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深夜の呟き

2018-05-31 23:53:02 | 日記
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1 病気の子どもらにホタルを 五和小の児童、天草エアで福岡へ | 熊本の ...
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病気の子どもらにホタルを 五和小の児童、天草エアで福岡へ
福岡市の病院などに届けるホタルが入った段ボール箱を手に笑顔を見せる五和小の児童たち=天草市
 天草市五和町の五和小の児童らが31日、飛行機で福岡市の国立病院機構福岡病院と屋形原特別支援学校の子どもたちを訪ね、五和町の川で捕まえたホタル約100匹をプレゼントした。

 旧城河原小と城河原地域づくり振興会が、“ホタル便”と銘打ち、天草エアラインの協力で2003年から毎年実施。14年に五和小に統合した後も贈り続けている。

 ホタルは5月30日夜、児童や保護者、振興会のメンバーら約50人が近くの内野川などで捕獲。31日朝、五和町の天草空港で出発式があり、6年生4人と教諭ら計8人が午前8時前の始発便で福岡へ向かった。

 児童代表の1人としてホタルを託された山本祐夢[ひろむ]君は「今年も五和町の自然の宝物であるホタルを福岡の友達に届け、絆をつないでいきたい」と話した。(飯村直亮)

2 県高校総合文化祭が開幕 県立劇場などで2日まで | 熊本のニュース ...
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県高校総合文化祭が開幕 県立劇場などで2日まで
県高校総合文化祭開幕パレードで、天草ハイヤを披露する天草拓心高の生徒たち=31日午後、熊本市中央区(池田祐介)

 県内の高校生が日ごろの文化活動の成果を発表する第30回県高校総合文化祭が31日、熊本市中心部のパレードを皮切りに開幕した。2日までの会期中、県内90校から約3100人の生徒が参加。中央区の県立劇場や水前寺共済会館で、ステージ発表や展示などを披露する。

 県高校文化連盟と県教委でつくる実行委員会主催。公募で選ばれた今年のテーマは、天草拓心高2年、緒方日菜さんの「熊本サイダー、はじける青春」。  パレードは中央区の上通アーケードで出発式があり、園川春紀さん(熊本工高3年)と西村早葵[さき]さん(第一高2年)が開会を宣言。18校の約550人が、マーチングバンドを先頭に和太鼓、バトントワリング、天草ハイヤなどの列を作り、下通アーケードを通り新市街までにぎやかに行進した。

 1日は、午後1時半から県立劇場で総合開会式があり、全国大会で優勝経験のある鎮西高ダンス部がオープニングを飾る。美術や書道、写真などの展示部門は午前9時から。(深川杏樹)




ホタル届ける

2018-05-31 19:35:59 | 日記
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1 NHK 熊本県のニュース|NHK NEWS WEB
www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/

福岡の病院に児童がホタル届ける
05月31日 10時40分
天草市の小学生たちが、地元の川のホタルを福岡市で病気と闘う子どもたちに届けようと、31日朝天草空港を出発しました。

天草空港のロビーでは、31日朝出発式が行われ、天草市五和町の五和小学校の6年生の児童4人が、パイロットにホタルの入った虫カゴを託しました。

この活動を企画しているのは「ホタルの里」づくりを進めている天草市五和町の城河原地域づくり振興会で、平成15年から毎年福岡市にある国立病院の小児病棟の子どもたちにホタルを直接届ける交流を続けています。

ホタルは五和小学校の児童や保護者が、30日夜地元の川で捕まえたおよそ100匹で、出発式を終えた子どもたちは飛行機に乗り込み、福岡に向けて出発しました。

6年生の山本祐夢さんは「ホタルを見て元気になってほしいです」と話していました。

ホタルは病院の中庭に作られたホタル小屋に放たれ、入院中の子どもたちに見て楽しんでもらうということです。



日本を救った豊臣秀吉

2018-05-31 14:29:37 | 日記
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1 日本を救った豊臣秀吉 - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)
https://www.cool-susan.com/2016/09/30/日本を救った豊臣秀吉/

日本を救った豊臣秀吉
切支丹の陰謀
 大航海時代のきっかけはヨーロッパの宗教改革である。従来のカトリックは新興のプロテスタントと衝突し圧迫を受け、巻き返しをはかるためヨーロッパを離れ、イエズス会を設立してアフリカやアジアなどで布教を目指した。
 イエズス会による布教活動は、スペインやポルトガルによる植民地政策の先鋒隊であった。地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下に」侵略を仕掛け、容易に植民地政策を達成するのあった。
 1549年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主・島津貴久の許可を得て布教活動を始めている。ザビエルは鹿児島から京都にかけて、山口の大名・大内義隆や豊後府内の大友宗麟らの保護を受けキリスト教の布教活動を続けた。なお当時のキリスト教は、キリシタン(切支丹)あるいは天主教と呼ばれていた。
 フランシスコ=ザビエルは2年ほど在日するが、この後もルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日して、我が国に教会堂である南蛮寺や宣教師の養成学校や神学校を次々と建てた。
 ポルトガル船はカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかった。そのため南蛮貿易による権益から宣教師の布教活動を大名が保護し、さらには洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れた。
 キリシタン大名のうち、九州の大友宗麟や大村純忠、有馬晴信らは、イタリア人宣教師の勧めによって1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣している(天正遣欧使節)。
 カトリックの教えは、ヨーロッパの進んだ文化へのあこがれ、あるいは信仰心を忘れて権益を求めて争う仏教勢力に不満を持つ人々の間で急速に広まった。その一方で、キリシタン大名の大村純忠が信仰心のあまり自領の長崎をイエズス会に寄進する前代未聞の行為も見られ、カトリックに潜む日本侵略の野望は水面下で着実に広がっていった。日本が植民地になるかならないかの瀬戸際であった。

大航海時代のヨーロッパ
 戦国時代に当たる15世紀後半から16世紀にかけてのヨーロッパでは、ルネサンスや宗教改革によって近代社会へと移行しつつあった。宗教改革によるカトリックとプロテスタントの激しい争いや、イスラムの世界への対抗もあって、ヨーロッパの諸国はキリスト教、特にカトリックは布教や海外貿易の拡大を目指して世界へと乗り出した。この時代を大航海時代という。
 大航海時代の先頭に立ったのは絶対主義の王国を形成していたイベリア半島の王国であるスペイン(イスパニア)とポルトガルであった。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国家財産の増大を目指し植民地の獲得に力を注いだ。もちろん植民地から富を搾取するためである。大航海時代という言葉は、大海原に新たな希望を見つけようとした良い印象を持つが、多くの住民が虐殺され、奴隷となった時代である。
 1494年、カトリックのローマ教皇の承認によって、スペインとポルトガルとの間に、大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発見されるものはすべてイスパニアに属するという取り決めが結ばれた(トルデシリャス条約)。
 これは地球をスペインとポルトガルの二つに分割する発想であるが、この発想は白人至上主義による当然のことであった。そして両国は条約の取り決めを守り、着実に植民地化を進め、インカ帝国やアステカ帝国は滅ぼされ、国民の生命や財産や文化は絶滅した。
 一方、東アジア地域では明が密貿易の禁止の政策をとっていたが、実際には明以外にも我が国や朝鮮・琉球・安南(ベトナム)などの人々が幅広く中継貿易を行っていた。ヨーロッパ人による東アジアの進出は、これらの中継貿易に参加して莫大な権益を得ようとする目的があった。

鉄砲伝来と南蛮貿易
 1543年、ポルトガル人を乗せた明の船が九州南方の種子島に漂着した。これが我が国に初めて上陸したヨーロッパ人である。領主の種子島時尭(ときたか)はポルトガル人が所有していた鉄砲に興味を示し、これを購入すると家臣にその使用法と製造法を学ばせた。
手先が器用だった鍛冶職人によって、鉄砲はまたたく間に複製され、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され各地の戦国大名に売り込まれた。
 鉄砲の出現はそれまでの弓や槍、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの変化をもたらました。また鉄砲は雨が降ると使用できないため、雨の心配のない城の中での籠城戦に最適とされ、城の構築もそれまでの山城から平山城、平城へと変化した。
 ちなみにポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で、種子島にわざと漂着したとも考えられる。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰れたが、火薬の原料となる硝石が日本では生産されなかったことから、硝石を我が国に輸入することで貿易が成立した。
 我が国との貿易が大きな利益をもたらすことを知ったポルトガル人は、やがて毎年のように来航し、スペイン人も肥前(長崎)の平戸に来航して貿易を始めた。当時の我が国では、ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人と呼んだので、彼らとの貿易は南蛮貿易と呼ばれている。
 南蛮貿易では鉄砲やその火薬・香料・中国の生糸などが輸入され、輸出品としては銀、金、刀剣があった。貿易港としては、松浦氏の平戸や大村氏の長崎、大友氏の豊後府内(大分市)などの九州地方が中心であった。なお、ポルトガル人やスペイン人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭の頃から来日したイギリス人やオランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれている。

秀吉の対外政策
 国内の統一が進むにつれて海外との南蛮貿易も盛んになり、豪商や西日本の大名たちはこぞって海外へ進出した。秀吉も貿易での莫大な利益を目指して貿易に乗り出し、1588年に海賊取締令を出して倭寇を取り締まり、京都・堺・長崎・博多などの商人を援助して貿易の促進をはかった。
 当時は銀の産出が豊富で、秀吉は銀を活かして東アジアの諸国と貿易を行った。またこの頃、中国を支配していた明が衰え、世界情勢を見抜いた秀吉は、我が国を中心にしたアジアの新秩序を視野に入れ、台湾やゴアにあるポルトガル政庁、マニラにあるスペイン政庁に、我が国への服属と朝貢を求めた。しかし新秩序を構築しようとしていたのは秀吉だけではなかった、ポルトガルやスペインも同じ考えであった。
 秀吉は全国統一によって数十万の兵力や鉄砲を誇っていたが、その兵力をキリスト国家からの国内防衛につかうのか、あるいは明を植民地にしようとするキリスト国家に、先制攻撃を行うのか考えていた。巨大なキリスト王国との抜き差しならない戦いが、秀吉の目の前に迫っていた。
 南蛮貿易は大きな利益を生み出したが、同時にキリスト教も急速に広まっていた。布教を目指したカトリックは我が国に定着し、織田信長も貿易の権益を求めてカトリックを保護した。秀吉も当初はカトリックの布教を認めていたが、やがてカトリックに潜むスペインの世界侵略の野望に気づくことになる。
 1587年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックの宣教師が最新鋭の軍艦を準備して出迎えた。秀吉はその当時の我が国にはない軍艦に驚き、イエズス会による布教は我が国への侵略が秘められていると疑念した。さらに現地を視察した秀吉は3つの信じられない出来事を目にした。
 秀吉が九州に上陸して驚いたのは、外国への玄関口でもある重要な港町の長崎が、キリシタン大名の大村純忠によってイエズス会に寄進されていたことだった。いかに信仰のためとはいえ、我が国古来の領地を外国の所有に委ねることは、天下統一を目指してきた秀吉にとっては有り得ないことであった。同時にその裏あるスペインの領土的野心にも気づくことになる。さらに秀吉を驚かせたのは、キリシタン大名の領地にある神社や寺がことごとく焼かれていたことだった。キリスト教は一神教であり、キリスト教以外の神の存在を認めなかったが、秀吉にとっては我が国の伝統や文化を破壊する許せない行為であった。さらにポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷として強制連行している事実を知ったのである。有色人種を奴隷扱いするのは白人にとっては当然のことであったが、国民の生命や財産を守る義務を自覚していた秀吉には絶対に許せない行為であった。
 イエズス会とスペインによる侵略の野望に気づいた秀吉は、これらの事実に激怒すると、宣教師追放令(バテレン追放令)を出してカトリックの信仰を禁止した。イエズス会から長崎を没収して長崎を秀吉の直轄地にした。しかし秀吉は南蛮貿易そのものを禁止しなかったため、禁教政策は不徹底に終わりカトリックはその後も広まっていった。

サン=フェリペ号事件
 1596年9月28日、スペインの大型船「サン=フェリペ号」が土佐沖に漂着した。サン=フェリペ号は当時最大級の帆船で高速で荷を多く積めたが、安定性に劣り転覆事故を起こしやすい欠点があった。サン=フェリペ号は高価な荷を積んでフィリピンのマニラを出航しメキシコを目指して太平洋を横断しようとした。ところが東シナ海で台風に遭遇し、すぐに舵が壊れて操船ができなくなり、主マストを切り何とか難を逃れ、激しい風とうねりに身を任せ、日本の土佐に漂着した。
 突然の南蛮船の漂着に、土佐の大名・長宗我部元親は乗組員を土佐の浦戸に収容した。遭難者を救出したが、積み荷の所有権をめぐってトラブルが発生した。当時の国際海事法では積み荷の扱いは船側にあったが、秀吉は「漂着した積み荷の所有権はその土地に移るのが昔からの日本での習わし」と主張し、秀吉が派遣した奉行・増田長盛に持たせた書状は積み荷の没収を伝える内容だった。
 すると乗組員が増田長盛に「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次に軍隊を送り、信者に内応させてその地を征服する」と、世界中のスペイン占領地域を誇らしげに示したのである。日本征服のためにスペインは宣教師を送り込んだことが、すぐに秀吉に報告された。
 キリスト教の日本征服を恐れていた秀吉は、それまでの疑心暗鬼から確信に変わった。さらに京都の3人のポルトガル人が「スペイン人は海賊で、ペルー、メキシコ、フィリピンなどを武力制圧したように、日本を征服するために測量に来た」と証言した。秀吉への証言者はポルトガル人で、スペイン人との競争相手だった。船が種子島に漂着して以来、50年間にわたり日本と交易してきたのはポルトガル人である。その意味からすれば、遅れて出てきたスペインは商売仇であった。秀吉はポルトガル人の証言を聞いて激怒し、京都のフランシスコ会宣教師と信徒を捕え、再び禁教令を公布した。

禁教令と処刑命令
 漂着事件直後に禁教令が公布され、京都では南蛮寺などの布教施設が壊され、京都にいたキリスト教のフランシスコ会の宣教師や信者が逮捕された。イエズス会ではなくフランシスコ会の信者だったのは、イエズス会は日本の文化や伝統を尊重する大名などに浸透していたが、フランシスコ会は貧しい階層に入って活動していたので、秀吉にはより挑発的に見えたのである。
 イエズス会ではなく、京都のフランシスコ会に的を絞った逮捕であった。カトリックにおいてイエズス会もフランシスコ会も大きな違いはない。つまりキリスト教そのものへの信仰を禁じたのではなく、日本を脅かすような過激なフランシスコ会を見せしめに弾圧したのである。日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が逮捕された。
 秀吉は処刑を命じるが、処刑場は長崎で、長崎の刑場までの1カ月間、死への旅路となった。逮捕された24人は京都の一条戻り橋で全員、左耳を切り落とされ、血に染まった傷口のまま京都を引き回された。午後10時過ぎの深夜にもかかわらず、外国人の引き回しということで沿道には多くの人だかりができ屋根の上から見る者もいた。翌日には大坂と堺でも引き回された。堺が選ばれたのは、当時の堺は南蛮貿易で栄え、多くの外国人やキリシタンが集まっていたので彼らへの見せしめであった。長崎の刑場に着いた時には、長崎には外出禁止令が出されていたが4千人以上の信者が取り囲んだ。
 刑場には26人の十字架を立てる穴が用意され、穴の前に十字架が1本ずつ置かれた。刑場内で縄は解かれたが、横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定され、十字架は穴の中へ入れ立てられた。受刑者の間から「イエス、マリア」の声が響いた。整然と並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍を持って立ち、2人1組で左右から刺し、ひと突きで槍の先が心臓を貫き息絶えた。
 26人のキリスト教徒への処刑が行われたが、キリスト教徒に対する改宗などの強制政策は取られず、京都のフランシスコ会以外に弾圧は加えられていない。キリスト教は建前上は禁止だが、お目こぼしを受けていた。フランシスコ会の活動が目に余ったために秀吉が弾圧に踏み切ったので、イエズス会は何ら弾圧は加えられていない。
 秀吉はキリシタン26人を逮捕したとき、キリシタンを続けたいなら外国へ、日本に残りたいなら改宗しろとせまった。しかし長崎のイエズス会はこの26人の死罪を長崎奉行に申し出たのである。イエスズ会にとって、信者を十字架になぞらえて見せ物にして天国に行くことができると宣伝すれば、キリスト教徒の栄光に輝く姿を印象づけることができた。キリシタン弾圧といいながら、イエズス会のフランシスコ会つぶしであった。

秀吉の愛国心
 秀吉はスペインによる侵略の野望を知るが、我が国は数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を持ち、スペインが我が国を侵略することは難しいと考えていた。そこでスペインは我が国のキリシタン大名を利用して明を征服し、次に我が国を攻めるだろうとした。つまりスペインが明を滅ぼせば、次は日本を狙らってくると予想したのである。
 これは鎌倉時代の元寇と同じである。秀吉にとって明がスペインによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかなかった。スペインは日本侵略の前に明を攻めようとしているが、明を攻めるには兵力が不足していた。多数の兵を地球の裏側から連れて行くことができなかった。
 我が国は兵力や鉄砲は充実していたが、外航用の大きな船を建造する能力がなかった。そのため秀吉はスペインと我が国が同盟を結び、両国が共同して明を征服し、戦後は明国内でのカトリックの布教を許す代わりに、スペイン所有の外航用の軍艦を売却してもらう条件でスペインとの妥協を目指した。しかし武力による我が国の侵略を断念していなかったスペインはそれを拒否した。
 秀吉はスペインよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国がスペインの植民地から免れる方法はないと覚悟を決めた。数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば中国征服も可能とした。
 秀吉のこの決断は、天下統一により領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられた。秀吉は明の征服を「唐入り」と名付けた。日本には明へ直接攻め込める大きな船の建造能力がなかったため、地理的に近い朝鮮半島を経由して攻め込む以外に方法がなかった。
 秀吉は対馬の宗氏を通じて、当時の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮に対して「我が国が明へ軍隊を送るから協力してほしい」と使者を出したが、李氏朝鮮は明を宗主国と仰いでいたのでその要請を拒否した。そのため、秀吉は明を征服する前提として朝鮮半島から攻め込んでいった。これが1回目の朝鮮出兵である文禄の役である。

文禄の役
 1591年8月、秀吉は「唐入り」の決行を全国に布告し、出兵拠点となる名護屋城を肥前に築き始める。1592年3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して、宇喜多秀家・加藤清正らが率いる16万の軍勢を朝鮮に出兵させた。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したため戦況は膠着状態となった。
 李氏朝鮮の名将である李舜臣(りしゅんしん)の活躍があり、縦に伸びきった我が国の軍勢の補給路が断たれ、多くの兵が飢えや寒さで苦しみ、戦局は不利になりやがて休戦となった。その後、我が国と李氏朝鮮や明との間で和平交渉が行われた。
 しかし1596年に明が「秀吉を日本国王に封ずる」という内容の国書を秀吉に送り、秀吉が怒り返した。「日本国王という呼び名は、日本は明の家来を意味している。なお朝鮮は朝鮮国王で、これは朝鮮が明の家来であることを自らが認めている」ことを意味している。

慶長の役
 怒った秀吉は、翌1597年、秀吉は小早川秀秋を元帥に14万人の軍を朝鮮へ再度出兵させた。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧した。京畿道に進出後、文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。
 城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を城郭群に残し、7万の将兵を本土に帰還させた。秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画したが、計画実施前に秀吉が死去したため休戦となり我が国は朝鮮半島から撤退した。
 秀吉の二度にわたる朝鮮出兵は、当初の「唐入り」の目的を果たせず、朝鮮半島へ多大な影響を及ぼし、我が国にも多数の損害をもたらした。この秀吉の朝鮮への出兵について「理解不能な最大の愚行」「晩年の秀吉が正常な感覚を失ったことによる妄想・耄碌」といった扱いを受けることが多い。しかしスペインが明に攻め、次に我が国に侵略するのを防ぐためであった。明への先制攻撃であったが、その前提として朝鮮半島に攻め込んだのである。
 秀吉の出兵によって大きな被害を受けた朝鮮半島の人々の恨みは今も深く、文禄の役は壬辰倭乱(じんしんわらん)、慶長の役は丁酉倭乱(ていゆうわらん)と呼ばれ、秀吉は「冷酷無比な侵略者」として、現在でも悪魔のように嫌われている。しかし秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだのは、李氏朝鮮が我が国の方針に反対したからで、もし李氏朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻めることはなかった。
 秀吉の目標は明を征服することで、朝鮮半島を侵略する意識はなかった。そのため秀吉の行為を「朝鮮侵略」と呼ぶのは歴史的に正しいとはいえない。「朝鮮侵略ではなく朝鮮出兵」と表現すべきである。また秀吉に対する評価についても、朝鮮半島の人々の思いを受け止める一方で、世界史の原則「ある民族にとっての英雄は、他の民族にとっての虐殺者である」という視点を認める必要がある。
 朝鮮半島の人々から見れば、秀吉は確かに侵略者であるが、その一方で、我が国にとっては天下統一を果たした英雄であり、戦国時代を終わらせ世に平和をもたらした恩人でもある。秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり、滅ぼされたりした民族が大勢いることを忘れてはいけない。
 国にはその国の歴史がある以上、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付けることはできないが、我が国が他国に対してへりくだってまで、他国の歴史認識に合わせる必要はない。我が国の立場を説明すべきである。秀吉による朝鮮出兵に限らず、他国の感情に理解を示しても、我が国の立場で堂々と歴史認識を持てばよいのである。我が国の教育においても当然そのように歴史を伝えなければならない。
 豊臣家には後継者の不在という致命的な欠陥があったため、朝鮮出兵は結果として失敗に終わった。しかし明治維新のときも同じであるが、日本をヨーロッパの属国・植民地にさせないという意気込みは高く評価すべきである。

日本滅亡の危機
 秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、スペインは明国を植民地としての支配下に置いたであろう。朝鮮半島もスペインの支配地となったことは南米を見ればわかることである。南米には白人種と混血人しかいない。アルゼンチンやウルグアイでは先住民族は抹殺され、現地の女性たちは強姦され、子を産む前に殺戮されている。いま南米に住んでいるのはほぼ白人種である。ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアでは全員が先住民族との混血で純血種はほぼいない。
 日本も支那も朝鮮もそれぞれが純血種を保ちながら現在に至っているが、それは秀吉がスペインと戦う姿勢を明確に見せたからである。秀吉の死去により日本は朝鮮半島から撤収したが「呆けた秀吉が起こした侵略」との解釈は大きな間違いで、半島に出兵した大名たちはそれぞれが真剣に戦ったのである。
 日本が撤収したのは、スペインが英国やオランダに押されて国力を低下させ、アジアに進出できなくなったからである。スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ「スペインよ、自分に従え」と迫った秀吉の壮大な気概と誇りを見習うべきである。



午前の呟き

2018-05-31 10:53:51 | 日記
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1 新名所「天草のラピュタ」SNSで拡散 アコウの木、巨岩包む | 気になる話題 ...
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新名所「天草のラピュタ」SNSで拡散 アコウの木、巨岩包む
2018/5/30 12:005/30 14:59updated
©株式会社熊本日日新聞社
巨大な岩石を包むようにそびえるアコウの木=天草市
 天草市天草町の西平[にしびら]椿公園に自生するアコウの木が「天草のラピュタ」として話題を集めている。巨大な岩石を包み込むように根を張る様子が宮崎駿監督のアニメ映画「天空の城ラピュタ」の世界を連想させると、会員制交流サイト(SNS)で拡散されている。

 アコウは高さ約20メートルほど。その下の6メートル四方ほどの岩石は水晶の微粒子を含み、一部はきらきらと光って見える。

 県天草広域本部などでつくる天草地域観光推進協議会も、4月に発行した冊子「天草絶景STORY」で紹介。市天草支所には問い合わせが増えているという。

 地元の澤村時雄さん(74)は、15年ほど前から県内外の友人にパワースポットとして紹介。「不思議と力が湧いてくる」と話している。

 西平椿公園は、同市河浦町の崎津集落から下田温泉方面へ車で20分ほど。アコウは公園展望所からツバキ自生地へ下って数分の所にある。(谷川剛)

(2018年5月30日付 熊本日日新聞朝刊掲載)


2 感染症媒介マダニ注意 2人発症確認、長崎大が呼び掛け [長崎県 ...
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感染症媒介マダニ注意 2人発症確認、長崎大が呼び掛け [長崎県]
2018年05月31日 06時00分
吸血前(左)と吸血後のマダニ(長崎大の早坂大輔准教授提供)
写真を見る
 長崎大が、マダニの媒介によるウイルス感染症「重症熱性血小板減少症候群」(SFTS)への注意を呼び掛けている。県医療政策課によると、県内では今年に入って現時点までに男性2人の発症を確認。暑くなる今後、感染リスクが高まるため、同大は長袖や長ズボンで肌の露出を少なくするなどの防護策が有効としている。

 SFTSは2011年に中国で初めて報告され、ウイルスを持つマダニが吸血することで感染。日本国内では13年に初めて確認された。国立感染症研究所のまとめによると、国内ではこれまでに西日本を中心に300人以上の患者を確認。14年には16人が死亡したが、治療法が分かってきたこともあり、16年以降の死亡は10人未満で推移している。

 マダニは草むらの中にいることが多く、屋外活動が増える5月から8月にかけ、マダニにかまれて感染するリスクが高まる。SFTSを発症すると発熱や嘔吐(おうと)、下痢などを引き起こすほか、日本紅斑熱やダニ媒介性脳炎なども媒介するという。長崎大は防護策として、外出時は肌の露出を少なくするほか、屋外に出た後は入浴するなどしてマダニが付着していないか確認することを推奨している。

 犬や猫がSFTSに感染したとの報告も相次いでおり、同大熱帯医学研究所の早坂大輔准教授は「ペットの犬や猫が感染し、人間がかまれて発症する可能性も否定できない」と指摘。「犬や猫のマダニの付着に注意し、異常がある際は動物病院を受診してほしい」としている。

=2018/05/31付 西日本新聞朝刊=


殉教

2018-05-31 07:48:27 | 日記
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1 日本殉教者録 - 御聖体と聖母の使徒
hushiginomedai.holy.jp/martyres%20japonenses.htm

2 日本の殉教者について|主の十字架クリスチャンセンター
https://tokyo.antioch.jp/martyrdomhistory_j/

アダム荒川が受けた拷問
  アダム荒川は島原半島有馬の荒川(現有馬吉川)の出身であり、1641年1月31日、徳川家康のキリシタン禁令が出たころは天草の志岐の教会でガルシア・ガルセス神父(イエズス会)に仕えていた。七十余歳の老人ながら、教会の雑務や炊事などの仕事にまめまめしく働き、信徒指導の手伝いもしていた。
  宣教師追放令が出され、天草を治めた唐津城主寺沢広高は富岡城番代川村四郎右衛門に志岐にいたガルセス神父を長崎に去らせるように命じた。ガルセス神父が去っていく時に志岐の教会の世話をアダム荒川に頼んだ。アダム荒川は幼児に洗礼を授けたり、病人を見舞ったりして司祭がいない中、献身的に教会に奉仕し信徒にも大きな影響を与えていた。
  しかしそれに追い討ちをかけるように寺沢広高は川村四郎左衛門に、天草領内の全てのキリシタンに信仰を棄てさせるよう厳しく命じた。そこで川村は影響力のあったアダム荒川が信仰を棄てれば他の者も信仰を棄てるであろうと考え、アダムを捕らえることを決定する。
 1614年3月21日、アダム荒川は富岡城に連れてこられ、番代の川村四郎右衛門より信仰を棄てるように説得されたが、アダム荒川は「人間にとって肉体以上に大切なのは魂でございます。私が心からまことの神と信じ大切にしているデウスさまに背くことは出来ません。」と答えた。アダム荒川はいっこうに信仰を棄てる気配がなかったので、川村はアダムを拷問にかけることにした。
 裸で町中を引き回した後、二本の柱を立てて横木をかけ、この横木に両肘を、二本の柱に両足を縛りつけ9日間もさらし者にした。その間に、天を仰いで祈る姿にキリシタン以外の人も感動した。しかし寺沢らの目的はアダムの死ではなく転宗であり、裸のままで野ざらしにしておくと死んでしまうので、夜になると柱から降ろされ小屋に入れられた。
 九日たっても信仰を棄てないのでアダムは柱から降ろされ一軒家に幽閉されることとなった。川村はこの幽閉生活によってアダムの意思が弱るのではないかと期待したからである。
 しかしアダムはその幽閉生活の中でよりいっそうキリストに祈り黙想していくことになる。
 棄教しないアダム荒川の処分を川村はどうしようかと模索するために、自分の主君寺沢のいる唐津に行ったが、その時寺沢は江戸にいたので主だった家老たちと話し合い、信仰を棄てないのなら斬首してもよいと決定を下した。
 刑場に着いたアダム荒川は最後に祈りを捧げ、近くにいた役人に「天地万物の創り主であるデウスこそ、まことの神である。あなたの子にこれを教えるためにキリストを学ばせなさい。あなたもキリシタンになられるのがよい。」と言い、静かに首を差し出した。
 しかし役人の手が狂い刀は肩にくいこんだ。アダムはそれでも「イエス、マリア」のみ名を呼び求め、2回目の刀を待った。
(出典「日本キリシタン殉教史」片山弥吉・著 時事通信社)
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3 キリシタン史 江戸初期の大迫害
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この禁教令によって江戸・京都の教会の破壊が行われ、武士のみならず一般庶民もキリスト教信仰が禁止された。 また前述の改易された ... これにより1613年、江戸の鳥越で、浅草の小屋にいた22人のキリシタンが殉教する。病人達を収容した病院のような物で ...