聖グレゴリオ1世(540~604) ローマ司教、教会博士
『ヨブ記についての教訓的注解』
聖なる教会のかたどりである聖ヨブは、時としてキリストの体である教会が語ってることを表し、時として教会の頭であるキリストが語っていることを表しており、しかもキリストの体の肢体として語りながら、突然その頭であるキリストの崇高なことばを用いる。次に続く、「私の手には不義が無く、神に向かって清い祈りを唱えたとき、それらの苦痛を忍んだ※1」という言葉は、その一例である。
事実、罪を犯したことが無く、その口には何の偽りもなかった※2にもかかわらず、私たちを贖うために十字架の苦痛を忍ばれた方こそ、手には不義が無く、苦痛を忍んだのである。この方のみが、だれにもまして清い祈りを神に唱えたのである。受難の苦痛のさなかでさえ、ご自分を迫害する者たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです※3」と祈られたからです。
自分に苦痛を耐えさせている者たちのためにいつくしみ深くとりなすこと以上に清い祈りが考えられるであろうか。こうして、彼らが迫害者として残酷にも流させた私たちの救い主の血を、後に信者になって飲み、主こそ神の子であると宣べ伝えるようになったのである。
この血についてヨブは次のように言っている。「土よ、私の血を覆うな。私の叫びに隠れ場を与えるな※4。」神は罪を犯した人祖に、「お前は土であり、土に帰る※5」と言われたのである。
この土は、私たちの贖い主の血を隠さなかった。事実、各々の罪人が自分の贖いの代価であるこの血を拝領しながら主の御血をほめたたえ、できるだけ多くの人にそれを知らせるのである。
土が主の血を覆うこともなかった。事実、聖なる教会は自分の贖いの秘義を、すでに世界のあらゆる地域に宣教しているのである。
ヨブの言葉の後半に注目しよう。「私の叫びに隠れ場を与えるな。」拝領される贖いの御血こそ、私たちの贖い主の叫びなのである。そのためにパウロも、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血※6」と言っている。神は昔、アベルの血について、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる※7」と言われた。
しかし、イエスの血はアベルの血よりも立派に語る。アベルの血は弟殺しの兄の死を求めたのだが、主の血は迫害者たちのためにいのちを勝ち得たからである。
それで、主の受難の秘跡が私たちにとって無益なものとならないために、私たちは拝領するものを模倣し、また敬うものを他の人々に宣べ伝えなければならない。
もし心で信じていることを口で黙っているなら、主の叫びに隠れ場を与えてしまうことになる。そこで、主の叫びが私たちの中で隠れてしまわないために、各自が能力に応じて、自分を生かしている神秘を他の人々に告げ知らせなければならないのである。
四旬節第三金曜日 読書
第一朗読 出エジプト記 35:30~37:9
第二朗読 グレゴリオ一世『ヨブ記についての教訓的注解』
信仰を宣べ伝える 信じていることを伝えるとは、「各自に与えられた能力に応じて、自分を生かしている神秘」を告げ知らせること。
ところで、正教会の時報などみると、旧約の聖人も崇敬しているようですが、ローマ教会も、グレゴリオ一世が「聖ヨブ」と呼んでいるように、昔は旧約の聖人も崇敬されていたようです。現在のカトリック教会は、旧約の聖人という考え方はあまりないと思います。ただ、洗礼名で、旧約の聖人をつけられた方がいるので、私も含め、一般信徒には余り知られていないだけなのかも知れません。
参考 正教時報(2008年7月~2012年3月まで PDFファイルとして掲載されています)
http://www.orthodoxjapan.jp/jihou.html
※1 ヨブ16:17
わたしの手には不法もなく、わたしの祈りは清かったのに。
※2 イザヤ53:9
彼は不法を働かずその口に偽りもなかったのにその墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。
※3 1ペトロ2:22
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
※4 ヨブ16:18
大地よ、わたしの血を覆うな、わたしの叫びを閉じ込めるな。
※5 創世記3:19
お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。
※6 ヘブライ12:24
新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
※7 創世記4:10
主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
聖グレゴリオ一世
540年頃、ローマに生まれる。帝国の高位公務員となり、ついにローマの市長に任命されたが、やがてその職を退いて修道生活に入り、助祭に叙階されて駐コンスタンチノープル教皇大使となった。590年9月3日にローマ司教に選ばれ、優れた牧者として公務に励み、貧しい人々を助け、キリスト教信仰をはぐくみ、広めるために力を注いだ。道徳と神学に関する多くの著作を残し、604年3月12日に帰天(死去)。
(ローマ司教 在位590-604) (Wikipediaではグレゴリウス1世) カトリック教会、正教会で聖人。
女子パウロ会 聖人カレンダー より
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=090301
ベネディクト十六世の「教父に関する講話」で聖グレゴリオを紹介しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message313.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message315.htm
『ヨブ記についての教訓的注解』

事実、罪を犯したことが無く、その口には何の偽りもなかった※2にもかかわらず、私たちを贖うために十字架の苦痛を忍ばれた方こそ、手には不義が無く、苦痛を忍んだのである。この方のみが、だれにもまして清い祈りを神に唱えたのである。受難の苦痛のさなかでさえ、ご自分を迫害する者たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです※3」と祈られたからです。
自分に苦痛を耐えさせている者たちのためにいつくしみ深くとりなすこと以上に清い祈りが考えられるであろうか。こうして、彼らが迫害者として残酷にも流させた私たちの救い主の血を、後に信者になって飲み、主こそ神の子であると宣べ伝えるようになったのである。
この血についてヨブは次のように言っている。「土よ、私の血を覆うな。私の叫びに隠れ場を与えるな※4。」神は罪を犯した人祖に、「お前は土であり、土に帰る※5」と言われたのである。
この土は、私たちの贖い主の血を隠さなかった。事実、各々の罪人が自分の贖いの代価であるこの血を拝領しながら主の御血をほめたたえ、できるだけ多くの人にそれを知らせるのである。
土が主の血を覆うこともなかった。事実、聖なる教会は自分の贖いの秘義を、すでに世界のあらゆる地域に宣教しているのである。
ヨブの言葉の後半に注目しよう。「私の叫びに隠れ場を与えるな。」拝領される贖いの御血こそ、私たちの贖い主の叫びなのである。そのためにパウロも、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血※6」と言っている。神は昔、アベルの血について、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる※7」と言われた。
しかし、イエスの血はアベルの血よりも立派に語る。アベルの血は弟殺しの兄の死を求めたのだが、主の血は迫害者たちのためにいのちを勝ち得たからである。
それで、主の受難の秘跡が私たちにとって無益なものとならないために、私たちは拝領するものを模倣し、また敬うものを他の人々に宣べ伝えなければならない。
もし心で信じていることを口で黙っているなら、主の叫びに隠れ場を与えてしまうことになる。そこで、主の叫びが私たちの中で隠れてしまわないために、各自が能力に応じて、自分を生かしている神秘を他の人々に告げ知らせなければならないのである。
四旬節第三金曜日 読書
第一朗読 出エジプト記 35:30~37:9
第二朗読 グレゴリオ一世『ヨブ記についての教訓的注解』
信仰を宣べ伝える 信じていることを伝えるとは、「各自に与えられた能力に応じて、自分を生かしている神秘」を告げ知らせること。
ところで、正教会の時報などみると、旧約の聖人も崇敬しているようですが、ローマ教会も、グレゴリオ一世が「聖ヨブ」と呼んでいるように、昔は旧約の聖人も崇敬されていたようです。現在のカトリック教会は、旧約の聖人という考え方はあまりないと思います。ただ、洗礼名で、旧約の聖人をつけられた方がいるので、私も含め、一般信徒には余り知られていないだけなのかも知れません。
参考 正教時報(2008年7月~2012年3月まで PDFファイルとして掲載されています)
http://www.orthodoxjapan.jp/jihou.html
※1 ヨブ16:17
わたしの手には不法もなく、わたしの祈りは清かったのに。
※2 イザヤ53:9
彼は不法を働かずその口に偽りもなかったのにその墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。
※3 1ペトロ2:22
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
※4 ヨブ16:18
大地よ、わたしの血を覆うな、わたしの叫びを閉じ込めるな。
※5 創世記3:19
お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。
※6 ヘブライ12:24
新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
※7 創世記4:10
主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
聖グレゴリオ一世
540年頃、ローマに生まれる。帝国の高位公務員となり、ついにローマの市長に任命されたが、やがてその職を退いて修道生活に入り、助祭に叙階されて駐コンスタンチノープル教皇大使となった。590年9月3日にローマ司教に選ばれ、優れた牧者として公務に励み、貧しい人々を助け、キリスト教信仰をはぐくみ、広めるために力を注いだ。道徳と神学に関する多くの著作を残し、604年3月12日に帰天(死去)。
(ローマ司教 在位590-604) (Wikipediaではグレゴリウス1世) カトリック教会、正教会で聖人。
女子パウロ会 聖人カレンダー より
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=090301
ベネディクト十六世の「教父に関する講話」で聖グレゴリオを紹介しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message313.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message315.htm