山野ゆきよしメルマガ

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高峰譲吉にみる日本人、金沢人

2005年04月07日 | Weblog
 今年の2月、日本の製薬業界では第二位の三共と、同第六位の第一製薬の経営統合が発表された。報道によると、今年10月に持ち株会社が設立されるという。
 ところが、最近のいくつかのビジネス誌を読んでいると、統合のメリットが見えにくく、実際、その後の双方の株価も低迷し、破談説さえ出ているという。
 私は、どちらの株を持っているわけでもないし、経営統合そのものには、さして関心を持っているというわけではない。しかし、「三共」という社名を聞くと、全く無関心でいられない金沢人は、決して私一人だけではないであろう。

 結論から言う。
 あまり知られてはいないが、三共株式会社の初代社長は、金沢の誇るべき偉人、高峰譲吉その人であるからだ。
 高峰譲吉については、「タカジアスターゼ」及び「アドレナリン」という名とともにあまりにも有名であるので、以下、あまり知られていないことを中心に、簡単に触れる。

―――――

 譲吉は、1854年、ペリーの黒船来航の翌年、現在の富山県高岡市で、町医者高峰精一の長男として生まれた。翌年、父が加賀藩主前田斉康の御典医となったため、金沢市の堤町に移り、そこで育った。

 譲吉にとって、大きな転機となったのは、11歳の夏に訪れた、藩派遣による長崎留学であろう。この長崎留学で譲吉は「世界」に対しての目が開かれたといえる。

 留学生となった加賀藩の少年たちは、二三人ずつ別れて、それぞれ長崎在住の外国人家庭に預けられた。譲吉が寄宿したのは、英国商人オルトの居宅である。
 ある日、オルトと譲吉との間で、地球儀を挟んで、次のような会話があった。

 「ジョーキチ、英国も日本と変わらないくらい小さい。それなのに、英国は世界の富を手に入れている。同じように小さい国なのに、なぜ、英国と日本とはこれだけ違うと思うか」
 「軍艦と大砲です」
 「確かに、軍艦も大砲も今の日本にはない。英国との大きな違いだ。しかし、大切なのは、軍艦や大砲を作り出した『力』だ。その『力』を科学という。その『力』が今の日本にはない。あなたが、今長崎で勉強しているのは、将来、日本に新しい『力』を作り出すためなのだ」

 その後、京都、大阪と留学を重ねた譲吉は、自分の将来を、高峰家代々続く医学ではなく、化学の道へ進もうと決心した。当然、両親は、猛反対である。

 もちろん、譲吉自身も、医学に進むべきか化学に進むべきか大いに悩んでいた。両親が、これまで留学を許してくれていたのも、自分が医学の道に進むことを前提にした上でのことであるということも、十分承知している。
 一方では、その留学先において、先にあげた、オルトとの会話もある。また、大阪で学んでいる時に、分析学の教授から、「化学とは、生命そのものを研究する学問です。生命を育てる学問です」と言われた言葉も脳裡から離れない。

 さらに、譲吉が自分の将来の進路を決定する際に、大きな影響を与えたのは、加賀藩最大の難と言われた「安政の泣き一揆」である。

 安政五年、凶作のため米不足で苦しんでいた町民たちが、金沢の街の北東にある卯辰山に登り、そこから金沢のまちなかに向かって、「ひもじいわいやぁ~」「米くれぇ~」と、二日間にわたり、涙ながらに訴えた。

 当時、三歳に過ぎなかった譲吉ではあるが、父の背にしがみつきながらも、その光景を凝視した。松明を振りかざしながら、幽鬼のように泣き叫ぶ人々。その数2000名ともいわれる、善男善女の魂魄ともいえる姿。
 父精一は、恐さに震えながら、背にしがみつく我が子に言った。
 「医術の前に、貧富の差はない。おまえは大きゅうなったら、今夜のような人たちを救える医者になれ」

 譲吉は、長崎でも京・大阪においても、あの山から泣き叫んでいた多くの人々をどうしたら救えるのか、そのことばかりを考えていた。医者は一人一人の人間しか救えない。どうしたら、2000人もの人を一度に救えるのか。
 それは化学であるというのが、留学先において出した、譲吉の結論であった。

 先を急ぐ。
 その後、さらなる3年間の英国留学を終えた譲吉は、渋沢栄一や三井物産創始者の益田孝と協力し、1887年、日本で最初の人造肥料会社、東京人造肥料会社(現日産化学)を設立した。
 
 それは、譲吉の心底には、あの「泣き一揆」で飢えに苦しむ人々を救う為に、科学者として、具体的な試みを行いたいという思いがあったに違いない。

 益田孝の著作(「日本農界の恩人-早く燐素肥料に目をつけた高峰博士の卓見-」)の中にも、当時の譲吉の次のような言葉が残されている。

 「日本の農業で一番大切なのは、燐素肥料を使用することである。そして、燐素肥料を安く売ることである。現在、大農主義だとか、機械を使用せよだとかいう事は、むしろ空論で、私としてはせめて現在の日本へ、燐素肥料を使用せよとのことを第一に叫びたい」

 社会制度としての農業の近代化とは、一般的に、戦後の農地解放を指すが、作物を作り育て、豊富に収穫するという意味では、まさに、この事業を持って、農業の近代化の嚆矢といえるのではないだろうか。
 
 さらに、譲吉は、その人造肥料のかたわら、工場の一隅に十畳ほどの小さな研究所を設け、これまで手がけてきた、麹、藍、紙といった研究を続けた。そこで譲吉は清酒醸造に不可欠な麹(こうじ)の改良を行い、発酵カが極めて高い元麹(もとこうじ)を創製。「高峰式元麹改良法」の特許を申請した。

 余談ではあるが、あまり触れられることはないが、実は、譲吉の才覚優れた点は、この特許というものの重要性に一早く目をつけた点である。
 これは、やはり、留学中に特許の重要性に気付いていたことと同時に、初代特許局長である高橋是清に請われて、特許局次長として実務に直接携わったことが大きく影響している。
 このことが、これから後の米国移住に繋がり、ひいては、タカジアスターゼ、アドレナリンによる成功への道へと導かれるのである。
 日本ではあまり、このことが触れられないのは、特許に目敏いというのは、何となく商魂逞しいイメージが強く、学者・偉人としては、必ずしもプラスの印象がしないからかもしれない。

 また、譲吉死後、明らかにされた遺言状や各種資料などを見ると、彼は、特許だけなく、あらゆる資産に対して繊細な神経をもって接していたことがよく分る。確かに、よく知ると、少々、辟易する部分もあるが、それくらいでないと、この時代、海外で東洋人が成功することはできなかったのであろう。

 とにかく、「高峰式元麹改良法」の特許が、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカで行われたことによって、譲吉の成功に道が開かれていったことは間違いないのである。

 この「高峰式元麹改良法」に目をつけたのは、アメリカのウイスキー業者、ウイスキー・トラスト社である。様々な経緯がありながらも、当然、アメリカでの特許を知り、早速、譲吉にアメリカヘの招聘を申し入れてきた。譲吉もそれを受け入れ、アメリカに移住することになるのだが、そこで一つの問題があった。

 譲吉が中心になって創った、東京人造肥料会社のことである。譲吉は、早速、渋沢栄一、益田孝にその旨相談した。
 渋沢は、この時のことを、後年、次のように述懐している。「私はその時に、大いに博士(高峰譲吉)に不平を言いました。(中略)この成功を見る前に去るということは、はなはだ信義を欠いた訳ではないかと申して、或は、抑留せむと欲したことがしばしばであります」

 一方、益田孝は譲吉を支持した。「日本人の発明を、米国の会社が実用化しようなどという話は、未だかつてなかったことだ」
 それはそうであろう。これは、1890年の話である。日本が世界史の中において、ようやく認識されるのは、日清戦争(1894~5年)勝利以降である。

 しかし、どちらも、これからの日本の国際的地位向上という点では一致し、最後は、譲吉のアメリカ行きに、大いに賛意を示している。

 結果として、譲吉のアメリカにおける、その事業そのものは失敗するのだが、その後、失意の中ではあったが、譲吉はウイスキー造りの経験からヒントを得て、モルトからデンプンを分解する酵素(ジアスターゼ)を取り出し、消化を助ける薬を作り出した。譲吉の取り出した消化酵素は「タカジアスターゼ」と命名された。「タカ」は高峰の「高」とよく誤解されるが、ギリシャ語の「最高」「優秀」という意味である。

 1897年、デトロイトに本社をおくパーク・デービス製薬会社から、タカジアスターゼの全世界の「独占販売権」を買いたいとの申し出があり、譲吉は一つだけ条件をつけて申し出を受け入れた。その条件とは、「日本における販売権だけは除外して欲しい」というものであった。日本だけは日本の会社にまかせたいという強い思いからである。

 そして、日本でこの薬を販売しようと決心したのが、横浜にいた21歳の塩原又策という若者である。
 彼こそが、後に、友人と合わせて三人で「三共」という製薬会社を設立し、また、株式会社にするにあたり、初代社長として譲吉を招請することになる人物である。
 タカジアスターゼを主成分とする「新三共胃腸薬」は、今に至るまで、三共の主力商品、否、日本の主要な胃腸薬である。

 その後、副腎から生理活性物質の結晶化に成功してアドレナリンと命名したことは、あまりにも有名であるが、詳細は、ここでは述べない。

 一つだけ。
 譲吉の死後に、アメリカの化学者エイベルは、譲吉の研究は自分の盗作であると主張した。アドレナリン発表寸前に、譲吉がエイベルの研究室を訪問した事実を盾に取った主張であった。これは、譲吉がこのアドレナリンを発表後、速やかに米国特許に申請し、商標登録さえもした事が、米国学会に強い拒否反応を与えたとも言われている。
 先に述べたように、譲吉は、学者ではあるが、特許の重要性を十分認識していた。その迅速な行動が誤解を生んだともいえる。しかし、この速やかな行為がなければ、アドレナリン発見は譲吉及びその助手で、共同研究者ともいえる上中啓三の功績とされなかったかもしれない。

 幸い、その後の研究で、エイベルの方法ではアドレナリン作用を有する物質は結晶化することができなかったという事実、また、上中啓三の実験記録ノートの記述により、エイベルの主張が誤りだった事が確実になっている。それにも拘わらず、米国では、現在でもエイベルの名付けた、「エピネフリン」が正式名として使われている。
 そして、なんと信じられないことに、日本でも生物学の分野ではアドレナリンと呼んでいるのに対して、医薬品の正式名称を定める日本薬局方ではエピネフリンと呼んでいる。ヨーロッパでは、アドレナリンと呼ばれているのにである。
 譲吉のみならず、当時の、海外で雄飛した日本人たちはみな草葉の陰で涙しているのではないか。

 さて、私が今回、高峰譲吉を取り上げたのは、郷土の偉人たる世界的化学者としてだけではない。譲吉が、終始一貫してとってきた、自国を愛し、そのために最大限の努力を惜しまないという、この時代の典型的な日本人の一人としての行動を知り、深い感銘を覚えたからである。

 以下、述べていく。

 1904年、日本はロシアとの開戦を決意し、日露戦争が始まった。
 日本は開戦当初から、アメリカによる早期講話を期待し、ハーバード大学時代に、ルーズベルト米大統領と親交のあった金子堅太郎を派遣することになった。
 金子は、渋沢栄一からも高橋是清からも、アメリカに行ったら、真っ先に譲吉に会うように勧められた。金子も、藁にもすがる思いである。
 譲吉は金子に、ロシアが独立戦争や南北戦争でアメリカを援助してくれたことから、米国民の8割はロシアに好意を持っていることを話し、難しい使命だと語った。しかし、祖国のために死力を尽くそうと誓い合った。

 その3日後、つまり、日露戦争開戦の18日後である、1904年2月28日の「ニューヨーク・プレス」紙の日曜版が市民を驚かせた。
 「日本における諸科学の驚くべき発達」と全段抜きの見出しのもとで、譲吉の寄稿記事が掲載されていた。そこでは日本人がいかに平和を愛しているかを説き、その証拠に明治維新後、わずか30余年で近代医学を発展させ、北里柴三郎による血清療法の発見という世界的な貢献をなした事を紹介していた。
 このようなことができたのも、譲吉のアメリカにおける名声ゆえであった。

 この後、譲吉は精力的に、講演で全米を飛び回った。日本と日本人を知ってもらうために、譲吉は、日露戦争が始まって以降、公式の場に出るときは、必ず、紋付袴という和服の礼装で通した。
 和服の礼装の譲吉と、それに付き添う洋装のキャロライン夫人。二人の姿は、日本に関心のなかった一般のアメリカ市民まで魅きつけたことは想像に難くない。

 譲吉が「無冠の大使」として称された所以である。

 一方の金子堅太郎も、ハーバード大学での同窓ルーズベルト大統領に働きかけて、日本に有利な局面でロシアに講和を働きかけて貰うことに成功する。その際、ルーズベルトに日本を理解してもらう為に、新渡戸稲造の著作「武士道」を手渡したことはあまりにも有名な話である。

 また、高橋是清の外債募集にも、譲吉が種を蒔いた親日世論が大きく寄与したであろうことも間違いはない。

 こうした民間外交の重要性を経験した譲吉は、1905年3月、日本人相互の親睦と情報交換及び日米間の経済・文化の交流と相互理解の促進を目的として、自らが会長となってニューヨークに「日本クラブ」を作り、以後、日米間の相互理解と親善に力を尽くした。

 また、譲吉は、アメリカ一般市民の理解を得ようと、ニューヨークに桜の木を贈ることにした。
 そして1909年9月12日、桜の苗木2000本が日本郵船シアトル航路「加賀丸」によって無償で運ばれた。しかしこの苗は植物検疫で外来種の害虫や細菌が多く発見されて、全て焼却処分となってしまった。その3年後の1912年に改めて送られた桜の木がニューヨーク市のセントラル・パーク及びジョン・ロックフェラー所有のクレアモント・パークに植樹され、現在その地は、「サクラパーク」と名付けられ、ニューヨーク市民に愛されているという。

 しかし、日露戦争後は日米両国の利害対立が目立ち、関係が悪化していった。

 私も、これ以降の、郷土の大偉人高峰譲吉博士の心痛を慮ると、激しく胸が痛む。
 譲吉は、民間大使としての役割による心労とともに、健康もすぐれず、静かにベッドに体を横たえることが多くなってきた。

 「アメリカに渡って30年、せめて老後は日本の風景に抱かれて暮らしたい・・・」

 そんな時、譲吉の静養先に、渋沢栄一が訪ねてきた。譲吉の心からの思いを耳にした渋沢は、涙を流しながら言った。

 「(君が)大いに骨を折られた日米関係は、まだ、決して君の学問的事業の発展ほどには進んでおりませぬ。(中略)君がニューヨークにおられて、自ら日本の重きをなすことは幾許である。日本人にああいう人があるといえば、自ら日本に重みを与えるのである。(中略)望むところは、後10年アメリカにとどまられたいと希望する」

 譲吉はただ黙って頷くしかなかった。そして主治医の止めるのも聞かず、「これが最後のご奉公になるかもしれない」とキャロライン夫人に言い残して、ワシントンに向かった。そして日本の使節団を米政府高官や政財界の有力者に紹介して回った。

 ワシントン会議が始まって一ヶ月、譲吉は倒れて、そのまま意識を戻すことなく、1922年7月22日、68年の生涯を閉じた。譲吉の別荘地であるメリーウッド村では、全村あげて半旗が掲げられた。
 最期の言葉は、「後10年・・・」であったという。
 「後10年」で何がしたかったのか。何かやり残した研究があったのだろうか。日米の掛け橋のために、まだまだ、するべきことがあったのか。10年後には、日米の真の友好が実現する、そのためにも、渋沢との約束にあるように、自分は生きていなければならない・・・・。

 ニューヨーク5番街にあるセント・パトリック教会での葬儀には、日米600名もの人々が集まった。教会に入りきらない人であったという。
 墓地での埋葬の式の後、キャロライン夫人が日本人の会葬者たちに呼びかけた。

 「ジョウキチが愛してやまなかった、日本の国歌で送ってやってください」

 馥郁たる花におおわれた棺の中で、譲吉は、最後の「君が代」に包まれ、今でも墓地に眠っている。

―――――

 冒頭で書いたように、高峰譲吉は、どうしても、「タカジアスターゼ」及び「アドレナリン」の印象が強い。そのため、日本における特許ビジネスの先駆者、肥料を通じての農業改革先導者、さらには、日露戦争講和の最大の功労者及びそれに繋がる民間大使としての側面等々が、あまりにも、知られていない。かく言う私も、今回色々調べて、初めて知ったこともたくさんあった。

 特に、晩年、日米の掛け橋としての大いなる社会貢献は、もっと評価されて然るべきではないだろうか。

 タカジアスターゼの日本販売だけは、日本人に任せる。日露戦争講和に向けて、日本を理解してもらうために、紋付袴で講演をしてあるく。日米の掛け橋として、日本クラブを設立する。ニューヨークに日本を象徴するサクラを寄付する。しかも、最初に、サクラをアメリカに運んできた船の名前が「加賀丸」。日本の将来の科学的発展のために、国民化学研究所(現理化学研究所)設立を提唱する。日本及び日本人の真の理解を深める為に、日本人の手による英文雑誌「オリエンタル・ビュー」の創刊。老後は日本でと思いながらも、あえて、日本のために、アメリカに残る。そして、最期、「君が代」に包まれながら、墓地に眠る。

 私たちは、高峰譲吉から学ばなければならないことが、あまりにも多すぎる。


※私がソフトバンク在職中、三共のリゲインが発売された。当時、テレビコマーシャルでは、時任三郎が、いかにもやり手といったビジネスマンスタイルで、「♪黄色と黒は勇気のしるし♪24時間、働けますか♪ビジネスマン、ビズネスマン、ジャパニーズビジネスマン♪」とリズムにあわせながら颯爽と登場していた。我がソフトバンクも、ホークス買収にあわせて、ロゴを一新してしまったが、それまでのロゴは、黄色地に黒文字であった。今でも、いくつかの関連会社のHPの隅っこに、わずかに残っている(参照)。一端のジャパニーズビジネスマン気取りであった私は、疲れてもいないのに、リゲインを痛飲しながら、24時間仕事をしていた(気分になっていた)。