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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖ヨハネ・フィッシャー たとえ誰かが罪を犯しても、父のもとに弁護者がおられる

2014-04-07 00:02:16 | 日記
聖ヨハネ・フィッシャー(1469~1535年) イギリスのロチェスターの司教、枢機卿、殉教者
『詩篇注解』
 イエス・キリストは私たちの大祭司であり、その尊い体は、主がすべての人のために十字架の祭壇でささげてくださった私たちの生け贄である。

 また、私たちの贖いのために流された血は、旧約時代のように、若い雄牛や雄山羊の血ではなく※1、罪のない子羊、私たちの救い主イエス・キリストの血である。

 私たちの大祭司が生け贄をささげた神殿は、人間の手で造られたものではなく、ただ神の力だけで建てられたものである。事実、キリストは世界の面前で血を流されたが、世界は神の手だけで造られた神殿なのである。

 この神殿には二つの部分がある。一つは私たちの住んでいるこの大地であり、もう一つは私たちが地上にいる間は知ることのできないところである。

 まずキリストは、あの痛ましい死を身に受けられたとき、この地上で生け贄を捧げられた。次に、不死性という衣を身にまとい、ご自分の血によって至聖所、すなわち天に入られた。そして全ての罪人のために七度流されたあの限りなく尊い御血を、天の御父の玉座の前でおささげになったのである。

 この生け贄はこの上なく神に受け入れられ、神はこれをご覧になると、真に悔い改める全ての人に、あわれみを示さずにはおられないのである。

 この生け贄はまた永遠のものである。ユダヤ人の元で行われたように毎年一度しかささげられないものではなく、私たちの慰めのために毎日、いや毎時毎分ささげられ、私たちの最大の慰め、支えとなっている。そのために使徒パウロは、キリストは「永遠の贖いを成し遂げられた※2」と加えている。

 この永遠の、聖なる生け贄にあずかるのは、自らの罪を真に悔い、犯した罪の償いを果たし、以後罪を再び犯すまいと決心し、歩み始めた徳の道を最後まで追求することを固く決心したすべての人である。

 このことを聖ヨハネは次のように述べている。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う生け贄です※3。」


四旬節第五月曜日 読書
第一朗読 ヘブライ2:5-18
第二朗読 聖ヨハネ・フィッシャー 『詩編注解』

※1 ヘブライ9:12
「雄山羊と若い雄牛の血」によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って「永遠の贖いを成し遂げられた」のです。

※2 ヘブライ9:12

※3 1ヨハネ2:1-2
わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。


聖ヨハネ・フィッシャー
カトリック教会、聖公会の聖人。(Wikipediaでは、ジョン・フィッシャー)
聖務日課の読書をしていると、500年前のヨハネ・フィッシャーは「教会の祈り(聖務日課)」の読書では最近の人という感じがします。東西教会がともに聖人としている、教会が一つであった頃の読書(書簡)が多いからでしょう。ところで、ヨハネ・フィッシャーは、ヘンリー八世によって斬首された聖人ですが、聖公会でも認められているのですね。少し意外でした。(そして、トマス・モアもカトリック、聖公会の双方で聖人なのですね。)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖ヨハネ・フィッシャー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=062201

聖アタナシオ 私たちは近づく主の祝祭を、言葉だけではなく実践によって実現している

2014-04-06 00:00:00 | 日記
聖アタナシオ(295-373年)アレキサンドリアの司教、教会博士
復活節の手紙
 私たちのために全てとなられたあのことばは、私たちと共におられます。私は、私たちのもとに絶えずいると誓われた主イエス・キリストのことを言っているのです。ですから主は叫んで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる※1」と言われました。彼は牧者であり、至高の祭司でり、道であり門でありますが、しかも同時に、私たちのためにこの全てとなられたのです。同じようにして彼はこの祝祭、および祭典として私たちに現れました。まことに使徒パウロが待望された、「キリストが、私たちの過越の子羊として屠られた※2」と語っている通りです。しかし、キリストはすでに、「私の喜びよ、私を取り囲む敵の手から救い出してください※3」と祈る詩篇作者の上にも光を投げかけておられました。これこそまことの喜び、まことの祭典として、悪からの解放なのです。この祭典に至るために、私たち一人一人の行状が正しくあること、そして神の畏れがもたらす平安の内で内的に黙想することが求められています。

 このようにして、聖なる人々は、その生涯にわたって、まるで祝祭のうちにあるかのように喜びに満たされていました。その聖なる人々の一人はダビデでした。彼は一夜のうちにただ一度ならず七度にも及んで起き※4、そして祈りつつ神との和みを実現したのです。別のもう一人は偉大なモーセでした。彼は賛歌によって喜びを歌い上げ、神をたたえたのですが、それは、ヘブライ人たちを苦役で苦しめたファラオとエジプト人たちに対して得た勝利のためでした。他の人々もまた、絶えず明らかな喜びをもって神の祝祭を執り行いました。それは偉大なサムエルや幸いなエリアという人達でした。彼らはよい人生を送り、その功しとして自由を得、今は天上で祝祭を祝っています。そして、自分たちが地上で生きた影に似た巡礼についても喜びを表し、まことの実現とその像とを識別しているのです。

 ところで私たちは今、祭典を執り行っているのですが、どうのような道をとったらよいのでしょうか。この祝祭に近づきつつあるのですが、どのような指導者に従ったら良いのでしょうか。愛する兄弟の皆さん、それはあなたがたが私と共に、「私たちの主イエス・キリスト」と呼ぶ方以外の何者でもないのです。彼こそ、「わたしは道である※5」と語りました。彼こそヨハネの言うように、「世の罪を取り除く※6」方です。彼は、預言者エレミヤが「あなたがたは分かれ道に立って、良く見、良い道がどれかを尋ねて、その道を歩み、そしてあなたがたの魂の安息を得なさい※7」と言っているように、私たちの魂を清めてくださいます。

 昔、不浄なものの上にまかれた山羊の血と子牛の灰は身体しか清めることができませんでしたが※8、今は神のことばの恩恵によって、だれもが十全に清められるのです。もし私たちがこのことばにすぐに従うなら、あたかも天上のエルされるの入り口に立つときのようにして、今この場で、かの永遠の祝祭を垣間見ることができるでしょう。実際あの幸いな使徒たちもそうでした。彼らは救い主を自分たちの師と仰いで従い、当時も今もこの恵みの指導者であります。そういうわけで彼らは、「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました※9」と言ったのです。私たちも主に従って歩み、そして主の祝祭を、言葉だけでなく実践によって実現しているのです。


四旬節第五主日 読書
第一朗読 ヘブライ1:1-2:4
第二朗読 聖アタナシオ司教 復活節の手紙
※1 マタイ 28:20
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

※2 1コリント 5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

※3 詩篇32:7(七十人訳)
あなたは私の隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって私を囲んでくださる方。(新共同訳)

※4 詩編119:164
日に七たび、わたしはあなたを賛美します あなたの正しい裁きのゆえに。

※5 ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

※6 ヨハネ1:29
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

※7 エレミヤ6:16
主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ  どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。

※8 ヘブライ9:13参照
なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、

※9 マタイ19:27
すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」


聖アタナシオ
295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範となりました。現在まで続いているキリスト教会の基礎を築いた一人です。(アタナシウス、Wikipediaではアレクサンドリアのアタナシオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖アタナシオ司教
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message222.htm

第二バチカン公会議 すべての人間活動は過越秘義によって清めるべきである

2014-04-05 00:00:00 | 日記
第二バチカン公会議 (1962~1965年)
『現代世界憲章』
 聖書は、人間的な進歩が人間に大きな益をもたらすが、大きな誘惑を伴うものであることを人類家族に教える。諸世紀にわたる経験もこの教えに一致する。事実、諸価値の秩序が乱され、善と悪とが混同されるとき、各々の個人や団体は、自分の利益だけを考えて他人のことは考えない。

 その結果、世界はもはや真の兄弟的愛の場ではなくなり、増大した人間の力が人類そのものを破壊するおそれが生じる。

 どのようにすれば、このように不幸な状態を克服できるかと問う人に対して、キリスト者は、高慢と乱れた自己愛によって毎日危険にさらされているあらゆる人間活動を、キリストの十字架と復活によって清め、完成すべきてあると答える。

 キリストによって贖われ、聖霊を受けて新しい被造物とされた人間は、神によって造られた被造物を愛しても良いし、また愛さなければならない。事実、人間はそれらの被造物を神から受け、神の手から流れ出るものとして眺め、尊重する。

 人間は、被造物を与えられたために恵み深い神に感謝し、清貧と自由の精神をもってその被造物を使い、享有し、何ももたないがすべてのものを所有している者として※1、真に世界を所有する者となる。「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの※2」なのである。

 万物は神の言葉によって成ったが、ことばが肉となり人々の地に宿り、完全な人間として世界の歴史に入り、自ら世界の歴史を受け入れ、頭(かしら)である自分のもとに一つにまとめられた※3。このキリストは、「神が愛である※4」ことを私たちに示し、さらに、新しい愛の掟が人間完成と世界改革の根本法則であると教えられた。

 したがって、キリストは神の愛を信じる者に、愛の道がすべての人間に開かれており、全人類の兄弟的一致を確立する努力が無駄なものではない、という確信を与える。さらに、主はこの愛を特別な偉業にあたってだけではなく、まず日常茶飯事にあたって追求するように忠告しておられる。

 キリストは罪人である私たちのために死を堪え忍び※5、肉の欲と世が平和と正義を追求する人々の肩に負わせる十字架をも背負うべきであることを、ご自分の模範によって教えられる。

 復活によって主に立てられ※6、天と地の一切の権能を授かっているキリストは※7、その霊の力をもって人々の心の中にすでに働いておられる。キリストはこの働きによって、来るべき世に対する願望を起こさせるだけではなく、人類家族の生活をいっそう人間らしいものにし、地上全体をこの目的に従わせようと努力する、すべての人の心をこめた願いをも同時に力づけ、清め、強められる。

 霊の賜物は様々である。霊は、天上の住まいに対する願望の明らかな証し人となり、この願望が人類家族の中に生き生きと保たれることを助けるようにある人々を招き、またある人々を、現世的なことがらに関して人々への奉仕に従事し、この仕事によって天の国の素材になるものを準備するように招く。


四旬節第四土曜日 読書
第一朗読 民数記20:1-21:9
第二朗読 第二バチカン公会議『現代世界憲章』
※1 2コリント6:10
悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

※2 1コリント3:22-23
パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

※3 エフェソ1:10
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

※4 1ヨハネ4:8
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

※5 ヨハネ3:14-16
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

※6 使徒言行録 2:36参照
「・・・ だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

※7 マタイ28:18参照
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。


聖アタナシオ 過越祭は一つの同じ信仰によって人々をお互いに近い者にする

2014-04-04 00:00:00 | 日記
聖アタナシオ(295-373年)アレキサンドリアの司教、教会博士
復活節の手紙
 兄弟の皆さん、一つの祝祭から次の祝祭へ、一つの祈りから次の祈りへ、一つの典礼から次の典礼へ移りゆくことはすばらしいことです。今は再び、私たちの事始めの時、主がほふられた幸いなる過越を記念するための時が戻って来たのです。確かに私たちは命の糧に養われ、泉の水を飲むように常に尊い御血を快く飲んでいますが、それでも絶えず渇望に燃えているのです。主は実にこのように渇望している人々の傍らにおられ、そして心から渇望している人々を寛大にこの祝祭にお招きになります。私たちの救い主が、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい※1」と言われたように。

 人が主の御からだと御血を拝領するために近づくときにだけ、その渇きがいやされるのではなく、懇願するたびに、主はご自分に近づくことを快く許されます。この祝祭の恵みは一定の期間に限られるものではなく、その輝かしい光は日没のように消えることはありません。むしろ、照らしを望む人々の心をすばやく照らすのです。また、この恵みは、心から照らされた人、昼夜無く聖書を黙想する人々にとって絶えざる力の源泉となっています。このような人こそ幸いな者と呼ばれ、詩編の中で次のようにたたえられたいます。「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も思い巡らす人。※2」

 愛する皆さん、初めにこの祝祭を私たちのために定められた神は、毎年この祝祭が祝われるようにしてくださったのです。その御子を私たちの救いのために死にお渡しになった方が、毎年祝われるこの祝祭を、同じ理由で私たちに贈り与えられたのです。この祝祭は、この世で生じる様々な艱難の間をぬって私たちを導きます。そして今や神は、私たちを皆一つの集いに導き、至る所にいる人々を霊的に一つにし、祝祭にふさわしく共に祈り、共に感謝をささげることによって、この祝祭からあふれ出る救いの喜びを私たちに捧げられるのです。神はこの祝祭を祝うために、遠く離れている人々を集め、たとえ身体が遠く離れていても、一つの同じ信仰によってお互いに近い者にしてくださるのです。これこそ、神の寛大さの奇跡なのです。


四旬節第四金曜日 読書
第一朗読 民数記 14:1-25
第二朗読 聖アタナシオ 復活節の手紙
※1 ヨハネ 7:37~38
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
※2 詩編 1:1-2
いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人


聖アタナシオ
295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範となりました。現在まで続いているキリスト教会の基礎を築いた一人です。(アタナシウス、Wikipediaではアレクサンドリアのアタナシオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖アタナシオ司教
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message222.htm

ナジアンズの聖グレゴリオ 貧しい人に仕えてキリストに仕えよう

2014-03-29 06:48:56 | 日記
ナジアンズの聖グレゴリオ(330年-389年) カッパドキアのナジアンズの司教、教会博士
説教
 「あわれみ深い人々は幸いである。その人たちはあわれみを受けるであろう※1」と聖書にあります。幸いについての主のことばの中で、このあわれみという言葉は決して取るに足りないものではありません。聖書には、「いかに幸いなことでしょう、弱い者に思いやりのある人は※2」という言葉もありますし、「あわれみ深く、貸し与える人はよい人※3」、また「義人は生涯、あわれんで貸し与える※4」という言葉もあります。それで、聖書が幸いと言ったことを速やかに行いましょう。思いやりのある人と呼ばれるように行い、良い人となりましょう。

 夜中でもあわれみの務めを中断しないようにしましょう。「出直してくれ、明日あげよう※5」と言ってはなりません。あなたは決心した善行を後回しにしてはなりません。あわれみの業を後回しにするのは、許されていません。

 「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ※6」、しかも喜んで心からそうしなさい。「慈悲を行う人は快く行いなさい。※7」と聖書は言っています。快く行うなら、あなたの善良さは二倍になります。悲しみながら無理にさせられた慈悲は、気持ちのよいものにはならず、立派な行いとはなりません。

 善行を行うにあたっては、喜ぶべきであって、悲しむべきではありません。聖書が言うように、「もし束縛を断ち、人を選び分けることをやめるなら※8」、つまり、詮索することをやめ、ためらったりつぶやいたりしないならば、何が得られるでしょうか。ああ、それは何とすばらしく、驚くべきことでしょう。その報いはなんとすばらしいことでしょう。「あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかに癒される※9」と述べられている報いです。光に照らされ、いやされることを欲しない人がいるでしょうか。

 したがって、キリストのしもべであり、兄弟であり、共同相続人である皆さん、私の勧めに従ってください。この世にいるうちに、キリストを訪問しましょう。キリストをいやしましょう。キリストに食べさせましょう。キリストに服を着せましょう。キリストを家に迎えましょう。キリストに敬意を払いましょう※10。ただ昔のある人々がしたようにキリストを食事に招き※11、またマリアがしたようにキリストに香油を注ぎ※12、アリマタヤのヨセフがしたようにキリストを墓に葬り※13、キリストに対して不十分な愛しかもっていなかったニコデモがしたようにキリストの葬儀のために必要なものを提供し※14、また、これらすべての人に先立って訪れた占星学者たちがしたように黄金と乳香と没薬でキリストをたたえる※15だけですますことのないようにしましょう。 かえって、万物の主は、いけにえではなくあわれみを求めておられ※16、また、幾万の肥えた子羊の供え物※17 にあわれみがまさるのですから、貧しい者や、きょう、地に倒れている者を助ける事を通して、キリストに対してこのあわれみを示しましょう。それは、私たちがこの世を去るとき、この貧しい人々が私たちの主・キリストにおいて、私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれるためです※18。このキリストに栄光が世々にありますように。アーメン


四旬節第三土曜日 読書
第一朗読 出エジプト40:16-38
第二朗読 ナジアンズの聖グレゴリオ 説教

※1 マタイ5:7
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

※2 詩篇41:2
 いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき 主はその人を逃れさせてくださいます。

※3 詩篇112:5
憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。

※4 詩篇37:26
生涯、憐れんで貸し与えた人には 祝福がその子孫に及ぶ。

※5 箴言3:28
出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな/あなたが今持っているなら。

※6 イザヤ58;7
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。

※7 ローマ12:8
勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

※8 イザヤ58:6
わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

※9 イザヤ58:8
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。

※10 マタイ25:35-45参照
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。
『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

※11 マルコ2:16
ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

※12 ヨハネ12:3
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

※13 ヨハネ 19:38
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。

※14 ヨハネ 19:39
そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。

※15 マタイ2:11
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

※16 ホセア6:6 マタイ9:13参照
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

※17 ダニエル補遺・アザルヤ17 参照
焼き尽くす献げ物の羊と牛のように、幾万の肥えた小羊のように、今日の我らのいけにえが、御前に受け入れられますように。あなたに従う我らの歩みを全うさせてください。あなたに信頼する者は辱められないからです。

※18 ルカ16:9
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。


ナジアンズの聖グレゴリオ
 330年、ナジアンズ近郊に生まれた。隠遁生活を送るために友人バジリオのもとに赴いたが、間もなく司祭に、やがて司教に叙階された。381年にコンスタンチノープルの司教に選ばれたが、同教会に起こった派閥争いのため職を辞してナジアンズに戻り、389年1月25日に帰天(死去)。学問と雄弁によって名声を高めたため、「神学者」という称号を与えられた。

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201

ベネディクト十六世の連続講話「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の第47回で「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message236.htm