山野ゆきよしメルマガ

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「再び 八田與一の旅~「奥の細道」の旅~」

2009年05月16日 | Weblog
 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

 上記有名な序文から始まる松尾芭蕉の「奥の細道」。320年前の今日5月16日は、芭蕉が、この「奥の細道」の第一歩を踏み出した、まさにその日である。

 その「奥の細道」で芭蕉が歩いた道をたどることを長年の夢としてきた一人が、台湾元総統の李登輝氏である。李登輝氏は2007年5月に日本を訪問し、その際、深川から千住、日光、松島、平泉、山寺、象潟へと、芭蕉の足跡をたどった。そして、芭蕉がその旅をスタートさせてから320年後の同じこの5月に、再び李登輝氏は、前回歩むことができなかった「奥の細道」の後半部分を訪れる予定であった。

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 さて、私も世話人の一人に名を連ねている「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」では、毎年5月8日、台湾の烏山頭ダムのほとりに眠る八田與一技師の墓前において行われている、墓前祭に参列している。

 その際、八田技師を心より尊敬されている李登輝氏にも、毎年、表敬訪問をさせていただいている

 特に昨年は、私たちからは、当初、昨年秋にも予定されていた「奥の細道」後半部の旅の際立ち寄られる金沢において、若い学生さんを対象にした講演を依頼させていただいた。
 これは、従前より、李登輝氏は日本の若い人たちに、日本人の誇りについて話しをしたいと述べられていたことを忖度した上でのことであることは言うまでもない。その場で、発言の機会を与えていただいた私は、講演をお願いした上にさらに僭越ですが、その内容は、金沢の偉人八田與一技師を引き合いに出していただいていた、あの、慶応大学での幻の講演「日本人の精神」でお願いできないかと述べさせていただいた。

 李登輝氏は、その場で、快く引き受けていただき、「友好の会」一同、快哉を叫びながら金沢への帰路についたものである。

 ところが、残念ながら、その後、李登輝氏は体調がすぐれず、その年の秋の来日は延期となり、この5月に日程が改められた。

 年も改まった2009年。
 つい先般行われた、今年5月8日八田技師の墓前祭。私たち「友好の会」の台湾訪問日程には、当然のごとく李登輝氏への表敬訪問も予定に組み込まれていた。
 尚、今年の金沢からの墓前祭参列の一行は格別なものであった。八田技師の母校金沢市立花園小学校6年生の児童18名も含まれていたからだ。

 花園小学校では、数年前に、母校の先輩偉人八田技師を顕彰する歌「あぁ フォルモサ  ダムの父」が作られた。昨年は、八田技師をモデルにした映画「パッテンライ!!」が製作上映され、そのテーマソングとしてこの歌が選ばれた。その勢いのまま、今年の墓前祭では、八田技師の墓前にて、子供たちがこの歌を披露することにまでなった。なんとも、光栄なことだ!さらに嬉しいことに、子供たちは、八田技師を尊敬してやまないという李登輝氏の前でも歌うという、私たちの手がすっかり届かない程大きな話にまでなってしまった。

 勇躍台湾に乗り込んでいくことになる子供たちも、さすがに、李登輝氏の前で歌うことには、相当な緊張を強いられたことであろう。

 ところが、残念なことに、本当に残念なことに、李登輝氏はその数日前から軽い肺炎をこじらせてしまう。結果、私たち「友好の会」も花園小の子供たちも、李登輝氏との面談はかなわなかった。子供たちも残念であったろうが、李登輝氏も、本当にこの機会を惜しんでおられたことと思われる。

090507李登輝秘書小栗山氏 李登輝氏秘書小栗山雪枝さんに、李登輝氏の回復を祈り、子供たちが作った千羽鶴を手渡した。


 さらに、李登輝氏にとっても私たちにとっても、大変残念なことに、体調回復が思わしくなく5月下旬に予定されていた、来日及び「奥の細道」踏破を、再び延期せざるを得ない旨の連絡が、つい先般寄せられた。

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 『私は、「奥の細道」を歩いた後、俳句のわび、さびについての研究をし、「さびの構造」についての著作をまとめたい』

 5年前李登輝氏から直接お聞きした言葉である。一日も早く、その日が来ることを心待ちにしたい。

 実は、私たちは墓前祭のたびに、毎回、李登輝氏と許文龍氏という、台湾の日本語世代を代表する偉人お二人とお会いさせていただいている。お二人とも、心から八田技師を尊敬されている、台湾を代表する知識人でもある。

 今回の墓前祭参列の旅においても、当然、お二人ともにお会いさせていただく予定であったが、お二人とも体調をくずされてお会いできなかった。そんなことは、初めてのことであった。

 さすがに考えさせられた。時代の流れ、時代の節目といえようか。八田技師を顕彰する活動は、いつまでも、大先輩たちにばかり頼っていてはいけないのではないか。まさに、私のような年代の者が、これまで以上にしっかりしなければいけない、ということを静かに教えていただいたような気がした。

 ということも踏まえ、今回の八田技師墓前祭参列の報告文を、次回、少しまとめてみたい。題して、「再び 八田與一の旅」。・・・・でも一ヶ月くらいかかるかな?