聖ペトロ・クリソロゴ司教(380-450) ラヴェンナの司教、教会博士
説教
兄弟の皆さん、信仰を確立し、信心を深め、徳を保つのはこれによるというものが三つあります。祈りと断食と施しの行いです。人は祈りによって戸を叩いて願うことを、断食によって獲得し、施しの行いによって受け取ります。祈り、施し、断食の三つは一つであって、相互にいのちを与え合います。
実に祈りの魂となるのは断食で、断食のいのちとなるのは施しです。この三つは切り離してはならないもの、分ける事のできないものです。このうちの一つだけをもつ人、三つを一緒にもたない人は何も持たないのも同然です。そこで祈る人は断食するようにしなさい。断食する人は施しなさい。神によって自分の願いが聞き入れられることを望んでいる人は、自分に助けを求める人の願いを聞き入れるべきです。自分に願い求める人に耳を閉ざさない人は、自分の願いを神が聞き入れてくださるようにするのです。
断食する人は、食べ物を欠いている人の苦しみを理解しなさい。自分が飢え渇いていることを神に知っていただきたい人は、飢えている人の願いを聞きなさい。神の慈しみを期待する人は、人に慈しみを示しなさい。神の好意を求める人は、人に対して行いをもって好意を示しなさい。神が自分に何かを与えることを望む人は、自分から人にものを与えなさい。自分は人の願いを断って、その人に与えないものを神が与えるように願う人は、悪質な嘆願者です。
人よ、神が自分に対して示してくださるいつくしみの尺度となりなさい。つまり、神から自分に対してしてもらいたいしかた、度合い、速さと同じくらい速く、同じ度合い、同じしかたで、あなたも人にいつくしみを施しなさい。
そこで、祈りと施しと断食が一緒になって、神の前で私たちを弁護するものになるようにしましょう。この三つが私たちのための一つのとりなしとなり、三つの形をとった一つの祈りとなりますように。
神を軽んずることによって失ったものを断食によって捜し求めましょう。自分の魂を断食によっていけにえとして捧げましょう。これにまさって神に捧げることのできるものは、他にないからです。それは預言者が証言しているとおりです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ、悔いる心を神は侮られません※1。」
人よ、神に自分の魂を捧げなさい。そして断食を供え物として捧げなさい。そうすれば、それが清い供え物、聖なるいけにえ、生きたいけにえとなります。それはあなたのものとしてとどまりながら、しかも神にささけられたものとなります。これを神に捧げない人には弁解の余地はありません。神にささげるはずの自分を持ち合わせないわけはないからです。
ところで、このことが神によみされるためには、施しの行いが後に続かなくてはなりません。施しの水で潤されなければ、断食は目を出しません。施しという水がなければ断食は渇き果てます。断食にとって施しの行いは、土にとっての雨です。断食する人が心を改め、肉体を清め、悪徳を根こそぎにし、美徳の種をまいても、施しの水を注がないなら、その人は身の収穫ができません。
・・・
四旬節第三火曜日 読書
第一朗読 出エジプト記 32:1-20
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ司教の説教
※1 詩編51:19
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません
聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)
女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002
ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)のなかで、聖ペトロ・クリソロゴについて、すこし触れられています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm
説教

実に祈りの魂となるのは断食で、断食のいのちとなるのは施しです。この三つは切り離してはならないもの、分ける事のできないものです。このうちの一つだけをもつ人、三つを一緒にもたない人は何も持たないのも同然です。そこで祈る人は断食するようにしなさい。断食する人は施しなさい。神によって自分の願いが聞き入れられることを望んでいる人は、自分に助けを求める人の願いを聞き入れるべきです。自分に願い求める人に耳を閉ざさない人は、自分の願いを神が聞き入れてくださるようにするのです。
断食する人は、食べ物を欠いている人の苦しみを理解しなさい。自分が飢え渇いていることを神に知っていただきたい人は、飢えている人の願いを聞きなさい。神の慈しみを期待する人は、人に慈しみを示しなさい。神の好意を求める人は、人に対して行いをもって好意を示しなさい。神が自分に何かを与えることを望む人は、自分から人にものを与えなさい。自分は人の願いを断って、その人に与えないものを神が与えるように願う人は、悪質な嘆願者です。
人よ、神が自分に対して示してくださるいつくしみの尺度となりなさい。つまり、神から自分に対してしてもらいたいしかた、度合い、速さと同じくらい速く、同じ度合い、同じしかたで、あなたも人にいつくしみを施しなさい。
そこで、祈りと施しと断食が一緒になって、神の前で私たちを弁護するものになるようにしましょう。この三つが私たちのための一つのとりなしとなり、三つの形をとった一つの祈りとなりますように。
神を軽んずることによって失ったものを断食によって捜し求めましょう。自分の魂を断食によっていけにえとして捧げましょう。これにまさって神に捧げることのできるものは、他にないからです。それは預言者が証言しているとおりです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ、悔いる心を神は侮られません※1。」
人よ、神に自分の魂を捧げなさい。そして断食を供え物として捧げなさい。そうすれば、それが清い供え物、聖なるいけにえ、生きたいけにえとなります。それはあなたのものとしてとどまりながら、しかも神にささけられたものとなります。これを神に捧げない人には弁解の余地はありません。神にささげるはずの自分を持ち合わせないわけはないからです。
ところで、このことが神によみされるためには、施しの行いが後に続かなくてはなりません。施しの水で潤されなければ、断食は目を出しません。施しという水がなければ断食は渇き果てます。断食にとって施しの行いは、土にとっての雨です。断食する人が心を改め、肉体を清め、悪徳を根こそぎにし、美徳の種をまいても、施しの水を注がないなら、その人は身の収穫ができません。
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四旬節第三火曜日 読書
第一朗読 出エジプト記 32:1-20
第二朗読 聖ペトロ・クリソロゴ司教の説教
※1 詩編51:19
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません
聖ペトロ・クリソロゴ司教 (380-450)
380年頃、イタリアのエミリア州イモラに生まれ、そこで聖職者になった。424年にラヴェンナの司教に選ばれ、説教と著作で教区民を熱心に指導した。450年頃に帰天された。教会博士。 カトリック教会の聖人。 (Wikipediaでは、Peter Chrysologus)
女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=073002
ベネディクト十六世の一般謁見演説(2006年2月1日)のなかで、聖ペトロ・クリソロゴについて、すこし触れられています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message75.htm