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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ディオグネトスへの手紙 神は子を通してご自分の愛を明らかにされた

2013-12-18 07:00:00 | 日記
ディオグネトスへの手紙(二世紀~三世紀) 著者不明
 人間のうち誰一人として、神を見た人も※1、また神を知った人もおらず、神だけがご自身を示してくださったのです。信仰を通して神はご自身を示してくださいました。信仰だけが神を見ることを得させるからです。万物の主であり、作者である神、万物を造り、一つひとつのものを秩序正しく配置された神は、人類を愛する方であるばかりではなく、忍耐強い方でもありました。もっともこの神は、かつてそうであり、今もそうであり、これからもそうであり、つまり慈しみ深く善良な方であり、またお怒りにならない真実な方であって、ただひとり良い方であります※2。この神は言い尽くすことのできない偉大な意図を抱き、それを御子だけにお伝えになりました。

 英知に満ちたこの計画を、神は秘密として大事に保っておられ、その間は私たちのことをなおざりにして、配慮してくださらないかのように思われておりました。しかしながら、最初から準備されたことを、愛する御子を通して明らかにし、啓示されたとき、何もかも一度に私たちに与えてくださいました。すなわちそれは、私たちをご自分の恩恵にあずからせてくださることであり、私たちのうちのだれもが、決して期待しなかったほどのことを見、かつ理解することです。

 ですから、神はご自分で一切の救いの計画を御子と共にお決めになっていましたが、今の時代に至るまで、私達が気ままに無秩序な衝動にもて遊ばれるのを耐え忍んで下さいました。私たちは、快楽と欲情のとりこになっていたのです。これは、私たちの罪を喜んでおられたのではなく、我慢しておられたのです。このよこしまな時代を証人されたからではなく、この正しい時代を作りだして、私たちが自分たちの業だけでは命を得るのにふさわしくないことを納得して、今の時代に、神のあわれみによって、いのちにふさわしい者となるためでした。そしてまた、私たち自身では神の国に入る力のないことを明らかにされた私たちが、神の力によってこそ、その可能性のある者とされるためでした。

 私たちの不義が満たされ、その報いとしてこらしめと死が降りかかってくることが完全に明らかになったとき、あわれみと力を表そうと、前もって神がお定めになっていた時が到来しました。ああ、人類に対する神の慈しみとその愛の豊かさよ。神は私たちを憎んだり、見捨てたり、復讐されたりはなさいませんでした。むしろ長い間、忍耐強く忍び、我慢してくださいました。私たちを憐れんで、私たちの罪をご自分で負い、その御子を私たちの贖(あがな)いとしてお渡しになりました※4。聖なる方を不法な者たちのために、罪のない方を悪人たちのために、正しい人を不正な人のために、朽ちることのない方を死ぬべき者たちのために購いとしてお渡しになったのです。その方の正しさ以外に、私たちの罪を覆い隠すことのできるものがほかにあったでしょうか。神の御ひとり子以外に、罪深く不敬虔な私たちを正しい者とすることのできる方が他にいたでしょうか。

 ああ、甘美な交換。ああ、はかりがたいみ業。ああ、すべての期待を超える賜物よ。多くの不法が正しい一人の人のうちに隠され、一人の人の正しさが多くの不法の者を義としたのです※6。


待降節 12月18日
第一朗読 イザヤ46:1-13 バビロンの偶像への避難
第二朗読 ディオグネトスへの手紙
※1 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

※2 マタイ19:17
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

※3 ルカ8:14 テトス3:3
・そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
・わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

※4 ローマ8:32 ヨハネ3:16
・わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
・御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

※5 1ペトロ3:18
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

※6 ヤコブ5:20
罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。


十字架の聖ヨハネ イエス・キリストのうちに隠された奥義を知る

2013-12-14 07:00:00 | 日記
十字架の聖ヨハネ(1542-1591) カルメル会司祭
『霊の賛歌』
 この世において、聖なる学者たちが、いかに多くの奥義や不思議を発見しても、聖なる人々がそれらのことを悟ったとしても、彼らの言うことも、知ることも、そのごくわずかな部分にすぎない。

 キリストのうちには、掘り下げてみるべきものが実に多くある。それは、宝を隠す無数の採掘場を持つ、豊かな鉱山のようである。いくら掘っても掘り尽くすことがなく、各々の採掘場の中に、新しい富を隠す鉱脈があちらこちらに次々と見いだされていく。

 そのため、聖パウロはキリストについて、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています※1」と言ったのである。これらの宝の中に入るためには、まず内的、外的苦しみの狭い道を通らねばならない。それに、多くの苦しみを耐え忍び、多くの知性、感覚的恵みを神から受け、霊的修行に一心に励むこと無しには、そこに達することはできない。

 このような恵みも皆、キリストの奥義の知恵以下のものであり、その奥義の認識に達するための準備のようなものである。

 ああ、もし人が、あらゆるかたちの苦しみの覆い被さる茂みの中に入り、そこに慰めと望みを置かなければ、神の豊かな知恵とその深い茂みのうちに入れないことを完全に暁ならば・・・。ああ、神の知恵に真に渇く魂は、まず、十字架の茂みの中に入ることをどれほど望むだろうか。

 それためにこそ、聖パウロはエフェソの信徒たちに、「艱難にあって落胆しないように※2」戒め、雄々しい人々となり、「愛に根ざす※3」ように勧めた。そうして、「すべての聖なる者たちと共に、奥義の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、キリストを知る志高の愛を悟り、神の満ちあふれる豊かさのすべてに満たされる※4」と言っている。

 この豊かな知恵に入るための門は十字架であり、この門は狭い。そして、この門から入ることにあこがれる人は少ないが、この門を通ることによって達する喜びにあこがれる人は多いのである。


12月14日 聖ヨハネ(十字架の)
司祭 教会博士  記念日
第一朗読 当週当曜日
第二朗読 十字架の聖ヨハネ 『霊の賛歌』
※1 コロサイ2:3
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

※2 エフェソ3:13
だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

※3 エフェソ3:17
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

※4 エフェソ3:18-19
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。


十字架の聖ヨハネ
1542年頃、スペインのフォンティペロスで生まれる。カルメル会に入会後、アビラの聖テレジアに刺激され、1568年、男子カルメル会の改革に着手、たいへん苦労しながらも、改革の仕事を最後まで続行した。1591年ウベダで死去。彼の傑出した聖性と英知を示す優れた霊的著作を残した。

■女子パウロ会 聖人カレンダーより
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=121401

■ベネディクト十六世が、「教会博士」に関する連続講話で「男子跣足カルメル修道会司祭、教会博士十字架の聖ヨハネ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message590.htm

ステラのイサク修道院長 マリアと教会

2013-12-14 00:00:00 | 日記
ステラのイサク修道院長(1110-1169年) フランス ステラの修道院長
説教
神の御子は多くの兄弟たちの長子であって※1、本性としてはひとり子でしたが、恵みによって多くの人を自分と一つにして、彼らも御子と共に一人となりました。彼を受け入れる者には、「神の子となる資格を与えた※2」からです。

人の子となられた神の御子は、多くの人を神の子とされました。特別な愛と力を持っておられた方は、多くの人をご自分と一つにしたのです。肉による出生においては複数であるこの人々は、神による再生によって神の御子と一人となるのです。それはキリストの頭(かしら)と体は一つであり、全体であり、唯一であるからです。

この一人のキリストは、天においては唯一なる神の子であり、地においては一人の母の子です。多くの子がいるのと同時に、一人の子しかいません。頭と肢体は、一人の子であるのと同時に多くの子であるように、マリアと教会は一人の母であって二人の母であり、一人の処女(おとめ)であって二人の処女なのです。

どちらも母であり、処女です。どちらも肉の欲なしに聖霊によって子を宿し、どちらも罪なしい父なる神のために子を産みます。マリアはすべての罪から免れて体のために頭を産み、教会はすべての罪のゆるしのために頭のために体を産みました。どちらもキリストの母ですが、どちらも一方なしで全体を産むことはありません。

 そこで、神感をもって書かれた聖書では、処女であり母である教会全体にあてはまることとして書かれている事は、処女マリアに個人的にあてはまることとして、また処女であり母であるマリアについて個人的に書かれていることは、処女であり母である教会全体について述べられていることとして解釈して間違いありません。一方に言及していることは、ほとんど相互に、区別なく両者について述べていると解釈できるのです。

 ・・・

 そこで聖書には次のように言われています。「主の遺産である所にとどまろう※3。」主の遺産とは、全体としては教会、個別的にはマリア、個人としては信者のことです。キリストは九ヶ月もマリアの胎内という幕屋にとどまられ、教会の幕屋には世の終わりまでとどまられますが、信者の知識と愛のうちには世々限りなくとどまられるでしょう。


待降節第二土曜日 読書
第一朗読 イザヤ29:1-8 エルサレムの包囲と救い
第二朗読 ステラのイサク修道院長 説教
※1 ローマ8:29参照
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

※2 ヨハネ1:12
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

※3 シラ24:11(ウルガタ訳)
また、主はその愛する町にわたしを憩わせ、わたしはエルサレムで威光を放つ。(新共同訳)


ステラのイサク修道院長
残念ながら、詳しいことは分かりません。

第二バチカン公会議 旅する教会の終末的性格

2013-12-10 00:00:00 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『教会憲章』
 私たちは全てキリスト・イエスにおいて教会に招かれており、その中で神の恩恵により聖性を獲得するが、その教会は天の栄光において初めて完成を見る。すなわち、万物の回復する時が来て※1、全人類と共に人間に密接に結ばれ、人間を通して自分の目的に到達する全世界も、キリストにおいて完全に立て直される※2。

 地上から上げられたキリストは、すべての人を自分のもとに引き寄せた※2。キリストは死者の中から復活して※4、いのちを与える自分の霊を弟子たちに注ぎ込み、その霊によって自分の体、すなわち、教会を救いの普遍的秘跡として建てた。父の右に座っているキリストは絶えず世において働き続け、人々を教会に導き、その教会を通して人々をより密接に結びつけ、その体と血をもって人々を養い、自分の栄光のいのちにあずからせるよう働いている。

 したがって、私たちが待望する約束された回復はすでにキリストにおいて始まり、聖霊の派遣によって進められ、その聖霊を通して教会の中で続けられている。その教会の中で私たちは、信仰を通して私たちの現世的な生活の意味についても教えられると共に、父から世において私たちに託された務めを、将来の賜に対する希望をもって成し遂げ、私たちの救いを完成させるのである。※5

 それゆえ、すでに世々の終わりは私たちのもとに到来しており※6、世の一新は取り消し得ないものとして決定され、ある意味で現実に、現世において前もって行われている。事実、教会はすでに地上において、不完全ではあるが真の聖性によって飾られているのである。

 しかし、義が定住する新しい天と地が実現するまで※7、旅する教会は、現世に属するその諸秘跡と制度の中に過ぎ去るこの世の姿を示し、今日に至るまで陣痛の嘆きと苦しみの中で、神の子らの現れを待ち望む被造物の間に住んでいるのである※8。


待降節第二火曜日 読書
第一朗読 イザヤ24:19-25:5
第二朗読 第二バチカン公会議 『教会憲章』

※1 使徒言行録 3:21参照
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。

※2 エフェソ1:10 コロサイ1:20
・こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
・その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

※3 ヨハネ12:32参照
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。

※4 ローマ6:9参照
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

※5 フィリピ2:12参照
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

※6 1コリント10:11
これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。

※7 2ペトロ3:13
しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

※8 ローマ8:19,22
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

十字架の聖ヨハネ キリストに於いて神は私たちに語られた

2013-12-09 22:52:54 | 日記
十字架の聖ヨハネ(1542-1591) カルメル会司祭
『カルメル山登攀』
 なぜ旧約の律法においては、神に尋ねることが許されていたのか。また、なぜ預言者や祭司も、神からの至現や啓示をもとめることができたのか。その主な理由は、当時はまだ信仰がそれほどしっかり根付いておらず、福音の掟がなかったため、神に尋ねることが必要であり、神も時にはことば、ときには示現や啓示によって、また、時には形象やそれに類したもの、さらに、意味を持つ様々な方法で語らなければならなかったのである。神が答えたり話したり、啓示を与えたりしたことは、すべて私たちの信仰の奥義か、あるいはそれに触れること、それに方向づけられたことであったからである。

 しかし、今、恵みの時代となって信仰がキリストに根ざし、福音の掟が現れてからは、あなのよう形で神に尋ねる必要もなく、また、神も昔のように話したり答えたりする必要もなくなった。それは、それ以外のことばはありえない、唯一のことばである御ひとり子を私たちに与えることにより、この唯一のことばのうちにすべてを一度に話されたので、それ以上話すことはないからである。

 聖パウロがヘブライ人に、以前のかたち、モーセの律法による神とのかかわりなどから離れて、キリストのみに目を注ぐように勧め、手紙のはじめに書いた言葉の意味は、以上のようなものである。パウロは言う。「神は、かつて預言者たちによって、多くの形で、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られた。※1」使徒パウロはこの言葉によって、神が口を利けなくなり、もう何も話すべきことがないことを分からせようとしている。それは以前、預言者たちに部分的に話されたことを、ご自分のすべてである御子を私たちに与えることによって、神はことごとく語られたからである。

 したがって、今日になってもなお神に何かを尋ねたり、あるいは何かの示言や啓示を望むような人がいるなら、キリストに全ての目を注がず、他の何らかの新奇なものを望むことによって、愚かじみた事をするだけでなく、神を傷つけることになるであろう。

 神はこのような人に、次のように答えるであろう。

 「わたしは、わたしのことばである我が子によって、すべてのことをすでに話し、そのほかに何も言うべきことはないのに、なおそれ以上のことを今答えたり、示したりすることができるだろうか。あなたは、その目を彼の上にのみ注げ。なぜなら、彼に於いてわたしはあなたにすべてを語り、また啓示したのであるから。彼のうちにあなたはあなたの請い求める以上のものを見いだすであろう。
 わたしは、かつてタボール山において、わたしの霊と共に彼の上に降り、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け※2』と言った。わたしはもはや以前のように教えたり、答えたりすることをやめて、すべてを彼にゆだねたのである。以前に語ったわけは、キリストを約束するためであり、人々がわたしに尋ねたのも、その希望と願いを期すとに向けさせる質問をするためであった。今、福音記者や使徒の教えのすべてが示しているように、すべての良い者は、その来るべきキリストにおいて見いだされるはずであった。」


待降節第二月曜日 読書
第一朗読 イザヤ24:1-18 世界審判の予告
第二朗読 十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登攀』

※1 ヘブライ1:1-2
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

※2 マタイ17:5
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。


十字架の聖ヨハネ
1542年頃、スペインのフォンティペロスで生まれる。カルメル会に入会後、アビラの聖テレジアに刺激され、1568年、男子カルメル会の改革に着手、たいへん苦労しながらも、改革の仕事を最後まで続行した。1591年ウベダで死去。彼の傑出した聖性と英知を示す優れた霊的著作を残した。

■女子パウロ会 聖人カレンダーより
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=121401

■ベネディクト十六世が、「教会博士」に関する連続講話で「男子跣足カルメル修道会司祭、教会博士十字架の聖ヨハネ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message590.htm