アマシアの聖アステリオ(350-410年)小アジアのアマシアの司教
「説教」
あなたがたが、神にかたどって創造された者としてその神を模倣したいなら、神の模倣にならいなさい。キリスト者という、人間に対する愛を表す名で呼ばれる皆さん、キリストの愛を模倣しなさい。
人間に対するキリストの愛の豊かさを考えてご覧なさい。主は人となって人々のもとに来ようとして、回心を呼びかけ、悔い改めに導く者としてヨハネを前もって遣わし、また彼の前には、回心を教える教師として多くの預言者を遣わされました。
それから間もなくご自身が来て、その口からこう呼ばれました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしの元に来なさい。休ませてあげよう。」※1 主はその呼びかけに従った者をどのように受け入れられたのでしょうか。主は寛大に彼らの罪をゆるし、悩みから直ちに解放なさいました。ことばは彼らは聖化し、霊は彼らに証印を押されました。古い人が水の中に葬られ、新しい人が造られ、恵みを受けて水から上がりました。
その他にどのようなことが起こったのでしょうか。神から離れていた人が神と親しい者となり、神と縁のない人が神の子となり、神の秘義に入れなかった人がその秘義に導き入れられ、不信心な人が聖なる者となったのです。
主の牧し方にならいましょう。福音書を調べ、それを鏡とし、親切と慈しみのありさまを主に学びましょう。
福音書の比喩的な例え話の中で、百匹の羊をかっている羊飼いが現れます※2。そのうち一匹が群れを離れ、さまにい出てしまったとき、羊飼いは、群れの中で秩序正しく迷わずに草を食んでいた羊たちのもとにとどまらず、見失われた一匹の羊を捜しに行き、多くの谷間や渓谷を歩き回り、高い大きな岩を登り、荒れ野を根気強く歩き回り、ついにその迷った羊を見つけ出すまで、たいへんな労苦を惜しみませんでした。
さらに、この羊を見つけ出したとき、羊飼いはこれを叱って、荒々しく追って群れに戻したりせず、反対に羊を担いで、優しく他の羊たちの所へ運びました。そして、他の羊たちよりも、この一匹の羊に大きな喜びを覚えたのです。このたとえ話に隠されている真実を考えてみましょう。ここで言う羊は普通の羊のことではなく、羊飼いも普通の羊飼いのことではありません。
この話は聖なることを表すたとえであり、私たちに多くのことを教えています。それは、ある人を改善の見込みがないと早急に決めつけたりしないこと、危険のさなかにいる人をしりごみして見過ごしてしまわないこと、また、同情するように努めること、人を正しい秩序に取り戻すこと、その人が戻ってくることを喜ぶこと、正しく敬虔な生活を送っている多くの仲間の中にその人を再び導き入れることなのです。
四旬節第一木曜日 読書
第一朗読 出エジプト 12:1-20 主の過越と酵母を入れないパン
第二朗読 アマシアの聖アステリオ司教の説教
※1 マタイ11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
※2 ルカ15:4-7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
アマシアの聖アステリオ司教
小アジアのアマシア(現在のトルコ)の司教。どのような人物であったのかは、分かりませんが幾つかの書簡が現在まで伝えられ読み継がれています。
(Wikipedia Asterius of Amasea)
http://en.wikipedia.org/wiki/Asterius_of_Amasea
「説教」
あなたがたが、神にかたどって創造された者としてその神を模倣したいなら、神の模倣にならいなさい。キリスト者という、人間に対する愛を表す名で呼ばれる皆さん、キリストの愛を模倣しなさい。
人間に対するキリストの愛の豊かさを考えてご覧なさい。主は人となって人々のもとに来ようとして、回心を呼びかけ、悔い改めに導く者としてヨハネを前もって遣わし、また彼の前には、回心を教える教師として多くの預言者を遣わされました。
それから間もなくご自身が来て、その口からこう呼ばれました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしの元に来なさい。休ませてあげよう。」※1 主はその呼びかけに従った者をどのように受け入れられたのでしょうか。主は寛大に彼らの罪をゆるし、悩みから直ちに解放なさいました。ことばは彼らは聖化し、霊は彼らに証印を押されました。古い人が水の中に葬られ、新しい人が造られ、恵みを受けて水から上がりました。
その他にどのようなことが起こったのでしょうか。神から離れていた人が神と親しい者となり、神と縁のない人が神の子となり、神の秘義に入れなかった人がその秘義に導き入れられ、不信心な人が聖なる者となったのです。
主の牧し方にならいましょう。福音書を調べ、それを鏡とし、親切と慈しみのありさまを主に学びましょう。
福音書の比喩的な例え話の中で、百匹の羊をかっている羊飼いが現れます※2。そのうち一匹が群れを離れ、さまにい出てしまったとき、羊飼いは、群れの中で秩序正しく迷わずに草を食んでいた羊たちのもとにとどまらず、見失われた一匹の羊を捜しに行き、多くの谷間や渓谷を歩き回り、高い大きな岩を登り、荒れ野を根気強く歩き回り、ついにその迷った羊を見つけ出すまで、たいへんな労苦を惜しみませんでした。
さらに、この羊を見つけ出したとき、羊飼いはこれを叱って、荒々しく追って群れに戻したりせず、反対に羊を担いで、優しく他の羊たちの所へ運びました。そして、他の羊たちよりも、この一匹の羊に大きな喜びを覚えたのです。このたとえ話に隠されている真実を考えてみましょう。ここで言う羊は普通の羊のことではなく、羊飼いも普通の羊飼いのことではありません。
この話は聖なることを表すたとえであり、私たちに多くのことを教えています。それは、ある人を改善の見込みがないと早急に決めつけたりしないこと、危険のさなかにいる人をしりごみして見過ごしてしまわないこと、また、同情するように努めること、人を正しい秩序に取り戻すこと、その人が戻ってくることを喜ぶこと、正しく敬虔な生活を送っている多くの仲間の中にその人を再び導き入れることなのです。
四旬節第一木曜日 読書
第一朗読 出エジプト 12:1-20 主の過越と酵母を入れないパン
第二朗読 アマシアの聖アステリオ司教の説教
※1 マタイ11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
※2 ルカ15:4-7
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
アマシアの聖アステリオ司教
小アジアのアマシア(現在のトルコ)の司教。どのような人物であったのかは、分かりませんが幾つかの書簡が現在まで伝えられ読み継がれています。
(Wikipedia Asterius of Amasea)
http://en.wikipedia.org/wiki/Asterius_of_Amasea