親心、子心

教育に関わる様々な悩み、問題を親、子ども、両方の気持ちから寄り添って考えていきます。お悩み相談募集中。

学力

2015年03月29日 22時24分25秒 | 教育全般(非分類)
学力とは何か。

テストの点数が取れれば学力が高い。これも表し方の一つ。

…でも、「地頭がいい」とか、「頭の回転が早い」とか、ただテストの点数だけでない『頭の良さ』みたいなものがある。


…点数と並んで学力といえば、通知表(票)や通信表(票)の『5、4、3、2、1』が思い浮かぶ。

私が中学生の頃は、クラスや学年の中で5(7%)、4(24%)、3(38%)、2(24%)、1(7%)が必ず出るように決まっていた。
このためいろいろな欠点があったわけだけれど、今は必ずしもそうじゃなくなった。


…この辺の違いに触れていきながら、学力とはなにか、そして学力に関わる問題に迫っていきたい。


…その上でまず、『今の』中学校がどんな風に学力を表しているかというと、大体は4つの視点でとらえられている。

1つは『興味、関心、意欲』。2つ目が『技能、表現力』、3つ目が『思考力』、そして最後の4つ目が『知識、理解力』だ。


日本の中学校では、国社数理英の5教科に、体育音楽美術と技術・家庭の実技科目4教科をあわせた9教科を学んでいる。
国語は少し違うのだが、残り8教科は上の4つの視点を基本にして学力の評価をしている。


そして、この4つの視点の評価から、『評定』、つまりあの『5、4、3、2、1』が決まる。

この時、『5、4、3、2、1』に、決まった割合はない。なぜなら、学校が決めた基準のどこに当てはまるかで決まるようになっているからだ。


生徒の知識量がどれくらいあるかは分かりやすい。テストをすればいいから。

…しかし、生徒の『意欲』がどれくらいあるかは、なかなか評価が難しい。
それでも評価は決まり、評定が決まっていく。


ここに『学力』に関わる問題の一つ目がある。

大人のたしなみ

2015年03月25日 21時31分23秒 | 教育全般(非分類)
学校で、
生徒「こんにちは」
A先生「(スルー)」

生徒「(スルー)」
A先生「あいさつ!(怒)」


…なぜなのか。


生徒「こんにちは」
私「おっす」
生徒「(笑)」

生徒「おはようございます」
私「おやすみなさい」
生徒「(爆笑)」


…この程度のことだと思うんだけどな、あいさつさせるのって。


子どもは大人よく見ている。親が近所の方にすらあいさつせずにいれば、子どもも自然とそうなる。


それは、関心をもってもらえないことでもある。

だから私は、先にあいさつする。



生徒にあいさつさせたいと思ったなら、なおさら先にちょっかいを出す。

それでもあいさつを返さないのは、私を嫌っている一割に満たない子達くらいだ。(そういう子達にも様子をみる意味でよくちょっかいを出す。…ウザがられる…。orz…。)


自分からあいさつしないのに、生徒があいさつをしないことを嘆くだけでなく、『あいさつを強要する』先生の、なんと多いことか…。


何様のつもりなんだろうね。


学校の先生に限らず、『今の子ども達はあいさつもできない!』と、憤慨する大人もいるけど、どんなもんなんだろうね。


会社で義務づけられているあいさつ以外に、自発的にあいさつできる大人がどれだけいるもんか…。
子どもの方が、“よっぽど”立派だと思う。

卒業生に会った

2015年03月23日 19時51分49秒 | 学校
先日、3年前に私の学級だった生徒に会った。
高校を卒業することになり、就職するのだという。


その子は、学力的には低くて、公立の高校に進学できるとはとても思えなかった。それでも人としておもしろみのある子で、好きな人間の一人だった。


…彼らと卒業式の練習をしているとき、その子がふざけているのが目についた。


当時に私に、卒業式の練習でさえ、ふざけられる彼を受け入れられなかった。

怒鳴った私に反発する彼。卒業式のその日、周囲の皆が泣いている中でさえ、彼が涙を流していたかわからなかった。


それでも。


次に出会った高校の合格発表の日。


彼の合格を耳にしていた私は、心にしこりをもったまま、生徒玄関に現れた彼を抱きしめた。

「良かったな!!」

どこか空々しい気持ちがなかったわけではない。でも全身で、喜びを表現してみせた。


彼と久々に出会った先日。私を見かけ、通り過ぎることもできたろうに、わざわざ自分から近づいて、近況を報告してきにくれた彼。
彼に対する罪悪感があった分なおさら、『あの時、あの玄関で、意地を張らなくて良かった』と、心から思った。
多くの失敗をしてきた私だから、この出来事はこれから自分がやろうとしている教育を勇気づけてくれた。


子どもたちが大人になっていくとき、今まで自分の目の前にあった枠に、挑戦するときがある。
それを受け止め、愛をもって返すことができるかどうかが、教師としての力量なのだと思う。

子どもにとって必要な挑戦を、当たり前のようにさせられる余裕。これが教師に必要だと思う。



そして何よりも…。

愛された人間は、いずれ愛を返すようになるのだと、彼のおかげで自信をもつことができた。ありがとう。

自己実現、あるいは自己超越を目指す姿

2015年03月23日 19時29分12秒 | 教育全般(非分類)
全ての欲求が満たされたとき、人は何を目指すのか。
それが自己実現だ。


自分の目指す道を信じて、前に進む。これが人間らしい欲求だと思う。

「武士は食わねど高楊枝」

こんなことわざがあるけれど、「衣食足りて礼節を知る」の真逆になれるのは、全ての欲が満たされて、理性が欲に勝った状態だからだと思う。


マズローによると、承認欲求の段階が完全に満たされていなくても、この欲求をもつようになることもあるという。
一生懸命に人生に向き合っていると、ある時ふと道に迷うときがある。そんな時は、誰かの言葉に迷わされている時で、その人に認められたくて、迷ってしまっているのかもしれない。


…よく、中学校教育では、「自己実現を果たせ」と語られる。

中学生どころか小学生でも、大人や周囲に惑わされず、自分と向き合って、自分の道をまっすぐ進んでいる子もいる。
でもそれが教育の成果なのかはわからない。少なくとも、学校教育の力ではないように思う。

なぜなら中学校で行われている教育は、たいていの場合、「言うことをきくことを求める」教育だからだ。
大人の言うことをきくよう求めつつ、自分の意志を示せという。これでは矛盾にあふれている。



自己実現を果たすと、人は次に、そんな自分を越えたくなるらしい。

目標を達成するよう目指すだけでなく、その目標すら超えて、もっと高みを目指すようになるらしい。

今の自分に満足するのでなく、もっと、もっとと上昇することを目指すその姿は、確かに人間として理想の姿だと思う。



そんな人にあふれた社会。とてもすごいことになりそうじゃないか。

私はそんな、高みを目指す人々があふれていくよう、教育に関わりたいと思うのだ。

承認欲求段階

2015年03月22日 19時09分22秒 | 教育全般(非分類)
愛されている人間は、次に人に認めてもらいたくなる。
これがなかなかやっかいな感情だ。

どんなに悟っても、いつかむくむくとこの気持ちが出てくることがある。なかなか満たされない、やっかいな欲求だと思う。


子どもたちがこの感情に強くとらわれてしまうと、なかなかかわいそうなことになる。人に認められたくて、自分を見失ってしまうのだ。


多くのおとなしい、勉強のできる子どもたちが、親や教師や社会に認めてもらうために、ただひたすら言うことをきいて勉強に精を出した結果、人としておもしろみのない、指示待ち人間ができあがる。そんな不幸は、割とよくある話だと思う。


かくいう私自身がそうだ。

人に言われたことは、どれだけでも達成してみせるが、自分から何かを生み出すことができない。そんなジレンマに苦しみ続けた。

30を過ぎたころ、やっと「誰かに認めてほしい」という欲求から離れることができるようになってきたと思う。


それでも、今でさえ、そういう下心にさいなまれて、自分を見失いそうになることがある。



なぜ、誰かに認めてもらわなくてもすむようになってきたか。自分自身のやりたいことに目を向けられるようになってきたか。
それは、前に書いた、『ホーム』ができたからだと思う。
妻と子どもをもち、その家族に愛されている、なにがあっても彼らと一緒にいられれば大丈夫と思えるようになって初めて、できるようになったことだと思う。(それにさえ、数年をかけた。)


人に愛されていると信じられるようになって初めて、誰かに認められるために生きるのでなく、自分の信じる道を進めるようになった。

そういうことだと思う。


だからこそ、子どもたちに『愛を』と訴えたくなる。
そして同時に、『大人たちにも愛を』と、強く思われてくるのだ…。

愛・所属への欲求

2015年03月22日 18時40分18秒 | 教育全般(非分類)
いままでいくつか人間の欲求を記事にしたけど、ここからが本題だ。今の日本で起こる教育の問題、課題で、最も重要な要素だと思うのが、この愛・所属への欲求だ。



人間誰しも、誰かと関わっていたい。親に愛されたい、関心をもって欲しい、友達と一緒にいたい。
もう少し言えば、「自分が安心していられる居場所、ホームをもちたい」。要はこういう欲求だ。

どんなに苦しい状況があっても耐えられるのは、ホームがあるからだと思う。失敗しても、そこに帰ればいい。こんなに勇気づけられることはそうそうない。



…でも。

今の子どもたちに、そういうホームが見えなくなってしまっている。もしかすれば親でさえも、ホームがなくなってしまっているのかもしれない。


親が不安で仕方がないから、子どもも不安で仕方がない。

親は子どもに言うことをきけ、といい、子どもは見放されるのがこわいから、それにひたすら従うようになってしまった関係。
そこに、人としての成長はない。


本当は、思春期に親を乗り越えようとしたり、試したりするもんだけど、それすらできる元気がなくなってしまう。
それが、「親に愛されていない」と子どもが感じさせられてしまっていることの罪だ。


子どもは安心することができないから、勇気をもって成長することができない。その影響が日本全体に広がれば、『元気のない日本』を作ることにつながる。
…それはもう、すでにつくられているのかもしれない。


現場に立っていると、一時期にあった校内暴力や反抗的な態度は陰をひそめ、妙に大人っぽい、おとなしい子どもたちが増えた。
…それなのに社会問題になるのは、子どもの手で起こる悲惨な事件であったりする。


そうやって事件を起こしてしまった子たちに共通して報道されるのは、いびつな家庭環境。

誰かがその子に愛を与えていられたなら。彼や彼女が安心できるまで与え続けてあげられたなら。
事件は防ぐことができたと思う。


子どもを愛し、安心させてあげられなかったのは大人の責任だ。しかし同時に、それができなかった親たちの環境、状況にも同情する。

愛し続けるのは苦しい、愛が帰ってこなければなおさら…。だから親である人たちには忘れないでほしい。自分が愛されてきたんだと言うことを。そして、一瞬でもその子を望んだからこそ目の前に我が子がいるんだと。

それが親の最低限の責任だと思う。私は、それができないなら、親になるべきではないと、強く訴えたい。

安全への欲求

2015年03月20日 17時35分25秒 | 教育全般(非分類)
2002年。北九州で恐ろしい事件があった。家族親類、児童をも巻き込み行われた、監禁、殺人事件…。2011年に裁判がニュースでも取り上げられたあの事件だ。


この事件で強調されたのは、加害者のマインドコントロールがあったことだろう。
自身は手を下さずに、一人、また一人と、殺害、証拠隠滅を図っていく様は、まさに『事実は小説より奇なり』だ。


事件の詳しい内容は、痛ましく衝撃的なので、ここで記述することは避けたい。

代わりにいまここで書きたいのは、『なぜ』マインドコントロールが成立し得たかということだ。

…他の監禁事件や多くの虐待などにもおそらく共通するだろうことが、『安全への欲求』を利用していることなのだ。

「○○すれば、飯をやる」、「□□すれば、トイレに行かせてやる」そうやって、『言うことをききさえすれば安全だ。』そんな不思議な安堵感を与えることで、犯人の言いなりになってしまうのだろう。


微妙なさじ加減で命をたてに取られると、人はなかなか死を覚悟できないのだ。

名誉をたてに取られたり、暴力でおびやかされたりすれば、大人でさえ服従してしまう。
…まして幼い子どもが、身近な大人に服従を強いられたなら、それに従って小さくなってしまうことは想像するにたやすい。

子どもに言うことをきかせたい大人がいる限り虐待はなくならない。そしてだからこそ、せめて体罰はしてはならないのだと、私は思う。


純真無垢な赤ん坊が、生命の危機におびえ無表情になっていく…。
そんな様は一目だって見たくない。
それは少年であっても同様だ。


…だから今、手をあげそうになっている方がいたなら想像してみてほしい。
あなたが言うことをきかせたいその子が、本当に言うこと“しか”きかなくなった時のことを…。

そんな機械のような子どもを、あなたは望んでいるのだろうか。


そしてもう一つ想像してみてほしい。
自然で、豊かで愛らしい、その子の心からの笑顔を。

その笑顔をたくさん見せるために、その子が生まれてきたんじゃないのか。
その笑顔を見るために、その子を育ててきたんじゃないのか。

手をあげるより前に、まず愛を。
手をあげるのは、高い高いの時だけで、いいんじゃないかな、本当に。

高ぶった心がその子の笑顔で満たされますように…。

生理的欲求段階

2015年03月19日 22時54分33秒 | 教育全般(非分類)
記事の題名だけ入れて、後で書こうと思ってたら油断した。中身無いのにタイマーアップされちゃった、しかも二件も…。笑

大変失礼致しました。


さて本題…。


人間だれしも、しなきゃ生きられないことがある。

食うことと、出すこと。
あとはもちろん、呼吸すること。


意外とこれが、忘れさられている。

かつては日本にも、この一番基本的な欲がおびやかされる、そんな時があった。

例えば、羅生門。芥川の小説だけど、人を殺して平気でいるような、そんな昔話はいくらでも転がっている。場合によっては人を食っていたりもしている。


…こんな時、人は、自分の、他人の命を省みない。

だって、食わなきゃどうせ死ぬんだから…。


…今の日本人のほとんどに、こういう危機感はないと思う。
本当にすばらしい国だ。
だって世界中を見渡せば、今この時でさえ、苦しんでいる人々は、いくらでもいるんだから…。

…しかし、そんな苦しい時期が、ちょっと前の日本にも、確かにあった。
大きな戦争があって、それに伴って苦しい時期があったこと。これはけっして忘れてはいけないことだと思う。


それとはまた別に、自殺してしまう人々がいる。このすばらしい日本で暮らしているのに、本当に悲しいことだ。

おそらくちょっと先の未来に希望がないことが、読めてしまっているのだろう。


だからこそ教師として、せめて今の子どもたちに、どう生きるべきかを伝えたい。

だから大人としてせめて、今の子どもたちに希望ある社会を譲り渡せるようにしていきたい。そう強く思う…。

子どもをコントロールする

2015年03月19日 22時08分35秒 | 学校
子どもたちをどうコントロールするか。もっと言えば、どう言うことをきかせるか。

そんな話が、しばしば教育現場で語られる。

親御さんも、『言うこときかなければ、叩いてやってください!』なんて言ったりするもんだから、ますますどう言うことをきかせるか、それを考えるのに躍起になる。


かつての私もそうだった。
体罰をしたことがないのが自慢だけれど、教卓ぶっ倒して、恐怖でもって言うこときかせる研究していた。


…こう書くと、相当異常に感じるな。改めて見てそう思う。


子どもにも意志がある。子どもは大人の付属品ではない。
そう感じるようになったのは、いつだったろうか…。

…でも、そう考えることができるようになって、初めて教壇に立つ恐怖を感じなくなった。

だって、子ども一人一人が人間なんだもの。
大人と変わらず、それぞれに理屈をもって、生きているんだもの。

それを無理矢理言うこときかせようなんて、なんておこがましい考えだったか…。

もちろん子どもだから、判断に迷う時もある。間違いを犯す時もある。
それを受け止めて、支えたり、尊重したり、正したり、時には必死で止めたりするのが、教師の、もっと言えば大人の役割なんだと思う。

多くの子どもたちが、そういう大人たちと一緒に育っていける社会だったら、そういう日本だったら、心からすばらしい国だと、そう思う。
今の日本は、どんななんだろうか…。

教育の目標

2015年03月17日 20時46分10秒 | 教育全般(非分類)
マズローの欲求段階説という説がある。

教育分野では有名で、いくつかの段階に分かれている。

生理的欲求段階、安全への欲求段階、愛・所属への欲求段階、承認欲求段階、自己実現欲求段階。そして、マズローも証拠を集めきれなくて、発表することをあきらめた、自己超越欲求段階。

それぞれの欲求が満たされて初めて、次の欲求段階に進めるという。
承認欲求段階から先は、ある程度満たされれば次の欲求段階に進むことができるときもあるという。



そこにある『自己実現欲求』、あるいは彼が言おうとして言えなかった『自己超越欲求』これこそが、教育に関わる全ての人々が目標にすべきことだと思う。

私は教師で、学者ではない。書いていることはとっぴなことかもしれない。それでも…。

人に物を教える立場であるからこそ、自分を越える人間が育っていってほしいと、本気でそう思うのだ。

我が子を育てる親であるからこそ、自分を越える大物になってほしいと願うのだ。

屈折した子ども時代を過ごしてきたからこそ、『大人なんか越えてやる!』と、強い意志をもっているのだ。

きっとみんながどこかで私と同じ思いを感じるんじゃないだろうか。

それを共感できたとき、「じゃあ周りのみんななだって、僕(私、俺)と、同じように、もっともっと先を目指そう!」そうやって輪を広げたくなる思いに駆られるんじゃないだろうか。

私は誰かと向上したいと、そう思ったから、このブログをまとめ始めた。


…そしてより多くの人々に、今よりも『ちょっといい何かを求めるにはどうすれば良いか』、その答えだと思えるものを共有するために、今日もこうして記事を書いている。