goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ニッサの聖グレゴリオ 生まれる時と、死ぬ時がある

2014-02-25 19:01:30 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330年~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
コヘレト書についての説教
 「生まれる時と、死ぬ時がある※1」と聖書は言っています。著者は、話の始めに誕生と死を結び合わせて、この必然的な結びつきを言葉でみごとに著しています。それは誕生の後には死が必ずやって来て、生まれたあらゆるものは腐敗して消えていくからです。

 「生まれる時と、死ぬ時がある。」私もふさわしい時に生まれ、ふさわしい時に死にたいものです。著者がここで、自由意志によらない陣痛のことや自然に起こる死のことを、徳による正しさでもあるかのように語っているとは考えられません。事実、陣痛の時は女性の意志によって起こるのでもなく、死の時は世を去る人の自由意志によって決まるのでもありません。人間の自由な選択によらないことを、だれも徳や悪徳とみなすことはないでしょう。したがって、ふさわしい時の誕生とふさわしい時の死はなんであるかということを、よく理解しなければなりません。

 私が思うには、早産ではなく時が満ちて起こる誕生とは、イザヤが言っているように、人が神に対する畏れからはらみ、魂の陣痛によって自分の救いを生み出すということです※2。私たちが正しい選択によって自分自身を形作り、産み、光のもとに出すとき、私たちは自分自身にとってある意味で生みの親なのです。

 私たちがこのことを行うのは、自分自身の中に神を受け入れて、神の子、力の子、いと高き者の子となる※3ということによってです。反対に、私たちが早産で生まれ、自分を不完全で空虚なものにするのは、使徒パウロが言ったように、キリストの形が私たちの中に形づくられる※4ということがないときです。事実、神の人は完全な者でなければなりません。


年間第七火曜日 読書
第一朗読 コヘレト3:1-22 すべてに時がある
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ司教 コヘレト書についての説教
※1 コヘレト3:2
3:1何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時

※2 イザヤ26:18
わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず地上に住む者を産み出すこともできませんでした。

※3 ルカ6:35参照
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。


ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 賢い者の目はその頭の中にある

2014-02-24 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
コヘレト書についての説教
 [魂の主導能力が魂の「頭」と呼ばれ、その感覚的能力が魂の「足」と呼ばれます。したがって、魂の瞑想能力が感覚的なものの考察にふけっているときに、魂の目はその足に移ります。反対に、]魂が自分の頭のところ、それはパウロが説明しているようにキリストですが、そこに目を持ち上げるなら、その魂は鋭い透視力の故に、幸いなものと見なされるべきでしょう。悪の暗さがないところにその魂は目を持っているからです。あの偉大なパウロ、またパウロのように偉大な人が他にいれば、その人も頭の中に目を持っていました。また、キリストのうちに生き、働き、存在する※1すべての人もそうです。

 光の中にいる人が暗闇を見ることがないように、キリストの中に目を持っている人は、空虚なものに目を据えるということはありえません。頭の中に目がある者は、ここでは頭を全き源の意味にとりますが、あらゆる徳の中に目があるのです。(キリストは全く完全な徳です。)その人には、真理の中に、正義の中に、不朽性の中に、あらゆる善の中に、目があるのです。したがって、「賢い者の目はその頭の中にあり、愚かな者は暗闇の中を歩く※2」のです。自分のともし火を燭台の上に置かず、それを寝床の下に置く者は※3、光が自分にとって闇となるようなことを行うのです。

 反対に、崇高な戦いに励み、真に存在するものの瞑想にふけって、世間的な事柄に関して盲目で無関心であると思われている人々がいかに多いことでしょうか。彼らは、自分がキリストのために愚かな者となっていると言って誇っているパウロのようです。パウロの分別と知恵は、人がこの地上で追求してているものの何ものにも向けられてはいませんでした。それで、「私たちはキリストのために愚かな者となっている※4」と言っています。換言すれば、私たちは上の世界にあるものに目を向けており、目が頭の中にあるから、この下の世界で営まれる生活に関して盲目です、と言っているかのようです。そのためにパウロは、住む家も食べるものも持たず、貧しく、めぐり歩き、裸で、飢えと渇きに苦しめられたのです。

 パウロが鎖につながれたり打たれたりし、さらに難破して海上に漂ったり※5、つながれて連れ去られたりしたのを見て、彼をあわれな人であると思わない人がるでしょうか。しかし彼は、人々の中でそのようなものであったしても、目が常に頭の中にあるために、目をそらせたりすることしませんでした。彼は「だれが、キリスト・イエスのうちにあるキリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょうか。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か※6」と言っています。換言すれば、だれが私の目を頭からえぐり出して、足で踏みつけられるところにそれを移すことができるでしょうか、と言っているかのようです。

 パウロが「上にあるものを求めなさい※7」と命じるとき、それはあたかも、目が頭の中にあるようにしなさい、と言っているかのようですが、私たちにも同様にふるまうよいに命じているのです。


年間第七月曜日 読書
第一朗読 コヘレト2:1-26
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ コヘレト書についての説教
※1 使徒言行禄 17:28参照
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

※2 コヘレト 2:14
賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている両者に同じことが起こるのだということを。

※3 マタイ5:15
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

※4 1コリント4:10
わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。

※5 2コリント11:25参照
鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

※6 ローマ8:35
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

※7 コロサイ3:1
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい

2013-10-05 23:03:07 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
『神による目的および真の修徳について』
「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去りました。」※2パウロは、あらゆる悪と不正と非行から解放された、汚れない清い心の中に聖霊が住むことを、「新しく創造された者」と呼んでいる。実に人の魂が罪を犯すことを憎み、できるかぎり徳に導かれた生活に励み、生き方を変えて自らの内に聖霊の恵みを受けるなら、魂は全体として新しくなり、再び創造し直される。なお、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい※3」という言葉も、「古いパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭りを祝うことにしよう※4」という言葉も、新しく創造された者について言われたことと一致している。

私たちの魂をいざなう悪霊は、実に多くの罠を張り巡らせている。人間は自分だけではその悪霊に打ち勝つ力を持たない者である。そのために使徒パウロは、天上の武具で身を武装するように命じ、「正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履き物としなさい。また、立って真理を帯びとして腰に締めなさい※5」と言っている。彼は同一の目的地に向かう旅のために、実に多くの救いの手段をあなたに示したのだ。救いをえるためのこれらの手段を用いるなら、神の掟という頂を目指す人生の旅は容易に全うされる。同じ使徒パウロは他の箇所で、「私たちは自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスをみつめながら※9」と言っている。

 したがって、純粋な心をもって現世の誉れを軽んじ、この世の栄誉をすべて捨てた上で、人は自分の命とともに自分自身の魂をも捨てなければならない。魂を捨てるとは、自分の意志を全く求めず、神の意志のみを求め、神の意志をよき導き手としてそれに従うことであり、さらに、共有物の他は私財を一切所有しないことである。こうすれば、キリストの奴隷、兄弟たちの共通の利益に奉仕するために贖われた奴隷として、上に立つ者の命じることを、楽しみつつ希望をもって果たすための心構えができる。主は、「あなたがたの中で一番上になりたい者、偉くなりたい者は、一番後の者になり、すべての人の僕(しもべ)になりなさい※7。」と言って、このことを命じられる。


年間第二十六土曜日 読書
第一朗読 フィリピ4:10-23
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 『神による目的および真の修徳について』
※2 2コリント5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

※3 1コリント5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

※4 1コリント5:8
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

※5 エフェソ6:14-15
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

※6 ヘブライ12:1-2
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

※7 マルコ10:43-44
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。


ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 神は人の心の中に見いだされる

2013-06-29 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330頃~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教
『説教』
 人生において体の健康は望ましいものですが、健康の理念を知るだけでは幸いではなく、健康であることが幸いです。だれかが健康をほめたたえながら、悪い体液や病気を生じるような食物をとって病気になったとするなら、健康ほめたたえることは何の役に立つのでしつようか。先の主の言葉も同じような意味で理解しましょう。すなわち、主は神について何かを知ることを幸いと言われるのではなく、自分の内に神を宿すことを幸いと言われるのです。「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る。※1」

 これは、清められた魂の目を持っている者に、あたかも対象として見える形で神が示されるいう意味ではないと思います。むしろ主のこの偉大な言葉は、主が他の人々に「神の国はあなたがたのうちにある※2」と述べることによって、もっとはっきり言われていることと同じ意味なのでしょう。つまり、主が教えようとされたのは、あらゆる被造物への愛着や欲情から心を清めた者が、自分の心の美しさの中に神の本性の像を眺めるということです。

 思うに、みことばであるキリストは簡潔な言葉で、次の事を勧めようとされたのです。「人よ、もし真の善を見ることを熱望するなら、神の偉大さがもろもろの天よりも高く、その栄光が言い尽くしがたく、その美しさが名伏しがたく、その本性が把握されえないと聞くとき、見たいと望んでいる者を見ることができないと思って失望してはならない。」

 心に塗られた汚れを熱心な生き方によって洗い清めるなら、神の似姿の美しさがあなたのうちに輝き渡るでしょう。それまで黒ずんでいた鉄が、砥石で錆を落とされると、太陽に栄光を反射する輝きと光を発するようになります。鉄の場合と同じように、主が「心」と名付けられた人間の内面も、よこしまな染みによってついてしまった錆の汚れを除き去ると、再びもとどおりの神の似姿となり、よいものとなるでしょう。善なるものに似ているものは、良いものだからです。

 こうして、自分自身を見る者は、自分が望んだとおりに、自分の内面に神を眺めます。清い心の持ち主は、幸いになります。自分の[内面の]清さを眺めて、像[としての自分]の中にその原型である神を見るからです。鏡の中に太陽を見る者は、天空を直視することはなくても、太陽そのものを眺める人と同様に、鏡に映る輝きによって太陽を見ています。同様にあなた方も、光そのものを眺めるには力不足であっても、創造の初めに形作られたあなたがたの内面の優美な像へと戻るなら、求めるものをあなたがた自身の内に持っているのです。

 神性は清さであり、激情のない状態であり、あらゆる悪を知らないものです。この清さがあなたのうちにあるなら、神は確かにあなたのうちにおられます。あなたの思いがあらゆる悪徳から清められ、欲情から解放され、あらゆる汚れから遠ざかっているなら、あなたは心の目の鋭さのゆえに幸いです。清められていない人々の目には見えないものを、清められているあなたは眺め、そして精神の目から物質の闇を取り除かれて、清く澄み切った心で幸いな眺めをはっきり見分けるかです。その眺めとはどのようなものでしょう。清さ、聖性、単純さ、神の本性のあらゆる輝きです。それを通して神が見られます。


年間第十二土曜日 読書
第一朗読 サムエル上 26:5-25
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 説教

※1 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

※2 ルカ17:21
「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 神を見たいという望み

2013-06-28 21:29:51 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330頃~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教
『説教』
 神であるキリストは、確かに最高の幸いをも超える幸いを約束なさいました。神を見て神においてすべてを持っている者は、それほどの恵みを受けてなお他に何を望むことがあるでしょうか。事実、聖書の用語法で「見る」ということは「持つ」という意味で用いられます。たとえば、「あなたはエルサレムの諸々の善を見る※1」の「見る」は、「得る」という意味です。さらに「悪しき者は、主の威光を見ないために、取り除かれますように※2」という場合、預言者イザヤは「見ない」という語で「あずからない」という意味を示しています。

したがって神を見る者は、良い者と見なされるもの全てを、神を見ることによってもっているのです。その良いものとは、終わりのないいのち、永遠の不朽性、不死の幸い、終わりのないみ国、絶えざる喜び、真の光、霊的で甘美な声、近づきがたい栄光、永久の歓喜、つまりあらゆる良いものです。

 キリストは幸いを約束なさったときに、これほど偉大で、これほど多くのものを、私たちに希望として与えて下さったのです。しかし、神を見るための条件として、心の清いことが提示されていますから、心の清さは実現されることが無く、人間の力を超えるものではないかと恐れて、私は再びめまいに襲われています。神は心の清さによって見られるのであり、しかもモーセとパウロが自分自身も他のだれも神を見ることはできないと言って、自分たちが神を見たことはないと断言しているのなら、みことばであるキリストによって先に示された幸いの約束の中で言われていることは、実現不可能であると判断すべきではないでしょうか。

 それで、考察の対象が実現不可能であるなら、神を見る方法を知ったとしても、それは私たちにとって何の役に立つでしょうか。それは、ある人が、天においてはこの世で見られないものが見られるのだから、天にいることは幸いであると言うことに似ています。事実、天に行くことを可能にする方法があらかじめ説明されているとすなら、天にいることが幸いであるということを知ることは、聞く人にとっては有益なことでしょう。しかし、天に昇ることが不可能なら、天の幸いについて知ることは何の役にもたちません。それを知ることは、私たちが天に昇ることはできず、そのためにどのような幸いに欠けているのかを教えて、私たちを苦しめるだけです。それでは主は、人間の力を超えることを勧めておられるのでしょうか。主の掟は、人間の力の限界を超えるほど大きな事を求めているのでしょうか。

 決してそうではありません。主は、翼のないものに鳥になるようにお命じになることも、陸上の住むことを定められた生き物に水中で暮らすようお命じになることもありません。

・・・神を知ることが人の力を超えることであると告げたこの人々(ヨハネ、パウロ、モーセ)が幸いをもっていることに疑いの余地がないのなら、しかも幸いが神を見ることによって成り立ち、清い心をもっている人が神を見るのであれば、幸いを持つための心の清さは実現不可能ではないと言うべきなのです。



年間第十二金曜日 読書
第一朗読 サムエル上25:14-39
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 説教

※1 詩編128:5
シオンから主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見

※2 イザヤ26:10(七十人訳)
神に逆らう者は、憐れみを受けても正しさを学ぶことがありません。公正の行われている国で不正を行い主の威光を顧みようとしません。(新共同訳)



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm