goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

アマシアの聖アステリオ 主の牧し方に倣おう

2014-03-13 23:19:37 | 日記
アマシアの聖アステリオ(350-410年)小アジアのアマシアの司教
「説教」
 あなたがたが、神にかたどって創造された者としてその神を模倣したいなら、神の模倣にならいなさい。キリスト者という、人間に対する愛を表す名で呼ばれる皆さん、キリストの愛を模倣しなさい。

 人間に対するキリストの愛の豊かさを考えてご覧なさい。主は人となって人々のもとに来ようとして、回心を呼びかけ、悔い改めに導く者としてヨハネを前もって遣わし、また彼の前には、回心を教える教師として多くの預言者を遣わされました。

 それから間もなくご自身が来て、その口からこう呼ばれました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしの元に来なさい。休ませてあげよう。」※1 主はその呼びかけに従った者をどのように受け入れられたのでしょうか。主は寛大に彼らの罪をゆるし、悩みから直ちに解放なさいました。ことばは彼らは聖化し、霊は彼らに証印を押されました。古い人が水の中に葬られ、新しい人が造られ、恵みを受けて水から上がりました。

 その他にどのようなことが起こったのでしょうか。神から離れていた人が神と親しい者となり、神と縁のない人が神の子となり、神の秘義に入れなかった人がその秘義に導き入れられ、不信心な人が聖なる者となったのです。

 主の牧し方にならいましょう。福音書を調べ、それを鏡とし、親切と慈しみのありさまを主に学びましょう。

 福音書の比喩的な例え話の中で、百匹の羊をかっている羊飼いが現れます※2。そのうち一匹が群れを離れ、さまにい出てしまったとき、羊飼いは、群れの中で秩序正しく迷わずに草を食んでいた羊たちのもとにとどまらず、見失われた一匹の羊を捜しに行き、多くの谷間や渓谷を歩き回り、高い大きな岩を登り、荒れ野を根気強く歩き回り、ついにその迷った羊を見つけ出すまで、たいへんな労苦を惜しみませんでした。

 さらに、この羊を見つけ出したとき、羊飼いはこれを叱って、荒々しく追って群れに戻したりせず、反対に羊を担いで、優しく他の羊たちの所へ運びました。そして、他の羊たちよりも、この一匹の羊に大きな喜びを覚えたのです。このたとえ話に隠されている真実を考えてみましょう。ここで言う羊は普通の羊のことではなく、羊飼いも普通の羊飼いのことではありません。

 この話は聖なることを表すたとえであり、私たちに多くのことを教えています。それは、ある人を改善の見込みがないと早急に決めつけたりしないこと、危険のさなかにいる人をしりごみして見過ごしてしまわないこと、また、同情するように努めること、人を正しい秩序に取り戻すこと、その人が戻ってくることを喜ぶこと、正しく敬虔な生活を送っている多くの仲間の中にその人を再び導き入れることなのです。


四旬節第一木曜日 読書
第一朗読 出エジプト 12:1-20 主の過越と酵母を入れないパン
第二朗読 アマシアの聖アステリオ司教の説教

※1 マタイ11:28 
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

※2 ルカ15:4-7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」


アマシアの聖アステリオ司教
小アジアのアマシア(現在のトルコ)の司教。どのような人物であったのかは、分かりませんが幾つかの書簡が現在まで伝えられ読み継がれています。

(Wikipedia Asterius of Amasea)
http://en.wikipedia.org/wiki/Asterius_of_Amasea

ナジアンズの聖グレゴリオ 主の愛を互いに示そう

2014-03-10 22:22:01 | 日記
ナジアンズの聖グレゴリオ(330年-389年) カッパドキアのナジアンズの司教、教会博士
説教
 あなたはいったい誰のおかげで存在し、呼吸し、思考しているのか、また、最も優れたことですが、誰のおかげで神を認識し、天の国を希望しうるのか、よく考えてみなさい。また、誰のおかげで、今は神の栄光を「鏡におぼろに映ったもの※1」として見ながら、後にはもっと完全に、かつはっきりとその栄光を見ることを希望しうるのか熟考してみなさい。さらに誰のおかげで神の子となり、キリストの共同相続人となり、より大胆に言えば、神にさえなったのか、深く思い巡らしてみなさい。これらすべてのことは、どこから、また、誰からあなたに授けられたのでしょうか。

 目に見えるものやより劣ったものについて述べてみると、あなたは誰のおかげで美しい大空を見、天空を巡る太陽、回る月、無数の星を見、また、琴の調べのような調和と秩序をこれら全ての中に見るのでしょうか。いったい誰のおかげで、あなたは地を潤す雨を受け、耕作、食物、工芸、住居、法律、国歌、穏やかな生活、人間同士の親しい交わりを与えられたのでしょうか。

 いったい誰のおかげで、一部の動物は馴らされてあなたに従い、他の動物は食べ物として与えられたのでしょうか。

 いったい誰が、あなたを地にある全てのものの主と王に立てたのでしょうか。

 まとめて言うと、人間が他の一切のものより優れている全ての点を、誰があなたに授けたのでしょうか。

 それは神に他ならないではありませんか。しかもこの神が、今、何にもましてあなたに求めておられるのは、ご自分があなたに与えた全ての恵みにあなたが応えて、人々に愛を示すということだけです。私たちは、神からそれほどの賜物を既に受け、また将来受けることを期待しているのに、人々に対する愛という一つのことさえ神に返さないのは、恥ずかしいことではないでしょうか。神は、神であり主でありながら、私たちの父と呼ばれることを恥とされなかったのに、私たちが人間同士としてつながっているその結びつきを拒んでもよいのでしょうか。

 兄弟達よ、友よ、神によって私たちにゆだねられたものを、不正に管理することのないようにしましょう。それは、ペトロの次の言葉が私たちにあてはまらないようにするためです。「他人のものを不法に所有している者は恥じ入りなさい。神の公平さを模倣しなさい。そうすれば貧しい者は一人もいなくなるでしょう。※2」

 他の人々が赤貧にあえいでいるのに、自分は富を積み重ねて保存することに汲々とすることのないようにしましょう。それは、次のような預言者アモスの厳しい脅迫の言葉を受けることのないためです。「お前達は言う。『新月祭はいつ終わるのか、商売を始めたいものだ。安息日はいつ終わるのか、倉を開けたいものだ※3。』」


四旬節第一月曜日 読書
第一朗読 出エジプト 6:2-13 モーセの使命
第二朗読 ナジアンズの聖グレゴリオ 説教
※1 1コリント13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

※2 使徒憲章

※3 アモス8:5
お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。


ナジアンズの聖グレゴリオ
 330年、ナジアンズ近郊に生まれた。隠遁生活を送るために友人バジリオのもとに赴いたが、間もなく司祭に、やがて司教に叙階された。381年にコンスタンチノープルの司教に選ばれたが、同教会に起こった派閥争いのため職を辞してナジアンズに戻り、389年1月25日に帰天(死去)。学問と雄弁によって名声を高めたため、「神学者」という称号を与えられた。

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201

ベネディクト十六世の連続講話「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の第47回で「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message236.htm

アグリゲントゥムの聖グレゴリオ 主に近づいて光りと輝け

2014-03-01 18:24:06 | 日記
アグリゲントゥムの聖グレゴリオ(559~603) シチリアのアグリゲントゥムの司教
『コヘレト書解説』
 太陽の「光は快く※1」目で見える太陽を肉眼で見るのは楽しいと著者は言っている。実に、光が無かったなら、世界には美しさがなく、生活はつまらないものとなるであろう。だから、神を眺める人であったあのモーセは以前から、「神は光を見て、良しとされた※2」と言った。しかし私たちは、著者が目に見える光について語ったときに、預言的な見通しで、「この世に来てすべての人を照らす※3」偉大でまことの永遠の光、すなわち世の救い主、贖い主であるキリストのことを眺めたと考えるべである。このキリストは人となり、人類史の末期である夕暮れのときに来られた。このキリストについて、預言者ダビデは、「神に向かって歌え、み名をほめ歌え。太陽が没した所に昇られたお方に道を備えよ。その名は主。そのみ前に喜び勇め※4」と言った。

 著者は光を快いものと呼び、栄光の太陽を見るのは目に楽しいと予告した。その栄光の太陽とは、神が受肉されたときに「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩くことはなく、いのちの光を得る※5」と言われ、さらに、「光がこの世に来た。それが、もう裁きになっている※6」と言われた方である。したがって、肉眼に見える太陽の光のことを語ることによって、著者は霊的な義の太陽を予告したのである。この太陽であるキリストは、当時キリストから学ぶ恵みを受けた人達、人々の中で生き、暮らしたキリストを肉眼で見ることをゆるされた人達にとっては、きわめて快いものだった。キリストは普通の人間と同じように肉眼で見える方であったが、普通の人間ではなかった。事実、キリストは真の神でもあった。そのために、目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩くようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、賴を患っている人を清め、死者を命令だけで生き返らせたのである。

 今でも、精神の目をキリストに向け、神にふさわしい名伏しがたいその美を眺め、思い巡らすことは快いことである。また、キリストに参与することによって照らされて美しくされ、心を幸せにされ、魂を清くされ、理解力を与えられ、人生のすべての日に神聖な喜びに満たされるこも快いことである。賢明な著者はこのことを指摘して、次のように言っている。「人は長生きしても、そのすべてにおい喜びは満ちるであろう※7。」実に、義の太陽は、それを眺める人にあらゆる喜びをもたらすものである。このことについて預言者ダビデは、「彼らは神のみ前に喜び祝って楽しむ※8」と言い、さらに、「正しい人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい※9」とも言っている。


年間第七土曜日 読書
第一朗読 コヘレト11:7-12:14
第二朗読 アグリゲントゥムの聖グレゴリオ 『コヘレト書解説』
※1 コヘレト11:7
光は快く、太陽を見るのは楽しい。

※2 創世記1:4
神は光を見て、良しとされた。

※3 ヨハネ1:9
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

※4 詩篇68:5
神に向かって歌い、その名を讃えて歌え。雲に包まれた来られる方をあがめよ。その名は、ヤー(ヤーウェの短縮形)と呼ぶ方の御前に喜び勇め。

※5 ヨハネ8:12
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

※6 ヨハネ3:19
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

※7 コヘレト11:8
長生きし、喜びに満ちているときにも暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。

※8 詩編68:4
神に従う人は誇らかに喜び祝い御前に喜び祝って楽しむ。

※9 詩編33:1
主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。


アグリゲントゥムの聖グレゴリオ
残念ながら、詳しいことは分かりません。

参考 正教会のサイトより St Gregory the Bishop of Agrigentum(正教会では、11月23日に記念しているようです)
https://oca.org/saints/lives/1999/11/23/103376-st-gregory-the-bishop-of-agrigentum

http://www.johnsanidopoulos.com/2010/11/saint-gregory-bishop-of-agrigentum.html

アグリゲントゥムの聖グレゴリオ 私の魂が主を喜びたたえるように

2014-02-28 00:00:00 | 日記
アグリゲントゥムの聖グレゴリオ司教(559~603) シチリアのアグリゲントゥムの司教
『コヘレト書解説』
 「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたのぶどう酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。※1」

 この言葉を字義通りの簡単な意味にとっても、本書の筆者のこの勧めは決して不当とは思われない。すなわち彼は、私たちが単純な心で生活し、神に対する真摯な信仰の教えを保持して、喜んでパンを食べ、気持ちよくぶどう酒を飲み、悪い話にふけったり悪い行いをしたりせず、かえって常に正しく考え、できるかぎり困窮者と貧しい人々に寛大に施し、一言で言えば、神によみされるような生活と行いをなすように忠告しているのである。

 しかし、霊的な意味に解釈すれば、私たちはもっと深い理解に導かれる。すなわち、その解釈によって私たちは天から降って来て、世に命を与えた天的で神秘的なパン※2のことをここで考えるように教えられ、さらに、命をもたらす受難のときに、真のぶどうの木の脇腹から流れ出た霊的なぶどう酒について、私たちの救いの福音書は次のように述べている。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、聖なる弟子たちと使徒たちに言われた。『取って食べなさい。これは罪がゆるされるように、あなたがたのために割かれる、私の体である。』また、杯も同じようにして言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは罪がゆるされるように、あなたがたと多くの人のために流される私の血、新しい契約の血である。※3』」 このパンを食べ、この神秘的なぶどう酒を飲む者こそ、真に喜び、歓喜して、「あなたは私たちの心に喜びをお与えになった※4」と叫ぶことができる。

 さらに、神の実存する知恵であり、私たちの救い主であるキリストは、このパンとこのぶどう酒のことを箴言の中でも次のように表しておられたと私は思いう。すなわち、「来て、わたしのパンを食べ、わたしが調合したぶどう酒を飲むが良い※5。」この言葉によって、キリストはみことばの神秘的な参与を示されたのである。ふさわしい心でみことばにあずかる人々の衣服、すなわち光の業は、いつでも光のように白く輝くであろう。酒が福音書の中でも「そのよに、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。※6」と言っておられるとおりである。さらにその人々の頭に、油も常に豊かにあるであろう。すなわちその油とは、罪のあらゆる攻撃から守り、救ってくださる真理の霊なのである※7。


年間第七金曜日 読書
第一朗読 コヘレト8:5~9:10
第二朗読 アグリゲントゥムの聖グレゴリオ司教 『コヘレト書解説』
※1 コヘレト 9:7
さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。

※2 ヨハネ6:33
神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

※3 マタイ26:26-28
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

※4 詩編4:8(七十人訳)
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください。(新共同訳)

※5 箴言9:5
わたしのパンを食べわたしが調合した酒を飲むがよい

※6 マタイ5:16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

※7 ヨハネ14:17
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

聖ポリカルポ司教 記念日

2014-02-23 00:00:00 | 日記
スミルナの教会によって書かれた聖ポリカルポの殉教についての手紙
 さて、火あぶりの支度が整うと、ポリカルポ様はご自分で衣服をすべてお脱ぎになり、帯を外し、履き物さえ脱ごうとされました。このようなことをかつてされたためはありませんでした。信者たちがこぞってそのお体に早く触れようと、いつも先を争っていたからです。立派なふるまいの故に、殉教なさる以前から、師は一切の美徳に飾られておりましたから。

 すると、火あぶりのために用意されていた薪が、直ちに師の周りに積み上げられました。仕置きをする者たちが師を釘付けにしようとすると、師はこう言われました。「このままにしてください。あなたたちが釘を使って用心しなくても、火に耐える力をお与えになる方が、しりごみせずに火の中にとどまるようにしてくださるでしょうる」しかし、彼らは師を釘付けにこそしませんでしたが、縛り上げました。

 師は両手を後ろに回して縛られましたが、その姿はちょうど大きな群れから供え物として呼び出されたみごとな雌羊のようでした。神のために備えられ、神に嘉納される焼き尽くす備えのもとしてです。師は天を仰いで、こう言われました。

 「主よ、全能の神よ、あなたが愛する祝福された御子イエス・キリストの父よ、私たちはこのイエス・キリストを通してあなたを深く知る知識をいただきました。諸もめの天使と力、一切の被造物と御前に生きるすべての正しい人の神よ。私はあなたをたたえます。あなたはこの日、この時にあたり、私を殉教者の数に加え、御子キリストの苦しみの杯にあずかれるようにとりはらかってくださったからです。こうして、私の魂も体も、聖霊が終えた絵になる不死の命のうちに永遠のいのちに復活することができるのです。今日、御前において、私があなたに嘉納される肥えたいけにえとして、彼ら殉教者の中に受け入れられますように。あなたこれをあらかじめ備えられ、前もって現され、成就してくださったのです。偽りのない真実の神よ、このゆえに、またすべててにいて、私はあなたを賛美し、あなたをたたえ、あなたが愛する御子、天の永遠の大祭司、イエス・キリストを通して、あなたに栄光を帰します。イエス・キリストによって、栄光が今も世々に、その方と聖霊と共にあなたにありますように。」

 師がこの「アーメン」を唱え、祈りを終えると、火あぶりの刑の執行人は火を詰めました。

 炎が大きく燃え上がると、それを見る恵みをいただいた人達だけに見える不思議な光景を、私たちは目撃したのです。このとき起こった出来事を他の人々に知らせるためにこそ、私たちは神によって守られたのでしょう。すなわち、炎がアーチ状になって、風をはらんだ船の帆のように殉教者の体を包み込んだのです。その炎の中で、死は肉体が燃やされているようには見えず、むしろパンが焼かれているかのように、またね金や銀が炉の中で精錬されているかのように思われました。私たちは、乳香、あるいはその他の高価な香料が香るような快い香りを覚えました。


2月23日 聖ポリカルポ司教殉教者 記念日
第一朗読 当週当曜日
第二朗読 スミルナの教会によって書かれた聖ポリカルポの殉教についての手紙


聖ポリカルポ(69年~155年頃) スミルナの司教、殉教者
 ポリカルポは使徒達の直弟子であり、スミルナの司教であった。彼は、殉教の地に向かって旅行を続けたアンチオケのイグナチオを、スミルナであたたかく迎えた。後に、復活祭の日付の問題についてローマ司教アニケトゥスと話し合うためにローマに赴いた。155年頃、スミルナの闘技場で火刑により殉教。東方諸教会、正教会、ローマ・カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人。(Wikipediaではポリュカルポス)

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=022302