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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖ペトロ・クリソロゴ 人は祈りによって戸をたたいて願うことを断食によって獲得し、施しによって受け取る

2014-03-25 00:00:00 | 聖ペトロ・クリソロゴ
聖ペトロ・クリソロゴ司教(380-450) ラヴェンナの司教、教会博士
説教
 兄弟の皆さん、信仰を確立し、信心を深め、徳を保つのはこれによるというものが三つあります。祈りと断食と施しの行いです。人は祈りによって戸を叩いて願うことを、断食によって獲得し、施しの行いによって受け取ります。祈り、施し、断食の三つは一つであって、相互にいのちを与え合います。

 実に祈りの魂となるのは断食で、断食のいのちとなるのは施しです。この三つは切り離してはならないもの、分ける事のできないものです。このうちの一つだけをもつ人、三つを一緒にもたない人は何も持たないのも同然です。そこで祈る人は断食するようにしなさい。断食する人は施しなさい。神によって自分の願いが聞き入れられることを望んでいる人は、自分に助けを求める人の願いを聞き入れるべきです。自分に願い求める人に耳を閉ざさない人は、自分の願いを神が聞き入れてくださるようにするのです。

 断食する人は、食べ物を欠いている人の苦しみを理解しなさい。自分が飢え渇いていることを神に知っていただきたい人は、飢えている人の願いを聞きなさい。神の慈しみを期待する人は、人に慈しみを示しなさい。神の好意を求める人は、人に対して行いをもって好意を示しなさい。神が自分に何かを与えることを望む人は、自分から人にものを与えなさい。自分は人の願いを断って、その人に与えないものを神が与えるように願う人は、悪質な嘆願者です。

 人よ、神が自分に対して示してくださるいつくしみの尺度となりなさい。つまり、神から自分に対してしてもらいたいしかた、度合い、速さと同じくらい速く、同じ度合い、同じしかたで、あなたも人にいつくしみを施しなさい。

 そこで、祈りと施しと断食が一緒になって、神の前で私たちを弁護するものになるようにしましょう。この三つが私たちのための一つのとりなしとなり、三つの形をとった一つの祈りとなりますように。

 神を軽んずることによって失ったものを断食によって捜し求めましょう。自分の魂を断食によっていけにえとして捧げましょう。これにまさって神に捧げることのできるものは、他にないからです。それは預言者が証言しているとおりです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ、悔いる心を神は侮られません※1。」

 人よ、神に自分の魂を捧げなさい。そして断食を供え物として捧げなさい。そうすれば、それが清い供え物、聖なるいけにえ、生きたいけにえとなります。それはあなたのものとしてとどまりながら、しかも神にささけられたものとなります。これを神に捧げない人には弁解の余地はありません。神にささげるはずの自分を持ち合わせないわけはないからです。

 ところで、このことが神によみされるためには、施しの行いが後に続かなくてはなりません。施しの水で潤されなければ、断食は目を出しません。施しという水がなければ断食は渇き果てます。断食にとって施しの行いは、土にとっての雨です。断食する人が心を改め、肉体を清め、悪徳を根こそぎにし、美徳の種をまいても、施しの水を注がないなら、その人は身の収穫ができません。

・・・



四旬節第三火曜日 読書
第一朗読 出エジプト記 32:1-20
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ司教の説教

※1 詩編51:19
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません


聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
 380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002

ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)のなかで、聖ペトロ・クリソロゴについて、すこし触れられています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm

聖ペトロ・クリソロゴ 私たちのために生まれることを望まれた方

2014-01-06 00:00:00 | 聖ペトロ・クリソロゴ
聖ペトロ・クリソロゴ(380-450年頃) ラベンナの司教、教会博士
説教
 主の受肉の秘義のうちに、神性の明らかなしるしが常にありましたが、今日祝う主の公現は、幾重にも神が人の体を訪れたことを表しています。それは、常に知恵に暗い死すべき人間が、恵みによって得ることのできたこれほど偉大なものを、無知のために失ってはならないからです。

 私たちのために生まれることを望まれた方は、私たちによって知られないままでいることを望まれなかったのです。ですから、神のいつくしみのこの偉大な秘義が、大きな誤りの機会とならないように、ご自分を現してくださいます。

 今日、天に輝く方を求めていた占星術の学者たちは、その方を飼い葉桶の中に見いだしたのです。今日、彼らは長い間隠されていた方を、布にくるまれた者として明らかに見いだして、驚きました。

 今日、占星術の学者はそこで見たこと、すなわち地上に天を、天上に地を、神のうちに人を、人のうちに神を、そして全世界をもってしても包み込むことのできない方が、この小さな体となられたとを深い驚きをもって思いめぐらしたのです。

 そして、彼らは理屈をこねず、見てすぐに信じ、神秘的な贈り物を捧げて信仰を表し、乳香をもって神を、黄金をもって王を、没薬をもって死すべき方を認めます。こうして後の者であった異邦人が、先の者となったのです※1。占星術の学者たちの信仰から、異邦人たちの信仰が始まったからです。

 今日、世の罪を洗うためにキリストはヨルダン川に下りました。キリストがそのために来られたことをヨハネは証言して言うのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ※2。」今日、しもべが主を、人間が神を、ヨハネがキリストを捕らえています。しかし、ゆるすめたではなく、ゆるされるために彼を捕らえているのです。

 今日、預言者の言ったとおり、「主の声が水の上に響くのです※3。」どのような声でしょうか。「これは私の愛する子、私の心に適う者※4」という声です。


公現後の降誕節 月曜日 読書
第一朗読 イザヤ61:1-11
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ 説教
※1 マタイ19:30参照
しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。

※2 ヨハネ1:29
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

※3 詩編29:3
主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。

※4 マタイ3:17
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。



聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002
ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)のなかで、聖ペトロ・クリソロゴについて、すこし触れられています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm

聖ペトロ・クリソロゴ 愛は神を見たいと求める

2013-12-12 00:00:00 | 聖ペトロ・クリソロゴ
聖ペトロ・クリソロゴ(380-450年頃) ラベンナの司教、教会博士
説教
 世界が恐怖で傷ついているのをご覧になって、神は直ちに愛によって世をご自分に引き寄せ、恵みによって招き、愛によって支え、情けによって包もうとして働きかけておられます。

 そのために、罪に固まってしまった地上を洪水という罰によって洗い清め、ノアを新しい時代の生みの親とし、優しいことばで激励し、親しい信頼を授け、今のことについて丁寧に論じ、将来の事については恵みを約束して励まし、命令するのではなくご自分で一緒に仕事に参加して、一つの箱舟の中に全世界の生みの親がすべて入ってから戸を閉ざされました。それは、交わりから生じた愛が奴隷のような恐れを取り除き、一緒に仕事をすることによって救い得たものが、共に愛を保つことによって守られるようにするためでした※1。

 またそのために、神はアブラハムを異邦人の中から呼んで、その名を気高いものに変え、信仰の父とし、旅するときには付き添い、他国人の間では守り、富を多く持つ者としてくださいました。また、勝利者とし、約束を保証し、侮辱の中から救い出し、客となって訪れ、子供を授かることはないと希望をなくしていたところに不思議に子供をお与えになりました。それは、このように多くの恵みに浴し、これほどの神の愛の優しさに見せられて、アブラハムが神を畏れるのではなく愛することを学び、怖がるのではなく愛して尊ぶにようなるためでした※2。

 ・・・


待降節第二木曜日 読書
第一朗読 イザヤ26:7-21 復活を求める祈り
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ 説教
※1 創世記 7章参照
※2 創世記 12章参照


聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002

ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)の中で、聖ペトロ・クリソロゴについて、少し触れています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm

聖ペトロ・クリソロゴ 神の知恵であることばは肉となられた

2013-10-26 14:03:31 | 聖ペトロ・クリソロゴ
聖ペトロ・クリソロゴ(380-450年頃) ラベンナの司教、教会博士
説教
 人類の出発点に二人の人がいると使徒パウロから教わります。アダムとキリストです。二人の体は同じでしたが、業績は異なります。体の各部分の構造は全く同じでしたが、の存在の根源は全く異なっていたのです。パウロは言います。「最初の人アダムは命である生き物となったが、最後のアダムは命を与える霊となったのです※1。」

 最初のアダムは最後のアダムによって造られ、生きる本源である魂をこの最後のアダムによって与えられました。一方、最後のアダムは、ご自身によっ形づくられたのです。彼は他者からいのちをもらうようなものではなく、すべてのものにご自分で命をお与えになります。最初のアダムは卑しい土から造られ、最後のアダムは尊い処女(おとめ)の胎から生まれたのです。前者においては、土が肉へと変えられ、後者においては、肉が神にまで高められるのです。

 さらに何を言いましょうか。最後のアダムは最初のアダムを造られたとき、すでにご自分の似姿を彼の中に据えたのです。だから、最後のアダムはあの最初のアダムの役割を受け、名をも身に受けられました。それは、ご自分の似姿として造られた人間が滅んでしまわないようにするためでした。最初のアダムと最後のアダムがいます。最初のアダムには始まりがありますが、最後のアダムには終わりがありません。実に最後のアダムが最初の者だからです。ご自身が言われます。「わたしは最初の者にして、最後の者。※2」


年間第二十九土曜日 読書
第一朗読 バルク3:9-4:4
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ司教 説教

※1 1コリント15:45
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

※2 黙示録22:13
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。


聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002

ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)の中で、聖ペトロ・クリソロゴについて、少し触れています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm

聖ペトロ・クリソロゴ 神のいけにえ、神の祭司となりなさい

2013-04-23 00:00:44 | 聖ペトロ・クリソロゴ
聖ペトロ・クリソロゴ(380-450年頃) ラベンナの司教、教会博士
説教
「神のあわれみによって、あなたがたに頼みます※1」 パウロは頼みます。いや、むしろ神がパウロを通して頼んでおられます。恐れられるよりは愛されることを望んでおられるからです。神が頼んでおられるのは、主(あるじ)として振る舞うよりは父として振る舞いたいからです。神は憐れみをもって頼んでおられます。後に、厳しく罰することにならないためです。

主がどのように頼んでおられるかを良く聞きなさい。「私が持っているあなたがたの体、あなたがたの肢体、あなたがたの内臓、あなたがたの骨、あなたがたの血を見なさい。私の神性を恐れるなら、せめて、あなたがたと同じ人間性を持つ私を愛してくれないのか。主(あるじ)としての私から逃げたいのなら、せめて、私を親のように思って馳せよってくれないのか。

あなたがた故の私の受難の大きさが、あなたがたを当惑させているのかも知れない。恐れてはならない。この十字架は私を刺すのではなく、死を刺しているのだ。この釘(くぎ)は私に苦痛を与えるのではなく、あなた方に対する愛を一層深く私に刻みつけるのだ。これらの傷はわたしに呻き声を上げさせるのではなく、あなたがたを一層深く私の心へと引き込むのだ。私の体が伸ばされたことは、私を苦しませるのではなく、あなたがたを受け入れるために私の胸元を広げるためである。私が自分の血を失うのではなく、その血があなたがたの贖いの代価となるからである。

さあ、来なさい。戻って来なさい。そして、私が悪に対して善を、侮辱に対して愛を、こんなにも大きな傷に対して愛を報いる父だということを体験しなさい。」

それで、使徒パウロが何を望んでいるのかを聞きましょう。彼は言います。「自分の体をささげなさい※2。」パウロはこう頼むことによって、すべての人を祭司職に昇格させます。「自分の体を生けるいけにえとしてささげなさい※3。」

ああ、キリストの祭司職は、なんと素晴らしいことでしょうか。この祭司職にあげられた人自身がいけにえとも祭司ともなり、自分以外の存在を自ら神にささげます。いけにえも祭司もそのままあり続けます。いけにえがほふられながら生き続け、それをささげる祭司がいけにえを殺すことはありません。

なんと感嘆すべきいけにえでしょうか。体を殺すことなく体をささげ、血をながすことなく血をささげます。「神のあわれみによって、あなたがたに頼みます。自分の体を生ける生贄としてささげなさい」とパウロは言います。

兄弟の皆さん、このいけにえは、世の命のためにご自分の体を生けるものとしておささげになったキリストのいけにえの姿に由来します。事実、殺されても生きておられルキリストこそ、ご自分の体を生けるいけにえとされたのです。このようないけにえにおいては、死は大小のように支払われますが、いけにえは生き続けます。いけにえは生き、死は罰せられます。だから、殉教者は死ぬことによって生まれ、命を終えるときに生き始め、殺されて生き、地上では消滅したものと思われて天に輝きます。

「神のあわれみによって、あなたがたに頼みます。自分の体を聖なる生ける生け贄として捧げなさい」とパウロは言います。これは預言者の歌ったことです。「あなたはいけにえやささげものを望まず、むしろ、私のために体を供えて下さいました※4。」



復活節 第四火曜日 読書
第一朗読 黙示録 14:1-13 小羊の勝利
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ司教の説教

※1、※2,※3 ローマ12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

※4 詩編40:7(七十人訳)
あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めずただ、わたしの耳を開いてくださいました。(新共同訳)



聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002

ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)のなかで、聖ペトロ・クリソロゴについて、少し触れられています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm