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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ルスペの聖フルゲンチオ キリストは常に生きており、私たちのためにとりなしておられる

2014-01-23 21:02:11 | 日記
ルスペの聖フルゲンチオ(467~532年) 北アフリカのルスペの司教
手紙
 まず最初に、私たちは祈りの結びで「御子、私たちの主イエス・キリストによって」と唱えることに注目しなければなりません。私たちは「聖霊によって」とは決して言いません。教会が祭儀のなかでこう唱えるのは、理由の無いことではなく、次のような秘義にもとづくものです。つまり「永遠にメルキセデクと同じような祭司」※1である「人であるキリスト・イエス」が、「神と人との間の仲介者」※2となり、「ご自身の血によって、ただ一度聖所にお入りになりました。※3」キリストはもちろん「まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものにお入りになり」※4、神の右に座し、私たちのためにとりなしておられるのです。※5

 使徒パウロは、イエスのこの大祭司の務めを洞察してこう言っています。「ですから、私たちはイエスを通して賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。」※6 私たちがまだ敵であったときでさえ、キリストの死によって神と和解させていただいたのですから、※7 私たちはキリストによって、賛美と祈りのいけにえをささげるのです。それは私たちのために、いけにえとなってくださったキリストによってこそ、私たちのいけにえが神の目の前で受け入れられるものとなりうるからです。ゆえに、聖ペトロは私たちに次のように勧告しています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられます。そして聖なる祭司となって、神に受け入れられる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通してささげるのです。」※8と言うのです。

 祭司のことに言及されるときには、それは主の受肉の神秘が示されていることに他なりません。受肉の神秘によって、神の御子は「神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分となられた」※9 のです。この僕の身分において、「へりくだつて、死に至るまで順々でした。」※10 すなわち、御父と等しいものでありながらも、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」※11 のです。御父と等しいままでありながら、御子が低い者とされたのは、人間と同じ者となったということです。また、御子は自分を無にして僕の身分となられたことによって、ご自分を低い者としたことは、ご自分を無にしたことであり、ご自分を無にしたことは、僕の身分となったことに他なりません。

 神の身分のうちにとどまっているキリストは、ひとり子である神です。御父にいけにえをささげるのと同じように、私たちは神であるこの御ひとり子にもいけにえをささげます。この独り子であるキリストは、僕の身分となることによって、私たちの祭司となられました。この祭司を通して、私たちは神に喜ばれる生ける聖なるいけにえをささげることができます。※12 もしキリストが私たちの為にいけにえとならなかったならば、私たちはいけにえをささげることができなかったでしょう。キリストにおいて、私たち人間の本性自体は、救いをもたらす真のいけにえとなるのです。わたしたちが、永遠の祭司である主キリストによって、私たちの祈りをささげることを表すとき、私たちは人間の真の肉体がキリストのうちにあることを宣言しています。これは、使徒パウロが言っているとおりです。「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえをささげるよう、人々のために神に仕える者として任命されています。」※13私たちが「あなたの御子」と言い、「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる」と付け加えるとき、私たちは父と子と聖霊の本性が一つであることを言い表します。この言葉によって、父と聖霊と同じ一つの本性を持っているキリストが、私たちのために祭司職を執り行ってくださることを示すのです。


年間第二木曜日 読書
第一朗読 申命記9:7-29
第二朗読 ルスペのフルゲンチオ 手紙

※1 ヘブライ6:20
イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。

※2 1テモテ2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

※3 ヘブライ9:12
雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

※4 ヘブライ9:24
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。

※5 ヘブライ10:12
しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、

※6 ヘブライ13:15
だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

※7 ローマ5:10
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

※8 1ペトロ2:5
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

※9 フィリピ2:6-7
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

※10フィリピ2:8
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

※11ヘブライ2:7
あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、

※12ローマ12:1
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

※13 ヘブライ5:1
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。


ルスペの聖フルゲンチオ
(Wikipediaでは、Fulgentius of Ruspe ルスペのフルゲンティウス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Fulgentius_of_Ruspe

北アフリカと言えば、フルゲンチオの約百年前に聖アウグスチヌスが活躍していました。かれも、聖アウグスチヌスの忠実な弟子の一人であり、当時の反救霊予定説を論駁しました。アウグスチヌスの伝統を遵守して反ベラギウス論争にも関わったようです。

第二バチカン公会議 わたしは、わたしの民を救う

2014-01-22 19:25:54 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『教会憲章』
 永遠の父は、その英知と慈しみに基づく全く自由で神秘的な配慮をもって全世界を創造し、人々を神の命への参与にまで高めることを決定した。父はまた、アダムにおいて罪人となった人々を見捨てず、「見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方※1」である贖い主キリストを考慮して、救いへの助けを常に人々に提供した。父は、全ての選ばれた者を世々の前から「前もって知っており、彼らを御子の姿に似たものにしようと予め定められた。それは、御子が多くの兄弟の中の長子となられるためである。※2」

 そして、父はキリストを信じる人々を聖なる教会として呼び集めることを決定された。この教会は、すでに世の初めから予型によってあらかじめ示され、イスラエル民族の歴史と古い契約を通してすばらしい方法で準備され、最後の時に設立され、聖霊の注ぎによって明示された。それはさらに、世の終わりに栄光のうちに完成されるであろう。そのときには、聖なる教父たちも述べているとおり、アダム以来のすべての義人は、「義人アベルから最後の選ばれた人にいたるまで※3」、普遍の教会として父のもとに集められるであろう。

 つまり、福音をまだ受け入れなかった人々も、いろいろな方法で神の民へ秩序づけられているのである。

 まず、かつて契約ならびに約束が与えられ、またキリストが肉によりそこから生まれた、かの民、すなわち、選びによって先祖たちのおかげで神に愛された民がそうである。神の賜物と招きとは、取り消されないものだからである。※4

 また、救いの計画は創造主を認める人々をも包むものであり、そのような人々のうちには第一に、イスラム教徒が含まれる。彼らはアブラハムの信仰を保っていると主張し、最後の日に人々を審判する唯一の慈悲深い神を私たちとともに礼拝している。

 なお、神はすべての人に、命と息とその他すべてのものを与え※5、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから※6、影と像のうちに知られざる神を探し求めている他の人々のからも、神は決して遠くない。

 事実、本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会は知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の助けのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。また、本人の側に落ち度が無いままに、まだ神をはっきり認めていないが、神の恩恵に支えられ正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けをを拒むことはない。

 事実、教会はそのような人々のもとに見いだされる良いもの、真実なものはすべて福音への準備であり、ついにはいのちを得るようにと全ての人を照らす方から与えられたものと考えている。


年間第二水曜日 読書
第一朗読 申命記7:6-8:6
第二朗読 第二バチカン公会議 『教会憲章』

※1 コロサイの信徒への手紙 1:15
 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※2 ローマの信徒への手紙 8:29
 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

※3 グレゴリオ一世 『福音講話』 19:1 参照

※4 ローマの信徒への手紙 11:28-29 参照
 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

※5 使徒言行禄17:25 参照
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

※6 1テモテへの手紙 2:4
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。

聖アタナシオ 聖アントニオ伝の召命

2014-01-17 07:00:20 | 日記
聖アタナシオ(295~373年) アレキサンドリアの司教、教会博士
『聖アントニオ伝』
 両親が死んで、アントニオはたった一人の幼い妹とこの世に残された。そのとき彼は十八歳から二十歳くらいで、家と妹の世話をしなければならなかった。

 両親の死後、半年もたたないころ、彼はいつものとおり教会に行くとき、歩きながら、使徒達がすべてを捨てて救い主に従ったこと、使徒言行禄に書かれているように、ある人が自分の財産を売って代金を持ち寄り、使徒達の足下に置いて、困っている人たちに配分されるようにしたこと、また、どれほど大きな天の報いを彼らが希望できたのか、などを思い巡らした。これらのことを思い巡らしていた彼が教会堂に入ると、その日の福音朗読で、たまたま主が金持ちに次のように語っている場面が朗読された。「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、私に従いなさい。そうすれば、天に富みを積むことになる。」

 アントニオは、神が自分に聖者たちの行いを思い出させ、また、自分のためにこの福音書が朗読されたかのように思ったので、直ちに教会堂を出ると、先祖から受け継いだ財産であった三万平方キュービットほどの肥沃な土地を村の人々に贈り与えた。それは、その財産が自分や妹にとって煩わしいものにならないようにするためであった。また、動産のすべてを売り払い、そこから得た大金の殆どを貧しい人々に分け与え、わずかな分を妹のために残した。

 その後、再び教会堂に入ったとき、主が福音の中で、「明日のことまだ思い悩むな」と語っているのを耳にした。そこで、教会堂にとどまることがたまらなくなり、外に出て、手元に残っていた持ち物さえ貧しい人々に分け与えた。それから、妹をおとめたちの家で教育してもらおうと、自分の知っている信頼に値するおとめたちの手に託し、自分は自宅の近くで修徳の生活に身をささげた。そこでは絶えず自分のことに注目し、厳しい生活に明け暮れる日々が続いた。

 彼は、「働きたくない者はね食べてはならない」という言葉を心に留め、手仕事に精を出した。そして、そこから得た代金の一部を自分のパンに当て、他は困っている人々に施したのである。

 彼はまた、一人で「絶えず祈らなければならない」ということを学んだので、絶えず祈った。読書を非常に注意深く行ったので、読んだことを忘れずにすべて心にとどめ、その結果、記憶したことが後に本の代わりになるほどであった。

 村人や得のある人々は皆、彼がそのような生活をしているのを見て神の友と呼んだ。またある人々は彼を息子のように、他の人々は兄弟のように愛したのである。


1月17日 聖アントニオ修道院長 記念日
 「修道生活の父」として知られるアントニオは、250年ころエジプトに生まれた。両親の死後、財産を貧者に分け与えて荒れ野に引きこもり、そこで禁欲の生活を始め、多くの弟子が彼に師事した。ディオクレチアヌス帝による迫害のときに信仰のために苦しみを受けている人々を支えた。アリウス派に対して戦った聖アタナシオを助けた。356年に死去。

第一朗読 当週当曜日
第二朗読 聖アタナシオ 『聖アントニオ伝』

(教会カレンダー 女子パウロ会)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=011701

聖アタナシオ みことばによって宇宙万物の驚くべき神的な調和が感性される

2014-01-17 00:00:00 | 日記
聖アタナシオ(295-373年) アレキサンドリアの司教、教会博士
『異教徒論駁』
 存在し生成するもの一切のうちで、みことばにおいて、みことばによって造られ存続していないものは何一つない。このことは神学者ヨハネによって次のように教えられている。「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった。万物は彼によって成った。成ったもので彼によらずに成ったものは何一つなかった※1。」

 演奏家は竪琴を調律した後、その技によって高音と低音、中間音、相互を結び合わせながら一つの調和したメロディを演奏する。同様に、神の知恵であるみことばは、宇宙を一つの竪琴のようにして手に取り、地上のものと大気中のもの、天上のものと大気中のものとを統合される。そして、全体をそれぞれの部分と結び合わせ、強い意志によって命令を下しながら万物を導き、その結果、美と調和に満ちた唯一の宇宙、一つの世界秩序を完成される。そのようにはたらく間も、みことばは父のもとに不動のままとどまり、しかも個々のものに及ぶ父のみ旨に従いながら、自らの本性によって万物を動かしておられる。万物はそれぞれの本性に従って、みことばによって生かされ、存在している。こうして、みことばによって驚くべき神的な調和が完成されるのである。

 この偉大なことを理解するために、多数の人々からなるコーラスの例を取り上げてみよう。大人、子供、女性、老人、若者などいろいろな人々で構成されているコーラスでは、一人の指揮者のもとで、一人ひとりがその本性と能力に応じて歌う。男は男らしく、子供は子供らしく、老人は老人らしく、若者は若者らしく歌う。それでも、皆の歌声は一つの調和した歌になる。あるいは別のたとえを取り上げてみよう。私たちの魂は、様々な感覚をそれぞれの能力に応じて同時に動かしている。ある対象が現れると、すべての感覚は同時に動かされる。すなわち魂は、芽が見、耳が聞き、手が触れ、鼻がにおいを感じ、舌が味わうようにそれらを動かす。また、歩くとき足が動くように、体の外の肢体をも動かす。以上は簡単なたとえにすぎないが、創造それた宇宙万物についてより優れた次元で、同様に考えるべきである。

 事実、神のみことばの合図一つで、万物の秩序は同時に整えられ、それぞれの物はその固有の本性に従って働き、こうして万物はともに一つの秩序を完成するのである。


年間第一金曜日 読書
第一朗読 シラ書 43:14~37
第二朗読 聖アタナシオ 『異教徒論駁』
※1 ヨハネ1:1-3
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。


聖アタナシオ
295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範となりました。現在まで続いているキリスト教会の基礎を築いた一人です。(アタナシウス、Wikipediaではアレクサンドリアのアタナシオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖アタナシオ司教
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message222.htm

聖アタナシオ 父のみことばは宇宙万物をつかさどり、支えておられル

2014-01-16 00:00:00 | 日記
聖アタナシオ(295-373年) アレキサンドリアの司教、教会博士
『異教徒論駁』
 キリストの父は最も聖なる方であり、全被造物よりはるかに卓越しており、すぐれた水先案内人のように、ご自分の知恵でありみことばである私たちの主キリストによって、万物をいたるところで救いへと方向付け、つかさどり、そのよしと思う所に従って事を行っておられる。万物は造られたときの姿も、現在見られるその姿も良いものである。神はそのような姿になるよう定めておられたからである。だれもこのことを否定することはできない。もし被造物の動きが理にかなわず、宇宙が無計画に動いているなら、今述べたことが疑われるのはもっともであろう。しかし、宇宙が理性や知恵や知識によって支えられており、あらゆる美によって秩序づけられているなら、それを創造し、その秩序を整えたのは神のみことばであると言うより他にない。

 私がここで言うみことばとは、宇宙をつかさどる善なる神の、生き、かつ働いているみことばそのものを指しており、みことばも神なのである。彼はすべての被造物と区別され、良い父の固有で唯一のみことばである。彼は摂理によって全宇宙の秩序を整え、照らしておられる。彼は善なる父のよいこみとばとして、万物の秩序を整え、対立するすべてのものを結びつけて、一つの美しい調和した世界にしておられるからである。彼は唯一のひとり子である神であり※1、よい源から発するよき者として父から発出し、万物の秩序を整え、支えている。

 その永遠のみことばで万物を造り、被造物にそれぞれの本質を授けた神は、それらか自らの本質の赴くままに動いたり揺らいだりすることをおゆるしにならなかった。被造物がそのように動くならば、無に帰してしまう危険があったからである。それゆえ、神は良い方として、ご自分のみことばによって宇宙万物をつかさどり、支えておられる。そして、このみことばも神である。このように、みことばの導きと摂理と秩序に照らされて、被造界は堅固に存続することができるのである。こうして宇宙は、父から発出してまことに存在するのみことばにあずかり、彼によって存在を支えられている。それはみことばによって支えられなければ無に帰してしまうと言うことが起こらないためである。このみことばこそ、「見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方※2」である。見えるものも、見えないものも、すべては彼によって、彼において支えられているからである※3。このみことばは教会の頭でもある※4。これらのことは、真理に仕える人々が聖書において教えていることである。

 したがって、父から発出するこの全能で完全なみことばが宇宙万物を貫き、いたるところでその力ある業を展開し、見えるもの、見えないものすべてを照らしながら、自らの中に万物を抱きとっておられる。彼は、何ものをもその力の外に放置せず、万物を、すなわち個々のものをも全体をも、すべてことごとく生かし、保っておられるのである。


年間第一木曜日 読書
第一朗読 シラ書 42:15~43:13
第二朗読 聖アタナシオ 『異教徒論駁』

※1 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

※2 コロサイ1:15
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※3 コロサイ1:17
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

※4 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。


聖アタナシオ
295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範となりました。現在まで続いているキリスト教会の基礎を築いた一人です。(アタナシウス、Wikipediaではアレクサンドリアのアタナシオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖アタナシオ司教
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message222.htm