キュロスのテオドレトス司教(393年~458年頃) シリアのキュロスの司教
『主の受肉について』
私たちの医薬、それは確かに救い主キリストの受難である。預言者は叫んでそれを教える。
「彼が担ったのは私たちの罪、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。彼は(神の罰として)苦しめられ、打ちのめされ、さげすまれた。彼が刺し貫かれたのは、私たちの罪のためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためである。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、さまよっていた。だから、屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」※1
羊飼いは散らされた羊の群れを見ると、群れから一匹を取って抱え、これと思う牧場に連れて行くと、残りの群れもそれに倣って引っ張って行かれる。同じように神であることばも、人類が迷ってしまったのを見ると、自らしもべの姿をとり※2、その姿をご自分と一致させて、それによって人類の本性の全体をご自分のもとに立ち戻らせ、よく牧されておらず、狼どもにさらされていた人々の群れを神の牧場に連れて行ったのである。
私たちの救い主が私たちの人間性をとられたのはこのためである。主・キリストが、救いをもたらす受難を引き受けられたのもこのためである。死に渡され、墓に置かれて、古くから長く続いた支配を滅ぼし、朽ちる状態に捕らわれていた人々に朽ちない命を約束されたのである。主は壊された神殿[すなわち、ご自分の体]を建て直して復活させ、彼の復活を待ち望んでいる死者たちに、真実で堅固な約束を与えられたのである。
主は言われる。「私があなたがたからとった人間性の中に神性が宿り、人間性が神性と一致したゆえにその人間性は復活を得、苦しみを伴う朽ちる状態を捨てて、朽ちない不死性の状態に移ったのである。これと同様に、あなたがたもまた、死の冷酷な隷属から解放され、苦しみを伴う朽ちる状態を捨てて、苦しみのない状態を身にまとうであろう」
それために、主は洗礼という賜物を施すように使徒達をすべての人のもとへ使わしてくださった。主は言われた。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。※3」 洗礼は主の死を表す影であり、似姿である。パウロは言う。「もし私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかるであろう。※4」
年間第19火曜日 読書
第一朗読 美加3:1-12
第二朗読 キュロスのテオドレトス司教 『主の受肉について』
※1 イザヤ53:4-7
災いだ、罪を犯す国、咎の重い民
悪を行う者の子孫、堕落した子らは。
彼らは主を捨てイスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
何故、お前たちは背きを重ねなおも打たれようとするのか
頭は病み、心臓は衰えているのに。
頭から足の裏まで、満足なところはない。
打ち傷、鞭のあと、生傷はぬぐわれず、
包まれず油で和らげてもらえない。
お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ
田畑の実りは、お前たちの目の前で異国の民が食い尽くし
異国の民に覆されて、荒廃している。
※2 フィリピ2:7
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
※3 マタイ28:19
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
※4 ローマ6:5
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
神はモーセに言われた。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」。
イエスは弟子に言われた。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう。」
私たちの罪のために、人の子は 十字架に上げられました。
このことを心から信じた時、 イエス様が『わたしはある』という方であることが分かります。
この信仰の恵みはどこからくるのでしょうか。
パウロは言います。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
だから、私たちは
「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けられたのです。
神に感謝!
キュロスのテオドレトス司教
教父、神学者、キュロスの司教。正教会の聖人。
Wikipedia テオドレトス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%88%E3%82%B9
ベネディクト十六世が一般謁見演説でテオドレトスを何回か引用されています
六回目の演説
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message9.htm
三十回目の演説
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message61.htm
百七十三回目の演説
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message395.htm
『主の受肉について』
私たちの医薬、それは確かに救い主キリストの受難である。預言者は叫んでそれを教える。
「彼が担ったのは私たちの罪、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。彼は(神の罰として)苦しめられ、打ちのめされ、さげすまれた。彼が刺し貫かれたのは、私たちの罪のためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためである。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、さまよっていた。だから、屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」※1
羊飼いは散らされた羊の群れを見ると、群れから一匹を取って抱え、これと思う牧場に連れて行くと、残りの群れもそれに倣って引っ張って行かれる。同じように神であることばも、人類が迷ってしまったのを見ると、自らしもべの姿をとり※2、その姿をご自分と一致させて、それによって人類の本性の全体をご自分のもとに立ち戻らせ、よく牧されておらず、狼どもにさらされていた人々の群れを神の牧場に連れて行ったのである。
私たちの救い主が私たちの人間性をとられたのはこのためである。主・キリストが、救いをもたらす受難を引き受けられたのもこのためである。死に渡され、墓に置かれて、古くから長く続いた支配を滅ぼし、朽ちる状態に捕らわれていた人々に朽ちない命を約束されたのである。主は壊された神殿[すなわち、ご自分の体]を建て直して復活させ、彼の復活を待ち望んでいる死者たちに、真実で堅固な約束を与えられたのである。
主は言われる。「私があなたがたからとった人間性の中に神性が宿り、人間性が神性と一致したゆえにその人間性は復活を得、苦しみを伴う朽ちる状態を捨てて、朽ちない不死性の状態に移ったのである。これと同様に、あなたがたもまた、死の冷酷な隷属から解放され、苦しみを伴う朽ちる状態を捨てて、苦しみのない状態を身にまとうであろう」
それために、主は洗礼という賜物を施すように使徒達をすべての人のもとへ使わしてくださった。主は言われた。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。※3」 洗礼は主の死を表す影であり、似姿である。パウロは言う。「もし私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかるであろう。※4」
年間第19火曜日 読書
第一朗読 美加3:1-12
第二朗読 キュロスのテオドレトス司教 『主の受肉について』
※1 イザヤ53:4-7
災いだ、罪を犯す国、咎の重い民
悪を行う者の子孫、堕落した子らは。
彼らは主を捨てイスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。
何故、お前たちは背きを重ねなおも打たれようとするのか
頭は病み、心臓は衰えているのに。
頭から足の裏まで、満足なところはない。
打ち傷、鞭のあと、生傷はぬぐわれず、
包まれず油で和らげてもらえない。
お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ
田畑の実りは、お前たちの目の前で異国の民が食い尽くし
異国の民に覆されて、荒廃している。
※2 フィリピ2:7
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
※3 マタイ28:19
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
※4 ローマ6:5
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
神はモーセに言われた。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」。
イエスは弟子に言われた。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう。」
私たちの罪のために、人の子は 十字架に上げられました。
このことを心から信じた時、 イエス様が『わたしはある』という方であることが分かります。
この信仰の恵みはどこからくるのでしょうか。
パウロは言います。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
だから、私たちは
「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けられたのです。
神に感謝!
キュロスのテオドレトス司教
教父、神学者、キュロスの司教。正教会の聖人。
Wikipedia テオドレトス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%88%E3%82%B9
ベネディクト十六世が一般謁見演説でテオドレトスを何回か引用されています
六回目の演説
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message9.htm
三十回目の演説
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message61.htm
百七十三回目の演説
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message395.htm