テルトゥリアヌス(160~220) 三世紀最大のキリスト教著作家の一人
『祈りについて』
祈りは、古(いにしえ)の犠牲を廃止させた霊的な生贄(いけにえ)である。主は仰せになる。「お前たちの捧げる多くの生贄が、わたしにとって何になろうか。雄羊の焼き尽くすささげものや、子牛の脂肪にわたしは飽いた。雄牛、子羊、雄山羊(やぎ)の血をわたしは喜ばない。だれがお前たちにこれらのものを求めたのか。」※1
神が求められることを福音書は次のように教えている。「イエスは言われた。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊だからである。』※2」 それゆえ神は、そのような礼拝をする者を求めておられる。
私たちは真の礼拝をする者、真の司祭である。霊をもって祈る時、神にふさわしく、神の心にかない、神が求め、神がご自分のために用意した生贄としての祈りを神にささげる。
この祈りという生贄は、心を尽くしてささげられ、信仰によって養われ、真理によって準備され、私たちの潔白によって完成され、貞節によって清められ、愛という冠をつけられべきものである。この祈りという生贄を、私たちは詩篇や賛歌を唱えながら、数々の善行を伴って神の祭壇に運ばなければならない。この祈りこそ、私たちのために神からすべてを獲得させるものである。
神は霊と真理に由来する祈りを要求しておられるのであるから、このような祈りによる願いを神が聞き入れられないということはない。祈りの効果について私たちは多くの証言を読み、聞き、信じている。
キリストの教えられた形ではなかったにもかかわらず、昔の人々の祈りは火や獣や上から人々を救い出した。
キリスト者の祈りは、そのような昔の人々の祈りよりも効果が大きい。キリスト者の祈りの結果は、燃えさかる炉の真ん中に露をもたらす天使を立たせることも※3、 ライオンの口を閉ざすことも※4 、畑に働く人々のために作られた食事を飢えている者に運ぶというようなことももらたさないし、恵みが送られて苦難の痛みが取り除かれることもないが、苦しむ者、痛みを感じる者に忍耐が与えられ、徳がもたらされることによって恩恵が増大する。こうして、信じる人は、神の名のためにどのような苦しみを耐え忍んでいるかを知って、神からどのような報いを得るかと言うことを知るようになるのである。
かつて、祈りは災いを起こし、敵を敗走させ、干ばつをもたらした。しかし今、正しい祈りは神の怒りをすべて遠ざけ、敵のためにとりなし、迫害者たちのために嘆願している。天から火を降らせることのできた祈りが、天から恵みの雨を降らせることができるとしても、不思議なことではない。祈りだけが神に勝つ。しかし、キリストは祈りが悪をもたらすことを望まず、全ての祈りが善をもたらすようにしてくださったのである。
祈りの力は、とりわけ死者たちの魂を死そのものの道から呼び戻すこと、弱い者を回復させること、病人を治すこと、悪霊に悩む者を救うこと、牢獄の門を開くこと、無罪の者の鎖を解くことである。さらに、罪を洗い清め、誘惑を追い払い、迫害を止めさせ、臆病者を慰め、高潔な人々を喜ばせ、旅人を導き、波を鎮め、強盗を狼狽させ、貧しい人々に食物を与え、富む者を統治し、倒れた人々を起こし、つまずく者を支え、立っている人々を強める。
すべての天使たちも祈り、すべての被造物も祈り、家畜や野獣も膝をかがめ、小屋や洞窟から出てくるときは、声も出さずに天を仰ぐのではなく、それぞれのしぐさで息を震わせている。鳥も朝目覚めると、天に向かって高く飛び、手の代わりに翼を十字に広げ、祈っているかのように鳴くのである。
これ以上、祈りの務めについて何を言えようか。主ご自身も祈っておられたのだ。この主に、栄光と力が世々にあるように。
四旬節第三木曜日 読書
第1朗読 出エジプト記 34:10-28 契約の再授与
第2朗読 テルトゥリアヌス 『祈りについて』
※1 イザヤ1:11-12
お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰がお前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。
※2 ヨハネ4:23-24
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
※3 ダニエル補遺・アザルヤ26-27
そのとき、主の使いが炉の中のアザルヤとその仲間たちのもとに降り、炉から炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった。
※4 ダニエル6:23
神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」
テルトゥリアヌス
ベネディクト十六世の連続講話 「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」で、古代教会の偉大な人物として「テルトゥリアヌス」を紹介しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message217.htm
テルトゥリアヌスはキリスト教会に大きな貢献をする反面、厳格で激しい性格のために、次第に教会との交わりから離れ、モンタノス派に加わりました。モンタノス派はキリストの再臨が近いと信じ、初代教会の純粋な信仰生活、禁欲的生活を行いました。異端と言うより厳格なキリスト教徒とみなされていましたが、「教会とつながり、自分の弱さを受け入れ、他者と自己に寛容であろうとする謙遜さを欠くところがあり」教会に留まることができませんでした。
「神のみが完全に聖なるかたで、私たちは常にゆるしを必要とする存在なのです。」
『祈りについて』

神が求められることを福音書は次のように教えている。「イエスは言われた。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。神は霊だからである。』※2」 それゆえ神は、そのような礼拝をする者を求めておられる。
私たちは真の礼拝をする者、真の司祭である。霊をもって祈る時、神にふさわしく、神の心にかない、神が求め、神がご自分のために用意した生贄としての祈りを神にささげる。
この祈りという生贄は、心を尽くしてささげられ、信仰によって養われ、真理によって準備され、私たちの潔白によって完成され、貞節によって清められ、愛という冠をつけられべきものである。この祈りという生贄を、私たちは詩篇や賛歌を唱えながら、数々の善行を伴って神の祭壇に運ばなければならない。この祈りこそ、私たちのために神からすべてを獲得させるものである。
神は霊と真理に由来する祈りを要求しておられるのであるから、このような祈りによる願いを神が聞き入れられないということはない。祈りの効果について私たちは多くの証言を読み、聞き、信じている。
キリストの教えられた形ではなかったにもかかわらず、昔の人々の祈りは火や獣や上から人々を救い出した。
キリスト者の祈りは、そのような昔の人々の祈りよりも効果が大きい。キリスト者の祈りの結果は、燃えさかる炉の真ん中に露をもたらす天使を立たせることも※3、 ライオンの口を閉ざすことも※4 、畑に働く人々のために作られた食事を飢えている者に運ぶというようなことももらたさないし、恵みが送られて苦難の痛みが取り除かれることもないが、苦しむ者、痛みを感じる者に忍耐が与えられ、徳がもたらされることによって恩恵が増大する。こうして、信じる人は、神の名のためにどのような苦しみを耐え忍んでいるかを知って、神からどのような報いを得るかと言うことを知るようになるのである。
かつて、祈りは災いを起こし、敵を敗走させ、干ばつをもたらした。しかし今、正しい祈りは神の怒りをすべて遠ざけ、敵のためにとりなし、迫害者たちのために嘆願している。天から火を降らせることのできた祈りが、天から恵みの雨を降らせることができるとしても、不思議なことではない。祈りだけが神に勝つ。しかし、キリストは祈りが悪をもたらすことを望まず、全ての祈りが善をもたらすようにしてくださったのである。
祈りの力は、とりわけ死者たちの魂を死そのものの道から呼び戻すこと、弱い者を回復させること、病人を治すこと、悪霊に悩む者を救うこと、牢獄の門を開くこと、無罪の者の鎖を解くことである。さらに、罪を洗い清め、誘惑を追い払い、迫害を止めさせ、臆病者を慰め、高潔な人々を喜ばせ、旅人を導き、波を鎮め、強盗を狼狽させ、貧しい人々に食物を与え、富む者を統治し、倒れた人々を起こし、つまずく者を支え、立っている人々を強める。
すべての天使たちも祈り、すべての被造物も祈り、家畜や野獣も膝をかがめ、小屋や洞窟から出てくるときは、声も出さずに天を仰ぐのではなく、それぞれのしぐさで息を震わせている。鳥も朝目覚めると、天に向かって高く飛び、手の代わりに翼を十字に広げ、祈っているかのように鳴くのである。
これ以上、祈りの務めについて何を言えようか。主ご自身も祈っておられたのだ。この主に、栄光と力が世々にあるように。
四旬節第三木曜日 読書
第1朗読 出エジプト記 34:10-28 契約の再授与
第2朗読 テルトゥリアヌス 『祈りについて』
※1 イザヤ1:11-12
お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが誰がお前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。
※2 ヨハネ4:23-24
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
※3 ダニエル補遺・アザルヤ26-27
そのとき、主の使いが炉の中のアザルヤとその仲間たちのもとに降り、炉から炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった。
※4 ダニエル6:23
神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」
テルトゥリアヌス
ベネディクト十六世の連続講話 「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」で、古代教会の偉大な人物として「テルトゥリアヌス」を紹介しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message217.htm
テルトゥリアヌスはキリスト教会に大きな貢献をする反面、厳格で激しい性格のために、次第に教会との交わりから離れ、モンタノス派に加わりました。モンタノス派はキリストの再臨が近いと信じ、初代教会の純粋な信仰生活、禁欲的生活を行いました。異端と言うより厳格なキリスト教徒とみなされていましたが、「教会とつながり、自分の弱さを受け入れ、他者と自己に寛容であろうとする謙遜さを欠くところがあり」教会に留まることができませんでした。
「神のみが完全に聖なるかたで、私たちは常にゆるしを必要とする存在なのです。」