goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ニッサの聖グレゴリオ あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えた

2013-05-11 19:19:19 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
雅歌についての説教

 愛が完全に恐れを締め出し※1、恐れが変化して愛になるとき、救われたものが一つになっていることが明らかになるでしょう。そのとき、鳩に見られる完全性によって、すべてのものがただ一つの善と統合されて互いに一つとされるのです。

 私たちは以上のことを、雅歌の次の言葉から理解します。「私の鳩、私の全き者はただ一人、その母のただ一人の娘、産みの親が選んだ娘※2。」

 このことは福音書の中で、主の言葉によってもっと明らかに説明されています。実に、主は祝福してあらゆる力を弟子たちに授けながら、御父への言葉を通して聖徒たちに様々なよいものを与えられました。さらに、最高の恵みとして、彼らが見解の相違からどの判断が正しいかをめぐって分裂するおそれのあるとき、かえって全員があのただ一つの善に統合されて一つになるという恵みをも加えられました。それは、使徒パウロが言ったように、聖霊による一致によって平和のきずなで結ばれて、すべての者が一つの希望にあずかるように招かれている者として、そ希望によって、一つのからだ、一つの霊となるためです※3。

 ここで、福音書に書かれたキリストの言葉そのものを、そのまま引用するのが良いでしょう。「すべての人を一つにしてください。父よ、あなたが私のうちにおられ、私があなたのうちにいるのは、彼らが一つになるためです※4。」

 この一致のきずなは栄光です。「あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました※5」という主の言葉を考えると、賢明な人ならだれでも、栄光が聖霊の別名であることを認めるでしょう。実に主は弟子達に、「聖霊を受けなさい※6」と言われたとき、この同じ栄光を彼らに誠に授けられたのです。




復活節第六土曜日 読書
第一朗読 1ヨハネ3:18-24
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 雅歌についての説教

※1 1ヨハネ4:18
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

※2 雅歌6:9
わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘、産みの親のかけがえのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し、王妃も側女も彼女をたたえる。

※3 エフェソ4:3-4
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

※4 ヨハネ17:21
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。

※5 ヨハネ17:22
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

※6 ヨハネ20:22
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 新しい創造のときに最初に生まれた方

2013-04-29 07:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教
説教
 命の国が来て、死の支配が解消されました。別の誕生、別の命、別の生き方、私たちの人間性そのものの変化が現れたのです。どのような誕生でしょうか。「血によってではなく、人の欲によってでもなく、肉の欲によってでもなく、神による※1」誕生です。

 このことはどのように起こりうるのでしょうか。この恵みをはっきり説明しましょう。この誕生にあたり、懐胎は信仰により、光を見るようにする誕生は再生の洗礼により、養育は教会によって行われ、乳房は教えであり、食物は天上のパンであり、成人への到達は徳高い生き方であり、結婚は英知とともに過ごすことであり、生まれる子供は希望であり、家はみ国であり、遺産と富は楽園の楽しみであり、終わりは死ではなく、聖徒たちのために準備された至福の永遠の命です。

 「今日こそ主のみ業の日※2。」これは、世界創造の初めに設けられた日とは全く異なる日です。あの日は時間を計るためのものでした。しかし、この日は別の創造の始まりです。この日に、神は預言者イザヤが言っているように、新しい天と新しい地を創造されるのです※3。どの天でしょうか。その天の屋根はキリストへの信仰です。どの地でしょうか。主が仰せられたように、よい心なのです※4。この地は降ってくる雨を呑み込み、多くの実を受けた穂を出します※5。

 この創造の場合、太陽は汚れない生き方であり、星々は諸徳であり、空気は透明なふるまいであり、海は「富と知恵と知識の深さ※6」であり、草と芽は神の群れである牧場の民が食べて養われる正しい教理と聖なる教訓であり、実を結ぶ木は掟の遵守です。

 この日に、神にかたどり、神に似せて作られた真の人間が創造されます※7。この始まり、この「主のみ業の日」は、あなたにとって世界となっているのではないでしょぅか。預言者ゼカリヤは、この日が他の日に、この夜が他の夜に似ていないと言っています※8。

 しかし、この恵みの中で最もぐれた者については、まだ説明していません。それは、この日が死の苦しみを解消した日であるということです。この日は死者の中から最初に生まれた方※9を生み出した日です。

 「私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る※10」と主は言われます。ああ、なんとい喜ばしい福音でしょうか。私たちのために、私たちと同じ人間となって、私たちをご自分の兄弟とするために私たちと同じものとなられた主は、人類を真の御父のところへ導かれます。それは、ご自分と同じすべての人間を、ご自分によって引き寄せる※11ためなのです。



復活節第五月曜日 読書
第一朗読 黙示録 19:11-21
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ司教の説教

※1 ヨハネ1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

※2 詩編118:24
今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

※3 イザヤ65:17
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。

※4 ルカ8:15
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。

※5 イザヤ61:11
大地が草の芽を萌えいでさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

※6 ローマ11:33
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

※7 創世記1:26-27
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

※8 ゼカリヤ14:7
しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく夕べになっても光がある。

※9 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※10 ヨハネ20:17
イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

※11 ヨハネ12:32参照
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい

2012-10-06 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
『神による目的および真の修徳について』
「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去りました。」※2パウロは、あらゆる悪と不正と非行から解放された、汚れない清い心の中に聖霊が住むことを、「新しく創造された者」と呼んでいる。実に人の魂が罪を犯すことを憎み、できるかぎり徳に導かれた生活に励み、生き方を変えて自らの内に聖霊の恵みを受けるなら、魂は全体として新しくなり、再び創造し直される。なお、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい※3」という言葉も、「古いパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで祭りを祝うことにしよう※4」という言葉も、新しく創造された者について言われたことと一致している。

私たちの魂をいざなう悪霊は、実に多くの罠を張り巡らせている。人間は自分だけではその悪霊に打ち勝つ力を持たない者である。そのために使徒パウロは、天上の武具で身を武装するように命じ、「正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履き物としなさい。また、立って真理を帯びとして腰に締めなさい※5」と言っている。彼は同一の目的地に向かう旅のために、実に多くの救いの手段をあなたに示したのだ。救いをえるためのこれらの手段を用いるなら、神の掟という頂を目指す人生の旅は容易に全うされる。同じ使徒パウロは他の箇所で、「私たちは自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスをみつもながら※9」と言っている。



年間第二十六土曜日
第一朗読 フィリピ4:10-23
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 『神による目的および真の修徳について』

※2 2コリント5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

※3 1コリント5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

※4 1コリント5:8
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

※5 エフェソ6:14-15
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

※6 ヘブライ12:1-2
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ キリストを所有している

2012-08-16 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
『キリスト者の完徳について』
「キリストは、私たちの平和である。二つのものを一つにされたのである※1。」キリストが平和であることを考えて、自分の中にある平和によって、生活においてキリストを表しているなら、私たちはキリストの名前にちなんで呼ばれるにふさわしい。使徒パウロが言っているとおり、「キリストは敵意を滅ぼされた※2。」したがって、その敵意が私たちの中で決して生き返らないようにし、かえってそれが私たちの中で完全に死んだことを示そう。その敵意は、神が私たちの救いのために殺して下さったものであるが、私たちは人から受けた不義を思い起こして怒りに燃え、死んでいる敵意を不覚にも生き返らせてしまい、自分の魂の滅びを招いてはならない。

平和であるキリストを所有しているのであるから、私たちも敵意を殺そう。それは、キリストについて信じていることを、私たちの生活の中で実行するためである。キリストが、隔ての壁を取り壊し、二つのものをご自分において一人の新しい人に造り上げ、平和を実現された※3のと同様に、私たちも外から攻撃してくる人々を和解へ導くだけでなく、私たち自身の中で対立し合っているものをも和解させよう。すなわち、肉の望むところが霊に反し、霊の望むところが肉に反することの無いようにしよう※4。そして、肉の思いを神の法に従属させ、一人の新しい平和な人間に築き直されて、二つの者から一人の人間にされ、自分自身の中に平和を持つようにしよう。

平和とは、対立しあっていたものが和合することだと定義される。したがって、私たちの本性の内面的な戦いが取り除かれたとき、私たちは自分の中で平和をはぐくみながら平和となり、私たちの中で真に厳密な意味でこのキリストの称号を示すのである。



年間第十九木曜日
第一朗読 ミカ 4:14-5:7
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 『キリスト者の完徳について』

※1 エフェソ2:14
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

※2 エフェソ2:16
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

※3 エフェソ2:14-15
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。

※4 ガラテヤ5:17
肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 神は人の心の中に見いだされる

2012-06-30 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330頃~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教
『説教』
人生において体の健康は望ましいものですが、健康の理念を知るだけでは幸いではなく、健康であることが幸いです。だれかが健康をほめたたえながら、悪い体液や病気を生じるような食物をとって病気になったとするなら、健康ほめたたえることは何の役に立つのでしつようか。先の主の言葉も同じような意味で理解しましょう。すなわち、主は神について何かを知ることを幸いと言われるのではなく、自分の内に神を宿すことを幸いと言われるのです。「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る。※1」

これは、清められた魂の目を持っている者に、あたかも対象として見える形で神が示されるいう意味ではないと思います。むしろ主のこの偉大な言葉は、主が他の人々に「神の国はあなたがたのうちにある※2」と述べることによって、もっとはっきり言われていることと同じ意味なのでしょう。つまり、主が教えようとされたのは、あらゆる被造物への愛着や欲情から心を清めた者が、自分の心の美しさの中に神の本性の像を眺めるということです。

思うに、みことばであるキリストは簡潔な言葉で、次の事を勧めようとされたのです。「人よ、もし真の善を見ることを熱望するなら、神の偉大さがもろもろの天よりも高く、その栄光が言い尽くしがたく、その美しさが名伏しがたく、その本性が把握されえないと聞くとき、見たいと望んでいる者を見ることができないと思って失望してはならない。」

心に塗られた汚れを熱心な生き方によって洗い清めるなら、神の似姿の美しさがあなたのうちに輝き渡るでしょう。それまで黒ずんでいた鉄が、砥石で錆を落とされると、太陽に栄光を反射する輝きと光を発するようになります。鉄の場合と同じように、主が「心」と名付けられた人間の内面も、よこしまな染みによってついてしまった錆の汚れを除き去ると、再びもとどおりの神の似姿となり、よいものとなるでしょう。善なるものに似ているものは、良いものだからです。

こうして、自分自身を見る者は、自分が望んだとおりに、自分の内面に神を眺めます。清い心の持ち主は、幸いになります。自分の[内面の]清さを眺めて、像[としての自分]の中にその原型である神を見るからです。鏡の中に太陽を見る者は、天空を直視することはなくても、太陽そのものを眺める人と同様に、鏡に映る輝きによって太陽を見ています。同様にあなた方も、光そのものを眺めるには力不足であっても、創造の初めに形作られたあなたがたの内面の優美な像へと戻るなら、求めるものをあなたがた自身の内に持っているのです。

神性は清さであり、激情のない状態であり、あらゆる悪を知らないものです。この清さがあなたのうちにあるなら、神は確かにあなたのうちにおられます。あなたの思いがあらゆる悪徳から清められ、欲情から解放され、あらゆる汚れから遠ざかっているなら、あなたは心の目の鋭さのゆえに幸いです。清められていない人々の目には見えないものを、清められているあなたは眺め、そして精神の目から物質の闇を取り除かれて、清く澄み切った心で幸いな眺めをはっきり見分けるかです。その眺めとはどのようなものでしょう。清さ、聖性、単純さ、神の本性のあらゆる輝きです。それを通して神が見られます。


年間第十二土曜日
第一朗読 サムエル上 26:5-25
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 説教

※1 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

※2 ルカ17:21
「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm