山野ゆきよしメルマガ

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『蛍の光』と竹島問題

2005年03月17日 | Weblog
 自動車で街中を走っていると、小中学校の正門に日の丸が掲げられ、卒業式の看板を見かけるような時期になった。私たちの年代は、卒業式と聞けば、「蛍の光」や「仰げば尊し」を思い出す。
 話は飛ぶが、3月16日、島根県議会では、「竹島の日」制定の条例が可決された。

 全く関係なさそうな、この二つの事象から、私は連想することがある。
―――――
 「蛍の光」は、言うまでもなく、1881年、スコットランド民謡に日本語の歌詞をつけて小学唱歌として発表されたものである。
 一般的には、その二番までしか歌われることはないが、実は、三番と四番とがあることはあまり知られてはいない。

 三番の歌詞は、こうである。

 『筑紫(つくし)の極み 陸の奥(みちのおく)
  海山遠く隔(へだ)つとも
  その真心(まごころ)は隔てなく
  ひとつに尽くせ国のため』

 さらに続く四番。

 『千島の奥も沖縄も
  八州(やしま)のうちの守りなり
  至らん国に勲(いさお)しく
  努めよ我が背つつがなく』

 三番で歌われている、「筑紫」は、要するに九州のことであろう。「陸の奥」は東北地方を指しているという理解で、間違いあるまい。記紀で言うところの日本の国土を表わしているということであろうか。

 四番になると、帝国主義全盛時代に、近代国家に追いつこうと必死な形相の、新興国家日本の姿が透けて見える。

 今から150年前の1855年、日本はロシアと通好条約を結び、ウルツプ島と北方四島との間に国境線を引いた。さらに、その20年後の1875年、樺太千島交換条約で、樺太をロシアに譲渡する代わりに、千島列島を日本のものにした。
 一方、その4年後の1879年には、琉球藩が廃止され、沖縄として鹿児島県の一部とされ、日本に正式に組み込まれている。
 その2年後の1881年に「蛍の光」が発表された。

 それら全てを受けての、四番である。
 
 北は千島列島から、南は沖縄までが、八州(やしま)、つまり日本の領土であり、各地で国の守りにつく兵士や役人との別れを惜しみ、立派な任務達成を祈る歌である。

 ところが、日清、日露戦争を経た上で、「蛍の光」の四番の歌詞が次のように変更された事実を知ると、さすがに、考えさせられてしまう。

  『台湾のはても 樺太も
   八州(やしま)のうちの守りなり
   至らん国に勲(いさお)しく
   努めよ我が背つつがなく』
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 いつの時代でも、その時代の価値観というものがあり、また、その当時の、国際法もしくはそれに準じる国際的慣習というものがある。それらを基にして、歴史というものが作られてくる。現在の価値観や国際法、国際的慣習で、歴史を判断しようとしても無理があるし、その試みは、たいていの場合、ある意図をもったものである。正しい歴史認識を、最初から放擲してしまっている。

 さて、竹島問題については、本日の多くの新聞・テレビで報道されているので、ここでは詳細について触れることはしない。
 一点のみ。
 韓国の潘外交部長官は、「独島(韓国では、竹島をこう呼ぶ)問題は、領土と主権の問題であるため、韓日関係よりも上位の概念だ」としているが、それは、全くもって正しい。だからこそ、韓国は竹島に軍事力を誇示して占拠している。最大の問題は、日本が50年以上に渡って、この問題に何ら発言をしてこなかったことである。

 明治の先人は、「蛍の光」の歌詞の中にまで、日本の領土のことを歌い、歴史的事実を伝えようとしている。

 ここで、私が「歴史的事実」という表現を使うことに抵抗感を持つ方もいるかもしれない。軍事力で獲得した領土ではないか、平和裡に譲渡されたものではないではないか。その後、やはり軍事力によって、再度失うことになる。そのような経緯を、歴史的事実といって正当化してもよいのか、と。しかし、前述したように、当時は、帝国主義の世界潮流のただ中である。現在の価値観だけでは推し量ることはできない。冷静に考えなければならない。

 閑話休題。

 日本、韓国ともに一国主義的歴史観で、この問題を論じようとしても解決はつかない。
 今回の島根県の条例が、正しい歴史的事実の議論の契機になることを望みたい。