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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖アタナシオ 創造する知恵と受肉した知恵を通して御父を知る

2014-02-18 00:00:00 | 日記
聖アタナシオ(295-373) アレキサンドリアの司教
『アリウス派論駁』
 御独り子であり、神の知恵そのものである方は、万物を造りだし、創造する者である。聖書は「あなたはすべてを知恵によって造られた。地はお造りになったものに満ちている※1」と言っている。ところで、造られた者がただ単に存在するだけではなく、美しいものとして存在するために、神は自らの知恵が被造物にまで降り、知恵の像となる似姿を、その全体にも、また個々の物にも刻印すことをお定めになったのである。それは、被造物が知恵によって造られ、神の業にふさわしいものであるということを示すためであった。

 実際、私たちのことばは神の子であるみことばの像であるが、同様に私たちの内にできた知恵も、知恵そのものである方の像である。私たちはこの知恵によって知り、洞察する力を授けられ、創造する知恵である方をふさわしく迎え入れ、そしてこの知恵によって彼の父を知ることができるのである。確かに聖書は、「御子に結ばれている人は、御父にも結ばれている※2」(1ヨハネ2:23)と言い、また「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである※3」(マタイ10:40)とも言っている。この知恵の似姿は私たちの中にも、またすべての被造物の内にも刻み込まれているので、創造する真実の知恵である方が自らの似姿に固有のことを自らにあてはめて、「主はそのみ業のために私を造られた※4」(箴言8:22)と正しく言っておられる。

 しかしながら、すでに説明したように「世は知恵で神を知る事ができなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教という愚かな手段によって救おうとお考えになった※5」(1コリント1:21)のである。すなわち、もはや神は、先の時代のように知られようとは望まずに、むしろまことの知恵である方が肉をとり、人となり、十字架の死を身に受けることにされた。それはこのことに対する信仰によって、それ以後、信じる者すべてが救われるためであった。

 したがって、この神の知恵である方は、以前には被造物のうちに刻印された自らの像によって自らを表した。そのために「造られた」と言われている。また、この方は自分を通してその父をもお示しになった。その後、みことばであるこの知恵は、ヨハネの語るように肉となられた※6。そして死を滅ぼし、私たち人間を解放して、いっそう明らかにご自身と父とを明らかに示されたのである。イエスは言われる。「『唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る※7』(ヨハネ17:3)という望みを彼らに与えてください。」

 このようにして、全地は彼に関する知識に満たされている。事実、御子を通して御父を知る事と、御父によって御子を知る事は同一の知識である。御父は御子を喜びとし、御子はその同じ喜びをもって御父において喜ぶ。そこで、御子は言われる。「主はわたしを喜びとし、わたしも日々、主のみ前で楽しんだ。※8」(箴言8:30)


年間第六火曜日 読書
第一朗読 箴言8:1-36
第二朗読 聖アタナシオ司教 『アリウス派論駁』
※1 詩編104:24
主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。

※2 1ヨハネ2:23
御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。

※3 マタイ10:40
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

※4 箴言8:22(七十人訳)
主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。(新共同訳)

※5 1コリント 1:21
世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

※6 ヨハネ1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

※7 ヨハネ17:3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

※8 箴言8:30(七十人訳)
御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し(新共同訳)


聖アタナシオ
295年、エジプトのアレキサンドリアに生まれる。アレキサンドロス司教に同行してニケア公会議に出席し、やがてその後継者となった。アレイオス派と激しく争い、そのため多くの苦難に遭い、何度か追放された。正統信仰を解説し弁護するすぐれた著作を残した。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
東方教会でも西方教会でも、常に正統教義の模範となりました。現在まで続いているキリスト教会の基礎を築いた一人です。(アタナシウス、Wikipediaではアレクサンドリアのアタナシオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖アタナシオ司教
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話で「アレキサンドリアのアタナシオ」について解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message222.htm

聖エフレム 目覚めていなさい、主は来られる

2014-02-16 07:00:00 | 日記
聖エフレム助祭(306-373)シリアの助祭、教会博士
『ディアテッサロン注解』
 神よ、だれがあなたの言葉のただ一つの富さえ十分に理解にすることができるであろうか。私たちが悟ったものは、悟らずにいるものよりずっと少ないのである。私たちのやり方は、ちょうど泉から飲む渇いた人に似ている。あなたの言葉の展望は無限に広く、言葉を研究している人々の方向付けも無数である。主は豊かな美でご自分の言葉を飾られた。ことばを探求する人々が、各々自分の好むものを観想できるためである。また、主はご自分の言葉の中にあらゆる宝を隠された。私たち一人一人が、黙想するものの中に富みを見いだすことができるためてある。

 神の言葉は命の木である。この木は四方から祝された果実をあなたに差し出している。神の言葉は、すべての人に霊的な飲み物を与えるために荒れ野で開かれたあの岩のようである。人々は「霊的な食べ物を食べ、霊的な飲み物を飲んだ※1」のである。

 これらの富の一つを分け前として手に入れた者は、自分がそこに見つけたものだけが神の言葉のうちに含まれていると考えてはならない。かえって、多くの富の中からたった一つしか見つけることができなかったと考えるべきである。人は言葉によって富まされたとき、ことばがそれによって減ったと考えてはならない。言葉の富を汲み尽くすことのできない人は、その言葉の偉大さの故に感謝すべきである。あなたが満たされたことを喜べ。しかし、ことばの富があなたを凌駕していることを悲しむな。渇いている者は飲むことを喜ぶが、泉を飲みほす力が自分にないことを悲しみはしない。渇いているあなたが泉の水を飲みほすよりも、むしろ泉があなたの渇きを癒すのだ。泉の水がなくなることなく、あなたの渇きが癒されたからこそ、あなたはまた、渇くたびにそこで新たに水を飲めるのである。反対に、もしあなたが水を十分に飲むことによって泉の水をなくしてしまったしたら、あなたの満足はあなたの不幸となるであろう。
・・・


年間第六主日 読書
第一朗読 箴言 1:1-7,20-33
第二朗読 聖エフレム助祭 『ディアテッサロン注解』
※1 1コリント10:3-4
皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。


聖エフレム助祭教会博士
 東方諸教会・正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。306年頃、シリアのニシビスのキリスト者の家庭に生まれる。助祭に叙階され、ニシビスとエデッサで活躍し、神学のための学校を樹立した。禁欲生活を送るとともに、説教を続け、当時の謬説を論駁する書物を著した。373年に死去。

■(女子パウロ会 Laudate 聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=060901

■ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話に聖エフレムの紹介があります。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message266.htm

ステラのイサク修道院長 愛の卓越性

2014-02-15 13:44:09 | 日記
ステラのイサク修道院長(1110-1169年) フランスのステラの修道院長
説教
 兄弟の皆さん、助けが特に必要であるとわかっているときに、特に互いに助け合い、互いに兄弟の重荷を担って、援助する機会を求めることをなぜもっと心がけないのでしょうか。使徒聖パウロの次の言葉はまさにこのことを勧めています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。※1」また他の箇所でパウロは、「愛を以て互いに忍耐しなさい※2」とも言っています。これこそ間違いなくキリストの律法なのです。

 困窮のためか、肉体の弱さのためか、あるいは道徳上の欠陥のためか、兄弟に矯正しがたい欠点があることを認めたなら、「彼らの子らは抱いて運ばれ、ひざの上であやされる※3」と聖書に書かれているように、なぜ忍耐強く耐え忍び、心から慰めの言葉をかけてあげないのですか。すべてを忍び、すべてを担うために忍耐強く、愛するために情け深い心※4が私には欠けているからでしょう。

 これこそキリストの律法です。このキリストは受難において、「まことに私たちの病を担い」、同情して「私たちの痛みを負い※5」、担っていた人々を愛し、愛した人々を担ったのです。一方、困窮の弱みにつけ込むような者は、疑いもなく悪魔の律法に従い、それを果たしています。ですから、互いに同情し合い、兄弟愛を実践し、弱い人を担い、悪徳と戦いましょう。

 人がどんなにりっほうに従っても、どんな生き方をしても、神を愛し、神のために隣人を愛することを熱心に実践すればするほど、その生活は神によみされるのです。それは、万事において、何かをするかしないか、何かを変えるか変えないか、というこの理由は、愛そのものでなければならないからです。愛はすべての行動の理由であり、その目標であるべきです。事実、この愛のために、またこの愛に従って真実になされることは、罪ではありえないのです。


年間第五土曜日 読書
第一朗読 ガラテヤ5:25~6:18
第二朗読 ステラのイサク修道院長の説教

※1 ガラテヤ6:2
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

※2 エフェソ4:2 ~3
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

※3 イザヤ66:12
主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう平和を大河のように国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ抱いて運ばれ、膝の上であやされる。

※4 1コリント13:7,4参照
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

※5 イザヤ53:4
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。


ステラのイサク修道院長(1110~1169年頃)
フランスのステラの修道院長。 残念ながら、詳しいことは分かりません。
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_of_Stella

聖ボナベントゥラ イエス・キリストについての認識

2014-02-10 00:00:00 | 日記
聖ボナベントゥラ(1218~1274年) フランシスコ会士、アルバノの司教枢機卿、教会博士
『ブレビロクイウム』
 聖書の起源は人間の探求にあるのではなく、神の啓示にある。神の啓示の源泉は「光の源である父※1」であり、この「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられている※2。」御父から、御子イエス・キリストを通して、私たちへ聖霊が流れる。そして、望むままに賜物を一人一人に分け与えてくださる聖霊を通して※3、信仰が与えられる。そしてこの信仰によって、私たちの心の内にキリストが住まわれる※4。これがイエス・キリストを知るに至るこであり、この知識を源泉として、聖書全体への確信と理解が生ずる。したがって、キリストへの信仰が先に人々に注ぎ込まれることがなければ、聖書を認識すべく聖書のうちに踏み込む事は不可能である。このキリストへの信仰こそ、聖書全体のともし火であり、門であり、土台でもある。私たちが主から離れて暮らしている間も※5、この信仰がまさにあらゆる超自然的な照明の基礎を据えるもの、その道程を照らすともし火、そこへ導き入れる門なのである。そして、この信仰の度合いに応じて、私たちに神から与えられた智恵を計らねばならない。「過度に知恵に没頭せず、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎重に知恵を追求する※6」ためである。

 聖書の成果、あるいは結実は、ありきたりのものではなく、永遠の幸福の充満である。それは、聖書は永遠のいのちの言葉※7を収めているものだからである。聖書が書かれたのは、単に私たちが信ずるためだけではなく、永遠のいのちを得るためでもある。それを得て、私たちは神を見、愛し、そこで私たちの願望は完全に満たされる。私たちの願望が満たされるとき、そのとき私たちは、「知識をはるに超える愛を知り※8」、こうして「神の満ちあふれる豊かさのすべてに※9」満たされるであろう。使徒パウロの上述の真実の言葉によれば、この満ちあふれる豊かさへと私たちを導き入れるために、聖書は力を尽くしている。したがって、この目的、この意図をもって聖書は吟味され、伝授され、聞かれねばならない。
・・・


年間第五月曜日 読書
第一朗読 ガラテヤ1:13-2:10
第二朗読 聖ボナベントゥラ 『ブレビロクイウム』

※1 ヤコブ1:17
良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。

※2 エフェソ3:15
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。

※3 1コリント12:11参照
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

※4 エフェソ3:17参照
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

※5 2コリント5:6参照
それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。

※6 ローマ12:3(ウルガタ)
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。(新共同訳)

※7 ヨハネ6:68参照
シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。

※8 エフェソ3:19
※9 エフェソ3:19
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。


聖ボナベントゥラ
1218年頃、中央イタリアのトスカナのバニョレジオに生まれる。パリで哲学と神学を修め、フランシスコ会に入り、教授資格を取得。フランシスコ会員たちに哲学と神学を教え、大きな成果を収めた。やがて同会の総会長に選ばれ、分別と英知をもって会を治め、ついにアルバーノの司教枢機卿に任命された。1274年にリヨンで帰天。神学と哲学に関する多くの優れた著作を残した。カトリック教会の聖人。(Wikipedia ボナヴェントゥラ)

(女子パウロ会 聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=071501

ベネディクト十六世が「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話で「バニョレージョの聖ボナヴェントゥラ(Bonaventura)」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message488.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message490.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message492.htm

第二バチカン公会議 人間活動

2014-02-08 00:00:00 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 人間活動が人間から出るように、それは人間に向かっている。人間は活動することによって物と社会とを変えるだけではなく、自分自身を完成させる。人間は多くのことを学び、能力を養い、自分の外に、そして自分の上に出て行く。正しく理解するならば、このような成長は外的な富の蓄積よりも価値がある。人間の価値はその人の持ち物によるよりも、その人の存在それ自体によるのである。同様に、より完全な正義を実行するために、更に博愛を広めるために、社会関係の中に人間的秩序を一層打ち立てるために行われる全ての事は、技術の進歩よりも価値がある。技術は人間向上のための材料を提供することが出来るが、それだけでは人間向上を実現することはできないからである。

 したがって、人間活動の規則は次のような物である。すなわち、人間活動は神の計画と意志に基づいて人類の真実の善に合致し、また、個人および社会人として、人間に自分自身の召命を欠ける所なく追求し、実現することをゆるすものでなければならない。

 しかし、多くの現代人は、人間活動と宗教との密接な結びつきが、人間や社会や学問の自立を妨げるのではないかと恐れているようである。

 地上の諸現実の自律という言葉を、被造物や社会そのものが独自の法則と価値を持ち、人間はそれを次第に発見し、利用し、調整すべきであるという意味で捉えるならば、その自律を要求するのは全く当然なことである。それは現代人によって要求されるばかりでなく、創造主の意志にも添うものである。事実、万物は被造物であるが故に、それぞれの堅固さ、真理、善、固有の法則、秩序を賦与されている。人間は各種の学問と技術の固有の方法を承認しながら、それら全てを尊重しなければならないのである。

 したがって、時にはキリスト者自身の間にもあったことだが、学問の正統な自律を十分認めないような態度を嘆かずにはいられない。そのような態度や対立や論争を引き起こし、多くの人に信仰と科学とが対立するという考えを抱かせた。

 しかし、「地上の諸現実の自律」と言う言葉を、被造物は神に依存するものではなく、人間がそれらを創造主に関係づけること無しに利用できると言う意味に取るならば、神を認める者はだれでも、このような考え方が間違っていると考えざるを得ない。それは、創造主なくしては被造物は消え失せるからである。


年間第四土曜日 読書
第一朗読 2テサロニケ3:1-18 
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』