聖ヒエロニモ(347~419年) 司祭 教会博士
『コヘレト書注解』
「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむことを神によってゆるされるならば、これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから※1。」著者は、自分の富について思い悩み、多いに苦労してやがて滅びるものを集める人よりも、今もっているものを楽しんでいる人はましだ、と言っている。後者が、ものを享受するときにわずかの喜びであってもそれを楽しんでいるのに対して、前者にはただ大きな心配があるだけだからである。続いて著者は、富を楽しむことができると言うことが神の賜物であることの理由を述べている。それはすなわち、「彼はその人生の日々をあまり思い返すことがない」ということである。
神は心の喜びによってその人に気張らしをさせる。こうして彼は、現在の喜びと楽しみに気を取られ、もはや悲しむことも思い悩むこともないのである。しかし、使徒パウロに従って、神から与えられた賜物を霊的な食べ物と霊的な飲み物※2として解釈するほうが、一層正しい解釈である。そのように解釈すれば、人はまさしくあらゆる労苦の結果を楽しむと言える。それは、私たちは大きな労苦と熱意を払って、まことの善を眺めることができるようになるからでする。これこそ、私たちの熱意と労苦によって得られる喜ばしい「分」である。このことは確かによいことであるが、「私たちのいのちであるキリストが現れること※3」までは、まだ完全によいものではないのである。
・・・
年間第七水曜日 読書
第一朗読 コヘレト5:9~6:8
第二朗読 聖ヒエロニモ 『コヘレト書注解』
※1 コヘレト5:18-19
神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
※2 1コリント10:3参照
皆、同じ霊的な食物を食べ、
※3 コロサイ3:4
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で使われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。
女子パウロ会(聖人カレンダー 聖ヒエロニモ司祭教会博士 へ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「ヒエロニモ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message262.htm
『コヘレト書注解』
「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむことを神によってゆるされるならば、これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから※1。」著者は、自分の富について思い悩み、多いに苦労してやがて滅びるものを集める人よりも、今もっているものを楽しんでいる人はましだ、と言っている。後者が、ものを享受するときにわずかの喜びであってもそれを楽しんでいるのに対して、前者にはただ大きな心配があるだけだからである。続いて著者は、富を楽しむことができると言うことが神の賜物であることの理由を述べている。それはすなわち、「彼はその人生の日々をあまり思い返すことがない」ということである。
神は心の喜びによってその人に気張らしをさせる。こうして彼は、現在の喜びと楽しみに気を取られ、もはや悲しむことも思い悩むこともないのである。しかし、使徒パウロに従って、神から与えられた賜物を霊的な食べ物と霊的な飲み物※2として解釈するほうが、一層正しい解釈である。そのように解釈すれば、人はまさしくあらゆる労苦の結果を楽しむと言える。それは、私たちは大きな労苦と熱意を払って、まことの善を眺めることができるようになるからでする。これこそ、私たちの熱意と労苦によって得られる喜ばしい「分」である。このことは確かによいことであるが、「私たちのいのちであるキリストが現れること※3」までは、まだ完全によいものではないのである。
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年間第七水曜日 読書
第一朗読 コヘレト5:9~6:8
第二朗読 聖ヒエロニモ 『コヘレト書注解』
※1 コヘレト5:18-19
神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。
彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。
※2 1コリント10:3参照
皆、同じ霊的な食物を食べ、
※3 コロサイ3:4
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
聖ヒエロニモ
ユーゴスラビアの信心深い裕福な家庭に生まれ、ギリシャ語とラテン語をマスターした。18歳で当時の学術文化の中心ローマに留学。当時は、キリスト教が国教となり40年ほどしか経っていなかったため神々への迷信も根強く残っており、不品行な学生に誘われ都会の享楽にうきみをやつしたこともあったようです。その後、悪友を避け別人のように信仰に精進し学問に励みました。そしてヘブライ語の研究を始めました。ナジアンズの司教グレゴリオと親しくなり、司教のすすめに応じてギリシャ語の護教書や教会史をラテン語に翻訳し有名になります。その後、新約、旧約聖書のラテン語訳に取り組みます。これが、現在カトリック教会で使われているラテン語訳聖書(ウルガタ)になります。
女子パウロ会(聖人カレンダー 聖ヒエロニモ司祭教会博士 へ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=093001
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「ヒエロニモ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message260.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message262.htm