聖トマス・アクィナス(1225~1274) ドミニコ会士
『使徒信経講解』
神の御子が私たちのために苦しむ必要があったであろうか。そのような必要は大いにあった。しかも、二つの必要性を挙げることができる。まず第一に、御子の受難は罪をいやすために必要であり、第二に、私たちに行為の模範を示すために必要であったのである。
罪を癒すことに関して言えば、私たちが罪の故に招いたすべての悪から、キリストの受難によって癒されると言うべきである。
しかし、模範としての受難の大切さもこれに劣りはしない。実際、キリストの受難は、私たちに生き方を教えるためにこのうえなく完全なのである。完全な生き方を欲する者は、キリストが十字架上で軽視されたことを軽視し、キリストが十字架上で求めたことを求めるだけでよいからである。まことに、十字架は徳のあらゆる模範を含んでいるのである。
愛の模範を求めるなら、それは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」※1という言葉で示される愛である。キリストが十字架上でなされたことは、まさにこのことである。だから、キリストは私たちのためにご自分の命を捨ててくださったので、私たちはどのような悪をもキリストのために耐え忍ぶことを嫌ってはならない。
忍耐の模範を求めているのなら、十字架上のキリストがその最も卓越した模範であることを見いだすであろう。そこでは、忍耐の大きさが二つのことによって示されているからである。その一つは、大きな苦難に忍耐強く耐えることであり、他の一つは、苦難を避けることができたのに、避けずにそれを受けるということである。さて、キリストは十字架上で大きな苦難を、しかも忍耐強く受けられた。事実、彼は「苦しめられても人を脅さず※2」、「屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に者を言わない羊のように、口を開かなかった※3」それゆえ、十字架上のキリストの忍耐は偉大である。「私たちも自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を堪え忍ばれた※4」のである。
謙遜の模範を求めているのなら、十字架につけられたキリストを見つめなさい。実に、神である方がポンティオ・ビラとのもとで裁きを受け、死ぬことをよしとされたのである。
従順の模範を求めているなら、死に至るまで御父に従順であったキリストに従いなさい。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」※5 のである。
現世的な財宝を軽視することの模範を求めているのなら、「王の王であり、主の主※6」であって、そのうちに「知恵と知識の宝がすべて隠されて※7」いながら、十字架の上で裸にされ、侮辱され、唾をかけられ、なぐられ、茨の冠をかぶせられ、胆汁や酢を飲まされ、ついに亡くなられたキリストに従いなさい。
したがって、美しい衣服や富みに執着してはならない。「彼らはわたしの着物を分けた※8」からである。名誉に執着してはならない。私は、あざけりと鞭打ちを身に受けたからである。高位に執着してはならない。彼らは茨の冠を編んで私の頭にかぶせた※10からである。快楽に執着してはならない。「彼らは渇く私に酢を飲ませた※11」からである。
1月28日 聖トマス・アクィナス司祭 教会博士 記念日
第一朗読 当週当曜日
第二朗読 聖トマス・アクィナス司祭 『使徒信経講解』
※1 ヨハネ15:3
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない
※2 1ペトロ2:23
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
※3 イザヤ53:7
苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。
※4 ヘブライ12:1-2
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
※5 ローマ5:19
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
※6 黙示録19:16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
※7 コロサイ2:3
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
※8 詩編22:19
わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。
※9 ヨハネ19:1-4
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
※10 マルコ15:17
そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
※11 詩編69:22
人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします。
トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。
聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801
ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm
『使徒信経講解』

罪を癒すことに関して言えば、私たちが罪の故に招いたすべての悪から、キリストの受難によって癒されると言うべきである。
しかし、模範としての受難の大切さもこれに劣りはしない。実際、キリストの受難は、私たちに生き方を教えるためにこのうえなく完全なのである。完全な生き方を欲する者は、キリストが十字架上で軽視されたことを軽視し、キリストが十字架上で求めたことを求めるだけでよいからである。まことに、十字架は徳のあらゆる模範を含んでいるのである。
愛の模範を求めるなら、それは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」※1という言葉で示される愛である。キリストが十字架上でなされたことは、まさにこのことである。だから、キリストは私たちのためにご自分の命を捨ててくださったので、私たちはどのような悪をもキリストのために耐え忍ぶことを嫌ってはならない。
忍耐の模範を求めているのなら、十字架上のキリストがその最も卓越した模範であることを見いだすであろう。そこでは、忍耐の大きさが二つのことによって示されているからである。その一つは、大きな苦難に忍耐強く耐えることであり、他の一つは、苦難を避けることができたのに、避けずにそれを受けるということである。さて、キリストは十字架上で大きな苦難を、しかも忍耐強く受けられた。事実、彼は「苦しめられても人を脅さず※2」、「屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に者を言わない羊のように、口を開かなかった※3」それゆえ、十字架上のキリストの忍耐は偉大である。「私たちも自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を堪え忍ばれた※4」のである。
謙遜の模範を求めているのなら、十字架につけられたキリストを見つめなさい。実に、神である方がポンティオ・ビラとのもとで裁きを受け、死ぬことをよしとされたのである。
従順の模範を求めているなら、死に至るまで御父に従順であったキリストに従いなさい。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」※5 のである。
現世的な財宝を軽視することの模範を求めているのなら、「王の王であり、主の主※6」であって、そのうちに「知恵と知識の宝がすべて隠されて※7」いながら、十字架の上で裸にされ、侮辱され、唾をかけられ、なぐられ、茨の冠をかぶせられ、胆汁や酢を飲まされ、ついに亡くなられたキリストに従いなさい。
したがって、美しい衣服や富みに執着してはならない。「彼らはわたしの着物を分けた※8」からである。名誉に執着してはならない。私は、あざけりと鞭打ちを身に受けたからである。高位に執着してはならない。彼らは茨の冠を編んで私の頭にかぶせた※10からである。快楽に執着してはならない。「彼らは渇く私に酢を飲ませた※11」からである。
1月28日 聖トマス・アクィナス司祭 教会博士 記念日
第一朗読 当週当曜日
第二朗読 聖トマス・アクィナス司祭 『使徒信経講解』
※1 ヨハネ15:3
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない
※2 1ペトロ2:23
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
※3 イザヤ53:7
苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。
※4 ヘブライ12:1-2
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
※5 ローマ5:19
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
※6 黙示録19:16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
※7 コロサイ2:3
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
※8 詩編22:19
わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。
※9 ヨハネ19:1-4
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
※10 マルコ15:17
そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
※11 詩編69:22
人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします。
トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。1369年1月28日に遺体がトゥールーズに移されたことからこの日に記念されるようになった。
聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801
ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm