goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

テルトゥリアヌス 霊的ないけにえ

2014-03-27 23:59:57 | 日記
テルトゥリアヌス(160~220) 三世紀最大のキリスト教著作家の一人
『祈りについて』
 祈りは、古(いにしえ)の犠牲を廃止させた霊的な生贄(いけにえ)である。主は仰せになる。「お前たちの捧げる多くの生贄が、わたしにとって何になろうか。雄羊の焼き尽くすささげものや、子牛の脂肪にわたしは飽いた。雄牛、子羊、雄山羊(やぎ)の血をわたしは喜ばない。だれがお前たちにこれらのものを求めたのか。」※1 

 神が求められることを福音書は次のように教えている。「イエスは言われた。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊だからである。』※2」 それゆえ神は、そのような礼拝をする者を求めておられる。

 私たちは真の礼拝をする者、真の司祭である。霊をもって祈る時、神にふさわしく、神の心にかない、神が求め、神がご自分のために用意した生贄としての祈りを神にささげる。

 この祈りという生贄は、心を尽くしてささげられ、信仰によって養われ、真理によって準備され、私たちの潔白によって完成され、貞節によって清められ、愛という冠をつけられべきものである。この祈りという生贄を、私たちは詩篇や賛歌を唱えながら、数々の善行を伴って神の祭壇に運ばなければならない。この祈りこそ、私たちのために神からすべてを獲得させるものである。

 神は霊と真理に由来する祈りを要求しておられるのであるから、このような祈りによる願いを神が聞き入れられないということはない。祈りの効果について私たちは多くの証言を読み、聞き、信じている。

 キリストの教えられた形ではなかったにもかかわらず、昔の人々の祈りは火や獣や上から人々を救い出した。

 キリスト者の祈りは、そのような昔の人々の祈りよりも効果が大きい。キリスト者の祈りの結果は、燃えさかる炉の真ん中に露をもたらす天使を立たせることも※3、 ライオンの口を閉ざすことも※4 、畑に働く人々のために作られた食事を飢えている者に運ぶというようなことももらたさないし、恵みが送られて苦難の痛みが取り除かれることもないが、苦しむ者、痛みを感じる者に忍耐が与えられ、徳がもたらされることによって恩恵が増大する。こうして、信じる人は、神の名のためにどのような苦しみを耐え忍んでいるかを知って、神からどのような報いを得るかと言うことを知るようになるのである。

 かつて、祈りは災いを起こし、敵を敗走させ、干ばつをもたらした。しかし今、正しい祈りは神の怒りをすべて遠ざけ、敵のためにとりなし、迫害者たちのために嘆願している。天から火を降らせることのできた祈りが、天から恵みの雨を降らせることができるとしても、不思議なことではない。祈りだけが神に勝つ。しかし、キリストは祈りが悪をもたらすことを望まず、全ての祈りが善をもたらすようにしてくださったのである。

 祈りの力は、とりわけ死者たちの魂を死そのものの道から呼び戻すこと、弱い者を回復させること、病人を治すこと、悪霊に悩む者を救うこと、牢獄の門を開くこと、無罪の者の鎖を解くことである。さらに、罪を洗い清め、誘惑を追い払い、迫害を止めさせ、臆病者を慰め、高潔な人々を喜ばせ、旅人を導き、波を鎮め、強盗を狼狽させ、貧しい人々に食物を与え、富む者を統治し、倒れた人々を起こし、つまずく者を支え、立っている人々を強める。

 すべての天使たちも祈り、すべての被造物も祈り、家畜や野獣も膝をかがめ、小屋や洞窟から出てくるときは、声も出さずに天を仰ぐのではなく、それぞれのしぐさで息を震わせている。鳥も朝目覚めると、天に向かって高く飛び、手の代わりに翼を十字に広げ、祈っているかのように鳴くのである。

 これ以上、祈りの務めについて何を言えようか。主ご自身も祈っておられたのだ。この主に、栄光と力が世々にあるように。


四旬節第三木曜日 読書
第1朗読 出エジプト記 34:10-28 契約の再授与
第2朗読 テルトゥリアヌス 『祈りについて』
※1 イザヤ1:11-12
お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰がお前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。

※2 ヨハネ4:23-24
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

※3 ダニエル補遺・アザルヤ26-27
 そのとき、主の使いが炉の中のアザルヤとその仲間たちのもとに降り、炉から炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった。

※4 ダニエル6:23
神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」


テルトゥリアヌス
ベネディクト十六世の連続講話 「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」で、古代教会の偉大な人物として「テルトゥリアヌス」を紹介しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message217.htm

 テルトゥリアヌスはキリスト教会に大きな貢献をする反面、厳格で激しい性格のために、次第に教会との交わりから離れ、モンタノス派に加わりました。モンタノス派はキリストの再臨が近いと信じ、初代教会の純粋な信仰生活、禁欲的生活を行いました。異端と言うより厳格なキリスト教徒とみなされていましたが、「教会とつながり、自分の弱さを受け入れ、他者と自己に寛容であろうとする謙遜さを欠くところがあり」教会に留まることができませんでした。
 「神のみが完全に聖なるかたで、私たちは常にゆるしを必要とする存在なのです。」

アンチオケの聖テオフィロ 心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る

2014-03-26 00:00:00 | 日記
アンチオケの聖テオフィロ(二世紀後半 115~183頃) シリアのアンチオケの司教
『アウトリュコスに宛てた書』
 「あなたの神を示しなさい」とあなたが言うなら、私は次のように答えます。「あなたがどのような人間であるかを、まず私に示しなさい。そうすれば、あなたに私の神を示しましょう。」つまり、「あなたの魂の目に見える能力があるかどうか、あなたの頃の耳に聞く能力があるかどうかを示しなさい。」

 肉眼で物を見る人は、この地上の生活に属する様々な事物を見、互いに異なるもの、光と闇、白と黒、醜い物と美しいもの、調和のとれたものと不調和なもの、大きすぎるものと小さすぎるものとを調べます。同じことは、耳に聞こえるもの、すなわち高い音、低い音、快い音などについても言えます。神を見ることのできる心の耳と魂の目のありさまも同様です。

 神は、神を見ることのできる人々には見えます。彼らの魂の目は開かれているからです。全ての人に目がありますが、ある人の目は闇で覆われ、太陽の光は見えないのです。目の見えない人に太陽が見えないからと言って、太陽が光っていないというわけではありません。目の見えない人は太陽が見えないことを、自分自身と自分の目の欠陥に帰さねばなりません。同様に、あなたもあなたの罪と悪行のゆえに、闇で覆われた魂の目をもっているのです。

 光を反射する鏡のように、人の魂は清らかなものでなければなりません。鏡に緑青(ろくしょう)が付くと、人の顔を鏡の中で見ることはできません。同様に人間に罪がつくと、このような人は神を見ることができません。

 しかし、あなたが望むなら、いやされるのです。医者の手に自分をゆだねなさい。医者はあなたの魂と心の目を針で刺して癒すでしょう。この医者とは誰でしょうか。それは神です。神はことばと知恵によって癒し、かつ生かされます。神はご自分のことばと知恵とによって万物を創造されました。「ことばによって天は造られ、天の万象は主の霊によって造られた※1」のです。神の知恵は最も力あるものです。神は知恵によって地を据えられ、諸々の天を叡智によって造られたのです。神の知識によって深淵が引き裂かれ、雲が水を注ぎ出したのです。

 人よ、もしあなたがこれらのことを理解し、清く聖なる正しい生活を送るなら、神を見ることができます。しかし、何よりもまずあなたの心の中で、神への信仰と畏敬が育まれなければなりません。そうすればこれらのことを理解するでしよう。死すべき状態を脱ぎ去り、不朽性をまといとき※2、あなたは功に応じて神を見るでしょう。神はあなたの肉体を魂と共に不死のものとして復活させ、そのときあなたは不死のものとされて不死である方を見るでしょう。今その神を信じるならそうなるのです。


四旬節第三水曜日 読書
第一朗読 出エジプト 33:7-35
第二朗読 アンチオケの聖テオフィロ司教の『アウトリュコスにあてた書』

※1 詩編33:6
御言葉によって天は造られ主の口の息吹によって天の万象は造られた。

※2 1コリント15:54 参照
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。


アンチオケの司教テオフィロ
 二世紀のシリアのアンチオケの司教テオフィロとはどのような人物であったのでしょうか。
三位一体について西方教会ではテルトゥリアヌス(160~220年)が217年頃に「トリニタス(ラテン語)」を用いましたが、東方教会では、それよりも40年ほど前にアンチオケの聖テオフィロスが181年頃に著した本書の中で、「トリアス(ギリシャ語)」を用いています。聖書正典成立期の心に残る古代教会からのメッセージが今に伝わっています。
(Wikipedia "Theophilus of Antioch", http://en.wikipedia.org/wiki/Theophilus_of_Antioch)


聖バジリオ 誇る者は主を誇れ

2014-03-24 00:00:00 | 日記
聖バジリオ(330-379) カエサリアの司教、教会博士
説教
 「知恵あるものは、その知恵を誇るな。力あるものは、その力を誇るな。富あるものは、その富を誇るな。※1」

 それでは、真の誇りとはどういうものでしょうか。人はどの点で偉大なのでしょうか。「むしろ、誇るものは、この事を誇るがよい。聡くあって、わたしが主であることを知る事を。※2」と聖書は言っています。

 偉大な者を正しく知る事、そしてその者に一致すること、また、栄光の主から栄光を求めること、これこそ人間の崇高さであり、その栄光と威厳であります。使徒パウロは、「誇る者は主を誇れ」と言っています。パウロがこの言葉を述べているのは、次の箇所です。「キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。※3」

 神を完全かつ十分に誇るとは、人が自分の義のためにうぬぼれるのではなく、自分に真の義が欠けていること、自分がただキリストへの信仰のみによって義とされたことを認めることです。

 パウロが誇りにしているのは、自分の義をあてにせず、信仰にもとづいて与えられる義※4を求めると言うことです。その義は、キリストを通しての義であり、神からの義です。それは、「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達する※5」ためなのです。

 ここで、傲慢に高ぶるためのすべての理由が消えてしまったのです。だから人よ、あなたには誇ることができる余地が何も残っていません。あなたの誇りと希望は、あなたのものをすべて捨て去り、キリストにおける未来の生命を求めることです。私たちはこの未来の生命の初穂をもって、すでにその生命を受けており、ことごとく神の恵みと賜物に満たされ生きています。

 神こそ、「私たちのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられる※6」のです。神はさらに、私たちの栄光を与えるためにあらかじめ定めたご自分の知恵を、ご自分の霊を通して現されます。

 神は労苦の際にに力を与えてくださいます。パウロは、「私は他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです※7」


四旬節第三月曜日 読書
第一朗読 出エジプト 24:1-18
第二朗読 聖バジリオ 説教

※1 エレミヤ 9:22
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。

※2 エレミヤ 9:23
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

※3 1コリント1:30-31
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

※4 フィリピ3:9
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

※5 フィリピ3:10-11
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

※6 フィリピ2:13
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです

※7 1コリント15:10
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。



聖バジリオ
(330年-379年) カエサリアの司教、教会博士
ギリシャ教父の一人。正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会など、聖人の概念を持つ全てのキリスト教の教派で聖人とされている。地下都市で有名なカッパドキアの司教。古代キリスト教会の正統信仰を確立した東方の教父の一人。父方の祖母マクリナはオリゲネス(185~254年)に師事したグレゴリオス・タウマトゥルゴスに学んでいます。このようなキリスト者の家庭に彼は生まれ育ちました。病弱で内気な性格でしたが、精神的に成熟しており、賢明で、堅実で、柔軟でありながらも信仰面では、神への愛、教会への愛から気骨ある指導者で、個人的、社会的な悪に対しては断固として戦いました。(Wikipediaでは、カイサリアのバシレイオス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖バジリオ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=010201

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の45回目、45回目の二回にわたり「聖バジリオ」を解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message226.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message233.htm

聖ヒラリオ 主を畏れること

2014-03-20 00:00:00 | 日記
聖ヒラリオ(315~367年)フランスのポワティエの司教
『詩篇講話』
 「いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ。※1」 聖書の中で主を畏れることについて語られるたびに注意すべきことは、決して、信仰の完成にこれだけで足りるかのように、畏れのことだけが語られるのではないということです。その続きかその前に、多くの他のことが書かれており、それによって主を畏れることが何であり、完全な畏れとはどういうことであるかが知らされています。たとえば、ソロモンが箴言の書で語っていることから、このことは明らかです。ソロモンは言います。「知恵に向かって声を上げ、分別によびかけるならば、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すならば、あなたは主を畏れる事を悟るだろう。」※2

 ここでは、どれほど多くの段階を経て、人が主を畏れることに到達するかがよく示されています。

 つまり、まず知恵に向かって声を上げ、全力を傾けて分別を得るように努力し、そして知恵を尋ね、捜すべきです。そうして初めて、主を畏れることを理解すべきなのです。ところで、人は一般に畏れをそのように理解してはいません。

 恐れとは、自分に起こって欲しくないことが起こるのを恐れる、弱い人間が感じる恐怖のことです。このような恐れは、良心に責められることから生じることがあり、また、権力者の権限によって驚かされたり、力強い者の攻撃を受けたりすることから、さらに、病気になったり、猛獣と遭遇したり、その他のあらゆる悪い事を被ることからも生じ、引き起こされることがあります。

 このような恐れは教えられるものではなく、弱い人間の本性から自然に生じるものです。また、何を恐れるべきかは学ぶものではなく、恐ろしいもの自体が人にそのものへの恐れを引き起こします。

 ところが主を畏れる事については聖書に次のように記されています。「子らよ、来てわたしに聞け。主を畏れる事を教えよう。※3」 したがって、主を畏れる事は学ぶべき事です。それが教えられるものだからです。その畏れは恐怖から生じるものではなく、教えによるものです。それは自然に起こるおののきによるものではなく、掟を守り、潔白な生活を送り、真理を認識することによって身につけるべきものなのです。

 私たちにとって、神への畏れはすべて愛に他ならず、完全な愛が神への畏れを完全なものにします。神への愛の各自の責任は、神の諭しに応じ、定めに従い、約束を信じることです。そこで聖書の言うところに耳を傾けましょう。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めを守って、あなたが幸いを得ることではないか。※4」

 主の道は数多いのですが、主御自身こそ道です。主が自分のことを話したときに、自らを道と呼ばれました。※5 そして、なぜ自らを道と呼んだのかという理由を示して言われました。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」※6

 そこで、ただ一つの良い道を見つけるために多くの道を調べ、多くの道を踏むべきです。つまり、私たちは多くの教えの道を通って、一つの永遠のいのちの道を見いだすのです。それは、律法が諸々の道を示し、預言者達も、また福音書も使徒達も諸々の道を示し、さらに、掟を果たす様々な行為も諸々の道だからです。神を畏れつつそこを通って歩む人たちは幸いです。


四旬節第二木曜日 読書
第一朗読 出エジプト18:13-27
第二朗読 聖ヒラリオ 『詩編講話』
※1 詩篇128:1
 【都に上る歌。】いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。

※2 箴言2:1-5
わが子よ わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
銀を求めるようにそれを尋ね 宝物を求めるようにそれを捜すなら
あなたは主を畏れることを悟り 神を知ることに到達するであろう。

※3 詩篇34:12
子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。

喜びをもって生き 長生きして幸いを見ようと望む者は舌を悪から唇を偽りの言葉から遠ざけ悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ。
主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
主は悪を行う者に御顔を向け その名の記念を地上から絶たれる。
主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる。

※4 申命記 10:12-13
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

※5 ヨハネ14:6-7
イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」


聖ヒラリオ
 四世紀の初めにフランスのポワティエに生まれる。350年頃、同市の司教に選ばれ、アリウス派と激しく戦ったが、コンスタンティウス帝によって追放された。カトリックの信仰を固め、聖書を翻訳する秀でた著作を残した。367年に帰天した。教会博士。カトリック教会、正教会、非カルケドン派教会、聖公会、ルーテル教会の聖人。

女子パウロ会 聖人カレンダーへ
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=011301

ベネディクト十六世の「ポワティエの聖ヒラリオ」に関する講話(ヒラリオ 仏語 Hilaire de Poitiers/ヒラリウス ラテン語 Hilarius Pictaviensis)
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message253.htm

二バチカン公会議 人間の基本的問題

2014-03-15 00:00:00 | 日記
第2バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 現代世界は強力でもあり無力でもあり、善意と最悪の可能性を持ち、自由か屈従、進歩か退歩、友情か憎しみのいずれにも道が開かれている。しかも、人間が発明した力は、人間を苦しめることも人間に仕えることもでき、それを正しい方向に向けることは自分の責任であることを人間は自覚している。そこで、人間は自分がいったい何であるかと自問する。

 実のところ、現代世界が悩んでいる不均衡は人間の心の中に根を張っているいっそう基本的な不均衡と関連がある。

 事実、人間自身の中では多くの要素が互いに対立している。人間は、一方では被造物として多くの面において自己の限界を体験するが、他方では人間のあこがれには限りが無く、いっそう高度の生命へと招かれていることを感じる。

 人間は多くのものによって心をそそられるが、常にそのうちのあるものを選択せざるをえず、その他のものを放棄することを余儀なくされる。さらに、人間は弱く、罪人であるため、しばしば望まないことを行い、望むことを行わないのである。※1 こうして、人間は自分自身の中に分裂を抱えていて、そのため社会の中にも多くの不和が生じるのである。

 なるほど多くの人はね実際に唯物論的に生活しているので、このような劇的状態から目をそらしてしまい、また、他の多くの人々は貧困に押しつぶされているので、その状態について考える余裕がない。

 さらに、多くの人は、今提示されている様々な世界観のうちのあるものに、心の平和を見いだしうると考えている。

 またある人々は、人類の真の完全な解放を人間の努力だけに期待し、将来打ち立てられる全地に対する人間の支配が、人の心の全ての願いを満足させてくれると確信している。

 他の人々は人生の意義について失望し、人間の実存それ自体には何の意味もないと考えて、自分の主体的な決定だけによって人生に意味を持たせようと試みる人々の勇敢さをたたえている。

 しかし、世界の今日の発展を前にして、次のような最も基本的な質問をする人、あるいは、その問題を以前より鋭く感じる人の数が日増しに増えている。人間とは何か。大きな進歩にもかかわらず今なお残っている痛み、悪、死の意味は何か。大きな代償を払って獲得した、人間の様々な勝利は何のためになったのか。人間は社会に何をもたらすことができるのか。社会から何を期待できるのか。この地上の生活の後に何が来るのか。

 教会は、人間がその最高の召命にこたえることができるよう、万人のために死んで復活したキリストが※2その霊を通して人間に光と力を与えることを信じ、また、人間が救われるべき名は、天の下にキリストの名のほかには与えられていないことを信じる※3。

 また教会は、全人類史の鍵、中心、目的が、教会の主であり師であるキリストに見いだされることを信じる。

 さらに教会は、あらゆる変革の中で、多くのものが変わらず、それらの究極的な基礎が、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方であるキリスト※4であるということを信じる。


四旬節第一土曜日 読書
第一朗読 出エジプト 12:37-13:16
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』
※1 ローマ 7:14-19 参照
わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

※2 2コリント5:15 参照
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

※3 使徒言行禄 4:12 参照
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

※4 ヘブライ13:8 参照
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。