親心、子心

教育に関わる様々な悩み、問題を親、子ども、両方の気持ちから寄り添って考えていきます。お悩み相談募集中。

承認欲求段階

2015年03月22日 19時09分22秒 | 教育全般(非分類)
愛されている人間は、次に人に認めてもらいたくなる。
これがなかなかやっかいな感情だ。

どんなに悟っても、いつかむくむくとこの気持ちが出てくることがある。なかなか満たされない、やっかいな欲求だと思う。


子どもたちがこの感情に強くとらわれてしまうと、なかなかかわいそうなことになる。人に認められたくて、自分を見失ってしまうのだ。


多くのおとなしい、勉強のできる子どもたちが、親や教師や社会に認めてもらうために、ただひたすら言うことをきいて勉強に精を出した結果、人としておもしろみのない、指示待ち人間ができあがる。そんな不幸は、割とよくある話だと思う。


かくいう私自身がそうだ。

人に言われたことは、どれだけでも達成してみせるが、自分から何かを生み出すことができない。そんなジレンマに苦しみ続けた。

30を過ぎたころ、やっと「誰かに認めてほしい」という欲求から離れることができるようになってきたと思う。


それでも、今でさえ、そういう下心にさいなまれて、自分を見失いそうになることがある。



なぜ、誰かに認めてもらわなくてもすむようになってきたか。自分自身のやりたいことに目を向けられるようになってきたか。
それは、前に書いた、『ホーム』ができたからだと思う。
妻と子どもをもち、その家族に愛されている、なにがあっても彼らと一緒にいられれば大丈夫と思えるようになって初めて、できるようになったことだと思う。(それにさえ、数年をかけた。)


人に愛されていると信じられるようになって初めて、誰かに認められるために生きるのでなく、自分の信じる道を進めるようになった。

そういうことだと思う。


だからこそ、子どもたちに『愛を』と訴えたくなる。
そして同時に、『大人たちにも愛を』と、強く思われてくるのだ…。

愛・所属への欲求

2015年03月22日 18時40分18秒 | 教育全般(非分類)
いままでいくつか人間の欲求を記事にしたけど、ここからが本題だ。今の日本で起こる教育の問題、課題で、最も重要な要素だと思うのが、この愛・所属への欲求だ。



人間誰しも、誰かと関わっていたい。親に愛されたい、関心をもって欲しい、友達と一緒にいたい。
もう少し言えば、「自分が安心していられる居場所、ホームをもちたい」。要はこういう欲求だ。

どんなに苦しい状況があっても耐えられるのは、ホームがあるからだと思う。失敗しても、そこに帰ればいい。こんなに勇気づけられることはそうそうない。



…でも。

今の子どもたちに、そういうホームが見えなくなってしまっている。もしかすれば親でさえも、ホームがなくなってしまっているのかもしれない。


親が不安で仕方がないから、子どもも不安で仕方がない。

親は子どもに言うことをきけ、といい、子どもは見放されるのがこわいから、それにひたすら従うようになってしまった関係。
そこに、人としての成長はない。


本当は、思春期に親を乗り越えようとしたり、試したりするもんだけど、それすらできる元気がなくなってしまう。
それが、「親に愛されていない」と子どもが感じさせられてしまっていることの罪だ。


子どもは安心することができないから、勇気をもって成長することができない。その影響が日本全体に広がれば、『元気のない日本』を作ることにつながる。
…それはもう、すでにつくられているのかもしれない。


現場に立っていると、一時期にあった校内暴力や反抗的な態度は陰をひそめ、妙に大人っぽい、おとなしい子どもたちが増えた。
…それなのに社会問題になるのは、子どもの手で起こる悲惨な事件であったりする。


そうやって事件を起こしてしまった子たちに共通して報道されるのは、いびつな家庭環境。

誰かがその子に愛を与えていられたなら。彼や彼女が安心できるまで与え続けてあげられたなら。
事件は防ぐことができたと思う。


子どもを愛し、安心させてあげられなかったのは大人の責任だ。しかし同時に、それができなかった親たちの環境、状況にも同情する。

愛し続けるのは苦しい、愛が帰ってこなければなおさら…。だから親である人たちには忘れないでほしい。自分が愛されてきたんだと言うことを。そして、一瞬でもその子を望んだからこそ目の前に我が子がいるんだと。

それが親の最低限の責任だと思う。私は、それができないなら、親になるべきではないと、強く訴えたい。