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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ナジアンズの聖グレゴリオ 二つの体を持っていながら、心は一つであるように思われた

2014-01-02 07:00:00 | 日記
ナジアンズの聖グレゴリオ(330-389) カッパドキアのナジアンズの司教、教会博士
説教
 バジリオと私は、同じ故郷という泉から流れ出て、向学心にかられて、別れた川のように互いに異なる地方に赴きましたが、あたかも申し合わせたかのように、神に動かされてアテネで再会し、一緒に過ごすようになりました。

 そのとき、私は彼の優れた行状と賢明な言葉を見聞きしたために、偉大な友人バジリオを尊敬し、そのうえ、新入生のうちで彼を知らない人々にも同じように尊敬するように勧めました。事実うわさによって彼を知るやいなや、多くの人々が彼に対する尊敬を抱くようになりました。

 そのことから何が起こったかというと、勉学のためにアテネに集まってきた学生のほとんどすべても者の中から、彼のみが学校当局から特別待遇を受け、新入生としては珍しい地位を与えられていました。私たちの友情はこのときから始まりました。ここから親しさが燃え上がりました。こうして、私たちは相互愛によって心を奪われました。

 時が経って、私たちは互いに自分の望みを告げ合うようになり、知恵の追求を望んでいるこということを互いに語り合いました。すでに二人とも相手にとって仲間であり、一緒に食事をし、心を一つにしており、同じ事を目指し、日々いっそう熱心に、かつ堅固に知恵を追求する望みを強め遭いました。

 競争心の最も激しい世界である学問追求に、私たちは同様に燃えていましたが、ねたみはありませんでした。しかし、私たちは一つの点についてだけ競い合っていました。実に、私たちが競ったのは、どちらが一位になるかということではなく、どちらが相手に一位を譲るかということでした。どちらも相手の栄誉を自分の栄誉とみなしたからです。

 二つの体を持っていながら、心は一つであるように思われました。万物が互いに浸透しあっている、という哲学説を唱える人々の言葉を信じてはなりませんが、私たち二人が互いにあいての中にいて、相手のそばにいたということを信じて欲しいのです。

・・・


1月2日 聖バジリオ 聖グレゴリオ(ナジアンズ)司教 教会博士 記念日 読書
聖バジリオ
330年、カッパドキアのカエサリアでキリスト教徒の家庭に生まれた。370年に故郷の司教となり、アレイオス派の異端と戦い、多くの優れた著作を著した。彼の書いた修道戒律は特に有名で、東方教会の多くの修道院で現在も守られている。379年に帰天(死去)。

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖バジリオ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=010201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の45回目、45回目の二回にわたり「聖バジリオ」を解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message226.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message233.htm

聖グレゴリオ
同じく330年、ナジアンズ近郊に生まれた。隠遁生活を送るために友人バジリオのもとに赴いたが、間もなく司祭に、やがて司教に叙階された。381年にコンスタンチノープルの司教に選ばれたが、同教会に起こった派閥争いのため職を辞してナジアンズに戻り、389年1月25日に帰天(死去)。学問と雄弁によって名声を高めたため、「神学者」という称号を与えられた。

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201

ベネディクト十六世の連続講話「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の第47回で「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message236.htm

聖アタナシオ ことばはマリアから人間の本性を受け取られた

2014-01-01 00:00:00 | 日記
聖アタナシオ(295-373年) アレキサンドリアの司教、教会博士
手紙
 使徒パウロが語っているように、ことばは「アブラハムの子孫を助けられるのです。」それで、彼は、「全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです※1。」そして、私たちの身体と同様な身体をとらねばなりませんでした。だから、ことばがマリアから身体を受け取るために、まさにマリアはそこに存在したのです。ことばは、その身体を自分の固有な体として、私たちのためにささげられたのです。聖書はその出産について語って、「子を布にくるんだ※2」と行っています。そしてその子が吸った乳房は幸いと賛美され※3、初子として母体から出た者なので犠牲がささげられたのです。そしてガブリエルはマリアに、賢明なことばでお告げをしました。すなわち、その子の身体が外部から彼女の中に運び込まれたと思われないために、「あなたの中で生まれる子」とは言わずに、みどり子が本能的に彼女から由来したと信じられるようにするために、「あなたから生まれる子」といってお告げをしたのです※4。

 そのようになったのは、ことばが私たちのものを受け取り、それを犠牲にささげて見えないものにし、続いて私たちにご自分に固有のものをまとわせるためでした。このことを取り上げて使徒パウロは、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着るようになります※5」と語ったのです。

 以上のことは、仮現的なことではありません。ある人々がそれを仮現と考えていましたが、決してそうではありません。救い主はまことに人間となられて、そこから人間全体の救いが生じてきたのです。私たちの救いは、決して空想的なものでも、身体だけにかかわるものでもありません。魂と体を包む人間全体の救いは、真にことばご自身のうちで成就したのです。

 したがって、聖書によれば、マリアから生まれたのは本性的に人間的なものであり、主の体は真の身体です。真の身体であったのは、私たちの身体と同様の身体であったからです。なぜなら、マリアは私たち皆と同様に、アダムの子孫として私たちの姉妹だからなのです。

 「ことばは肉となった※6」というヨハネの言葉の意味も、今述べたことと同じです。それは、パウロにおいて見られる似たような語り口からもわかります。すなわちパウロは、「キリストは、私たちのために呪いと鳴った※7」と言っています。確かに、人間の身体はことはと交わり、結ばれることによって、はかり知れないほど高められました。事実、それは死すべきものから死なないものに、自然の命を持っているものから霊的なものになり※8、塵から造られたものでありながら天上の門をくぐり抜けたのです。

 さて、たとえことばがマリアから体をとったとしても、三位一体は三位一体としてとどまり、増えもせず減りもせず、永遠に完全であります。しかも、三位一体のうちに唯一の神性が認められるのですから、教会においては一つの神、ことばの父が宣べ伝えられるわけなのです。


1月1日 神の母 聖マリア 祭日 読書
第一朗読 ヘブライ2:9-17
第二朗読 聖アタナシオ 手紙

※1 ヘブライ2:16-17
確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

※2 ルカ2:7
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

※3 ルカ11:27
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

※4 ルカ1:35(異読)
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(新共同訳)

※5 1コリント15:53
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

※6 ヨハネ1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

※7 ガラテヤ3:13
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

※8 1コリント15:44
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。



聖アタナシオ
295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範となりました。現在まで続いているキリスト教会の基礎を築いた一人です。(アタナシウス、Wikipediaではアレクサンドリアのアタナシオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖アタナシオ司教
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message222.htm

聖ヒッポリト 肉体となられたことばは、私たちを神化される

2013-12-30 00:00:00 | 日記
聖ヒッポリト(170年~235年) ローマ司祭、殉教者
『全異端論駁』
 私たちはむなしい言葉に信頼しているのではない。心の気まぐれに捕らえられている者でもない。言葉を弄することの巧みさに魅せられたのでもない。神の力によって語られたことばに信頼しているのである。

 まず、神はことばにこのことを語るように命じられ、ことばはそれを語られたのである。それによって人を不従順から立ち戻らせたのである。しかも、強いて隷属させるのではなく、自ら望んで従うように自由へと招いたのである※1。

 時が満ちると、御父はこのことばを遣わされた。御父は、ことばが預言者によって語られ、曖昧な宣言によって誤解されることを望まれなかった。つまり、世が見て救われるために、ことばが自らを現すことを神は望まれたのである。

 ことばが処女から肉体をとられ、新しく形造ることによって古い人をまとわれたことを私たちは知っている。この人は、私たちと同じ素材から造られたこと私たちは知っている。それは、もし同じものから造られた者として存在していたのでなければ、師としてのご自分に倣うように命じるのはむなしいことになるからである。この人が私たちとは別の実態であるなら、本性的に弱いものである私に、ご自分に似たような行動をとるように命じることはなかったであろう。また、そうであればこの方が良い方、正しい方とは言えないだろう。

 私たちとは別のものであると考えられることの無いように、この方は労苦を耐え忍び、飢えを感じることをよしとされ、渇きを拒まず、眠られ、苦難を退けず、死に服し、復活を知らせて下さった。これらすべてのことのうちに、ご自分を人間の初穂としてささげられたのである。それは、苦難のうちにあって、あなたが落胆することなく、あなた自身人間であることを喜んで受け入れ、人となられた方仁神が与えられたものをあなたも期待するためである。

 真の神を学んだのであるから、あなたは魂と共に、死ぬことも滅びることもない体をも持つであろう。地上で生きているうちに天の王を認識したのであるから、あなたは天の国を得るであろう。神と交わりを持ち、キリストと共に相続するものとなるであろう※2。欲望や苦しみや、病に屈することもないであろう。あなたは神化された者となったからである。

 あなたが耐え忍んだ苦難は何であれ、あなたが人間であるがゆえに神が与えてくださったものである。神に付随するものは何であれ、あなたが神化され、不死なるものとされたから、それらを与えると神は約束された。すなわち、「汝、自らを知れ」というこは、あなたを造られた神を認めることである。自らを知ることは、神からの呼びかけを受けている者にとっては、神に知られることと結びついているからである。


12月30日 主の降誕第六日 読書
第一朗読 コロサイ1:15~2:3
第二朗読 聖ヒッポリト 『全異端論駁』 

※1 ガラテヤ5:13
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

※2 ローマ8:17
もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


聖ヒッポリト
235年にマクシミヌス帝によってローマ司教ポンチアノとともにサルデーニャ島に追放された。遺体はティブルティナ街道沿いの墓地に葬られた。四世紀の初めからローマ教会で崇敬されていた。

女子パウロ会 聖人カレンダー より
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=081301

ルスペの聖フルゲンチオ司教 愛の武器

2013-12-26 00:00:00 | 日記
ルスペの聖フルゲンチオ司教(467~532) 北アフリカのルスペの司教
説教
 昨日私たちは、永遠の王のこの世での誕生を祝いました。今日は、一兵士の勝利の受難を祝います。

 つまり、昨日私たちの王は肉をまとい、処女(おとめ)の胎から出て、この世界においでになりましたが、今日、兵士は肉の幕屋を出て、勝利者として天国に上がります。

 私たちの王はいと高き方であるのに、へりくだって私たちのところに来られましたが、手ぶらで来ることはおできになりませんでした。立派な贈り物をご自分の兵士たちに持って来られ、それによって彼らを豊かに富ませて下さっただけでなく、戦いに臨んでは、無数の強さを持つ者にして下さったのです。持ってこられたのは、人々を神性にあずからせる愛の賜物でした。

 その持って来られたものを分け与えられましたが、それによってその方が失われたものは何もありませんでした。自らの信奉者たちの貧しさを豊かさに変えられましたが、自らは、不思議にも尽きない宝で一杯に満たされておられました。

 キリストを天から地上へ下ろしたその愛そのものが、ステファノを地上から天へ高めました。まず王の中にあった愛そのものが、その後に一人の兵士の中で輝いたのです。

 こうしてステファノは、自分の名前が意味する栄冠をいただくために、武器の代わりに愛を持ち、愛によって至る所で勝利者となりました。怒り狂うユダヤ人たちには神への愛によって屈せず、投石する人々のためには隣人愛によって取りなしました。人々が正しく直されるように、愛によって人々の誤りをとがめ、投石する人々が処罰されないように、愛によって彼らのために祈りました。

 彼は愛の力によって支えられて、残酷にふるまうサウロに勝ち、地上では迫害したこのサウロを、天国では仲間とすることができました。彼の聖なる忍耐深い愛は、言葉によって回心させることのできなかった人々の心を、祈りによって捕らえることを熱望しました。

 そして今、パウロはステファノと共に喜び、ステファノと共にキリストの光を楽しみ、ステファノと共に歓喜し、ステファノと共に支配しています。パウロの投石によって殺害されたステファノが先に行った所へ※1、パウロはステファノの祈りに助けられて、ついに行きました。

 兄弟達よ、パウロがステファノの殺害の重荷に押しつぶされず、ステファノの方は、パウロが共にいることを喜んでいるという生き方はなんという真のいのちでしょう。それが真のいのちになったのは、ステファノとパウロの両者が愛によって喜び勇んでいるからです。確かに、ステファノの中では愛はユダヤ人たちの残忍さを克服したのであり、パウロの中では、「愛は多くの罪を覆った※2」のです。そして愛は両者に、等しく天国を受け継がせたのです。



降誕節 12月26日 聖ステファノ殉教者(~37年頃) 祝日
 ステファノは最初の殉教者であり、その証は教会の模範として、常に大切にされてきた。彼は使徒達を補佐するために選ばれた七人のうちの一人でやがて福音宣教にも携わった。主・キリストの受難に倣い、自分を迫害する人々に最後まで愛を示して殉教した。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=122601

ベネディクト十六世が「最初の殉教者聖ステファノ」について解説されています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message178.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message711.htm

第一朗読 使徒言行録 6:8-8:1a ステファノの殉教
第二朗読 ルスペの聖フルゲンチオ 説教

※1 使徒言行録 8:1a
サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

※2 1ペトロ4:8
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。



ルスペの聖フルゲンチオ
(Wikipediaでは、Fulgentius of Ruspe ルスペのフルゲンティウス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Fulgentius_of_Ruspe
北アフリカと言えば、フルゲンチオの約百年前に聖アウグスチヌスが活躍していました。かれも、聖アウグスチヌスの忠実な弟子の一人であり、当時の反救霊予定説を論駁しました。アウグスチヌスの伝統を遵守して反ベラギウス論争にも関わったようです。

聖ヒッポリト 隠されていた秘義の顕示

2013-12-23 00:00:00 | 日記
聖ヒッポリト(170-235年) ローマ司祭、対立ローマ司教、殉教者
『ノエトスの異端論駁』
 神は唯一である。兄弟よ、他でもない聖書から私たちはそれを認識している。それゆえ、神聖な書が宣言している全てのことを私たちは知り、聖書が教えている全てのことを認識しようではないか。そして、御父がかく信じられたいと望まれるように私たちは信じ、御父が御子にかく栄光を帰されることを望まれるように御子に栄光を帰し、御父が聖霊を与えられることを望まれるように聖霊を受けようではないか。自部の選択に則してではなく、自分の理解に則してでもなく、神によって与えられた賜を勝手気ままに扱うことなく、神ご自身が聖書を通して明らかにすることを望まれる方法で知ろうではないか。

 唯一であられ、ご自分と時を同じくして共存するものは何一つ有しておられなかった神は、世を造ることを望まれた。神は世を考え、望み、ことばを発することで世を造られた。こうして、直ちに、望まれるままに、造られたものは存在するようになった。したがって、神と時を同じくして共存するようになった。したがって、神と時を同じくして共存するものは何一つないことを知るだけで、私たちにとって十分である。神ご自身のほかに何一つ存在しなかったのである。神ご自身は一つであるが多であった。理性の無いものでも、知恵のないものでも、力の無いものでも、意志のないものでもなかったからである。すべては神ご自身のうちにあり、神ご自身がすべてであった。望まれたときに望まれたように、自ら定められた時々にご自分の言葉を示され、この言葉を通してすべてのものを造られたのである。

 神が言葉をご自分の内に有しておられたとき、それは造られた世にとって見えないものであったが、神はそれを見えるものとされるのである。まず、神は音声としてのことばを発し、光よりの光として生み、ご自分の言葉を主として被造物のもとに使わされた。こうして、初めはただひとり神ご自身にしか見えず、世には見えなかった言葉を、見えるものとされた。それが現されるとき、世がこれを見て救われるためであった。

 世に出られたこの言葉は、神の子として啓示された。すべてのものはこの方を通して造られたが、この方はただひとり、御父から生じた方である。

 神は律法と預言者を与えてくださった。そしてそれらを与えるにあたって、聖霊を通して彼らが語るように駆り立てたのである。こうして御父の力の息吹を受けた彼らは、御父のみ旨と意思を告げ知らせるのである。

・・・



待降節 12月23日読書
第一朗読 イザヤ51:1-11
第二朗読 聖ヒッポリト 『ノエトスの異端論駁』 
※1 ヨハネ1:1
※2 ヨハネ1:10-11

聖ヒッポリト
 235年にマクシミヌス帝によってローマ司教ポンチアノとともにサルデーニャ島に追放された。遺体はティブルティナ街道沿いの墓地に葬られた。四世紀の初めからローマ教会で崇敬されていた。

女子パウロ会 聖人カレンダー より
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=081301