毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖ベダ 私の魂は主をあがめる

2013-12-22 00:00:00 | 聖ベダ
聖ベダ・ヴェネラビリス(673~735) ベネディクト会司祭 教会博士
『ルカ福音書注解』
 「マリアは言った。『私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえる※1。』」

 マリアが言ったのは次のようなことである。主は前代未聞の偉大な恵みを私に授けてくださったので、それを言葉で言い表すことはできず、心の奥底でそれを感じ取ることもほとんどできない。ゆえに賛美と感謝をささげるために、私は魂の力の限りを尽くす。神の無権の偉大さを眺めるために、私は感謝をこめて、自分の命、感覚、理解力のすべてをそれに向ける。私の内に宿った救い主イエスの永遠の神性によって、私の霊は喜びに満たされているからである。

 「力ある方が、私に偉大な業を行われた。その名は尊い※2。」

 この言葉は、「私の魂は主をあがめる」という初めの言葉に結ばれる。神から偉大な業を行われた魂だけがふさわしく神をあがめ、自分と思いを同じくする人々に対して、「わたしと共に主をあがめ、共にその名をたたえよう※3」と言うことができるのである。

 主を知りながら、自分にできるかぎり主をたたえず、その名を尊ばない人は、「天の国で最も小さい者と呼ばれる※4」であろう。主の名が尊いと言われるのは、神が比類ない力の頂点にあって、すべての被造物を超え、その造られた宇宙とは全く別のものだからである。


待降節 12月22日 読書
第一朗読 イザヤ49:14~50:1 シオンの再建
第二朗読 聖ベダ・ヴェネラビリス司祭 『ルカ福音書注解』

※1 ルカ1:46-47
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

※2 ルカ1:49
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

※3 詩編34:4
わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。

※4 マタイ5:19
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。



聖ベダ(672年ー735年)
カトリックの聖人。カトリック、聖公会、ルーテル教会、正教会で崇敬されている。
イギリスのウェアマスの修道院の近くに生まれ、7歳でベネディクト修道院に入り聖ベネディクト・ピスコプから教育を受け、17歳で助祭、そして30歳で司祭に叙階されます。初代教会に興味をもったベダは、聖霊のわざが歴史において継続すると考え(「 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16-17))、その後の教父と公会議の歴史をたどりました。(Wikipediaでは ベーダ・ヴェネラビリス)

女子パウロ会 聖人カレンダー(聖ベダ司祭教会博士) へリンク
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=052503

ベネディクト16世が「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第2回に「聖ベーダ・ウェネラビリス」について解説されています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message383.htm

聖ベダ司祭 イエスはマタイをあわれみ選ぼうとしてご覧になった

2013-09-21 00:27:11 | 聖ベダ
聖ベダ司祭(637-735年)ベネディクト会士、司祭、教会博士
説教
 「イエスはマタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた※1」のです。イエスは肉眼でというよりも、あわれみの心の目で彼をご覧になったのです。徴税人を見ましたが、その人をあわれみ、選ぼうとしてご覧になったので、「私に従いなさい」と言われたのです。「従う」とは「ならう」という意味です。足で歩いてイエスに従うよりも、正しい生活を送ることによって従う事です。キリストの「内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません※2。」

 マタイは「立ち上がってイエスに従った※3」のです。この徴税人が主の初めての招きにこたえて、自分が管理していた現世的な金銭との関係を断ち、富を求める事をやめて、財産を何も持たないことが明らかなイエスに従ったことは不思議ではありません。事実、言葉によって外からマタイを招かれた主は、彼の心の奥深くに霊的恵みの光を注ぎ、目に見えない方法でその心にふれられたのです。この光は、現世的な宝を離れるように招かれたキリストが、天において朽ちない宝を与えることができるとマタイに悟らせました。

 「イエスがマタイの家で食事しておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子達と同席していた※4。」一人の徴税人の回心は、多くの徴税人や罪人にとって、悔い改めとゆるしの模範となりました。異邦人の使徒と教師になることになつていたマタイが、自分が回心したときに直ちに多くの罪人を救いへと導いたことは、未来に対してのすばらしい前兆だといえます。こうして、マタイは信仰をもちはじめて間もないときからすでに、後に徳に進んでから果たすべき福音宣教の務めを行い始めたのです。ここに書かれている出来事を、もっと深いところまで理解しようとすれば、マタイが自分の物質的な家で主に食事を提供しただけではなく、信仰と愛によって、自分の心の家でイエスがいっそう喜んでおられる食事をイエスのために作ったと言えます。主が言われる次の言葉のとおりです。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう※5。」


9月21日 聖マタイ使徒福音記者 祝日
 マタイはカファルナウムに生まれ、イエスに招かれたときは徴税人であった。ヘブライ語(アラム語)で福音書を書き記し、東方で福音を宣教したと伝えられる。
女子パウロ会 教会カレンダー 「聖マタイ使徒福音記者」へ
http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/festa0921.php

女子パウロ会 聖人カレンダー 「聖マタイ使徒福音記者」へ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=092101

ベネディクト16世が、「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「使徒マタイ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message139.htm

※1 マタイ9:9
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

※2 1ヨハネ2:6
神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

※3 マタイ9:9
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

※4 マタイ9:10
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

※5 黙示録3:20
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。



聖ベダ(672年ー735年)
カトリックの聖人。カトリック、聖公会、ルーテル教会、正教会で崇敬されている。
イギリスのウェアマスの修道院の近くに生まれ、7歳でベネディクト修道院に入り聖ベネディクト・ピスコプから教育を受け、17歳で助祭、そして30歳で司祭に叙階されます。初代教会に興味をもったベダは、聖霊のわざが歴史において継続すると考え(「 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16-17))、その後の教父と公会議の歴史をたどりました。(Wikipediaでは ベーダ・ヴェネラビリス)
女子パウロ会 聖人カレンダー(聖ベダ司祭教会博士) へリンク
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=052503

ベネディクト16世が「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第2回に「聖ベーダ・ウェネラビリス」について解説されています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message383.htm

聖ベダ マリアは主をあがめる

2013-05-31 06:00:00 | 聖ベダ
聖ベダ司祭(637-735年)ベネディクト会士、司祭、教会博士
説教
 「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。※1」マリアはこの言葉で、まず、神が自分に特別に与えてくださった賜物を宣言し、続いて神が絶えず人類に与え続けておられる様々な一般的な恵みを数え上げます。

 神の力と威光をいつも念頭において、内なる人間の全力をあげて神を賛美し、神に仕え、神の掟に従う人の魂こそ、神を崇めます。

 永遠の救いをそのみ手から期待している自分の造り主を、いつも心に留めて喜ぶ人の霊こそ、救い主である神をたたえます。

 この言葉は確かに、完全性の域に達した全ての人の思いを表していますが、これが神の母であるマリアの口から出たことは特にふさわしいことでした。比類のない恵みに満たされていたマリアは、自分の胎内に宿した方に対する霊的な愛に燃えていたのです。

 マリアはどの聖人にもまさってイエスを、つまり自分の救い主を喜びたたえる理由がありました。人類の救い主の永遠の源であると彼女が認めた方が、この世の時間の中で自分の胎から生まれるであろうということを知っていたからです。その同じ唯一の方が、真実に自分の子であると同時に自分の主でもあったのです。

 「力ある方が私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊い※2。」マリアは、自分の偉大さを自分自身の功しによるとは決して言わず、ことごとく神の賜物であると言っています。神こそ本質的に力ある方、偉大な方であり、ご自分を信じる者たちを、弱く小さな者から偉大な者に常に変えてくださいます。

 マリアは「その名は尊い」といい加えます。自分の言葉を聞いている者や、その言葉を知るようになるすべての人に、神の名を信じ、それに呼びかけるように促し、教えています。これによって、全ての者は、永遠の聖性と真の救いにあずかることができるのです。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる※3」という預言者の言葉のとおりです。この名についてマリアは、「私の霊は救い主である神を喜び讃えます」と言ったのです。

 このために、教会では晩の祈りの間、毎日「マリアの賛歌」※Mを歌うというすぐれた、有益な習慣が広まりました。こうして、主の受肉をたびたび思い起こし、いっそうの熱心に燃え、聖母の模範を繰り返し思い起こすことによって、信者の魂が強められるのです。一日の働きに疲れ、さまざまな思いに引きずられている魂は、憩いの時を前にして思いを集中し、心を静めることが必要なので、この賛歌を歌う晩の祈りはまさにその時なのです。


5月31日 聖母の訪問 (祝日
 イエスを宿したマリアが聖霊に導かれてエリザベトを訪問したこと(ルカ1:39-56)は、すでに古代末期から祝われていた。東方教会では昔から七月二日に祝日があったようです。ローマ教会では八世紀には待降節中に祝われましたが、第二バチカン公会議後の典礼刷新により、聖書の記述に従い、「神のお告げ」(3/25)と「洗礼者ヨハネの誕生」(6/24)の間の日に移されました。
私たちが聖務日課でとなえる「マリアの歌」=マリア賛歌について、聖ベダが伝えています。「主の受肉をたびたび思い起こし、いっそうの熱心に燃え、聖母の模範を繰り返し思い起こすことによって、信者の魂が強められるのです。」 一日の勤めを終え、疲れと様々な思いの中にあっても、この祈りによって心が静まるとベダはいます。

※1 ルカ1:47 
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。・・・」

※2 ルカ1:49
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

※3 ヨエル3:5
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

※M マリアの賛歌(ルカ1:46-55)
私は神をあがめ、
私の心は神の救いに喜びおどる。
神は卑しい はしためを顧みられ、
いつの代の人も 私を幸せな者と呼ぶ。
神は私に偉大な業を行われた。
その名はとうとく、
あわれみは代々、神をおそれ敬う人の上に。

神は その力を現し、
思い上がる者を打ち砕き、
権力を振るう者を その座からおろし、
見捨てられた人を高められる。
飢えに苦しむ人は よいもので満たされね
おごり暮らす者は むなしくなって帰る。

神は慈しみを忘れることなく、
しもべイスラエルを助けられた。
私たちの祖先、
アブラハムと その子孫に約束されたように。


聖ベダ(672年ー735年)
カトリックの聖人。カトリック、聖公会、ルーテル教会、正教会で崇敬されている。
イギリスのウェアマスの修道院の近くに生まれ、7歳でベネディクト修道院に入り聖ベネディクト・ピスコプから教育を受け、17歳で助祭、そして30歳で司祭に叙階されます。初代教会に興味をもったベダは、聖霊のわざが歴史において継続すると考え(「 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16-17))、その後の教父と公会議の歴史をたどりました。(Wikipediaでは ベーダ・ヴェネラビリス)

女子パウロ会 聖人カレンダー(聖ベダ司祭教会博士) へリンク
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=052503

ベネディクト16世が「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第2回に「聖ベーダ・ウェネラビリス」について解説されています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message383.htm

聖ベダ 選ばれた者

2013-04-15 00:00:00 | 聖ベダ
聖ベダ司祭(673~735年) ベネディクト会士、司祭、教会博士
『ペトロの第1の手紙注解』
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司である。※1」この賞賛の言葉は、かつてモーセによって神の古い民に向かって語られた。ところで、今は、使徒ペトロはこの言葉を正しくも異邦人の民に向かって語っている。事実、キリストはかなめ石として、かつてはイスラエルがもっていた救いを得るように、自分を信じている異邦人の民を集められたのである。※2

ペトロは彼らを、その信仰の故に、「選ばれた民」と呼ぶ。それは彼らを、かなめ石を捨てたことによって、自分たちも捨てられてしまった人々※3とは区別するためである。

ペトロがまた彼らを「王の系統を引く祭司」と呼ぶのは、至上の王であり、まことの祭司である主の体に結ばれているからである。キリストは王としてご自分の信者たちに王国をお与えになり、祭司として自らの血の生贄によって彼らを清められる。ペトロが彼らを「王の系統を引く祭司」と呼ぶのは、永遠の王国を待ち望み、汚れのない生活といういけにえを絶えず神にささげることを思い出させるためである。

また、彼らは、「聖なる国民、神のものとなった民※4」とも呼ばれている。これは使徒パウロが預言者の言葉を解釈して言うとおりである。「私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適(かな)わない。しかし、私たちは、怯(ひる)んで滅びる者ではなく、信仰によって、いのちを確保する者である※5。」使徒言行禄の中では、「聖書は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのである※6」と述べられている。

したがって、小羊の血によってエジプトから解放されたイスラエルの民が神のものとされていたのであるが、今は、購い主の血によって神の者とされた私たちが民となっているのである。

このためにペトロは、次の節の中にも、かつての出来事の神秘を思い出し、それが神の新しい民において霊的に成就されるべきであることを教えて言う。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためである※7。」事実、エジプトでの奴隷状態からモーセによって解放された人々が紅海を渡り、ファラオの軍隊が海に沈んだ後で勝利の歌を歌ったのと同じように、私たちも洗礼によって罪のゆるしを受けた後で、この天からの恵みを十分に感謝しなければならない。

神の民を苦しめたエジプト人という名は、暗闇、苦悩を意味するものであるが、このエジプト人は、私たちにつきまとう、また、洗礼によって消し去られた罪をよく現している。


復活節第三月曜日 読書
第一朗読 黙示録 7:1-17
第二朗読 聖ベダ 『ペトロの第一の手紙注解』

※1 1ペトロ2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
※2 エフェソ2:20~21
使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

※3 マタイ21:42-44
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

※4 1ペトロ2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

※5 ヘブライ 10:38-39
わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

※6 使徒言行禄20:28
どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

※7 1ペトロ2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。


聖ベダ(672年ー735年)
カトリックの聖人。カトリック、聖公会、ルーテル教会、正教会で崇敬されている。
イギリスのウェアマスの修道院の近くに生まれ、7歳でベネディクト修道院に入り聖ベネディクト・ピスコプから教育を受け、17歳で助祭、そして30歳で司祭に叙階されます。初代教会に興味をもったベダは、聖霊のわざが歴史において継続すると考え(「 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16-17))、その後の教父と公会議の歴史をたどりました。(Wikipediaでは ベーダ・ヴェネラビリス)

女子パウロ会 聖人カレンダー(聖ベダ司祭教会博士) へリンク
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=052503

ベネディクト16世が「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第2回に「聖ベーダ・ウェネラビリス」について解説されています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message383.htm

聖ベダ 私の魂は主をあがめる

2012-12-22 00:00:00 | 聖ベダ
聖ベダ・ヴェネラビリス
『ルカ福音書注解』
「マリアは言った。『私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえる※1。』」

マリアが言ったのは次のようなことである。主は前代未聞の偉大な恵みを私に授けてくださったので、それを言葉で言い表すことはできず、心の奥底でそれを感じ取ることもほとんどできない。ゆえに賛美と感謝をささげるために、私は魂の力の限りを尽くす。神の無権の偉大さを眺めるために、私は感謝をこめて、自分の命、感覚、理解力のすべてをそれに向ける。私の内に宿った救い主イエスの永遠の神性によって、私の霊は喜びに満たされているからである。
「力ある方が、私に偉大な業を行われた。その名は尊い※2。」

この言葉は、「私の魂は主をあがめる」という初めの言葉に結ばれる。



待降節 12月22日
第一朗読 イザヤ49:14~50:1 シオンの再建
第二朗読 聖ベダ・ヴェネラビリス司祭 『ルカ福音書注解』

※1 ルカ1:46-47
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

※2 ルカ1:49
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、



聖ベダ(672年ー735年)
カトリックの聖人。カトリック、聖公会、ルーテル教会、正教会で崇敬されている。
イギリスのウェアマスの修道院の近くに生まれ、7歳でベネディクト修道院に入り聖ベネディクト・ピスコプから教育を受け、17歳で助祭、そして30歳で司祭に叙階されます。初代教会に興味をもったベダは、聖霊のわざが歴史において継続すると考え(「 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16-17))、その後の教父と公会議の歴史をたどりました。(Wikipediaでは ベーダ・ヴェネラビリス)

女子パウロ会 聖人カレンダー(聖ベダ司祭教会博士) へリンク
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=052503

ベネディクト16世が「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第2回に「聖ベーダ・ウェネラビリス」について解説されています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message383.htm