西郷隆盛は[自分で自分を世に残す]ことをしたがらなかったために、著書を一
冊も残していません。[西郷南洲翁遺訓]は幕末の戊辰戦争で薩摩軍と戦った
庄内藩(言山形県)の元藩士たちが明治になって西郷隆盛との交流の中で彼が
語った言葉をまとめたものです。
西郷隆盛は決して多弁ではなくむしろ他人の話をよく聞く聞き手上手だと言わ
れていますので、[西郷南洲翁遺訓](岩波文庫)の原文本編四十一、追加分2
項目合計四十三項目は簡潔で短い文書になっています。
[話し言葉で読める西郷南洲翁遺訓]はノンフィクション作家長尾剛氏が西郷隆
盛の言葉に込められた心情を押し量らって、西郷の別の談話や様々なエピソー
ドをベースにして現代風の読み物としてリニューアルしたものです。
今日お届けする[西郷南洲翁遺訓][三十二:偉人の条件]の最後に出てくる言
葉[人々の意表をついてアット世間を驚かせて、それが”偉業”だなど と思い込
んでいるとしたら、そうした仕掛けを造って悦に入っている者がいるとしたら、
それはとんでもない未熟者である]を[小泉構造改革]で日本社会を破壊した
小泉純一郎元首相と同じ[新自由主義者]橋下徹大阪市長に送りたい。
■ 長尾剛著[話し言葉で読める西郷南洲翁遺訓]より[三十二:偉人の条件]
人の道を志す者は、世間にチヤホヤされる”偉業や功績”の類を、世間と一緒に
なって無思慮に誉めるるということは、しないものです。
中には[偉業だ、功績だ]と言うても、ただ世間の耳目を驚かしたり人の下卑た
好奇心を満足させたりするためだけに、大げさにカネと手間を掛けて造 り上げ
た仕事も、あります。いや、むしろ、そうした類の仕事の法が、”偉業呼ばわり”
されている場合が、多い。
だがそうした仕事は、道を行うことに遠い存在です。
何となれば、そこには[人を驚かせてやろう]とか[こんなことをやれば上辺の
派手やかさに騙されて、人々は騒ぐだろう]とか、つまりは”人々を見 下した気
持ち”が仕掛けた者にきっとある。これは、謙虚におのれの心を磨くという[道
の心得]とは、あまりにかけ離れている。
道を志す者が尊ぶのは、結果ではない。心掛けです。
正義の心が根底にあるかないか、その点をのみを見定め、評価するのです。
[目に見える姿形がいかに大げさか、世間に大騒ぎされているか]などといっ
た”結果”は、重要ではないのです。
つまりは、
[何でもない日常、特別に大きな成果を生み出すわけでもない日々のふつうの営
みにあって、いかに正義の心得を忘れずにいるか]ーと、そこが大切な のです。
だから、道を行う気持ちは、何時いかなる所においても、忘れてはならない。誰
に見られていなくとも、その心得を常に抱いていることです。
宗の時代に生きた偉大な学者にして政治家の司馬温公は、こんな言葉を残してい
ます。
[私は、寝床で妻に語った言葉にも、他人に聞かれて恥ずかしく思う者は、あり
ません]と。
まさに、道を行う人の心得を述べたものでありましょう。
司馬温公の言う[聞かれても恥ずかしくない言葉]とは、見栄を張った偽りと
か、他人に対する悪口雑言とか、おのれの未熟さから生ずる恨みや妬みの 言葉
の事である。
道を常に志している者は、どのようなプライベートな場面においても、そんな言
葉は口にしないということです。
この心得をして[独り慎む]とも申します。司馬温公の教えは、まさにこれであ
る。孔子の教えにも、そうあります。
すなわち、[誰にも見られていない所にいても、慎みの気持ちを忘れず行動す
る]という心掛けである。
独りで休んでいる時は、気持ちが清々して、伸びやかになる。ゆったりとくつろ
いだ気分になる。でも、慎みの気持ちを持ち続けるのです。
つまり、くつろぎの中にあっても、酒を飲み過ぎぬとか、私利私欲の妄想をとど
めめなく膨らませるとか、自分で自分をセーブする気持ちを、忘れぬと いうこ
とです。
大切なのは、常日ごろの”何でもない暮らし”の中における心掛けです。
道を行うとは、その心掛けだけの問題なのです。だから、いわゆる”偉業”の類を
為したかどうかなど、全くどうでも良いことなのです。
ましてや、人々の意表をついてアット世間を驚かせて、それが”偉業”だなどと思
い込んでいるとしたら、そうした仕掛けを造って悦にいっている者が 入るとし
たら、それはとんでもない未熟者である。
くれぐれも、戒めるべし。
(引用終わり)
--
冊も残していません。[西郷南洲翁遺訓]は幕末の戊辰戦争で薩摩軍と戦った
庄内藩(言山形県)の元藩士たちが明治になって西郷隆盛との交流の中で彼が
語った言葉をまとめたものです。
西郷隆盛は決して多弁ではなくむしろ他人の話をよく聞く聞き手上手だと言わ
れていますので、[西郷南洲翁遺訓](岩波文庫)の原文本編四十一、追加分2
項目合計四十三項目は簡潔で短い文書になっています。
[話し言葉で読める西郷南洲翁遺訓]はノンフィクション作家長尾剛氏が西郷隆
盛の言葉に込められた心情を押し量らって、西郷の別の談話や様々なエピソー
ドをベースにして現代風の読み物としてリニューアルしたものです。
今日お届けする[西郷南洲翁遺訓][三十二:偉人の条件]の最後に出てくる言
葉[人々の意表をついてアット世間を驚かせて、それが”偉業”だなど と思い込
んでいるとしたら、そうした仕掛けを造って悦に入っている者がいるとしたら、
それはとんでもない未熟者である]を[小泉構造改革]で日本社会を破壊した
小泉純一郎元首相と同じ[新自由主義者]橋下徹大阪市長に送りたい。
■ 長尾剛著[話し言葉で読める西郷南洲翁遺訓]より[三十二:偉人の条件]
人の道を志す者は、世間にチヤホヤされる”偉業や功績”の類を、世間と一緒に
なって無思慮に誉めるるということは、しないものです。
中には[偉業だ、功績だ]と言うても、ただ世間の耳目を驚かしたり人の下卑た
好奇心を満足させたりするためだけに、大げさにカネと手間を掛けて造 り上げ
た仕事も、あります。いや、むしろ、そうした類の仕事の法が、”偉業呼ばわり”
されている場合が、多い。
だがそうした仕事は、道を行うことに遠い存在です。
何となれば、そこには[人を驚かせてやろう]とか[こんなことをやれば上辺の
派手やかさに騙されて、人々は騒ぐだろう]とか、つまりは”人々を見 下した気
持ち”が仕掛けた者にきっとある。これは、謙虚におのれの心を磨くという[道
の心得]とは、あまりにかけ離れている。
道を志す者が尊ぶのは、結果ではない。心掛けです。
正義の心が根底にあるかないか、その点をのみを見定め、評価するのです。
[目に見える姿形がいかに大げさか、世間に大騒ぎされているか]などといっ
た”結果”は、重要ではないのです。
つまりは、
[何でもない日常、特別に大きな成果を生み出すわけでもない日々のふつうの営
みにあって、いかに正義の心得を忘れずにいるか]ーと、そこが大切な のです。
だから、道を行う気持ちは、何時いかなる所においても、忘れてはならない。誰
に見られていなくとも、その心得を常に抱いていることです。
宗の時代に生きた偉大な学者にして政治家の司馬温公は、こんな言葉を残してい
ます。
[私は、寝床で妻に語った言葉にも、他人に聞かれて恥ずかしく思う者は、あり
ません]と。
まさに、道を行う人の心得を述べたものでありましょう。
司馬温公の言う[聞かれても恥ずかしくない言葉]とは、見栄を張った偽りと
か、他人に対する悪口雑言とか、おのれの未熟さから生ずる恨みや妬みの 言葉
の事である。
道を常に志している者は、どのようなプライベートな場面においても、そんな言
葉は口にしないということです。
この心得をして[独り慎む]とも申します。司馬温公の教えは、まさにこれであ
る。孔子の教えにも、そうあります。
すなわち、[誰にも見られていない所にいても、慎みの気持ちを忘れず行動す
る]という心掛けである。
独りで休んでいる時は、気持ちが清々して、伸びやかになる。ゆったりとくつろ
いだ気分になる。でも、慎みの気持ちを持ち続けるのです。
つまり、くつろぎの中にあっても、酒を飲み過ぎぬとか、私利私欲の妄想をとど
めめなく膨らませるとか、自分で自分をセーブする気持ちを、忘れぬと いうこ
とです。
大切なのは、常日ごろの”何でもない暮らし”の中における心掛けです。
道を行うとは、その心掛けだけの問題なのです。だから、いわゆる”偉業”の類を
為したかどうかなど、全くどうでも良いことなのです。
ましてや、人々の意表をついてアット世間を驚かせて、それが”偉業”だなどと思
い込んでいるとしたら、そうした仕掛けを造って悦にいっている者が 入るとし
たら、それはとんでもない未熟者である。
くれぐれも、戒めるべし。
(引用終わり)
--