愛されている人間は、次に人に認めてもらいたくなる。
これがなかなかやっかいな感情だ。
どんなに悟っても、いつかむくむくとこの気持ちが出てくることがある。なかなか満たされない、やっかいな欲求だと思う。
子どもたちがこの感情に強くとらわれてしまうと、なかなかかわいそうなことになる。人に認められたくて、自分を見失ってしまうのだ。
多くのおとなしい、勉強のできる子どもたちが、親や教師や社会に認めてもらうために、ただひたすら言うことをきいて勉強に精を出した結果、人としておもしろみのない、指示待ち人間ができあがる。そんな不幸は、割とよくある話だと思う。
かくいう私自身がそうだ。
人に言われたことは、どれだけでも達成してみせるが、自分から何かを生み出すことができない。そんなジレンマに苦しみ続けた。
30を過ぎたころ、やっと「誰かに認めてほしい」という欲求から離れることができるようになってきたと思う。
それでも、今でさえ、そういう下心にさいなまれて、自分を見失いそうになることがある。
なぜ、誰かに認めてもらわなくてもすむようになってきたか。自分自身のやりたいことに目を向けられるようになってきたか。
それは、前に書いた、『ホーム』ができたからだと思う。
妻と子どもをもち、その家族に愛されている、なにがあっても彼らと一緒にいられれば大丈夫と思えるようになって初めて、できるようになったことだと思う。(それにさえ、数年をかけた。)
人に愛されていると信じられるようになって初めて、誰かに認められるために生きるのでなく、自分の信じる道を進めるようになった。
そういうことだと思う。
だからこそ、子どもたちに『愛を』と訴えたくなる。
そして同時に、『大人たちにも愛を』と、強く思われてくるのだ…。
これがなかなかやっかいな感情だ。
どんなに悟っても、いつかむくむくとこの気持ちが出てくることがある。なかなか満たされない、やっかいな欲求だと思う。
子どもたちがこの感情に強くとらわれてしまうと、なかなかかわいそうなことになる。人に認められたくて、自分を見失ってしまうのだ。
多くのおとなしい、勉強のできる子どもたちが、親や教師や社会に認めてもらうために、ただひたすら言うことをきいて勉強に精を出した結果、人としておもしろみのない、指示待ち人間ができあがる。そんな不幸は、割とよくある話だと思う。
かくいう私自身がそうだ。
人に言われたことは、どれだけでも達成してみせるが、自分から何かを生み出すことができない。そんなジレンマに苦しみ続けた。
30を過ぎたころ、やっと「誰かに認めてほしい」という欲求から離れることができるようになってきたと思う。
それでも、今でさえ、そういう下心にさいなまれて、自分を見失いそうになることがある。
なぜ、誰かに認めてもらわなくてもすむようになってきたか。自分自身のやりたいことに目を向けられるようになってきたか。
それは、前に書いた、『ホーム』ができたからだと思う。
妻と子どもをもち、その家族に愛されている、なにがあっても彼らと一緒にいられれば大丈夫と思えるようになって初めて、できるようになったことだと思う。(それにさえ、数年をかけた。)
人に愛されていると信じられるようになって初めて、誰かに認められるために生きるのでなく、自分の信じる道を進めるようになった。
そういうことだと思う。
だからこそ、子どもたちに『愛を』と訴えたくなる。
そして同時に、『大人たちにも愛を』と、強く思われてくるのだ…。