はなかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間が延びて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」。

それは「意思統一」というより、「反乱」の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。

なにしろ僕は原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターに過ぎなかったのだ。

大塚さんとパクさんは、事の重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。勢い良く突入したが長編10作目の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。

パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人に泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。

僕は、夏のエアコンの止まった休日に出て、大きな紙を相手に背景原図を書いたりした。会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で仕事を覚えたんだ。

初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは削られる削られないの騒ぎになっていたのを知っていた。パクさんは粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数からカット毎との作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。

当然のごとく約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。一体パクさんは何枚の始末書を書いたのだろう。僕も手一杯の仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカットの山を崩すのが精一杯だった。

初号で僕は初めて、迷いの森ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。なんという圧倒的な表現だったろう。なんという強い絵。なんという...優しさだったろう...。これをパクさんは表現したかったのだと初めてわかった。

パクさんは仕事を成し遂げていた。森康二さんも、かつてない仕事を成し遂げていた。大塚さんと僕はそれを支えたのだった。

「太陽の王子」公開から30年以上たった西暦2000年に、パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。

当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場の板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景・トレース・彩色の女性たち、技術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もういまはないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔もまじっていた。偉い人たちが「あの頃が一番おもしろかったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。

パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。

ありがとう、パクさん。55年前に...あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

②「火垂るの墓では戦争は止められない」高畑勲監督が「日本の戦争加害責任」に向き合うため進めていた幻の映画企画

2018.04.13 Litera

http://lite-ra.com/2018/04/post-3949.html

2017年4月、東京で行われた三上智恵監督とのトークイベントでの高畑勲監督(撮影=編集部)

5日に亡くなった高畑勲監督の代表作『火垂るの墓』(1988年)が、本日の『金曜ロードSHOW!』(日本テレビ)で放送される。周知の通り「反戦映画」として国内外から高い評価を受けた作品だが、生前、高畑監督は「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言していたことは、本サイトでも何度か紹介してきた。

「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」(神奈川新聞2015年1月1日付)

一方、その高畑監督が『火垂るの墓』の次に撮ろうとしていた“まぼろしの作品”については、あまり知られていない。監督作としての次作は1991年の『おもひでぽろぽろ』になるが、実はその間、高畑監督は別の企画を進めていた。しかし、ある理由によりお蔵入りになったという。「国公労新聞」2004年1月1・11日合併号のインタビューで監督自身がこう語っている。

「(『火垂るの墓』は)戦争の悲惨さを体験したものとして、平和の大切さを訴える作品をつくることができたことはよかったのですが、一方で、日本のしかけた戦争が末期になってどんなに悲惨だったかだけを言っていてもいけないと思っています。

じつは『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしんさん原作の『国境』をもとにして、日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う企画を進めていたのです。残念ながら、天安門事件の影響で企画が流れたのですが、日本が他国に対してやってきたことをきちんと見つめなければ世界の人々と本当に手をつなぐことはできないと思っています」

そう。高畑監督が『火垂るの墓』の次に取り組もうとしていたテーマは、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだった。ついに日の目を見ることのなくなった“まぼろしの高畑映画”。その原作となるはずだった『国境』とは、どういった作品なのか──。現在、絶版となっている同作を読んでみた。

高畑監督が撮るはずだった“幻の映画”の原作『国境』とは

『国境』(理論社)は、児童文学作家、劇作家のしかたしん氏が、1986年から1989年にかけて発表した小説3部作。1冊にまとめられた1995年版は全600ページを超える長編である。日中戦争、太平洋戦争時の朝鮮・中国・満州・モンゴルを舞台に、ソウル生まれの日本人青年が、死んだはずの幼馴染みを探すなかで、反満抗日や朝鮮独立の地下独立運動に参加していくというのが物語の大枠だ。

同作には、甘粕事件の甘粕正彦や、陸軍大将の東条英機、朝鮮独立運動家としての金日成、あるいは森繁久弥など、実在の人物名が多数登場するが、ノンフィクションではなく、あくまで“冒険小説”としての体裁をとっている。しかしその一方で、物語に作者本人の戦争体験が色濃く反映されているのは疑いない。

著者のしかた氏は1928年、日本統治下の朝鮮・京城(現在のソウル)で生まれた。父は京城帝国大学の教授、母は洋画家で、当時ではリベラルな空気の中で育ったという。京城帝国大予科在学中に終戦を迎えたしかた氏は、引き上げた日本で大学を卒業。民放ラジオ局でディレクターを務めたのち、1974年から作家一本の人生に入り、2003年に亡くなった。しかた氏にとって『国境』は「ライフワークのひと節」「一番かわいい作品」だったという。

第一部「大陸を駈ける」の時代背景は、盧溝橋事件から2年後の1939年。主人公の「昭夫」は京城帝大の予科生だ。学友たちとやがて戦地に駆り出されることを意識しながら飲み会をしていた初夏の夜、密かに好意を寄せる「和枝」から、満州での訓練中に事故死したとされた和枝の兄で幼馴染の「信彦」が生きていることを聞かされる。

日本が1932年に樹立した「満州国」。昭夫はふと、信彦が満州の軍官学校行きを決めたときに「天皇陛下のためには死ねそうもないが、満州の未来のためなら死ねる」と言っていたのを思い出していた。昭夫はその意味を考えながら、(少しばかりの下心をもって)満州まで信彦探しの旅に出る。しかし、その背後を「白眼」(しろめ)と呼ばれる冷酷で残虐な満州公安局の諜報員がつけねらっていた。

実は、信彦は関東軍がさらったモンゴルの将軍の子孫で、軍官学校を脱走して地下工作運動に加っていたのだ。信彦の“帰路”を辿る過程で諜報員から命を狙われた昭夫は、地下運動に関わるモンゴル人「秋子(ナムルマ)」たちに助けられながら、満州国が「五族協和」の美辞を建前にした侵略に他ならないことに気がつく。また、自らが白眼に捕らえられて苛烈な拷問を受けるなかで、日本人による差別、暴力、搾取、性的暴行、戦争犯罪の実態を身をもって知り、旅を終えて京城へ帰る。

続く第二部は太平洋戦争中の1943年。軍属の技師として独立を願う朝鮮人たちと交流しながら武器製造に携わる昭夫は、日本軍人の卑劣な暴力支配、大本営発表の欺瞞を再び目の当たりにして、朝鮮の独立運動に身を捧げる決意をし、信雄や秋子らとの再会を果たす。そして第三部では、独立活動家として1945年8月15日の敗戦を生まれの地・京城で迎え、白眼との戦いにもピリオドがうたれたところで、物語は幕を閉じる。

「朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがある」

以上が『国境』のあらすじである。予科生の昭夫が漠然と考えていた朝鮮・中国、満州・モンゴルの「国境」とは、侵略者である日本が引いて強要しているものだった。

昭夫がそのことを悟るのは、日本人による暴力や差別を目の当たりにしたことだけがきっかけではない。むしろ、支配を受けている当事者たちとの腹を割った交流から、「祖国」とは「民族」とは何かを見つめ直すことで独立運動に関わっていくのである。たとえば、作中で機関士に扮してモンゴル国境へ向かう最中、昭夫は協力者のモンゴル人や朝鮮人とこのような会話を交わしている。引用しよう。

〈昭夫は改めて運転室の中を見渡した。石炭で真っ黒になった信彦の顔を想像しておかしくなった。ドルジは続けた。

「日本人として育てられ、それから自分の国を選び直したんだからな。国を選び直すというのは大変なことだろうよ。おれなんかは、満州なんか国じゃない、おれの国はモンゴルだ、それ以外に考えたことはなかったけどさ。彼はそうじゃないもんな」

「選べる国があるやつはいいよ」

 突然声がした。李さんだった。

「俺たちには国がないんだからな」
 
ちょっと遠慮がちに昭夫の顔を見てから続けた。

「日本人に国を追い出されて、満州をあちらこちらとうろつきまわったけど、どこへ行ってもよそ者だった。よその国の大地、その国の空をさ迷う人生というのがわかるかい。こうやって働いたり考えたり喋ったりしたことは、みんなよその国の空と土の中に消えちまうのだ。誰がその歴史をついでくれるというあてもなくな。──淋しくってな。本当に淋しいよ」〉

また、同作の特徴のひとつとして、関東大震災時の朝鮮人虐殺、慰安婦や徴用工の強制連行、人体実験をしていた731部隊、植民地解放を謳った傀儡政権の樹立、朝鮮人の創氏改名など、日本による加害事実のエピソードが随所に挿入されることが挙げられる。そのすべてが作者の実体験ではないにせよ、少なくとも日本軍による強制連行については、当時目撃した光景が如実に反映されているようだ。しかた氏はある講演のなかでこう証言している。

〈いっぺん、どこかの小さい駅で朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがあるんです。これもすごかったですね。ぼくは人間が泣くというのはこういうことかと初めて知ったわけです。オモニが泣き叫ぶ、泣き叫ぶオモニをけ倒し、ぶんなぐり、ひっぺがしながら、息子や夫たちが貨車に積みこまれていく光景を見てしまった。その泣き声は強烈に残っているんです。ぼくはそのとき、自分が朝鮮人をわかっていると言ってたくせに、指一本動かすことができない日本人の限界を、どっかで感じていたんですね。〉(『児童文学と朝鮮』神戸学生青年センター出版部、1989年)

なぜ企画は流れてしまったのか。原作者と高畑監督の無念

また、第三部で細かく描かれている終戦日のソウル市内の活況も、しかた氏本人の体験が元になっている。しかた氏ら京城帝大予科生は、8月15日の正午ごろまでソビエトの侵攻に備え、爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練を行なっていた。直後に聞いた玉音放送。頭が真っ白になって、そのまま京城の町を散歩した。そこで、しかた少年ははじめて朝鮮人のデモ行進を見て、その明るさに感動したという。少し長くなるが、前出の講演から再び引用しよう。

〈大変恥ずかしいことだったんですけれども、そのときは侵略者としての罪の意識はなかった。

ヒョッと気がついてみると、その街角に一人、予科の学生が突っ立っていたんです。これは朝鮮人の学生です。(中略)建国準備会という腕章をつけていた。まずいことに、そいつとバチッと目があっちゃったんですね。目があわなかったら、ぼくは知らん顔をして万歳、万歳と言いながら、おそらく京城駅まで行ってたと思うんです。(笑)
 そいつが、ちょっと来いというんです。「なんやねん」と行ったんです。彼にえらい厳しい顔で、「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」って言われたんですね。それはほんとにドキッとしましたね。「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」と言われたときに、アッと気がついた。まことにうかつな話ですけれども、それが自分にとって朝鮮に生まれ育ったことをもう一回問い直す、見直す、その大きなきっかけになった気がするんですね。〉

これは推測になるが、おそらく、高畑監督が問いたかった「加害責任」とは、戦時下の暴力や犯罪だけじゃなかったのではないだろうか。事実、『国境』という物語は、侵略者による「加害」が、決して身体だけに刻まれるものではないことを教えてくれる。生まれた国や名前を奪われるということ。自分たちの歴史を奪われるということ。それは、暴力や略奪の「当事者」たちが鬼籍に入ってもなお、永遠に癒えることのない「加害」だろう。
しかし、ついぞ『国境』は高畑監督によって映画化されることが叶わなかった。高畑監督は前述の「国公労新聞」インタビューで「天安門事件の影響で企画が流れた」と多くを語っていないが、調べていくと、しかた氏がその裏側を雑誌『子どもと読書』(親子読書地域文庫全国連絡会)1989年12月号のなかで記していたのを見つけた。

高畑監督を〈アニメ映画界のなかでもっとも尊敬する人〉だったというしかた氏は、作品の提供を快諾し、完成を楽しみにしていた。高畑監督も〈全力をかけてやりたい〉と意気込んでいたという。しかし、『国境』第三部が完結した1989年に天安門事件が起きて、配給会社から「あの事件のために日本人の中国イメージが下がり販売の自信がなくなったから」との理由でキャンセルを申し入れられたという。しかた氏はそのショックについてこう綴っていた。

〈私が何ともやり切れない思いにかられたのは、そういう(引用者注:マーケットの)リサーチを受けた時の日本人一般の反応を想像してしまったからなのです。
「人民解放軍だってあんなひどいことをやったんだ。おれたち日本がやったことも、これでおあいこさ。もう免罪になったんだ。この先侵略者の罪とか歴史とか、そんなうっとうしいことはかんがえるのはやめにしようや。もっと軽く楽しくいこうや」〉

翻って現在。安倍政権のもとで、戦中日本の加害事実を抹消・矮小化しようとする歴史修正主義が跋扈している。安倍首相は、戦後70年談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と胸を張って述べた。

こんな時代だからこそ、やはり、映画版『国境』は“まぼろしの作品”になるべきではなかった。きっと、高畑監督も、そう思いながら眠りについたのではないだろうか。そんなふうに思えてならないのだ。

(小杉みすず)

(終り)

③2018.05.18(金) 日本語ブログ

■共同通信社が2018年5月12日-13日に実施した『安倍内閣世論調査結果』はねつ造されている!

▲なぜ日本には非政府系の『独立世論調査機関』がないのか?

それは米国支配階級と日本支配階級が、「米国傀儡政党・自民党」による政治支配が永遠に続くように共同通信や時事通信やNHKや全国紙や民法TV局などの『米国&自民党御用マスコミ』に『ねつ造世論調査結果』を垂れ流させて日本国民を騙すためである!

そして『無垢で純真な日本国民』はこれらの『ねつ造世論調査結果』を『客観的で正しい』と洗脳され信じ込んでいるのだ!

▲共同通信社が2018年5月12日-13日に実施した『安倍内閣世論調査結果』はねつ造されている!

①安倍内閣支持率38.9%  → 実際は18%!実際の数字に20%加えてねつ造している!

②安倍内閣不支持率50.3% → 実際は70%!実際の数字から20%引いてねつ造している!

③自民党支持率37.1% → 実際は17%! 実際の数字に20%加えてねつ造している!

▲共同通信社よ!以下の六つの疑問に答えてみろ!そしてすべてのデーターを公表せよ!

疑問1:

【加計学園問題】に関して、柳瀬元首相秘書官の国会での説明に「納得できる人」=安倍内閣支持者が14.7%しかいないのに、なぜ安倍内閣支持率が38.9%もあるのか?

38.9%-14.7%=24.2%、この差はどこから来るのか?

疑問2:

【加計学園問題】に関して、柳瀬元首相秘書官の国会での説明に「納得できない人」=安倍内閣不支持者が75.5%もいるのに、なぜ安倍内閣不支持率が50.3%しかないのか?

75.5%-50.3%=25.2%、この差はどこから来るのか?

疑問3:

【加計学園問題】に関して「政府の手続きは適切だった」と考える人=安倍内閣支持者が16.9%しかいないのに、なぜ安倍内閣支持率が38.9%もあるのか?

38.9%-16.9%=22.O%、この差はどこから来るのか?

疑問4:

【加計学園問題】に関して「政府の手続きは適切でなかった」と考える人=安倍内閣不支持者が69.9%もいるのに、なぜ安倍内閣不支持率が50.3%しかないのか?

69.9%-50.3%=19.6%、この差はどこから来るのか?

疑問5:

安倍内閣が来週にも衆議院で強行採決させようとしている「働き方関連法案」に関して、「成立させるべきである」と考える人=安倍内閣支持者が20.3%しかいないのに、なぜ安倍内閣支持率が38.9%もあるのか?

38.9%-20.3%=18.6%、この差はどこから来るのか?

疑問6:

安倍内閣が来週にも衆議院で強行採決させようとしている「働き方関連法案」に関して、「成立の必要はない」と考える人=安倍内閣不支持者が68.4%もいるのに、なぜ安倍内閣不支持率が50.3%しかないのか?

68.4%-50.3%=18.1%、この差はどこから来るのか?

【関連画像】2018年5月12日-13日実施「共同最新世論調査」主な結果

 ※かっこ内は4月14日-15日実施の前回調査結果。合計は100%にならない

20180514世論調査の主な結果

【関連記事】

▲柳瀬氏答弁、納得せず75% 働き方法案不要68% 共同世論調査

2018年5月14日  東京新聞

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018051490065834.html

共同通信社が五月十二、十三の両日に実施した世論調査によると、加計(かけ)学園の獣医学部新設を巡り、安倍晋三首相の関与を否定した柳瀬唯夫(やなせただお)元首相秘書官の国会での説明に関し「納得できない」が75・5%に達した。納得できるは14・7%だった。安倍政権が今国会の最重要法案と位置付ける働き方関連法案に関し、今国会で成立させるべきかを尋ねたところ「必要はない」が68・4%で、「成立させるべきだ」が20・3%だった。

内閣支持率は38・9%で、四月十四、十五日の前回調査から1・9ポイント増。不支持は50・3%だった。加計学園の獣医学部新設に関する手続きが「適切だったと思わない」との回答は69・9%で、「適切だった」の16・9%を大きく上回った。安倍首相の下での改憲に「賛成」は31・7%、反対は57・6%。

前財務事務次官のセクハラ問題を巡り麻生太郎財務相が女性記者にはめられた可能性が否定できないとの見方を示し、その後撤回したことに関し、麻生氏の責任を聞くと「辞任すべきだ」が49・1%で、「辞任の必要はない」は45・5%だった。

六月にシンガポールで朝鮮半島の非核化を巡り協議する米朝首脳会談に「期待する」は58・0%で「期待しない」は37・3%。結党した国民民主党に「期待する」は18・1%にとどまり、「期待しない」は74・3%だった。

政党支持率は自民党が前回比0・3ポイント増の37・1%、立憲民主党も1・4ポイント増の13・3%となった。国民民主党1・1%、公明党3・7%、共産党4・5%、日本維新の会1・5%、自由党0・7%、新「希望の党」0・7%、社民党0・8%。「支持する政党はない」とした無党派層は34・2%だった。

(終り)

④2018.05.19(土) 日本語ブログ

■特集【今日の座右の銘】①~⑯!

良いことも悪いことも含めて決して忘れてはいけない言葉を【座右の銘】にまとめて文字通り座右においていつも読んでいます!

①世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

(宮沢賢治『農民芸術概論綱要・序論より』

②世界に対する大なる希願をまづ起せ 強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ

(宮沢賢治『農民芸術概論綱要・農民芸術の製作より』

③『国民は自然権として抵抗権・革命権を持っている』

  (イギリスの哲学者ジョン・ロックの言葉) 
                          
政府が権力を行使するのは国民の信託によるものであり、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば、抵抗権(革命権、反抗
権)をもって政府を変更することができる。

④命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。(西郷隆盛の言葉)

⑤【天下の正道に立ち、天下の大道を行う人】とは (孟子の言葉)

どんなにカネをつまれようとも、カネの誘惑に負けて正道を踏み外すことは絶対ない。

どんなに貧しくなろうとも、志を曲げてカネのために悪を働くことは絶対にない。

どんなに強力な権力が脅しにかかろうとも、恐れ命を惜しんで屈服することは絶対にない。

⑥『私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ!そうすれば誰が法律を作ろうとそんなことはどうでも良い。』

(ドイツ・ロスチャイルド商会創設者マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの言葉1790年)

⑦『私の息子たちが望まな ければ戦争が起きることはありません。』

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの妻であり5人の息子と5人の娘の母親でもあったグートレ・ロスチャイルドの言葉!

⑧『天皇裕仁は「戦争犯罪人」であり、「ファシスト」であり、「5000万人のアジア人」を殺した最大最高の元凶である』

(井上清著「天皇の戦争責任」現代評論社1975年初版より抜粋)

⑨昭和天皇『この原子爆弾が投下されたことに対して遺憾には思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対
しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております』

この発言は、昭和天皇が米国訪問から帰国直後の1975年10月31日に日本記者クラブとの会見で中村康二(こうじ)記者(ザ・タイムズ)の質問『陛下は(中略)都合三度広島にお越しに
なり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいし
たいと思います。』への回答。

⑩昭和天皇『そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題につ
いてはお答えが出来かねます』

この発言は、昭和天皇が米国訪問から帰国直後の1975年10月31日に日本記者クラブとの会見での秋伸利彦記者(中国放送)の質問『天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く
悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございま
すか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします』への回答。

⑪『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

(ドイツルター派牧師であり反ナチス行動で知られるマルティン・ニーメラーの詩)

ナチ党が共産主義者を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった

ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった

ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった

ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた
⑫貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。


(古代ギリシャ哲学者エピクロスの言葉)

⑬お金をたくさん持っている人は、政治の世界から追放されるべきだ。

 (ウルグアイ・ホセ・ムヒカ前大統領の言葉)

⑭世界的投資家ジム・ロジャーズ氏の言葉 (週刊東洋経済のインタビュー)

・[近いうちに世界規模の破たんが起こる]

・[安倍首相は『日本を破滅させた男』として、歴史に名を残すでしょう]  

・[おカネを大量に刷っている間は、それを享受している人たちの暮らし向きは
良くなり ます。しかし、いずれ破たんに向かい、すべての人が苦しみ ます。
金融緩和でいい思い をした人たちも一緒です]

・[政府債務の大きさゆえ、いったん破たんが起きると、通常よりも大規模にな
ります]

・[安倍首相も、日銀も(政界経済にとっては)非常に危険な存在です]

・[安倍首相がやったことはほぼすべて間違っており、これからもあやまちを犯
し続ける でしょう]
                                   
・[(円安誘導は)最悪です。自国通貨を破壊することで地位が上がった国はあり
ません]

⑮ジョン・レノン『世界は狂人によって支配されている』

【YouTube映像】https://www.youtube.com/watch?v=7N-G3N51K48

「社会は全て、狂人によって動かされている。きちがいじみた目的を実現するために。
僕は、このことに、16才とか12才とか、ずっと幼い頃に気づいたんだ。

でも、自分の人生を通じて、この事を違った方法で表現してきた。僕が表現しているものは、いつも同じ事だった。でも今は、この事を言葉にして示そう。

僕たちは、偏執狂者たちによって、偏執狂者たちの目的を成就するために支配されている、とね。

イギリス政府やアメリカ政府、ロシア政府、中国政府が実際にやろうとしている事、その方法や目的を紙の上に書く事ができるならば、彼らが何をやっているのか、僕はぜひ知りたい。

彼らは、みんなきちがいなんだ。でも、それを表現すると、僕はきっと、きちがい扱いされて、きっと消されてしまうだろう。これこそが、きちがいじみた現実なのだ」

⑯ジョン・レノ『イマジン』

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

(終り)

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【杉並からの情報発信です】【YYNews】【YYNewsLive】
情報発信者 山崎康彦
メール:yampr7@mx5.alpha-web.ne.jp
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