山野ゆきよしメルマガ

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八田與一の旅その2

2005年06月19日 | Weblog
 20世紀アジア最大の政治家李登輝氏にお会いした後、空路、台南に入り、八田與一が作った烏山頭ダムを管理する嘉南農田水利会主催による晩餐会にご招待いただいた。

 李登輝友の会全国総会長の黄崑虎氏、国策顧問の呉天素氏等々、通常ならとてもお会いできないような方たちとも、懇談の場をいただく。
 このご縁も全て、八田與一の名声によるものである。なにより、彼らにとって、八田與一は神様のような存在であり、八田與一と郷里が同じというだけで、大変な歓待振りである。

 実は、今回の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」一行に、八田與一のご長男の八田晃夫氏と奥様が、現在お住まいの春日井市から合流されている。なおさらのこと、現地の方たちは、「ご一行様」として大切にしてくれたのであろう。

 翌7日、午前中、台南市内にある水利会を表敬訪問。

 私は、そこの資料室で、八田與一が残した様々な資料に目を通す機会をいただいた。改めて、紹介できる機会もあるかもしれない。

 その後、ABS樹脂生産で世界一を誇る台湾の奇美実業グループ許文龍氏の会社が所有する、「奇美博物館別館」にお伺いする。残念ながら、本館の方は、工事中ということでお伺いできなかったが、別館だけで、その蒐集の品の良さは十分窺い知れる。

 広大な台南サイエンスパーク内に点在する、奇美実業グループの社屋をバスで見て回った後、社員食堂で夕食。正面に用意された舞台には、バイオリンのケースと、何かを覆っているであろう黄色い生地がかけられた台座が一つ。

 そこに、許文龍氏が静かに現れた。

 食事の後、許氏は、舞台端にある、黄色い生地が掛かった台座の傍らに行き、その生地をめくりながら、静かな口調で話しを始められた。

 その生地の中には、一人の日本人の胸像があった。

 浜野弥四郎の胸像である。

 日本の統治前、亜熱帯の台湾にはマラリアやペストなど様々な風土病が存在し、街頭にはゴミが堆積し汚水があふれていた。洪水があれば、汚水・汚物までをも含んだ水が街道を覆った。そのため、先の伝染病などが蔓延し、平均寿命は30歳前後であったといわれている。

 日清戦争後、日本の統治領となった台湾。その民生局長となった後藤新平は、イギリス人衛生技師で当時東京帝大の講師であったウィリアム・バルトンを台湾に呼び、衛生土木監督に任命。バルトンは一番弟子の浜野弥四郎とともに、3年かけて台湾各地をまわり、上下水道の設計と水源地調査を行った。

 バルトンは淡水と基隆の水道を完成させたところで、マラリアに感染し、東京に戻ったが、そのまま治癒することなく死去してしまった。そこで浜野がその事業を受け継ぎ、23年もの長い年月をかけて完成させた。

 バルトンと浜野が建設した上下水道は鉄筋コンクリート製で、何と信じられないことに、本土の東京や名古屋に先んじて建設されている。これで台湾の衛生環境は一気に改善され、マラリアやペストなどの根絶の一翼を担った。

 その浜野の後輩として、浜野の手伝いをしたのが、八田與一である。先にあげた新渡戸稲造もバルトンも、全ては、後藤新平から始まっている。後藤新平については、一度、しっかりと取り上げたい。

 許氏は、台湾の下水道の歴史にバルトンの名は刻まれてはいるが、浜野弥四郎のことはほとんど触れられていないということに、以前から気になっておられたという。また、以前、台南県山上郷浄水場に建てられた浜野の銅像も、戦後の混乱の中、紛失してしまっているということを知り、浜野弥四郎の胸像を関係各方面に寄贈することを思い立ったという。尚、以前建てられていたという浜野の銅像には、「友人一同贈」と書かれていたが、許氏が色々と関係者に確認すると、どうやらそれは、八田與一からの寄贈であったという。そのことも、許氏が胸像寄贈を思い立った理由であった。

 趣味とはいえ、相当な腕前の油絵をたしなむ許氏。
 「デッサンから彫刻までを、私一人で行いました。私の第一号彫刻作品です」
 一同、和やかな雰囲気に包まれた。

 その後、許氏手製による歌集「懐かしき若き日の歌」が、私たちに配られた。日本の懐かしい童謡・唱歌が掲載されている。私たちのリクエストにあわせ、許氏が、何人かの社員さんたちとともに、時にはバイオリンをひき、また、時にはギターを爪弾きながら、一同、楽しいひとときを過ごした。

 八田晃夫氏も大好きな軍艦マーチを歌われ、「私は海軍なので、ここのところの歌詞はこうだ」と、海軍式の歌詞も教えていただいた。

 すべての演奏を終えると、八田晃夫氏は、許氏に抱きつき、「会いたかった。本当に会いたかった」と泣きながら叫んだ。許氏が、来年もまた来てくださいというと、晃夫氏は、「私はもう年だから、来られない」
 傍らにおられた奥様が、静かに、来年もきますとおこたえになられた。
 大変、印象的な光景であった。

 八田與一のご子息である晃夫氏には及ばないまでも、心打たれ、涙しない者はいなかったのではないだろうか。