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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

四世紀の霊的書物 キリストの満ちあふれる豊かさ

2014-02-07 00:00:00 | 日記
四世紀の霊的書物の著者
説教
 神の子となり、聖霊によって上から生まれる恵みを受け、自分を照らし休ませて下さるキリストを自らの内に持っている者は、種々様々な方法で聖霊によって導かれ、目には見えない方法で、霊による安らぎのうちに恩恵に導かれているのです。

 彼らは、ときには人類のために悲しみと嘆きに沈み、全人類のために祈りをささげ、人類に対する聖霊の愛に燃えて、悲しみと涙に暮れているのです。

 また、聖霊によって大きな喜びと愛に燃え立ち、できることなら善人や悪人の区別を問わずに、全ての人を自分の心の中に迎え入れようとすることもあります。

 聖霊によってへりくだり、自らを全ての人の下に置き、自分を全ての人の内で最も低い者、最も小さい者と見なすこともあります。

 王の武具を身にまとい、戦いに出かけ、敵と勇ましく戦い、勝利をものにする勇者のようになることもあります。霊に導かれている人も同様に、聖霊の天上の武具を取り、敵に突撃し、合戦となるや敵を足の下に屈服させるのです。

 また、魂が深い沈黙と静けさと平和の内に憩い、ただ霊の喜び、名伏しがたい安息、善に満たされた状態になる事もあります。

 聖霊のはかりしれない恵みによって、舌も口も言い表す事の出来ない神秘について、理解とたぐいまれな知恵と知識に導かれることもあります。

 また時として、ありきたりの人間のようになっていることもあります。

 このよう、種々の形でその人々のもとにあって、恩恵は多くの方法で魂を導き、神の御心に従ってそれを休ませ、あらゆる方法で魂を鍛えます。それは、魂を全きもの、とがめられることのないもの、清いものとして、天の父の御前に立たせるためです。

 ですから、私たちも神に祈り、大きな愛と希望をもって信じましょう。聖霊の賜物の天からの恵みが与えられますように。聖霊ご自身が私たちを治め、神のみ心を果たすように導いてくださり、種々の憩いの方法で私たちを休ませてくださいますように。それは、この恩恵の働きと導き、そして霊の促しによって、キリストの「満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それに満たされるように※1」と使徒パウロが言うとおり、キリストの満ちあふれる完全さに達するためです。


年間第四金曜日 読書
第一朗読 2テサロニケ2:1-17
第二朗読 四世紀の霊的書物の著者 説教
※1 エフェソ3:19
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

聖ヒラリオ 信じる人々の群れは、心も思いも一つ

2014-02-03 00:00:00 | 日記
聖ヒラリオ(315~367)フランスのポワティエの司教
『詩篇講話』
 「見よ、兄弟がともに住んでいる。なんという恵み、なんという喜び。※1」兄弟がともに住むのが恵みであり、喜びであることの理由は、一緒にいることで教会の集会を形作るからです。兄弟と呼ばれる彼らは、意志を同じくして愛によって和合しています。

 使徒達の最初の宣教に、「信じる人々の群れは、心も思いも一つにしていた※2」という言葉で表すことができる偉大な戒めが含まれていたことが聖書に書かれています。したがって、神の民にとって相応しいことは、唯一の父のもとで兄弟であること、唯一の霊のもとに一つであること、一つの家の中で皆、思いを一つにして生活し、唯一の体のもとに一つの体のそれぞれの肢体であることです。

 兄弟が共に住むことは恵みであり、喜びです。この恵みと喜びを、預言者は比喩を使って言い表します。「かぐわしい油が頭に注がれ、アロンの髭に滴り、衣の襟に垂れる。※3」アロンの油は祭司としての聖別に用いられるもので、いくつもの香料を合わせて用意したものでした。神はこのような聖別がまずご自分の祭司に授けられることを定められました。それに、私たちの主も他の仲間にまさって、目に見えない油を注がれることを※4神がお定めになりました。この塗油は地上のものではなく、王たちへの塗油のように角を容器とした油によるのでなく、「喜びの油※5」をもってする塗油です。アロンは油を注がれた後、律法に従って、クリストス(油を注がれた者)と呼ばれるようになったのです。

 この油が注がれた至る所で、人々の心を汚す霊どもを消すように、私たちは愛の油を注がれて、神に喜ばれる一致の香りを放つようになります。「私たちはキリストの良い香りです※6」と使徒パウロが言っているとおりです。したがって、アロンを祭司として聖別する油が真っ先に神に喜ばれるように、兄弟がともに住むのは恵みであり、喜びなのです。


年間第四月曜日 読書
第一朗読 1テサロニケ2:13-3:13
第二朗読 聖ヒラリオ 『詩編講話』
※1 詩編133:1
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

※2 使徒言行録 4:32
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

※3 詩編133:2
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り

※4 詩編45:8参照
神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに 神、あなたの神は油を注がれた 喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。

※5 詩編45:8
神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに 神、あなたの神は油を注がれた 喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。

※6 2コリント2:15
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。


聖ヒラリオ
 四世紀の初めにフランスのポワティエに生まれる。350年頃、同市の司教に選ばれ、アリウス派と激しく戦ったが、コンスタンティウス帝によって追放された。カトリックの信仰を固め、聖書を翻訳する秀でた著作を残した。367年に帰天した。教会博士。カトリック教会、正教会、非カルケドン派教会、聖公会、ルーテル教会の聖人。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=011301

ベネディクト十六世の「ポワティエの聖ヒラリオ」に関する講話(ヒラリオ 仏語 Hilaire de Poitiers/ヒラリウス ラテン語 Hilarius Pictaviensis)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message253.htm

第二バチカン公会議 死の神秘

2014-02-01 00:00:00 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 死を前にして、人間性の謎は頂点に達する。人間は苦悩と漸進する肉体の消耗だけでなく、永久の消滅の恐れによって、もっと苦しめられる。しかし、人間が自己の完全な破壊と決定的な消滅を嫌い、退けるとき、心の本能によるこの判断は正しい。人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元できないものであるため、死に対して立ち上がるのである。あらゆる技術的進歩は有益であっても、人間の不安を解消することはできない。それは、寿命の延長が、人間の心にしっかり根を張っている後生の願いを満足させることはできないからである。

 死を前にしてすべての想像は消え去るが、教化は神の啓示によって教えられ、神は地上の悲惨の限界を超えた幸福な目的のために人間を想像したと主張する。さらに、人間が罪を犯さなかったならば肉体的な死を免れたであろうが、罪のために失われた救いが、全能で慈悲深い救い主によって再び人間に返されること、この死は打ち負かされるとキリスト教信仰は教える。神は人間がその全存在をあげて、神の朽ちることのない命の交わりにおいて、永遠に神に一致するよう人間を招いたし、今でも招いておられる。キリストはご自分の死によって人間を死から解放していのちに復活したとき、死に対するこの勝利を獲得した。したがって、確固とした論証によって支えられている信仰は、考えるすべての人に、人間の将来に対する不安についての回答を与える。同時に信仰は、すてへに死者となった愛する兄弟たちがね神のもとで真のいのちを得ているとの希望を与えて、キリストにおいて彼らと交わることを可能にする。

 多くの苦難を通して悪と戦い、死を耐え忍ぶこは、確かにキリスト者にとって必要であり義務である。しかし、キリスト者はキリストの死と復活の秘儀に結ばれ、キリストの死の姿にあやかり、希望に力づけられて復活に向かって進む。

 このことはキリスト信者ばかりでなく、恩恵が目に見えない方法で心の中に働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。事実、キリストはすべての人のために死んだのであり、人間の究極的招命は実際にはただ一つ、すなわち神との一致であるから、わたしたちは神だけが知っている方法によって、聖霊がキリストの死と復活の秘儀にあずかる可能性をすべての人に提供すると言わなければならない。

 キリストの啓示が信じる者に照らし出す人間の秘儀は、このように偉大である。・・・


年間第三土曜日 読書
第一朗読 申命記 32:48-52,34:1-12
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』


第二バチカン公会議 婚姻と家庭の聖性

2014-01-27 00:00:00 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 結婚の誓約によって結ばれた男女「二人はもはや別々ではなく、一体となり」※1、自分たち自身、ならびにその行為の深い結合によって互いに助け合い、仕え合い、自分たちが一つであることの意味を体験し、絶えずそれを深めてゆくのである。

 二人の人間が互いに自分自身を与え合うこととしてのこの深い一致のために、および子供の幸せのために、夫婦は互いに完全な忠実を尽くさなければならず、また、彼らののこ一致が不解消でなければならない。

 神の愛の泉から生じ、キリストと教会の一致にかたどって設立された夫婦の多面の愛を、キリストは豊かに祝福された。

 かつて、神が愛と忠実の制約によってその民と出会ったように、今は人々の救い主であり、教会の夫であるキリストは、婚姻の秘跡によってキリスト信者である配偶者と出会われる。そして、キリストが教会を愛して、教会のためにご自分をお与えになったように※2、夫婦も献身的に変わることのない忠実をもって互いに愛するものとなるよう、キリストは彼らのもとにとどまられる。

 真正な夫婦愛は神の愛の中に取り上げられ、キリストの贖いの力と教会の救いの働きによって導かれ豊かにされる。こうして夫婦は効果的に神のもとに導かれ、父母としての崇高な務めを果たすため、助けられ強められる。

 この理由から、キリスト者である夫婦はその身分上の義務を果たし、その尊厳を守るために、特別な秘跡によって強められ、いわば聖別される。キリスト者である夫婦は、この秘跡の力によって夫婦と家庭の務めを果たし、彼らの全生活に信仰と希望と愛を浸透させるキリストの霊に満たされて、ますます自己完成と相互の聖化に進み、ともに神の栄光を表すようになる。

 したがって、両親の模範と家庭の祈りに導かれて、子どもだけではなく家庭内に生活する全ての人は、慈しみと救いと聖性の道を容易に見いだすであろう。また、父母としての役目と品位を与えられた夫婦は、子どもの教育、特に宗教教育の責務を熱心に果たすべきである。子ども達のこのような教育は、だれよりも先に父母が果たすべき務めである。

・・・


年間第三月曜日 読書
第一朗読 申命記 24:1-25:4
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』
※1 マタイ19:6
だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

※2 エフェソ5:25
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

第二バチカン公会議 キリストは自分の教会とともにおられる

2014-01-26 00:00:00 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『典礼憲章』
 キリストは常にご自分の教会とともにおられる。特に典礼行為のときにそうである。キリストはミサの奉献のうちに現存している。すなわち、キリストは司式者のうちに現存しておられ、かつて十字架上で自らをささげた同じキリストが、今、祭司の奉仕によってご自分をささげておられる。また特に、聖体の両形態のもとに現存しておられる。キリストはご自身の力をもって諸秘跡のうちに現存しておられる。だから、ある人が洗礼を授けるとき、キリストご自身が洗礼をお授けになるのである※1。 また、キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる。聖書が教会で朗読されるとき、キリストご自身が語るからである。なお、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる※2」と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存しておられる。

 事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大な業において、キリストはご自分の最愛の花嫁である教会を常にご自身に結びつけてくださる。この教会は自分の主を呼び、主を通して永遠の父に礼拝を捧げるのである。

 したがって、典礼は当然イエス・キリストの祭司職の行使と考えられる。この典礼において、人間の聖化が感覚的なしるしによって示されるとともに、また、おのおののしるしに固有な方法で実現される。そして、イエス・キリストの神秘体、すなわち、その頭(かしら)と肢体とによって、公的な礼拝全体が行われるのである。

 したがって、典礼祭儀はすべて、祭司キリストとその体である教会の業であるから、卓越した聖なる行為であって、効果の点で、教会の他のいかなる活動も、同等の理由や程度でこれに匹敵するものはない。

 地上の典礼において、私たちは天上の典礼を前もって味わい、これに参加している。この天上の典礼は、旅人である私たちが目指す聖なる都エルサレムにおいて行われており、そこには「聖所また真の幕屋で仕えておられル※3」キリストが、「神の右の座に着いておられる※4」私たちは、天上のすべての天使とともに主に栄光の賛歌を歌い、諸聖人を記念して、彼らの交わりに参加することを望み、私たちのいのちである主が現れ、私たちも主と共に栄光に包まれて現れるときまで、私たちの救い主イエス・キリストを待ち望むのである※5。

 教会は、キリストの復活の当日に遡る使徒伝承により、過越秘義を八日目ごとに祝う。その日は、正しく主の日、または主日と呼ばれている。この日、キリスト信者は一つに集まらなければならない。そして神の言葉を聞き、感謝の祭儀に参加して、主イエスの受難と復活と栄光を記念し、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった※6」神に感謝をささげるのである。したがつて、主日は信者の信仰心に明示し協調されなければならない根源の祝日であり、それが喜びの日、休息の日となるようにしなければならない。他の祭日は、真にきわめて重要なものでないかぎり、主日に優先させてはならない。それは、この日こそ全典礼暦年の基礎であり、中核だからである。


年間第三主日 読書
第一朗読 申命記 18:1-22
第二朗読 第二バチカン公会議 『典礼憲章』
キリストは常にご自分の教会とともにおられる。特に典礼行為のときにそうである。キリストはミサの奉献のうちに現存している。
主日は信者の信仰心に明示し協調されなければならない根源の祝日であり、それが喜びの日、休息の日となるようにしなければならない。

※1 トリエント公会議 第十三総会(1551年10月11日)

※2 マタイ18:20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

※3 ヘブライ8:2
人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。

※4 コロサイ3:1
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

※5 コロサイ3:4 参照
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

フィリピ3:20 参照
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

※6 1ペトロ1:3
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。