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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

エウセビオ 荒れ野に叫ぶ声

2013-12-08 01:24:52 | 日記
エウセビオ司教(260-339年) カエサリアの司教
「イザヤ書注解」
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。※1』」この言葉は、預言者の告げる出来事がエルサレムではなく、荒れ野で起こることをはっきりと示している。つまり、その出来事は、神の栄光が現れ、すべての人が神の救いを見る※2ということである。

 このことは、洗礼者ヨハネが救いをもたらす神の現れをヨルダンの荒れ野で告げ、そこで実際に神の救いが現れたときに、歴史的な出来事として文字通り実現した。すなわち、キリストが洗礼を受け、聖霊は鳩の形で降ってキリストの上にとどまり、「これはわたしの愛する子、これに聞け※3」とい御父の声がキリストを証ししたときに、キリストとその栄光が皆に知らされたのである。

 また、[比喩的な意味で]イザヤはこれらの言葉によって、昔から近づきがたい荒れ野のような場所に神が来るであろうということを言い表そうとしたのである。それは、すべての異邦の民が、神の認識に欠けている荒れ野のような寂しい状態にあり、神の正しい人や預言者がだれも近づくことのできなかった状態にあったからである。

 したがって、あの声は神の言葉のために道を調え、近づきがたく険しい道を平らにするように命じている。私たちの神が来られて道を進むことのできるようにするためである。「主の道を整えよ。」これこそ、神の救いがすべての人に知らせることを望んでいる福音宣教であり、新しい慰めである。

 「高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力をふるって声を上げよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ※4。」前に述べられたこととよく一致するこの言葉は、適切にも良い知らせを伝える者達に言及し、荒れ野に叫ぶ声について語った後、神の到来という良い知らせを人々に伝えている。洗礼者ヨハネに関する預言の後に、良い知らせを伝える者に言及するのは、当を得たことである。


待降節第二主日 読書
第一朗読 イザヤ22:8b-23 エルサレムとシェブナへの警告
第二朗読 エウセビオ 『イザヤ書注解』

※1 イザヤ40:3参照
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

※2 ルカ3:6参照
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。

※3 マルコ9:7参照
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

※4 イザヤ40:9
高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。


エウセビオ(260-339年) カエサリアの司教
ベネディクト16世が連続講話の42回目として、「カイサリアのエウセビオス」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message220.htm
>エウセビオスはさまざまな意味で当時のキリスト教文化の優れた代表者でした。エウセビオスの活動分野は神学から聖書釈義まで、歴史からその博識にまで及びます。エウセビオスは何よりも最初のキリスト教史家として有名ですが、古代教会の偉大な文献学者としても知られます。
エウセビオスは最初に教会史を書きました。この『教会史』は、わたしたちが用いることができるように資料を残してくれたおかげで、いつまでも基本的な書物であり続けています。エウセビオスの『教会史』により、古代教会の多くの出来事、人物、書物が忘却されずにすみました。ですから『教会史』は最初の数世紀のキリスト教を知るための第一の源泉資料といえます。

聖エフレム 目覚めていなさい、主は来られる

2013-12-05 00:00:00 | 日記
聖エフレム(306~373年) シリアの助祭、教会博士
『ディアテッサロン注解』
 キリストは、ご自分の再臨の時について弟子達が尋ねることのないように、「その日、その時は、だれも知らない。天使達も子も知らない。その時や時期は、あなたの知る所ではない※1」と言われた。キリストがその再臨の時を隠されたのは、私たちか目覚め、各自が自分の生涯のうちにその時が来ると思うようにするためである。もしいつ来るかが啓示されていたとすれば、キリストの来臨はその味を失うであろうし、またあらゆる時代の民は、それを待ち望まないであろう。キリストはご自分が来ると言われたが、いつ来るとは言われなかった※2。それは全ての人、あらゆる時代がキリストを熱心に待ち望むためである。

 主はご自分の来臨の前兆となる様々な出来事を知らせたが、それらがどの時点を指しているかということは、はっきりと分からない。これらの出来事は、色々変化したり、来たり、また去ったりして、今も続いているからである。終末におけるキリストの来臨は、その第一の来臨に似ているのである。

 義人たちや預言者たちが、自分たちの時代にキリストが来られるであろうと思って、第一の来臨を待ち望んでいた※3のと同様に、今日のキリスト信者の一人ひとりが、自分たちの時代にキリストを迎えることを望んでいる。ご自分の来られる日をキリストが明らかにされなかっただけに、それを望んでいるのである。キリストがご自分の来られる時に特に明らかにされなかったのは、時空を権威と主権を持って治めているご自身が、運命や特定の時間に従属していると考える人がいないようにするためである。キリストがご自分の来臨の時を自ら決められたので、その時はキリストに隠されているはずがない。それは、キリストがご自分の来臨の前兆を自ら描画されたことからもわかることである。キリストがそのようにされたのは、その日から後の世のすべての国民と世代に、キリストの来臨が自分たちの時代に起こると考えさせるためであった。

 目覚めていなさい。肉体が眠っているとき、私たちを支配しているのは自然であり、そのとき私たちの活動は私たちの意志ではなく、自然の衝動によって導かれているからである。また、弱さと悲しみの思い無力感が人の魂を支配しているとき、魂そのものの意向に反して魂を治め、導いているのは敵である悪魔なのである。眠るときには自然の力が人を支配し、無力を感じるときには敵である悪魔が魂を支配している。

・・・


待降節第一木曜日 読書
第一朗読 イザヤ 16:1-17:8
第二朗読 聖エフレム 『ディアテッサロン注解』

※1 マタイ24:36、使徒言行録 1:7
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

※2 マタイ24:3
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

※3 マタイ13:17
はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」



聖エフレム助祭教会博士
 東方諸教会・正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。306年頃、シリアのニシビスのキリスト者の家庭に生まれる。助祭に叙階され、ニシビスとエデッサで活躍し、神学のための学校を樹立した。禁欲生活を送るとともに、説教を続け、当時の謬説を論駁する書物を著した。373年に死去。

■(女子パウロ会 Laudate 聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=060901

■ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話に聖エフレムの紹介があります。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message266.htm

ナジアンズの聖グレゴリオ なんという賛嘆すべき交換

2013-12-03 00:00:10 | 日記
ナジアンズの聖グレゴリオ(330-389) カッパドキアのナジアンズの司教、教会博士
説教
 神のことば、世々に先立って存在する方、目に見えない方、とらえがたい方、物質とは無縁の方、初めよりの初め、光よりの光、生命と不死の泉、原型の表れ、不動のしるし、御父の完全な似姿、御父の顕(あらわ)れと言である方が、ご自分の像として創造された人間のもとに来られ、人間の肉体を救うために肉体を受け取り、魂を救うために人間の霊魂と一致し、ご自分の肉体と霊魂によって、それと同様なものである人間の霊肉を清められました。主は、罪を除いてすべての点で人間となられたのです。聖霊によって霊魂と肉体をあらかじめ清められていた処女マリアが、主を受胎しました。事実、母となるという尊厳と、処女であるといういっそう大きな尊厳をマリアに保たせることがふさわしいことだったのです。互いに反対する二つのもの、すなわち、肉と霊からなる唯一のものである主は、人間性を受け取った神として顕れました。主の霊は肉を神化し、肉は霊によって神化されたのです。

 他の人々を豊かにしてくださる主が貧しい者となられました※1。私が主の神性の豊かさを獲得するために、主は私の肉のまずしさを堪え忍ばれました。満ち足りた主が空(から)になられ、私が主の充満にあずかるために、ご自分の栄光を一時(ひととき)むなしくなさいました※2。

 なんと計り知れない善良さでしょう。なんとすばらしい秘義が私に実現したのでしょう。私は神の似姿として造られましたが、その似姿を保ちませんでした。主は神の似姿として創造された人間を救い、人間の肉体に失うことのない命をもたらすために、私の肉体を受けとられました。主は、私と新たな交わりをもたれました。それは実に、最初の交わりよりはるかにすばらしいものです。

・・・

 先触れの明かりであったヨハネ※5の後に、最も輝かしい光が到来します。声であったヨハネ※6の後にことばが、仲人に続いて花婿が※7来られます。このヨハネは、主のものとなる民を主のために準備し※8、その民が後に聖霊を受けるために、先に水によって洗い清めました。

 私たちは命に至るために、肉体を受けて死に渡される神を必要としていたのです。私たちは清められるために主と共に死にました。共に死んだのですから、共に復活しています。共に復活したのですから、共に栄光を受けているのです。


待降節第一火曜日 読書
第一朗読 イザヤ2:6~4:6 神の裁き
第二朗読 ナジアンズの聖グレゴリオ 説教

※1 2コリント8:9参照
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

※2 フィリピ2:7参照
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

※5 ヨハネ5:35
ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。

※6 イザヤ40:3
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

※7 ヨハネ3:29
花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。

※8 ルカ1:17
彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」



ナジアンズの聖グレゴリオ
聖バジリオの友人でもあったナジアンズの聖グレゴリオ。正教会・東方諸教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会の聖人(Wikipediaでは、ナジアンゾスのグレゴリオス)。「三位一体の神の歌い手」とも言われています。

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201
ベネディクト十六世の連続講話「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の第47回で「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message236.htm

クレタの聖アンデレ 見よ、あなたの主、正しい救い主が、あなたのところに来られる

2013-11-19 00:12:07 | 日記
クレタの聖アンデレ(660年~740年) ゴルテュナ(クレタ)の司教
説教
 「主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に※1」と、私たちもキリストに向かって叫びましょう。ぜひ、そのように叫びましょう。主に向かってシュロの枝を振るように、十字架上の死についての賛美を語りましょう。オリーブの枝のかわりに、互いに施しを示して主をほめたたえましょう。服を敷くように、その足下に心の望みを敷きましょう。それは、主がことごとく私たちの内に歩み入り、完全に私たちの内にお住みになり、そうして、ご自分のうちに私たちの全てを示してくださるようになるためです。預言者の言葉をもって、シオンに向かって言いましょう。「安心しなさい、娘シオンよ、恐れるな。『見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って※2。』」どこにでも存在し、すべてのものを満たしておられる主が、あなたにおいて救いをことごとく実現するために来られます。「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために※3」来られた主は、罪の道を歩んでさまよう人々を再び呼び戻すために来られます。それゆえ、恐れることはありません。「神はあなたの中におられ、あなたは揺らぐことがありません※4。」城壁のように手であなたを守る主を、手のひらを伸べて受け入れなさい。あなたの土台をその手のひらに据えてくださった主を受け入れなさい。ご自分の存在によって私たちの負債を取り除くために、罪を除いて私たちのすべてのものをご自分のうちに受け入れた主を受け入れなさい。喜びなさい。母なるシオンの町よ、恐れてはなりません。「あなたの祭りを祝いなさい※5。」あなたを訪れることによって私の所に来られた主を、そのいつくしみのゆえにたたえなさい。娘エルサレムよ、あなたも大いに喜びなさい。歌い、踊りなさい。「光を放て、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く※6」と、聖なるラッパであるイザヤのように私たちは叫びます。

・・・

 主の栄光とは、どのようなものでしょうか。それは十字架なのです。御父の栄光の反映であるキリストが※9、その十字架上で栄光を受けられました。それは、キリストご自身が、その受難の直前に言われたとおりです。主は言われます。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神は人の子に栄光をすぐにお与えになる。※10」ここで主は、十字架に上げられることを「栄光」と言っておられます。明らかに十字架はキリストの栄光であり、その高揚です。主はこのことについて言われます。「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。※11」


年間第三十三火曜日 読書
第一朗読 ゼカリヤ 9:1-10:2
第二朗読 クレタの聖アンデレ 説教

※1 ヨハネ12:13
なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

※2 ゼカリヤ9:9
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。

※3 ルカ5:32
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

※4 詩篇46:6
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

※5 ナホム2:1
見よ、良い知らせを伝え平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。
二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。

※6 イザヤ60:1
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。

※9 ヘブライ1:3参照
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

※10 ヨハネ13:31-32
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

※11 ヨハネ12:32
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」


クレタの聖アンデレ
正教会、カトリック教会の聖人(司教/大主教)。660年~740年。ダマスクスに生まれ、678年に修道士となり、692年にクレタ島のゴルテュナ(Gortyna)の大司教に就任します。説教集の他、多くの聖歌を残しました。(Wikipediaでは、クリトのアンドレイ)
名古屋ハリストス正教会 正教の聖人たち(クリトの聖アンドレイ)へ
http://www.orthodox-jp.com/nagoya/standreicret.htm

ルスペの聖フルゲンチオ 勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない

2013-11-18 22:05:37 | 日記
ルスペの聖フルゲンチオ司教(467~532) 北アフリカのルスペの司教
『罪のゆるしについて』
 「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに[変えられるの]です。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます。※1」パウロが「私たちは」と言うことによって、彼は自分とその仲間達と同様に、この世で驚異の交わりの中にとどまり、正しく生活している人々が、変えられる恵みをいただくとことになていることを示している。そして、この変化の特性について、次のように言い添えている。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになります※2。」人々が将来このような変化を正しい報いとして受け入れるためには、その人々は今それに先だって、神の無償の恵みによって変えられるのである。

 したがって、この世であくから善へ変えられた人々には、来るべき変化が報酬として約束されているのである。

・・・

 この地上では、彼らは回心するように彼らを照らす第1の復活によって変えられる。この第1の復活によって彼らは死からいのちへ、不義から義へ、不信仰から信仰へ、邪悪な行いから聖なる生活へと移る。それゆえ、彼らに対して第二の死は力をふるうことができない。このような人々について、ヨハネ黙示録ではこう言われている。「第1の復活にあずかる者は幸いな者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。※3」また同じ書ではこうも言われている。「勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることは無い。※4」第1の復活は心の回心であるが、第二の死は永遠の罰である。

 それゆえ、第二の死の永遠の罰に定められたくない者は皆、第一の復活にあずかるよう急ぐがよい。もし現世において神への畏れによって変えられて、邪悪な生活から善良な生活へ移ったなら、その者は死からいのちへ移ってゆき、また後に卑しい状態から栄光の状態へと変えられることになる。


年間第三十三月曜日 読書
第一朗読 ヨエル4:1-21
第二朗読 ルスペの聖フルゲンチオ 『罪のゆるしについて』

※1 1コリント15:52
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

※2 1コリント15:53
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

※3 黙示録20:6
第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

※4 黙示録2:11
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。


ルスペの聖フルゲンチオ
(Wikipediaでは、Fulgentius of Ruspe ルスペのフルゲンティウス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Fulgentius_of_Ruspe
北アフリカと言えば、フルゲンチオの約百年前に聖アウグスチヌスが活躍していました。かれも、聖アウグスチヌスの忠実な弟子の一人であり、当時の反救霊予定説を論駁しました。アウグスチヌスの伝統を遵守して反ベラギウス論争にも関わったようです。