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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖バジリオ 愛する能力は私たちの内に刻み込まれている

2014-01-14 00:00:00 | 日記
聖バジリオ(330-379年) カエサリアの司教
『長文の修道会則』
 神への愛は人から教えられるようなものではない。事実、私達は光を楽しんだり、生きるのを欲したり、両親やその他の養育者を愛したりすることを、他の人から学ぶのではない。同様に、否それ以上に、神へのあこがれは他者から教えられるようなことではない。反対に、人間という生き物が存在しはじめると同時に、種のような理性が私達の中に入れられた。この理性は自発的に愛する能力の胚芽を自らの内にもっている。神の掟の学舎に入ると、そこでこの理性が常に神の恵みによって入念に育てられ、巧みに育まれ、さらに感性の域に導かれる。

 このため、私も目的を達成するのに必要なあなたがたの熱意を称賛しながら、神の助けにより、またあなたがたの祈りにも助けられて、あなたがたの心の奥底にある神へのあこがれの火花を燃え上がらせるように、聖霊が私に与えてくださる能力に応じて努力するつもりである。

 まず、次の事を言っておこう。神が私たちに授けられたすべての掟を守る力と能力を、私たちは神からあらかじめ受けている。それは何か不自然なことが自分に要求されるかのように、私達がその掟を不愉快に思わないようにするためである。また、私達に与えられたもの以外のものを神に返していると思い込んで、高ぶらないようにするためである。私達は神から与えられた力を正しく、ふさわしく使うと、諸徳で飾られた敬虔な生活を送ることになる。反対にその力の活力を悪用すると、悪徳に陥ることになる。

 悪徳の定義とは、私たちが善を行うために神から与えられた能力を、主の掟に逆らって悪用するということである。反対に、神が要求なさる徳の定義とは、神が与えてくださった能力を、正しい良心をもって主の掟に従って用いると言うことである。

 ・・・


年間第一火曜日 読書
第一朗読 シラ書11:12-30
第二朗読 聖バジリオ 『長文の修道会則』

 私達一人一人に与えられた能力があります。それを正しい良心をもって種の掟に従って用いることが大切です。タラントンの例えを連想しました。


聖バジリオ(330-379年)
 ギリシャ教父の一人。正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会など、聖人の概念を持つ全てのキリスト教の教派で聖人とされている。地下都市で有名なカッパドキアの司教。古代キリスト教会の正統信仰を確立した東方の教父の一人。父方の祖母マクリナはオリゲネス(185~254年)に師事したグレゴリオス・タウマトゥルゴスに学んでいます。このようなキリスト者の家庭に彼は生まれ育ちました。病弱で内気な性格でしたが、精神的に成熟しており、賢明で、堅実で、柔軟でありながらも信仰面では、神への愛、教会への愛から気骨ある指導者で、個人的、社会的な悪に対しては断固として戦いました。(Wikipediaでは、カイサリアのバシレイオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖バジリオ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=010201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の45回目、45回目の二回にわたり「聖バジリオ」を解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message226.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message233.htm

ナジアンズの聖グレゴリオ キリストの洗礼

2014-01-12 00:00:00 | 日記
ナジアンズの聖グレゴリオ(330年-389年) カッパドキアのナジアンズの司教、教会博士
説教
 キリストは光に包まれます。そこで、私たちも彼と共に光の照らしをいただきましょう。キリストは洗礼を受けられます※1。そこで、私たちも彼と共に上ってゆくために、彼と共に下ってゆきましょう。

 さて、ヨハネが洗礼を授けていました。イエスがそのもとに行かれます。多分それは、イエスがご自分に洗礼を授けてくれる彼をも聖化なさるためだったのでしょう。いずれにせよ、水の中に葬ってしまうために、古いアダムの全体を聖化なさるためだったのです。また、人々を聖化する以前に、人々のためにヨルダン川を聖化なさるためでした。実に、イエスは霊と肉であったのと同様に、霊と水によって人々を完成なさるのです。

 洗礼者ヨハネはイエスに洗礼を授けることをはばかりますが、イエスは強く要求されます。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきです。※2」と、明かりが太陽に、声がことばに、友が花婿に、女から生まれた者のうちで最も偉大な者が※3、全ての造られたものに先だって生まれた方に※4、母の胎内にいておどった者が胎内にいるときから礼拝されていた方に、先駆けて先駆けられた者が、すでに現れて、後にまた現れる方に言います。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきです。」あなたのために、という言葉も言い加えるべきでしょう。なぜなら、ヨハネは殉教という血の洗礼を受けるということを確信していたからです。あるいはペトロのように、足だけでなく、全身が清められるであろうということを知っていたのかも知れません。

 イエスは水の中から上がってこられます。世界をご自分と一緒に上の方に引き寄せられます。そしてアダムが、炎の剣によって楽園が閉ざされれているようにしたのと同様に※5、自分と子孫とに閉ざしてしまった・から裂かれて開かれるのを、イエスは見ておられます。

 聖霊はご自分と等しい方の上に急いで降ることによって、その方の神性を証しされます。天から声が聞こえます※6。証しを受けた方が、天から来られた方だからです。聖霊は鳩のような物体的な形で現れて※7、イエスの体をも尊びます。この体も神化のゆえに神だからです。はるか昔、洪水の終わりを告げたのは、1羽の鳩でした※8。

 今日、キリストの洗礼を讃えましょう。そしての祝祭を相応しく祝いましょう。

 汚れを完全に取り除き、ますます清くなるように努めなさい。人間の回心と救いほど神を喜ばせることはありません。実に、神のすべてのことば、すべての神秘は、人間のためのものです。あなたがたはこの代に輝く星のように※9、人々を生かす力になりなさい。そうすれば、あなたがたが完全な光とて、あの偉大な光であるキリストのそばに立ちながら、三位一体によってより清く、より明るく照らされて、天において光の輝きに浸されるようになるでしょう。唯一の神性から流れるこの光の一つのわずかな光線を、あなたがたはすでに今、私たちの主キリスト・イエスにおいて受けているのです。この主に栄光と支配が世々に至るまで。 アーメン。


主の洗礼 祝日 読書
第一朗読 イザヤ42:1-9、49:1-9
第二朗読 ナジアンズの聖グレゴリオ 説教

※1 マルコ1:9以下参照
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

※2 マタイ3:14
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

※3 マタイ11:11参照
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

※4 コロサイ1:15参照
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※5 創世記3:24 参照
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

※6 マタイ3:17参照
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

※7 ルカ3:22参照
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

※8 創世記8:10参照
更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。

※9 フィリピ2:15参照
そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。

【カトリック中央協議会 典礼解説 降誕節より】
 ヨルダン川で洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けた出来事の記念は東方教会が起源であり、主の公現の出来事の一つとして祝われていました。やがて、ローマ教会で占星術の学者たちの来訪を1月6日に独立して記念するようになると、主の洗礼もその1週間後の1月13日に個別に祝われることとなり、1969年の典礼暦の改定までこの日に祝われていました。
  現在の一般ローマ暦では、主の洗礼は1月6日直後の主日に祝います。日本では、主の公現の祭日を主日に移動するので、移動された主の公現の祭日直後の主日に主の洗礼を祝います。ただし、主の公現の祭日が1月7日か8日にあたる場合は、その翌日の月曜日が主の洗礼の祝日となります。降誕節はこの主の洗礼の祝日をもって終わり、翌日から「年間」が始まります。


ナジアンズの聖グレゴリオ
 330年、ナジアンズ近郊に生まれた。隠遁生活を送るために友人バジリオのもとに赴いたが、間もなく司祭に、やがて司教に叙階された。381年にコンスタンチノープルの司教に選ばれたが、同教会に起こった派閥争いのため職を辞してナジアンズに戻り、389年1月25日に帰天(死去)。学問と雄弁によって名声を高めたため、「神学者」という称号を与えられた。

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201

ベネディクト十六世の連続講話「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の第47回で「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message236.htm

トリノの聖マクシモ司教 主の洗礼の諸秘義

2014-01-10 00:00:00 | 日記
トリノの聖マクシモ司教(350-420年) トリノの司教
説教
 主は洗礼を受けるためにヨルダン川に来られ、そこで天的な諸秘義による聖別を受けるのを望まれたことが、福音書に記されています。

 主の生涯において何年か後に行われた出来事でありますが、主の誕生の日に続いてこの同じ時期に主の洗礼の祝いがなされるのは当を得たことです。私はこの祝いも、誕生の祝日と呼ばれてしかるべきものと考えます。

 降誕のとき、主は人々のために生まれましたが、今日は諸秘義によって再びお生まれになったのです。降誕のとき、主は処女(おとめ)から生まれましたが、今日は秘義を通してお生まれになったのです。降誕の際、主が人間として生まれたとき、母マリアは彼を胸に抱きましたが、主が秘義を通して生まれるとき、父なる神は彼をその声で覆われます。「これはわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け※1」と言うのです。母はその柔らかい胸で子をあやし、父は証しを立てて子を支えます。母は彼をあがめるように占星術の学者たちに示し、父は崇敬を受けるように民に彼を現します。

 さて、主イエスは、今日洗礼を受けるために来られ、聖なる体が水で洗われることを望まれました。

 「聖なる方は、なぜ洗礼を受けることを望んだのか」と言う人もありましょう。耳を傾けてください。キリストが洗礼を受けたのは、水で聖化されるためではなく、水を聖化し、洗われることによって自分が触れた川の水を清めるためでした。それは、キリストの聖化は、水という物質を根本的に聖化するからです。

 救い主が洗われたとき、すでに私たちの洗礼のためにすべての水が浄化されましたるこうして、後に来る民に洗礼の恵みがもたらされるために、泉が清められたのです。キリストは先に洗礼を受けられました。それは、キリスト者の民が安心して彼の後に続くためでした。

 私はここに秘義を読み取ります。イスラエルの子らが恐れずに旅を続けるために、火の柱が先導し、彼らは紅海を渡りました※2。すなわち、火の柱を水の中を先に歩みを進めることで、後継者の歩む道を準備したのです。使徒パウロの言葉にあるように、この出来事は洗礼の秘義でした。それは明らかにある種の洗礼であって、雲は人を多い、波は人を選びました※3。

 しかし、これら全てのことを行われたのは、今でも働いている同じ主・キリストなのです。まさにこの主が、当時、火の柱のうちにあって海の中でイスラエルの子らを先導されたように、今はご自分の体という柱をもって洗礼を先に受けることによって、キリスト者の民を先導しておられます。キリストは柱であって、当時は後に従った者の目に光りを示されましたが、今は信じる者の心に光りを供しておられます。当時は海の波間に道を固めましたが、今は信仰の洗礼によって信仰の歩みを堅固なものにしてくださるのです。


公現後の降誕節 金曜日 読書
第一朗読 イザヤ65:13-25
第二朗読 トリノの聖マクシモ司教 説教
※1 マタイ3:17,17:5
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

※2 出エジプト 13:21
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。

※3 1コリント10:1
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、

降誕節も 次の主日である主の洗礼によって終わります。読書も、主の洗礼についての説教になっています。「主の誕生の日に続いてこの同じ時期に主の洗礼の祝いがなされる」とあるように、降誕、公現、主の洗礼の一連の祝祭日は古い歴史があるのですね。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/tenrei/koutansetsu.htm


トリノの聖マクシモ
(wikipedia では Maximus of Turin)

ベネディクト16世がトリノの聖マクシムスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message258.htm

聖ヒッポリト 水と聖霊

2014-01-07 00:00:00 | 日記
聖ヒッポリト(170年~235年) ローマ司祭、対立ローマ司教、殉教者
説教
 イエスはヨハネのもとに来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。なんと驚嘆すべき出来事でしょう。神の都に喜びを与え※1、尽きることのない大河が、どうしてわずかな水で洗われるのでしょう。すべての人の生命を生じさせる泉、汲み尽くすことのできない泉が、はかない移ろいゆく水によって覆われたのです。

 あらゆるところに存在され、天使らにもつかむことができず、人々には見ることができない方が、ご自分の望みのままに洗礼を受けに来られます。「そのてき、天がイエスに向かって開き、『これは私の愛する子、私の心に適う者』いう声が聞こえました※2。」

 愛する方が愛を、非物質的な光が近づきえない光を生じます。これはヨセフの子と呼ばれる者であり、神の本質によればわたしのひとり子です。

 ・・・

 不死の父が不死なる子、ことばを世に遣わされました。御子は水と聖霊によって洗うために、人間のもとに来られました。人の魂と体を朽ちないものへと再生させて、私たちに命の霊を吹き込み、朽ちない武具で私たちを武装させてくださいます。

 ですから、人間が不死の者とされたのであれば、人間は神ともなるでしょう。水と聖霊を通して、洗礼の再生の後に神となるのであれば、死者のうちからの復活の後、キリストと共に相続する者と認められるでしょう。

 このため私は宣言します。すべての民よ、洗礼のもたらす不死を得に来なさい。これは聖霊と交わりを持つ水であり、この水によって楽園は潤され、この水によって大地は肥沃にされ、この水によって草木は成長し、この水によって生き物は繁殖してゆきます。すべてを一言で言えば、この水によって再生された人間は生ける者とされます。キリストもこの水によって洗礼を受けられました。この水の上に聖霊も鳩の形で降られました。

 実に、信仰をもってこの再生の洗いに沈む人は、悪魔を拒み、キリストに自らをゆだねます。その人は敵なる悪魔を拒み、キリストを神であると告白します。その人は奴隷の状態を脱ぎ、養子の身分をまといます。その人は義の光を放ち、太陽のように輝くものとして洗礼の水から上がります。そして、最も大いなることですが、その人は神の子、およびキリストと共に相続するものとして水から上がるのです。

 いとも聖、善にして生かすキリストの霊と共に、キリストに栄光と力から今もいつも世々にありますように。 アーメン


公現後の降誕節火曜日 読書
第一朗読 イザヤ62:1-12
第二朗読 聖ヒッポリト 説教

※1 詩編46:5
大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。


聖ヒッポリト
235年にマクシミヌス帝によってローマ司教ポンチアノとともにサルデーニャ島に追放された。遺体はティブルティナ街道沿いの墓地に葬られた。四世紀の初めからローマ教会で崇敬されていた。

女子パウロ会 聖人カレンダー より
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=081301

聖マクシモ修道院長 常に新しい神秘

2014-01-04 00:00:00 | 日記
聖マクシモ(580~662年) 証聖者
『ケントゥリア』
 ひとたび肉体をとって誕生した神のことばは、求める人のために、いつでも喜んで霊的に生まれてくださる。ことばは、その人の中で赤子となり、その人の美徳のうちにかたちづくられており、ご自分を受け入れる人の能力を知った上で、それに応じてご自分を現してくださる。そうするときに、ことばは、ねたみのゆえに自らの偉大さを表すのを差し控えるのではなく、自分を見たいと願うその人の能力の程度を見ておられる。こうして神のことばは、それを受け入れる人々の能力に応じて彼らに常に現れるのと同時に、自分の絶大な神秘として、すべての人によって同じく見えないものとしてとどまっておられる。

 だから聖なる使徒パウロは、神秘の偉大さを知恵深く考察して、「イエス・キリストは、このうも教も、また永遠に変わることのない方です※1」と言っている。パウロはこの神秘は常に新しく、いかに理解しても尽きることはなく、古びることがないということをよ知っていたのである。

 神であるキリストは誕生し、理性を備え、魂をもった肉を受け取って人となられた。この方は、万物を無から存在させられた方であるる昼間でも見える一つの星が東方から現れねことばが肉をとって誕生した場所に占星術の学者たちを導いたのである。この星が現れたのは、ことばが律法や預言者の言葉に含まれており、感覚的な知識を神秘的に超えていること、異邦人を知恵の再興の光に導くことを示すためであった。

 確かに、律法と預言者の教えは、星のようなものとして信心深く理解すれば、計画に従って神の力によって召された人々が、受肉したことはを正しく識るように導くものである※2。


降誕節 一月四日 読書
第一朗読 コロサイ3:17~4:1
第二朗読 マクシモ修道院長 『ケントゥリア』

※1 ヘブライ13:8
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

※2 ローマ8:28
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。


証聖者 聖マクシモ修道院長
キリスト教の神学者であり修道士。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaでは、聖マクシモス)
オリゲネスの著作にふれて彼は聖書研究を志します。当時、「キリストには神性しかなかった。神としての意志しかもたなかった」と主張する異端(単性説、単意説)が生まれ、マクシモはこの異端と戦いました。彼は、この説は救いの神秘が破壊されることになることを悟り、「聖書がわたしたちに示すのは、(キリストは人間としての)意志をもたない不完全な人間ではなく、真の完全な人間です。」と説きました。当時は皇帝が単性説・単意説を支持していたため、マクシモは捕らえられ、口述筆記も、自らの手で書くこともできないようにと、舌を抜かれ、右腕を切り落とされました。かれは、イエス・キリストは真の神にして真の人であり、世の救い主であると証し、「証聖者」マクシモと呼ばれるようになります。

ベネディクト十六世が、「証聖者聖マクシモス」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message320.htm