毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖コロンバン修道院長 神の無限の深み

2014-02-27 18:41:29 | 聖コロンバン修道院長
聖コロンバン修道院長(6世紀中頃~615年) リュクセイユの修道院長
『訓話』
 無限の神は、全体としてどこにでも臨在しておられます。神はご自分について、「私は近くにいる神であって、遠くにいる神ではない※1」と仰せられたとおりです。神はどこにでも、近くにおられます。私たちの探し求める神は、私たちから遠くに離れておられる方ではないのです。私たちが相応しい者であるならば、私たちのうちに神がおられるのです。それは、私たちが罪に対して死に※2、神の健全な肢体であるかぎり、魂が体のうちにあるように、神は私たちの内にとどまって下さるからです。そのときにこそ、「私は彼らのうちに住み、彼らの中を歩もう※3」と仰せられた神は、真に私たちの内にお住まいになるのです。もし神が私たちの内に押すまいになるなら、私たちは神の生きた肢体として、まことに神によって生かされるのです。使徒パウロが言っているとおり、「私たちは神のうちに生き、働き、存在します※4」

 いと高き神の、言い尽くしがたく、悟りがたい本質を探究することのできる者がいるでしょうか。神の深みを調べることのできる者がいるでしょうか。万物を満たし、万物を包み、万物に浸透し、万物を越え、万物を把握し、万物から姿を隠しておられる神を知る、とあえて主張できる者がいるでしょうか。神をありのまま見た者は一人もいないのです※5。したがって、神の存在とはいったい何なのか、神はどのように存在しておられるのか、なぜ存在しておられるのかというようなことについては、何人もむやみに詮索してはならないのです。これらのことは筆舌に尽くしがたく、きわめがたく、悟りがたいことなのです※6。ただ、神がかつて存在しておられたままで今も存在し、またこれからも存在するということだけを、単純に、しかも固く信じなさい。神は変わることのない方だからです。

 神はどういう方でしょうか。父と子と聖霊である唯一の神です。神についてはこれ以上詮索しないようにしなさい。神の限りない深みを知りたいと思うなら、まず自然の考察から始めるべきです。三位一体についての知識は、さましく海の深さにたとえられます。それは、「その深いところをだれが見いだせようか※7」という知者の言葉のとおりです。海の深さが人間の目でわからないのと同様に、三位一体の神性も人間の理解力を越えたものなのです。それゆえ、だれかが信じるはずであったことがらを理性で極めようと思う者がいるなら、その人は信仰よりも議論によっていっそうよく理解できると考えてはなりません。そのようにして探求される神の知恵は、今までよりも遠く離れ去ってしまうでしょうから。

 そこで、議論することによってではなく、完全な徳の生活を送ることによって、また、学識をみせかける不信心から生じる推測によってではなく、素直な心からあふれ出る信仰によって、最高の知識を探求しなさい。したがって、もしあなたが言い尽くしがたい神を論述によって探求しようとするなら、その神は、前よりも一層遠くに、あなたから離れ去ることになるでしょう※8。これに反して、信仰によって探求するなら、知恵は今いるところ、すなわち、あなたの門にとどまることになるでしょう。そして、そのとき、たとえ部分的ではあっても、知恵がどこにあるかということを見ることができます。神にいくらかでも真に触れることができるのは、見えない神を理解力を超える方と信じるときです。それは、見えない神ょ、見えない方として信じなければならないからです。たとえ、神が心の清い人※9にいくらか見える※10にしてもそうです。


年間第七木曜日 読書
第一朗読 コヘレト6:11~7:28 賢すぎてはいけない
第二朗読 聖コロンバン修道院長 訓話
※1 エレミヤ23:23
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。

※2 ローマ6:2 1ペトロ2:23
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

※3 出エジプト25:8 レビ26:12
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。

※4 使徒言行録17:28
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

※5 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

※6 ローマ11:33
あ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

※7 コヘレト7:24
在したことは、はるかに遠く その深い深いところを誰が見いだせようか。

※8 知恵6:14
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに 自宅の門前で待っている知恵に出会う。

※9 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

※10 1コリント13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。


聖コロンバン
 六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。やがてフランスから追放されてイタリアに行き、ボッビオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高める上で大きな業績をあげ、615年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112302

ベネディクト16世が、教父に関する講話で「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message317.htm

聖コロンバン修道院長 永遠の代祭司の神殿に輝く永遠の光

2013-10-15 00:00:25 | 聖コロンバン修道院長
聖コロンバン修道院長(6世紀中頃~615年) リュクセイユの修道院長
『悔い改めについての訓話』
 「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られるしもべたちは※1。」、なんと幸いな恵まれた人でしょう。すべてを満たし、すべてを超えておられる万物の作り主である神を迎えるために目をさましていることは、なんと幸いな徹夜でしょう。

 私はまことに卑しい者ではありますが、それでも主のしもべです。神が怠慢の眠りから私を目覚めさせてくださいますように。また、神の愛の日を私たちの内に燃え立たせてくださいますように。

 ああ、私の明かりが夜通し主の神殿にともされ、燃え続けることができたら、またその明かりが、私の神の家に入るすべての人を照らすことができたら、なんと幸いなことでしょう。主よ、私の神であり、あなたの子であるイエス・キリストの名によってお願いいたします。衰えを知らぬ愛を私にお与えください。私の明かりが、いつまでも消えることなく燃え続きますように。その明かりが私の内に燃え上がり、他の人々を照らすものとなりますように。


年間第二十八火曜日 読書
第一朗読 ゼカリア1:1-2:4
第二朗読 聖コロンバン修道院長 悔い改めについての訓話
※1 ルカ12:37
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。


聖コロンバン
 六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。やがてフランスから追放されてイタリアに行き、ボッビオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高める上で大きな業績をあげ、615年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112302

ベネディクト16世が、教父に関する講話で「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message317.htm

聖コロンバン修道院長 神よ、あなたこそ私たちのすべて

2013-08-29 00:00:00 | 聖コロンバン修道院長
聖コロンバン修道院長(6世紀中頃~615年) リュクセイユの修道院長
『訓話』
 兄弟の皆さん、命である方が私たちを命の泉へ招くその招きに従いましょう。この方は生きた水の泉であるだけでなく、永遠の命の泉、光の泉、輝きの泉でもあるのです。知恵、命、永遠の光、すべてがこの泉からくるのです。命の造り主は命の泉であり、光の造り主は輝きの泉です。それゆえ、見えるものには目もくれず、現世を超えて天の高い所にあるもの、すなわち光の泉、いのちの泉を求め、理性をそなえた思慮深い魚であるかのように、生きた水の泉を求めましょう。それは、そこに達して、「永遠の命に至る生きた水※1」を飲むためです。

 あわれみ深い神、いつくしみ深い主よ、私をその泉にたどり着かせてください。それは、あなたを渇望する人たちとともに、私も生きた水の生きた泉から生きた流れをくんで飲み、そのときにこそ、私はその水の比べようのない味のよさに心を奪われて、「生きた泉の水の味はなんとよいもの、永遠のいのちに至るこの水が涸れることはない」と口ずさみながら、いつまでもそれと一致するためです。

 ああ主よ、あなたこそ、いつもいつも渇望すべき泉、いつもいつも水をくむべき泉です。主キリストよ、いつも「その水をください※2。」この水が私たちのうちでも、「永遠のいのちにいたる生きた水」となるためです。私が偉大なことを願っているのは事実です。それは否定できません。しかしながら、栄光の王よ、あなたは偉大なことを与えることができ、また偉大なことを約束してくださいました。事実、あなたご自身より偉大なものはほかにありません。あなたはご自身を私たちにお与えになり、私たちのためご自身をささげてくださったのです。

 主よ、お願いします。私たちが愛しているあなたを知ることができますように。私たちは、あなただけが私たちに与えられることを願い、他には何も欲しくないからです。あなたこそ私たちの全て、私たちの命、光、救い、糧、飲み物、そして私たちの神です。ああ、イエスよ、お願いします。あなたの霊の息吹を私たちの心に注ぎ、あなたの愛で、私たちの霊魂を傷つけてください。私たちそれぞれの霊魂が、「『私の魂の恋い慕う者を私に示して下さい。』私は愛で傷つけられてしまったのです※3」と真実に言えるようになるためです。


年間第二十一木曜日 読書
第一朗読 エレミヤ3:1-4:4
第二朗読 聖コロンバン 訓話

※1 ヨハネ4:14
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

※2 ヨハネ4:15
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

※3 雅歌 1:7
教えてください、わたしの恋い慕う人
あなたはどこで群れを飼い
真昼には、どこで群れを憩わせるのでしょう。
牧童たちが飼う群れのそばで
顔を覆って待たなくてもすむように。



聖コロンバン
 六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。やがてフランスから追放されてイタリアに行き、ボッビオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高める上で大きな業績をあげ、615年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112302

ベネディクト16世が、教父に関する講話で「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message317.htm

聖コロンバン修道院長 渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい

2013-08-28 00:00:00 | 聖コロンバン修道院長
聖コロンバン修道院長(6世紀中頃~615年) リュクセイユの修道院長
『訓話』
 愛する兄弟の皆さん、ある必要なことを聞こうとする人のように、私の言葉に耳を貸して下さい。私は今、神である泉について話したいと思います。その泉の水によってあなたがたの霊魂の渇きを癒しつつ、その渇きが無くならないように注意しなさい。その水を飲みなさい。しかし飽きてはなりません。生きた水の泉であり、いのちの泉である方が私たちをご自分のもとに招き、次のように言っておられルからです。「渇いている人はだれでもわたしの所に来て飲みなさい。※1」

 その飲み物とは何であるかを良く理解するようにしなさい。この点については、エレミヤと泉である方ご自身とがあなたがたに宣言してくれますように。「『彼らは生きた水の泉である私たちを捨てた』と主は言われる※2。」したがって、私たちの神であるイエス・キリストご自身は、いのちの泉なのです。それためにこそ、泉であるご自分のところに来て水を飲むようにと、私たちを招いておられるのです。主を愛する者はその水を飲み、神のことばで満たされている者、また深くこれを愛し、これを熱望している者はその水を飲み、知恵への愛に燃え立っている者はそれを飲みます。

 この泉がどこから湧き出ているかを良く考えてください。それはあのパンが降ってきたところからです。事実、神のひとり子であり、私たちの神である同じ主キリストは、パンでもあり、泉でもあります。私たちはいつでもキリストに飢えていなければなりません。私たちは愛によって主を食べ、望みによって主をむさぼるように食べることがあっても、なおかつ飢えている者のように主に対する望みを抱き続けるようにしましょう。また、泉としてのキリストについても同じようにしなければなりません。限りない愛を込めて絶えずその泉の水を飲むようにしましょう。いつでもむさぼるような思いで飲み、主の恵み深さを心ゆくまで味わいたいものです。



年間第二十一水曜日 読書
第一朗読 エレミヤ2:1-25
第二朗読 聖コロンバン修道院長 訓話

※1 ヨハネ7:37
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

※2 エレミヤ2:13
まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを。



聖コロンバン
六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。やがてフランスから追放されてイタリアに行き、ボッビオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高める上で大きな業績をあげ、615年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112302

ベネディクト16世が、教父に関する講話で「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message317.htm

聖コロンバン修道院長 神の無限の深み

2013-05-23 21:45:42 | 聖コロンバン修道院長
聖コロンバン修道院長(6世紀中頃~615年) リュクセイユの修道院長
『訓話』
 無限の神は、全体としてどこにでも臨在しておられます。神はご自分について、「私は近くにいる神であって、遠くにいる神ではない※1」と仰せられたとおりです。神はどこにでも、近くにおられます。私たちの探し求める神は、私たちから遠くに離れておられる方ではないのです。私たちが相応しい者であるならば、私たちのうちに神がおられるのです。それは、私たちが罪に対して死に※2、神の健全な肢体であるかぎり、魂が体のうちにあるように、神は私たちの内にとどまって下さるからです。そのときにこそ、「私は彼らのうちに住み、彼らの中を歩もう※3」と仰せられた神は、真に私たちの内にお住まいになるのです。もし神が私たちの内に押すまいになるなら、私たちは神の生きた肢体として、まことに神によって生かされるのです。使徒パウロが言っているとおり、「私たちは神のうちに生き、働き、存在します※4」

いと高き神の、言い尽くしがたく、悟りがたい本質を探究することのできる者がいるでしょうか。神の深みを調べることのできる者がいるでしょうか。万物を満たし、万物を包み、万物に浸透し、万物を越え、万物を把握し、万物から姿を隠しておられる神を知る、とあえて主張できる者がいるでしょうか。神をありのまま見た者は一人もいないのです※5。したがって、神の存在とはいったい何なのか、神はどのように存在しておられるのか、なぜ存在しておられるのかというようなことについては、何人もむやみに詮索してはならないのです。これらのことは筆舌に尽くしがたく、きわめがたく、悟りがたいことなのです※6。ただ、神がかつて存在しておられたままで今も存在し、またこれからも存在するということだけを、単純に、しかも固く信じなさい。神は変わることのない方だからです。

 神はどういう方でしょうか。父と子と聖霊である唯一の神です。神についてはこれ以上詮索しないようにしなさい。神の限りない深みを知りたいと思うなら、まず自然の考察から始めるべきです。三位一体についての知識は、さましく海の深さにたとえられます。それは、「その深いところをだれが見いだせようか※7」という知者の言葉のとおりです。海の深さが人間の目でわからないのと同様に、三位一体の神性も人間の理解力を越えたものなのです。それゆえ、だれかが信じるはずであったことがらを理性で極めようと思う者がいるなら、その人は信仰よりも議論によっていっそうよく理解できると考えてはなりません。そのようにして探求される神の知恵は、今までよりも遠く離れ去ってしまうでしょうから。

 そこで、議論することによってではなく、完全な徳の生活を送ることによって、また、学識をみせかける不信心から生じる推測によってではなく、素直な心からあふれ出る信仰によって、最高の知識を探求しなさい。したがって、もしあなたが言い尽くしがたい神を論述によって探求しようとするなら、その神は、前よりも一層遠くに、あなたから離れ去ることになるでしょう※8。これに反して、信仰によって探求するなら、知恵は今いるところ、すなわち、あなたの門にとどまることになるでしょう。そして、そのとき、たとえ部分的ではあっても、知恵がどこにあるかということを見ることができます。神にいくらかでも真に触れることができるのは、見えない神を理解力を超える方と信じるときです。それは、見えない神ょ、見えない方として信じなければならないからです。たとえ、神が心の清い人※9にいくらか見える※10にしてもそうです。


年間第七木曜日 読書

※1 エレミヤ23:23
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。

※2 ローマ6:2 1ペトロ2:23
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

※3 出エジプト25:8 レビ26:12
わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。

※4 使徒言行録17:28
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

※5 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

※6 ローマ11:33
あ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

※7 コヘレト7:24
在したことは、はるかに遠く その深い深いところを誰が見いだせようか。

※8 知恵6:14
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに 自宅の門前で待っている知恵に出会う。

※9 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

※10 1コリント13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。


聖コロンバン
六世紀前半、アイルランドに生まれる。古典文学と神学を学んだ後、修道生活に入り、フランスに移ってからは多くの修道院を設立し、厳しい会則をもってそれを治めた。やがてフランスから追放されてイタリアに行き、ボッビオに修道院を設立した。一般信徒と修道者たちの信仰を高める上で大きな業績をあげ、615年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112302

ベネディクト16世が、教父に関する講話で「聖コルンバヌス(コロンバン)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message317.htm