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教育基本法 ~第三条「教育の機会均等」~(長文)

2006年03月15日 23時36分15秒 | 過去~徒然から~
この記事はこちらの続きの記事となります。まずは条文をご覧になってからお楽しみ下さい。

さて今度は第三条「教育の機会均等」についてです。
この部分、以前から触れているように政府による無視がものすごく進んでいます。
素直に読めば『どんな国民でも』その能力に応じた教育を受けることができると読むことができるんですが…。

…例えばこんな子が居たとしましょう。

Aちゃんは、1歳になる前、両親の転勤でイラクから日本にやって来たイラク人です。
…3歳の時の事です。かわいそうなことに両親と一緒に新宿のコマ劇場へ来たときに事件に巻き込まれ、両親を失ってしまいました。

それを、歌舞伎町に住み、ある仕事をしていた人が里親として引き取り、育てられることになります。日々泣いてすごしていたAちゃんも、だんだんとその里親に慣れ次第に里親の仕事を継ごうと考え始めます。

しかし、再びAちゃんを悲劇がおそいます…。
Aちゃんの里親が、捕まってしまったのです。

罪名は、覚せい剤取締法違反。
彼女は再び親を失うことになります。
…彼女が6歳になったばかりのことでした…。

…実際こういうケースがありえるか考証は避けますがここで道が分かれます。

…彼女は人種(イラク人)としても、信条(宗教や、将来の夢など)、あるいは社会的身分(里親が犯罪者)に経済的地位(里親の収入なし)、門地(歓楽街)にいたるまで、一般的でない境遇にあります。

もし第三条第一項がなかった場合、彼女は一体どうなるでしょうか?

教育を受ける機会すら与えられず、文字を書くことも、計算することもできず暮らしていくことになるでしょう。
そして場合によっては犯罪に走ることもあるかもしれません…。

また、第二項(勿論生活保護とかがついてこその話ではありますが)があることにより、彼女は教育を受けることができ、その大きな可能性を試すことができるかも知れないのです。

勿論、教育を受けたからといって、すべての人間の能力が発揮されるわけではありませんし、教育を受けていて犯罪に走る人もたくさんいます。

…しかし、教育を受けないことによる貧困の拡大、犯罪の増加など、ちょっと世界に目を向ければいくらでも見つけることができます。

前回も触れましたが『格差社会』になろうとしている日本、そして崩れつつある教育の機会均等。
これらがあいまって、更なる犯罪数の増加、低年齢化、…そういったものがどんどん進んでいく可能性はいくらでもあるのです。

以前、小泉さんが「米百俵の精神で」とか言ってました。
不況を脱するために耐えましょう、みたいな感じで…。

あれを聞いたとき私は怒りを覚えました。
なぜなら、「米百俵の話」は、幕末期のある藩で国から財政援助として受けた米を一体何に使うか、それこそ死ぬ思いで考え、『ただ無為にこの米を使うより、将来の発展に賭けよう!』という意思の元『教育にすべてをつぎ込み』、見事藩財政を復活させた話なのです。

その当時、国立大学法人法、日本育英会の廃止などが議題に上がっていたのです。そしてそれは実現されました。これのどこが『米百俵の精神』なのでしょうか?
方や、今はひたすら耐える時と「教育により」財政を立て直し、方や「教育」を切り捨て、『弱者』も切り捨て、ない者の財布から『絞りださせて(株取引など)』回復してきた経済。

どちらがより健全で、より継続的に発展する可能性があるでしょうか?

教育という可能性は国民一人一人の可能性だけでなく、国や社会といったものの可能性すら左右するのです。
それを支えているこの教基法第三条、政府与党はどう変えようとしているかというと、

『国民は、能力に応じた教育を受ける機会を与えられ、人種、信条、性別等によって差別されないこと。国・地方公共団体は、奨学に関する施策を講じること。』

…だそうです。
一項の部分にあった、「社会的身分、経済的地位又は門地」が抜けています。金を持たない者、犯罪者の子ども、出身者などは教育を受けなくて良いという考えのようです。
勿論ここまで極論する必要はないかも知れませんが、受け取ろうと思えば『そこまで考えられる』のです。

仮に日本に社会身分、経済格差、門地による差別が「全くなくなった」としても、『必要ないから消せばいい』という程度のものでなく、『いつそういったことが起こってもいいように』なくすべきでないと考えるのが筋だと思います。
特に『教育基本法』という、『基本』をうたった法であるならば。

…それでも「『等』という言葉に含まれているんだ!」という人がいるかもしれません。
…ならば、なぜ原文に『等を加えない』のでしょうか?
理解に苦しみます。

そして第二項に当たる部分は、ただ『奨学に関する施策』をすればよいとなっています。奨学とは『学問を奨励すること』ですから、「勉強しなさいよ~」って言ってればいいわけです。

しかし、以前記事にもしましたが、今は『就学援助』を受ける子どもがどんどん増えてます。
そんな状況で『勉強しなさいよ~』、『学校いきなさいよ~』なんて言っても、

『(経済的理由により)学校に行けない子ども』

…は、いけるわけがないでしょう。

戦前の人買とか丁稚奉公とか、そういう時代に戻したいんでしょうか、政府与党は。
明治時代、如何に就学人数を増やそうとしたか、そのために給食制度まで作った当時の政府の意思を『完全に無視』していますね。

万歩譲って、『不登校』なども含めて配慮しているからなんだとしても、やはり一項と同様、『持たざるものに対する配慮』がかけているようにしか思えません。

…ということでまとめです。
第三条「教育の機会均等」に関しては、あえて加えるとして第一項の差別されえる事由に『等』という言葉を加えること以外、やはり二条までと同様、その条文を『しっかりと活かす』べきだと考えます。
同時に政府与党案は、『持たざるもの』を切り捨てようとする案と考えられ、賛成できません。

私はこう考えました。皆さんはいかがですか?