バレーボールに限らず、球技において「声」が大切だということは、今さら改めて言うまでもないことだと思います。
にもかかわらず、私を含めて、多くの指導者が「声を出せ!!」といつも言い続けなければならないのは、いったいなぜなのでしょうか。
一昔前に比べて、最近特にその傾向が強いように思います。以前は、どのチームにも声を出しすぎて、いつもガラガラ声の選手がいました。しかし最近そういう選手にはなかなか出会えなくなりました。
声を出すことが恥ずかしいのでしょうか。それとも単なる「手抜き」「さぼり」なのでしょうか。
間に来たボールを自分が取ろうと思えば「はい!!」とか「任せろ!!」、相手に取って欲しければ「頼む!」などという声が出るのは自然なことだと思うのですが…
要は「本気度」なのではないでしょうか。間に来たボールを任せようと思い、それを瞬時に伝えようと本気で思ったら、大きな声が自然と出るはずです。
例えば、雪山で遭難してしまったと仮定します。数百メートル先に救助隊が見えたら、きっと誰もが「助けて~」と声を嗄らさんばかりに叫ぶでしょう。その時の声は「必死」であり、「一生懸命」であり、まさに「命懸け」だと思うのです。
それはまさに心の叫びだと思うのです。
勝とうが負けようが、命を奪われるわけではありません。たかが「部活動」です。たかが「バレーボール」です。しかし、だからこそ「必死」に「一生懸命」になることに価値があるのではないでしょうか。
とすれば、当たり前のことですが、我々指導者の役割は、選手を本気にさせること、ということになるのでしょうか。我々指導者自身の本気度が問われるとも言えるのかもしれません。
何年やっても、試行錯誤の日々です。
にもかかわらず、私を含めて、多くの指導者が「声を出せ!!」といつも言い続けなければならないのは、いったいなぜなのでしょうか。
一昔前に比べて、最近特にその傾向が強いように思います。以前は、どのチームにも声を出しすぎて、いつもガラガラ声の選手がいました。しかし最近そういう選手にはなかなか出会えなくなりました。
声を出すことが恥ずかしいのでしょうか。それとも単なる「手抜き」「さぼり」なのでしょうか。
間に来たボールを自分が取ろうと思えば「はい!!」とか「任せろ!!」、相手に取って欲しければ「頼む!」などという声が出るのは自然なことだと思うのですが…
要は「本気度」なのではないでしょうか。間に来たボールを任せようと思い、それを瞬時に伝えようと本気で思ったら、大きな声が自然と出るはずです。
例えば、雪山で遭難してしまったと仮定します。数百メートル先に救助隊が見えたら、きっと誰もが「助けて~」と声を嗄らさんばかりに叫ぶでしょう。その時の声は「必死」であり、「一生懸命」であり、まさに「命懸け」だと思うのです。
それはまさに心の叫びだと思うのです。
勝とうが負けようが、命を奪われるわけではありません。たかが「部活動」です。たかが「バレーボール」です。しかし、だからこそ「必死」に「一生懸命」になることに価値があるのではないでしょうか。
とすれば、当たり前のことですが、我々指導者の役割は、選手を本気にさせること、ということになるのでしょうか。我々指導者自身の本気度が問われるとも言えるのかもしれません。
何年やっても、試行錯誤の日々です。