ディオグネトスへの手紙(二世紀~三世紀) 著者不明
人間のうち誰一人として、神を見た人も※1、また神を知った人もおらず、神だけがご自身を示してくださったのです。信仰を通して神はご自身を示してくださいました。信仰だけが神を見ることを得させるからです。万物の主であり、作者である神、万物を造り、一つひとつのものを秩序正しく配置された神は、人類を愛する方であるばかりではなく、忍耐強い方でもありました。もっともこの神は、かつてそうであり、今もそうであり、これからもそうであり、つまり慈しみ深く善良な方であり、またお怒りにならない真実な方であって、ただひとり良い方であります※2。この神は言い尽くすことのできない偉大な意図を抱き、それを御子だけにお伝えになりました。
英知に満ちたこの計画を、神は秘密として大事に保っておられ、その間は私たちのことをなおざりにして、配慮してくださらないかのように思われておりました。しかしながら、最初から準備されたことを、愛する御子を通して明らかにし、啓示されたとき、何もかも一度に私たちに与えてくださいました。すなわちそれは、私たちをご自分の恩恵にあずからせてくださることであり、私たちのうちのだれもが、決して期待しなかったほどのことを見、かつ理解することです。
ですから、神はご自分で一切の救いの計画を御子と共にお決めになっていましたが、今の時代に至るまで、私達が気ままに無秩序な衝動にもて遊ばれるのを耐え忍んで下さいました。私たちは、快楽と欲情のとりこになっていたのです。これは、私たちの罪を喜んでおられたのではなく、我慢しておられたのです。このよこしまな時代を証人されたからではなく、この正しい時代を作りだして、私たちが自分たちの業だけでは命を得るのにふさわしくないことを納得して、今の時代に、神のあわれみによって、いのちにふさわしい者となるためでした。そしてまた、私たち自身では神の国に入る力のないことを明らかにされた私たちが、神の力によってこそ、その可能性のある者とされるためでした。
私たちの不義が満たされ、その報いとしてこらしめと死が降りかかってくることが完全に明らかになったとき、あわれみと力を表そうと、前もって神がお定めになっていた時が到来しました。ああ、人類に対する神の慈しみとその愛の豊かさよ。神は私たちを憎んだり、見捨てたり、復讐されたりはなさいませんでした。むしろ長い間、忍耐強く忍び、我慢してくださいました。私たちを憐れんで、私たちの罪をご自分で負い、その御子を私たちの贖(あがな)いとしてお渡しになりました※4。聖なる方を不法な者たちのために、罪のない方を悪人たちのために、正しい人を不正な人のために、朽ちることのない方を死ぬべき者たちのために購いとしてお渡しになったのです。その方の正しさ以外に、私たちの罪を覆い隠すことのできるものがほかにあったでしょうか。神の御ひとり子以外に、罪深く不敬虔な私たちを正しい者とすることのできる方が他にいたでしょうか。
ああ、甘美な交換。ああ、はかりがたいみ業。ああ、すべての期待を超える賜物よ。多くの不法が正しい一人の人のうちに隠され、一人の人の正しさが多くの不法の者を義としたのです※6。
待降節 12月18日
第一朗読 イザヤ46:1-13 バビロンの偶像への避難
第二朗読 ディオグネトスへの手紙
※1 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
※2 マタイ19:17
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
※3 ルカ8:14 テトス3:3
・そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
・わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
※4 ローマ8:32 ヨハネ3:16
・わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
・御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
※5 1ペトロ3:18
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
※6 ヤコブ5:20
罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。
人間のうち誰一人として、神を見た人も※1、また神を知った人もおらず、神だけがご自身を示してくださったのです。信仰を通して神はご自身を示してくださいました。信仰だけが神を見ることを得させるからです。万物の主であり、作者である神、万物を造り、一つひとつのものを秩序正しく配置された神は、人類を愛する方であるばかりではなく、忍耐強い方でもありました。もっともこの神は、かつてそうであり、今もそうであり、これからもそうであり、つまり慈しみ深く善良な方であり、またお怒りにならない真実な方であって、ただひとり良い方であります※2。この神は言い尽くすことのできない偉大な意図を抱き、それを御子だけにお伝えになりました。
英知に満ちたこの計画を、神は秘密として大事に保っておられ、その間は私たちのことをなおざりにして、配慮してくださらないかのように思われておりました。しかしながら、最初から準備されたことを、愛する御子を通して明らかにし、啓示されたとき、何もかも一度に私たちに与えてくださいました。すなわちそれは、私たちをご自分の恩恵にあずからせてくださることであり、私たちのうちのだれもが、決して期待しなかったほどのことを見、かつ理解することです。
ですから、神はご自分で一切の救いの計画を御子と共にお決めになっていましたが、今の時代に至るまで、私達が気ままに無秩序な衝動にもて遊ばれるのを耐え忍んで下さいました。私たちは、快楽と欲情のとりこになっていたのです。これは、私たちの罪を喜んでおられたのではなく、我慢しておられたのです。このよこしまな時代を証人されたからではなく、この正しい時代を作りだして、私たちが自分たちの業だけでは命を得るのにふさわしくないことを納得して、今の時代に、神のあわれみによって、いのちにふさわしい者となるためでした。そしてまた、私たち自身では神の国に入る力のないことを明らかにされた私たちが、神の力によってこそ、その可能性のある者とされるためでした。
私たちの不義が満たされ、その報いとしてこらしめと死が降りかかってくることが完全に明らかになったとき、あわれみと力を表そうと、前もって神がお定めになっていた時が到来しました。ああ、人類に対する神の慈しみとその愛の豊かさよ。神は私たちを憎んだり、見捨てたり、復讐されたりはなさいませんでした。むしろ長い間、忍耐強く忍び、我慢してくださいました。私たちを憐れんで、私たちの罪をご自分で負い、その御子を私たちの贖(あがな)いとしてお渡しになりました※4。聖なる方を不法な者たちのために、罪のない方を悪人たちのために、正しい人を不正な人のために、朽ちることのない方を死ぬべき者たちのために購いとしてお渡しになったのです。その方の正しさ以外に、私たちの罪を覆い隠すことのできるものがほかにあったでしょうか。神の御ひとり子以外に、罪深く不敬虔な私たちを正しい者とすることのできる方が他にいたでしょうか。
ああ、甘美な交換。ああ、はかりがたいみ業。ああ、すべての期待を超える賜物よ。多くの不法が正しい一人の人のうちに隠され、一人の人の正しさが多くの不法の者を義としたのです※6。
待降節 12月18日
第一朗読 イザヤ46:1-13 バビロンの偶像への避難
第二朗読 ディオグネトスへの手紙
※1 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
※2 マタイ19:17
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
※3 ルカ8:14 テトス3:3
・そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
・わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
※4 ローマ8:32 ヨハネ3:16
・わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
・御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
※5 1ペトロ3:18
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
※6 ヤコブ5:20
罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。