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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖トマス・アクィナス 十字架は他の全ての模範を含む

2014-01-28 00:00:00 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274) ドミニコ会士
『使徒信経講解』
 神の御子が私たちのために苦しむ必要があったであろうか。そのような必要は大いにあった。しかも、二つの必要性を挙げることができる。まず第一に、御子の受難は罪をいやすために必要であり、第二に、私たちに行為の模範を示すために必要であったのである。

 罪を癒すことに関して言えば、私たちが罪の故に招いたすべての悪から、キリストの受難によって癒されると言うべきである。

 しかし、模範としての受難の大切さもこれに劣りはしない。実際、キリストの受難は、私たちに生き方を教えるためにこのうえなく完全なのである。完全な生き方を欲する者は、キリストが十字架上で軽視されたことを軽視し、キリストが十字架上で求めたことを求めるだけでよいからである。まことに、十字架は徳のあらゆる模範を含んでいるのである。

 愛の模範を求めるなら、それは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」※1という言葉で示される愛である。キリストが十字架上でなされたことは、まさにこのことである。だから、キリストは私たちのためにご自分の命を捨ててくださったので、私たちはどのような悪をもキリストのために耐え忍ぶことを嫌ってはならない。

 忍耐の模範を求めているのなら、十字架上のキリストがその最も卓越した模範であることを見いだすであろう。そこでは、忍耐の大きさが二つのことによって示されているからである。その一つは、大きな苦難に忍耐強く耐えることであり、他の一つは、苦難を避けることができたのに、避けずにそれを受けるということである。さて、キリストは十字架上で大きな苦難を、しかも忍耐強く受けられた。事実、彼は「苦しめられても人を脅さず※2」、「屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に者を言わない羊のように、口を開かなかった※3」それゆえ、十字架上のキリストの忍耐は偉大である。「私たちも自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を堪え忍ばれた※4」のである。

 謙遜の模範を求めているのなら、十字架につけられたキリストを見つめなさい。実に、神である方がポンティオ・ビラとのもとで裁きを受け、死ぬことをよしとされたのである。

 従順の模範を求めているなら、死に至るまで御父に従順であったキリストに従いなさい。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」※5 のである。

 現世的な財宝を軽視することの模範を求めているのなら、「王の王であり、主の主※6」であって、そのうちに「知恵と知識の宝がすべて隠されて※7」いながら、十字架の上で裸にされ、侮辱され、唾をかけられ、なぐられ、茨の冠をかぶせられ、胆汁や酢を飲まされ、ついに亡くなられたキリストに従いなさい。

 したがって、美しい衣服や富みに執着してはならない。「彼らはわたしの着物を分けた※8」からである。名誉に執着してはならない。私は、あざけりと鞭打ちを身に受けたからである。高位に執着してはならない。彼らは茨の冠を編んで私の頭にかぶせた※10からである。快楽に執着してはならない。「彼らは渇く私に酢を飲ませた※11」からである。


1月28日 聖トマス・アクィナス司祭 教会博士  記念日
第一朗読 当週当曜日
第二朗読 聖トマス・アクィナス司祭 『使徒信経講解』

※1 ヨハネ15:3
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない

※2 1ペトロ2:23
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

※3 イザヤ53:7
苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。

※4 ヘブライ12:1-2
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

※5 ローマ5:19
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

※6 黙示録19:16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

※7 コロサイ2:3
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

※8 詩編22:19
わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。

※9 ヨハネ19:1-4
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」

※10 マルコ15:17
そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。

※11 詩編69:22
人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします。


トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。

聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801

ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm

聖トマス・アクィナス イスラエルの残りの者は養われて憩う※1

2013-08-26 00:00:00 | 聖トマス・アクィナス
トマス・アクィナス司祭(1225-1274) ドミニコ会士
『ヨハネ福音書講解』
「私はよい牧者である※2」キリストが牧者であることは明らかです。それは、牧者が羊の群れを導き、養うように、キリストが信者たちを霊的な食物で、さらにキリストご自身の体と血によって養ってくださるからです。使徒ペトロは「あなたがたは牧者のいない羊のようでしたが、今は魂の牧者ではあり、監督者である方のところへ戻ってきた※3」と述べています。そして預言者イザヤは、「主は牧者としてご自分の群れを養う※4」と語りました。

 ところで、キリストは「門から入る者が牧者である※5」と言われ、さらにご自分は門であると言われました※6。ここではご自分が牧者であると言われたのです。つまり、キリストは[門である]ご自身を通ってお入りになる[牧者]、ということになるのです。これは、キリストがご自身を現し※7、ご自身によって御父を知っておられるということです。私たちはこのキリストを通って入り、キリストによって至福に至るのです。

 キリストの他に門はないことに注意してください。キリスト以外のなにものもまことの光ではなく※8、他の一切は照らされているに過ぎません。「彼-すなわち洗礼者ヨハネ-は光ではなく、光について証しをするために来た※9」のです。一方キリストについては、「その光はまこの光です。すべての人を照らす※10」と語られています。したがって
だれも自分が門であるとは言えず、それはキリストご自身だけにあてはまることなのです。しかし、牧者の役目については、キリストは他の人々、すなわち、御自分の体の肢体である人々にお授けになりました。ペトロも牧者であり、他の死とたちも牧者であり、すべての良い司教たちも牧者であるからです。聖書にも「わたしはあなたたちに、私の心にかなう牧者たちを与える※11」と記されています。さて、神の子らである教会の指導者たちがすべて牧者たちであるにもかかわらず、キリストが「わたしは良い牧者である」と単数で語っておられるのは愛を強調するためです。愛によってキリストと一体となり、真の牧者に連なる者とならないなら、だれも良い牧師やとはなれないからです。

 良い牧者の務めは愛です。「良い牧者は羊のために命を捨てます※12」 良い牧者と悪い牧者が違うということを知っていなければなりません。よい牧者は羊の群れの利益を考えます。しかし、悪い牧者は自分の利益を考えるのです。

 通常、牧者は羊の群れを守るために死の危険に身をさらすことまでは要求されません。しかし、群れの救いが危険にさらされている場合には、群れの霊的な救いは牧者の身体的な命よりも大切なので、霊魂の世話を任されているすべての牧者は、群れの救いのために身体的な命を捨てる覚悟をもたなければなりません。主が、「良い牧者は羊のために命-つまり身体的な命-を捨てる」と言われたのは、このような意味です。よい牧者は威厳をもって、また愛をもってそうすべきです。それは、群れが牧者の権威のもとにあることと牧者が群れを愛することは、どちらも必要なことだからです。このどちらを欠いても十分とは言えないのです。

・・・


年間第二十一月曜日 読書
第一朗読 ゼファニア 3:8-20
第二朗読 聖トマス・アクィナス 『ヨハネ福音書講解』

※1 ゼファニア3:12-13 参照
わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。
イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを語らない。
その口に、欺く舌は見いだされない。
彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はない。

※2 ヨハネ10:11
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

※3 1ペトロ2:25
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

※4 イザヤ40:11
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

※5 ヨハネ10:2
門から入る者が羊飼いである。

※6 ヨハネ10:7
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

※7 ヨハネ14:21
わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

※8 ヨハネ1:9
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

※9 ヨハネ1:8
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

※10 ヨハネ1:9
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

※11 エレミヤ3:15
わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。

※12 ヨハネ10:11
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。






トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。

聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801

ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm

聖トマス・アクィナス 真のいのちに到達するための道

2013-06-08 21:59:49 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274)ドミニコ会士、司祭、教会博士
『ヨハネ福音書講解』
 キリストご自身が道です。それゆえ「私は道である※1」と告げられておられます。それには十分な根拠があります。彼によって「私たちが御父に近づくことができる※2」からです。

 しかし、この道は終点から離れているのではなく、終点と結びついているので、キリストは「私は真理であり、命である※3」と付け加えられます。このように、キリストは道であると同時に終点なのです。すなわち、彼の人性に即しては道であり、神性に即しては終点です。こうして、キリストは人間であるかぎり、「私は道である」と言い、神であるかぎり「真理であり、命である」と付け加えられます。後者の二つの言葉によって、この道の終点が適切に指示されています。

 この道の終点とは人間の願望がめざす目的にほかなりませんが、人間はとりわけ二つのことを望んでいます。第一は真理の認識であり、これは人間に固有の目的です。第二は自らの存在の継続であり、これは万物に共通の目的です。ところで、キリストはご自身が真理でありながら、真理の認識に到達するための道です。「主よ、真理において私を導いて下さい。そうすれば私はあなたの道をたどることができます※4」また、キリストは自身が命でありながら、いのちに到達するための道でもあります。「あなたは命への道を知らせて下さった※5。」

 これゆえ、キリストはこの道の終点を真理と命という言葉によって指示されたのです。そして、この二つにことはヨハネ福音書の冒頭でキリストについて語られています。すなわち第一にキリスト自身が命であり、「彼のうちに命があった※6」と言われました。第二にキリストご自身が真理です。彼は「人間を照らす光であった※7」と言われ、光は真理にほかならないからです。第二にキリストご自身が真理です。彼は、「人間を照らす光であった※7」と言われ、光は真理にほかならないからです。

 それゆえ、あなたがどの道をたどるべきかを探求しているのなら、キリストを受け入れなさい。キリスト自身が道だからです。アウグスチヌスは「人間であるキリストにそって歩きなさい。そうすればあなたは神にたどり着きます※9」と語っています。それは、道に沿って不自由な足でゆっくりと歩く方が、道から外れて勢いよく歩くのに勝っているからです。道に沿って不自由な足でゆっくりあるく者は、わずかしか前進しないにもしても終点に近づきますが、道を外れて歩む者は、生きよいよく走れば走るほど、それだけ終点から大きく遠ざかるからです。

 ところで、あなたが自分がどこへ行けばよいのかを尋ねているのなら、キリストに一致しなさい。キリストご自身こそ、私たちが到達しようと望んでいる真理だからです。「私の喉は真理を思いめぐらします※10」。もし、あなたがどこにとどまったらよいのかを尋ねているのなら、キリストに一致しなさい。キリストご自身が命だからです。「私を見出すものは命を見出し、主から救いをくみ取ります※111」

 それゆえ、あなたが完全でありたいなら、キリストと一致しなさい。キリストご自身が道であるから、道に迷うことはありません。それゆえ、キリストと一致している人は行き止まりの道を歩むのではなく、まっすくな道に沿って歩みます。また、キリストと一致する人は欺かれることもありません。キリストご自身が真理であり、すべての真理を教えるからです。キリストは、「私は真理について証しするために生まれ、それためにこの世に来た※12」と告げられたからです。さらに、キリストと一致した人は心を乱されることもありません。キリストご自身が命であり、命をお与えになるからです。「私が来たのは、彼らが命を受けるため、しかも豊かに受けるためである※13」とお告げになった通りです。


年間第九土曜日 読書
第一朗読 ヨブ記42:7-16
第二朗読 聖トマス・アクィナス 『ヨハネ福音書講解』

※1 ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

※2 エフェソ2:18
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

※3 ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

※4 詩篇86:11
主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。

※5 詩篇16:11
命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

※6 ヨハネ1:4
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

※7 ヨハネ1:4
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

※8 イザヤ30:21
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。

※9 聖アウグスチヌス『神の国』 11:2

※10 箴言8:7(ウルガタ)
わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし、わたしの口の言葉はすべて正しくよこしまなことも曲がったことも含んでいない。

※11 箴言8:35(ウルガタ)
わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる。

※12 ヨハネ18:37
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

※13 ヨハネ10:10
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。



トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。

聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801

ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm

聖トマス・アクィナス ああ、何と尊く、賛嘆すべき宴だろう

2013-06-02 00:58:12 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274)ドミニコ会士、司祭、教会博士
著作
 神の御独り子は、私たちがご自身の神性にあずかる者となることを望まれ、人間となって人々を神[の子ら]とするために、私たち人間の本性をお受けになった。

 その上に、主は私たちから受けられたものを全て、私たちの救いのために役立てられた。すなわち、主は私たちを神と和解させるために、十字架の祭壇でご自身の体を犠牲として父なる神に奉献され、ご自身の血が私たちの代価となるために、そして同時に私たちを洗い清めるために、血を流された。それは、私たちがみじめな隷属から救い出され、全ての罪から清められるためであった。

 しかも、これほど限りない恵みの記憶を私たちに保たせるために、主はご自身の体を食物として、ご自身の血を飲み物として、パンとぶどう酒の形態のもとにいただくようにと信者たちに残された。

 ああ、なんと尊く、賛嘆すべき宴だろう。なんと救いをもらたし、すべての甘美さにあふれる宴だろう。いったい、この宴よりも尊いものがあるだろうか。そこではかつての旧約時代におけるように牛や鹿の肉ではなく、まことの神であるキリストが食物として供えられているというのに。この秘跡よりも感嘆すべきものがあるだろうか。

 また、この秘跡にまさって救いをもたらすいかなる秘跡も存在しない。この秘跡によってもろもろの罪は清められ、もろもろの徳は強められ、精神はすべての霊的な賜物の満ちあふれによって養われるのである。

 この秘跡は教会において、生きている人々と死んだ人々のためにささげられる。万人の救いのために制定されたものが、万人の益となるように。

 結局、何人もこの秘跡の甘美さを、余す所無く表現することはできない。この秘跡によって霊的な喜びの源泉が味わわれ、キリストがその受難において示した最高の愛の記憶が新たにされるのである。

 このゆえに、この限りない愛が信者たちの心により深く刻みつけられるように、主は最後の晩餐で、弟子達と過越を祝い、この世から御父のもとに移るにあたって、ご自身の受難の永久の記念祭、旧約の前表を成就するもの、ご自身が行った諸々の奇跡の中で最高のもの、そしてご自身が去られるのを悲しむ人々に対する比類ない慰めとして、この秘跡を制定されたのである。


キリストの聖体(聖霊降臨後第二主日) 祭日 読書
第一朗読 出エジプト24:1-11
第二朗読 聖トマス・アクィナス司祭の著作


トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。

聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801

ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm

聖トマス・アクィナス 十字架は他の全ての模範を含む

2013-01-28 00:00:00 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274) ドミニコ会士
『使徒信経講解』

神の御子が私たちのために苦しむ必要があったであろうか。そのような必要は大いにあった。しかも、二つの必要性を挙げることができる。まず第一に、御子の受難は罪をいやすために必要であり、第二に、私たちに行為の模範を示すために必要であったのである。

罪を癒すことに関して言えば、私たちが罪の故に招いたすべての悪から、キリストの受難によって癒されると言うべきである。

しかし、模範としての受難の大切さもこれに劣りはしない。実際、キリストの受難は、私たちに生き方を教えるためにこのうえなく完全なのである。完全な生き方を欲する者は、キリストが十字架上で軽視されたことを軽視し、キリストが十字架上で求めたことを求めるだけでよいからである。まことに、十字架は徳のあらゆる模範を含んでいるのである。

愛の模範を求めるなら、それは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」※1という言葉で示される愛である。キリストが十字架上でなされたことは、まさにこのことである。だから、キリストは私たちのためにご自分の命を捨ててくださったので、私たちはどのような悪をもキリストのために耐え忍ぶことを嫌ってはならない。

忍耐の模範を求めているのなら、十字架上のキリストがその最も卓越した模範であることを見いだすであろう。そこでは、忍耐の大きさが二つのことによって示されているからである。その一つは、大きな苦難に忍耐強く耐えることであり、他の一つは、苦難を避けることができたのに、避けずにそれを受けるということである。さて、キリストは十字架上で大きな苦難を、しかも忍耐強く受けられた。事実、彼は「苦しめられても人を脅さず※2」、「屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に者を言わない羊のように、口を開かなかった※3」それゆえ、十字架上のキリストの忍耐は偉大である。「私たちも自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を堪え忍ばれた※4」のである。

謙遜の模範を求めているのなら、十字架につけられたキリストを見つめなさい。実に、神である方がポンティオ・ビラとのもとで裁きを受け、死ぬことをよしとされたのである。

従順の模範を求めているなら、死に至るまで御父に従順であったキリストに従いなさい。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」※5 のである。

現世的な財宝を軽視することの模範を求めているのなら、「王の王であり、主の主※6」であって、そのうちに「知恵と知識の宝がすべて隠されて※7」いながら、十字架の上で裸にされ、侮辱され、唾をかけられ、なぐられ、茨の冠をかぶせられ、胆汁や酢を飲まされ、ついに亡くなられたキリストに従いなさい。

したがって、美しい衣服や富みに執着してはならない。「彼らはわたしの着物を分けた※8」からである。名誉に執着してはならない。私は、あざけりと鞭打ちを身に受けたからである。高位に執着してはならない。彼らは茨の冠を編んで私の頭にかぶせた※10からである。快楽に執着してはならない。「彼らは渇く私に酢を飲ませた※11」からである。


1月28日 聖トマス・アクィナス司祭 教会博士  記念日

※1 ヨハネ15:3
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない

※2 1ペトロ2:23
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

※3 イザヤ53:7
苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。

※4 ヘブライ12:1-2
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

※5 ローマ5:19
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

※6 黙示録19:16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。

※7 コロサイ2:3
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

※8 詩編22:19
わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。

※9 ヨハネ19:1-4
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」

※10 マルコ15:17
そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。

※11 詩編69:22
人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします。



トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。
聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801

ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm