ルスペの聖フルゲンチオ(467~532年) 北アフリカのルスペの司教
手紙
まず最初に、私たちは祈りの結びで「御子、私たちの主イエス・キリストによって」と唱えることに注目しなければなりません。私たちは「聖霊によって」とは決して言いません。教会が祭儀のなかでこう唱えるのは、理由の無いことではなく、次のような秘義にもとづくものです。つまり「永遠にメルキセデクと同じような祭司」※1である「人であるキリスト・イエス」が、「神と人との間の仲介者」※2となり、「ご自身の血によって、ただ一度聖所にお入りになりました。※3」キリストはもちろん「まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものにお入りになり」※4、神の右に座し、私たちのためにとりなしておられるのです。※5
使徒パウロは、イエスのこの大祭司の務めを洞察してこう言っています。「ですから、私たちはイエスを通して賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。」※6 私たちがまだ敵であったときでさえ、キリストの死によって神と和解させていただいたのですから、※7 私たちはキリストによって、賛美と祈りのいけにえをささげるのです。それは私たちのために、いけにえとなってくださったキリストによってこそ、私たちのいけにえが神の目の前で受け入れられるものとなりうるからです。ゆえに、聖ペトロは私たちに次のように勧告しています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられます。そして聖なる祭司となって、神に受け入れられる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげるのです。」※8と言うのです。
祭司のことに言及されるときには、それは主の受肉の神秘が示されていることに他なりません。受肉の神秘によって、神の御子は「神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分となられた」※9 のです。この僕の身分において、「へりくだつて、死に至るまで順々でした。」※10 すなわち、御父と等しいものでありながらも、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」※11 のです。御父と等しいままでありながら、御子が低い者とされたのは、人間と同じ者となったということです。また、御子は自分を無にして僕の身分となられたことによって、ご自分を低い者としたことは、ご自分を無にしたことであり、ご自分を無にしたことは、僕の身分となったことに他なりません。
神の身分のうちにとどまっているキリストは、ひとり子である神です。御父にいけにえをささげるのと同じように、私たちは神であるこの御ひとり子にもいけにえをささげます。この独り子であるキリストは、僕の身分となることによって、私たちの祭司となられました。この祭司を通して、私たちは神に喜ばれる生ける聖なるいけにえをささげることができます。※12 もしキリストが私たちの為にいけにえとならなかったならば、私たちはいけにえをささげることができなかったでしょう。キリストにおいて、私たち人間の本性自体は、救いをもたらす真のいけにえとなるのです。わたしたちが、永遠の祭司である主キリストによって、私たちの祈りをささげることを表すとき、私たちは人間の真の肉体がキリストのうちにあることを宣言しています。これは、使徒パウロが言っているとおりです。「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える者として任命されています。」※13私たちが「あなたの御子」と言い、「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる」と付け加えるとき、私たちは父と子と聖霊の本性が一つであることを言い表します。この言葉によって、父と聖霊と同じ一つの本性を持っているキリストが、私たちのために祭司職を執り行ってくださることを示すのです。
年間第二木曜日 読書
第一朗読 申命記9:7-29
第二朗読 ルスペのフルゲンチオ 手紙
※1 ヘブライ6:20
イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
※2 1テモテ2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
※3 ヘブライ9:12
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
※4 ヘブライ9:24
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
※5 ヘブライ10:12
しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、
※6 ヘブライ13:15
だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
※7 ローマ5:10
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
※8 1ペトロ2:5
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
※9 フィリピ2:6-7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
※10フィリピ2:8
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
※11ヘブライ2:7
あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、
※12ローマ12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
※13 ヘブライ5:1
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。
ルスペの聖フルゲンチオ
(Wikipediaでは、Fulgentius of Ruspe ルスペのフルゲンティウス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Fulgentius_of_Ruspe
北アフリカと言えば、フルゲンチオの約百年前に聖アウグスチヌスが活躍していました。かれも、聖アウグスチヌスの忠実な弟子の一人であり、当時の反救霊予定説を論駁しました。アウグスチヌスの伝統を遵守して反ベラギウス論争にも関わったようです。
手紙

使徒パウロは、イエスのこの大祭司の務めを洞察してこう言っています。「ですから、私たちはイエスを通して賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。」※6 私たちがまだ敵であったときでさえ、キリストの死によって神と和解させていただいたのですから、※7 私たちはキリストによって、賛美と祈りのいけにえをささげるのです。それは私たちのために、いけにえとなってくださったキリストによってこそ、私たちのいけにえが神の目の前で受け入れられるものとなりうるからです。ゆえに、聖ペトロは私たちに次のように勧告しています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられます。そして聖なる祭司となって、神に受け入れられる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげるのです。」※8と言うのです。
祭司のことに言及されるときには、それは主の受肉の神秘が示されていることに他なりません。受肉の神秘によって、神の御子は「神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分となられた」※9 のです。この僕の身分において、「へりくだつて、死に至るまで順々でした。」※10 すなわち、御父と等しいものでありながらも、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」※11 のです。御父と等しいままでありながら、御子が低い者とされたのは、人間と同じ者となったということです。また、御子は自分を無にして僕の身分となられたことによって、ご自分を低い者としたことは、ご自分を無にしたことであり、ご自分を無にしたことは、僕の身分となったことに他なりません。
神の身分のうちにとどまっているキリストは、ひとり子である神です。御父にいけにえをささげるのと同じように、私たちは神であるこの御ひとり子にもいけにえをささげます。この独り子であるキリストは、僕の身分となることによって、私たちの祭司となられました。この祭司を通して、私たちは神に喜ばれる生ける聖なるいけにえをささげることができます。※12 もしキリストが私たちの為にいけにえとならなかったならば、私たちはいけにえをささげることができなかったでしょう。キリストにおいて、私たち人間の本性自体は、救いをもたらす真のいけにえとなるのです。わたしたちが、永遠の祭司である主キリストによって、私たちの祈りをささげることを表すとき、私たちは人間の真の肉体がキリストのうちにあることを宣言しています。これは、使徒パウロが言っているとおりです。「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える者として任命されています。」※13私たちが「あなたの御子」と言い、「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる」と付け加えるとき、私たちは父と子と聖霊の本性が一つであることを言い表します。この言葉によって、父と聖霊と同じ一つの本性を持っているキリストが、私たちのために祭司職を執り行ってくださることを示すのです。
年間第二木曜日 読書
第一朗読 申命記9:7-29
第二朗読 ルスペのフルゲンチオ 手紙
※1 ヘブライ6:20
イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
※2 1テモテ2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
※3 ヘブライ9:12
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
※4 ヘブライ9:24
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
※5 ヘブライ10:12
しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、
※6 ヘブライ13:15
だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
※7 ローマ5:10
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
※8 1ペトロ2:5
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
※9 フィリピ2:6-7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
※10フィリピ2:8
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
※11ヘブライ2:7
あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、
※12ローマ12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
※13 ヘブライ5:1
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。
ルスペの聖フルゲンチオ
(Wikipediaでは、Fulgentius of Ruspe ルスペのフルゲンティウス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Fulgentius_of_Ruspe
北アフリカと言えば、フルゲンチオの約百年前に聖アウグスチヌスが活躍していました。かれも、聖アウグスチヌスの忠実な弟子の一人であり、当時の反救霊予定説を論駁しました。アウグスチヌスの伝統を遵守して反ベラギウス論争にも関わったようです。