毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖ヒエロニモ 上にあるものを求めよ

2014-02-26 17:29:01 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(347~419年) 司祭 教会博士
『コヘレト書注解』
 「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむことを神によってゆるされるならば、これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから※1。」著者は、自分の富について思い悩み、多いに苦労してやがて滅びるものを集める人よりも、今もっているものを楽しんでいる人はましだ、と言っている。後者が、ものを享受するときにわずかの喜びであってもそれを楽しんでいるのに対して、前者にはただ大きな心配があるだけだからである。続いて著者は、富を楽しむことができると言うことが神の賜物であることの理由を述べている。それはすなわち、「彼はその人生の日々をあまり思い返すことがない」ということである。

 神は心の喜びによってその人に気張らしをさせる。こうして彼は、現在の喜びと楽しみに気を取られ、もはや悲しむことも思い悩むこともないのである。しかし、使徒パウロに従って、神から与えられた賜物を霊的な食べ物と霊的な飲み物※2として解釈するほうが、一層正しい解釈である。そのように解釈すれば、人はまさしくあらゆる労苦の結果を楽しむと言える。それは、私たちは大きな労苦と熱意を払って、まことの善を眺めることができるようになるからでする。これこそ、私たちの熱意と労苦によって得られる喜ばしい「分」である。このことは確かによいことであるが、「私たちのいのちであるキリストが現れること※3」までは、まだ完全によいものではないのである。

・・・


年間第七水曜日 読書
第一朗読 コヘレト5:9~6:8
第二朗読 聖ヒエロニモ 『コヘレト書注解』
※1 コヘレト5:18-19
 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

※2 1コリント10:3参照
皆、同じ霊的な食物を食べ、

※3 コロサイ3:4
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。



聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で使われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。

女子パウロ会(聖人カレンダー 聖ヒエロニモ司祭教会博士 へ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「ヒエロニモ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message262.htm

聖ヒエロニモ 私に立ち返れ

2013-08-30 00:00:00 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(340~420年) 司祭 教会博士
『ヨエル書注解』
 「心から私に立ち帰れ。※1」そして断食し、泣き悲しんで魂の悔い改めを示せ※2。今、断食するあなたがやがて満たされ、今、泣くあなたがやがてほほ笑み※3、今、悲しむあなたがやがて慰められるために。悲しみや怒りのうちにある人が服を引き裂くことは、よくあることである。福音書には、罪を大げさに言うために大祭司が救い主の前で服を引き裂いたことが記されている※4。また、パウロとバルナバが自分たちをののしる言葉を聞いたとき、彼らが服を引き裂いたことを私たちは聖書で読んでいる※5。それゆえ、私はあなたがたに忠告する。服を引き裂くのではなく、罪でいっぱいになった心、引き裂かれなければ自然に裂けるぶどう酒の革袋のような心を引き裂きなさい※6。そしてこのようにしたら、以前の罪によって遠ざけてしまったあなたがたの神である主に立ち返りなさい。あなたがたの罪がどれほど大きくても、ゆるされることを決してあきらめないようにしなさい。大きな罪を消し去るのは大きなあわれみだからである。※7

 実に、神は恵みに満ち、あわれみ深く、罪人の死よりも悔い改めを喜び※8、忍耐強く、慈しみに富み※9、人の短気なところにならわず、私たちの悔い改めを長い間待って下さる方である。悪を凌駕し、悪を嫌い、私たちが罪を悔い改めるなら、ご自分が脅したことを悔い※10、私たちに罰を課されることは無い。私たちが態度を変えることによって、神もその態度を変えて下さるのである。しかし、私たちは、ここで言われている悪を、徳に反するものとしてではなく苦難として理解すべきである。聖書の他の箇所には次のように言われている。「その日の苦労は、その日だけで十分でる※11。」また、「町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではない※12。」


年間第二十一金曜日 読書
第一朗読 エレミヤ 4:5-28
第二朗読 聖ヒエロニモ 『ヨエル書注解』

※1 ヨエル2:12
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。

※2 ヨエル2:12
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。

※3 ルカ6:21
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。

※4 マタイ26:65
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。

※5 使徒言行録 14:14
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。

※6 ヨエル2:13
衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。

※7 マタイ5:7、ヤコブ2:13
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

※8 エゼキエル33:11
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

※9 ヨエル2:13
衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。

※10 ヨエル2:13
衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。

※11 マタイ6:34
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

※12 アモス3:6
町で角笛が吹き鳴らされたなら
人々はおののかないだろうか。
町に災いが起こったなら
それは主がなされたことではないか。


聖ヒエロニモ
 ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で使われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。

女子パウロ会(聖人カレンダー 聖ヒエロニモ司祭教会博士 へ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「ヒエロニモ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message262.htm

聖ヒエロニモ すばらしい住まいに行こう

2013-07-04 04:58:10 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(340~420年) 司祭 教会博士
「詩篇42についての説教」
 「鹿が泉の水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める※1。」鹿が泉の水を求めるように、鹿である私たちも、エジプトを脱出してこの世から離れ、自分たちが受ける水でファラオを滅ぼし、彼の全軍隊を洗礼によって葬り、悪魔が滅んだ後、教会の泉である御父と御子と聖霊を求めます。

 御父については、泉であるということがエレミヤ書にこう書かれています。「彼らは生ける水の泉である私を捨てて、水をためることのできないこわれた水溜めを掘った※2。」御子についてはある箇所にこう書かれています。「彼らは知恵の泉を見捨てた※3。」さらに聖霊については、「私が与える水はその人の中で泉となり、永遠のいのちにいたる水がわき出る※4」と言われており、福音記者はすぐに続けて、これを救い主が聖霊について語られたことであると説明しています※5。これらのことから、教会の三つの泉は三位一体の神秘であることが明らかです。

 信じる者の魂はこれらを求め、洗礼を受けた者の魂はこれらを求めます。その人は言います。「私の魂は生ける水の泉である神に渇きます※6。」その人は、神を見ることをただ上辺だけで求めるのではなく、熱烈に求め、もえるような情熱の限りを尽くして神を乾き求めます。洗礼を受ける前、その人々はお互いに次のように語り合いました。「いつみ前に行って、神のみ顔を仰ぐことができるのか※7。」今や、彼らの望みは叶えられました。行って神の御前に立ち、祭壇の前に来て、救い主の秘義にあずかっています。

 彼らはキリストの体を拝領することをゆるされ、いのちの泉で生まれ変わって、信頼をもってこう言います。「私は神の家にいたるまで、感嘆すべき幕屋に移ろう※8。」神の家とは教会です。これは感嘆すべき幕屋です。「喜び歌い感謝をささげる声と宴会の席に着いたものの声※9」に満ちた場所だからです。

 今やキリストを着る者※10となった皆さん、私たちの導きに従って、魚が釣り上げられるように、神のことばによってこの世の渦から引き上げられた皆さん、次のように言いなさい。私たちのうちでは、物事の本質が変わりました。魚は海から出されると死んでしまいます。しかし、私たちが使徒達によって海であるこの世から釣り上げられたのは、死んだ者であった私たちを生きている者に変えるためでした。この世にいる間、私たちの目は深淵を眺め、私たちの生活は泥沼の状態でした。しかし、海から救い出されてから、私たちは初めて太陽を見てまことの光を仰ぎ見るようになり、大きな喜びを目の当たりにしてうちふるえながら、自分の魂に向かってこう言います。『あなたこそ、私の顔の救い、私の神です※11。』


年間第十三木曜日
第一朗読 サムエル下6:1-23
第二朗読 聖ヒエロニモ 新信者に対して行われた聖ヒエロニモ司祭の詩篇42についての説教

※1 詩篇42:2
涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。

※2 エレミア2:13
まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。

※3 バルク3:12
お前は知恵の泉を見捨てた。

※4 ヨハネ4:14
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

※5 ヨハネ7:39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

※6 詩篇42:3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。

※7 詩篇42:3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。

※8 詩篇42:5(ウルガタ)
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。(新共同訳)

※9 詩篇42:5(ウルガタ)
同上

※10 ガラテヤ3:27
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

※11 詩編42:6
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。



聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で使われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。

女子パウロ会(聖人カレンダー 聖ヒエロニモ司祭教会博士 へ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「ヒエロニモ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message262.htm

聖ヒエロニモ 上にあるものを求めよ

2013-05-22 00:00:00 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(347~419年) 司祭 教会博士
『コヘレト書注解』
 「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむことを神によってゆるされるならば、これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから※1。」著者は、自分の富について思い悩み、多いに苦労してやがて滅びるものを集める人よりも、今もっているものを楽しんでいる人はましだ、と言っている。後者が、ものを享受するときにわずかの喜びであってもそれを楽しんでいるのに対して、前者にはただ大きな心配があるだけだからである。続いて著者は、富を楽しむことができると言うことが神の賜物であることの理由を述べている。それはすなわち、「彼はその人生の日々をあまり思い返すことがない」ということである。
・・・


年間第七水曜日 読書
第一朗読 コヘレト5:9~6:8
第二朗読 聖ヒエロニモ 『コヘレト書注解』

※1 コヘレト5:18-19
 神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
 彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

※2 1コリント10:3参照
皆、同じ霊的な食物を食べ、



聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で使われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。

女子パウロ会(聖人カレンダー 聖ヒエロニモ司祭教会博士 へ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「ヒエロニモ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message262.htm

聖ヒエロニモ 私に立ち返れ

2012-08-31 00:00:00 | 聖ヒエロニモ
聖ヒエロニモ(340~420年) 司祭 教会博士
『ヨエル書注解』
「心から私に立ち帰れ。※1」そして断食し、泣き悲しんで魂の悔い改めを示せ※2。今、断食するあなたがやがて満たされ、今、泣くあなたがやがてほほえみ※3、今、悲しむあなたがやがて慰められるために。悲しみや怒りのうちにある人が服を引き裂くことは、よくあることである。福音書には、罪を大げさに言うために大祭司が救い主の前で服を引き裂いたことが記されている※4。また、パウロとバルナバが自分たちをののしる言葉を聞いたとき、彼らが服を引き裂いたことを私たちは聖書で読んでいる※5。それゆえ、わたしはあなたがたに忠告する。服を引き裂くのではなく、罪でいっぱいになった心、引き裂かれなければ自然に裂けるぶどう酒の革袋のような心を引き裂きなさい※6。そしてこのようにしたら、以前の罪によって遠ざけてしまったあなたがたの神である主に立ち返りなさい。あなたがたの罪がどれほど大きくても、ゆるされることを決してあきらめないようにしなさい。大きな罪を消し去るのは大きなあわれみだからである。※7



年間第二十一金曜日
第一朗読 エレミヤ 4:5-28
第二朗読 聖ヒエロニモ 『ヨエル書注解』

※1 ヨエル2:12
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。

※2 ヨエル2:12
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。

※3 ルカ6:21
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。

※4 マタイ26:65
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。

※5 使徒言行録 14:14
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った。

※6 ヨエル2:13
衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。

※7 マタイ5:7、ヤコブ2:13
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。




聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で遣われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。