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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ニッサの聖グレゴリオ 神は近寄りがたい岩のようである

2013-06-27 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330-394年) カッパドキアとニッサの司教、教会博士
説教
 主の崇高な声に従って、あたかも山の頂上から見下ろすように名伏しがたい教えの深みを見下ろす私の精神に、高い山の頂上から広大な海を見下ろす者に起こるようなことが起こります。

 海に面した所では、山が切り取られたように頂上から下までまっすぐに削り取られ、上の方のとがった部分が深みの上に突き出ている光景を、海岸でしばしば目にしまず。このような展望台、このような高い所から深い海を見下ろす人に良く起こるめまいを、主の偉大な声に聞き入っている私の精神も同様に感じています。それはすなわち、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る※1」という主の声です。

 心を清められた人々には、神を見ることが約束されています。ところが偉大なヨハネは、「いまだかつて、神を見た者はいない※2」と言っています。崇高な理解力を持っていたパウロもこの言葉を証し、「誰一人見たことが無く、見ることのできない方です※3」と言いました。ここにこそ、理解のために何の足がかりも提供しない、あの断崖絶壁があります。モーセも教えの中で、人間精神がどんなに理解しようとしても、また自分をどれほど高めることができても、その精神は神を見ることに達することはできないと断言しました。「人は主を見て、なお生きていることはできない※4」と彼は言っています。

 神を見ることこそ、永遠の命です。他方で神を見ることは不可能であると、信仰の柱であるヨハネとパウロとモーセが断言しています。これらの言葉を考察するときに吸い込まれるように感じる深さを前にして起こるめまいに、あなたはすでに気付いているでしょう。神がいのちであるなら、神を見ない者はいのちにあずからないのです。他方、神が見られる事はないということを、預言者たちも使徒達も神に導かれて証言しています。それでは、人間にはどのような希望が残されているでしょうか。

 崩れそうな希望を、主は支えて下さいます。それは主がペトロになさったことに似ています。ペトロが溺れかかったとき、主はペトロを堅い岩の上に立たせるかのように、水の上に再び立たせられたのです。

 みことばであるキリストの手が私たちに差し伸べられ、教えの深さの中で同様している私たちを、あの二つの主張のどちらかにしっかり固めてくださるなら、私たちは恐れから解放されて、私たちの手を引いて導いて下さるみことばをつかみます。キリストははっきり言われます。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」


年間第十二木曜日 読書
第一朗読 サムエル上21:2-22:5
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 説教

※1 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

※2 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

※3 1テモテ6:16
唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

※4 出エジプト 33:20
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

※5 マタイ 14:30-31
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。


ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 生活全体をもってキリストを示そう

2013-06-25 22:55:52 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330-394年) カッパドキアとニッサの司教、教会博士
『キリスト者の完全な姿について』
 キリスト者の生活には、行い、言葉、考えの三つの点で特徴がある。すべての言葉の出発点は考えである。考えの後に来るのは言葉である。言葉は魂に生じる考えを声によって表す。考えと言葉の後、第三に来るのは行いである。それは考えられたことを実行することである。したがって、言葉と行いと考えの三つが私たちの生活を導くときに、その全てに於いて、キリストの特徴であり、その様々な名称となっている神的な諸理念を入念に考察しなければならない。それは、私たちが、それらの崇高な名称が意味することとは異なることを何も行ったり、話したり、考えたりしないためである。

 では、キリストの偉大な名前をいただいて「キリスト者」と呼ばれているという栄誉を受けた者は、何を行うべきであろうか。それは、自分のすべての考え、言葉、行いを入念に調べて、その一つひとつがキリストを目指しているか、それともキリストから引き離すものであるかどうかを判断するということである。この判断は容易である。事実、激情にかられて行われたり、考えられたり、話されたりすることは、いずれもキリストと調和するものではない。かえってそれは、あの反対者の特徴を帯びている。この反対者は、真珠に泥でもかけるかのように魂に欲情を塗りつけて、その輝きを曇らせるのである。

 あらゆる欲情から清められた態度は、清さへの導き手であるキリストを目指すものである。自ずから湧き出る清い泉から汲むように、このキリストから諸理念を自分の中に汲み取る者は、その源泉に似る者となる。それは丁度泉から汲み取られて器に入れられた水が、泉の水と似ているのと同様であるる。

 事実、キリストの中に見られる清さとキリストにあずかる者に見られる清さとは、本質的に同一のものである。しかし前者は湧き出る泉のようなものであり、後者はそこから流れ出たものである。この清さは、キリストの諸理念の美しさを生活に導き入れる。こうして、内なる隠れた人間と外に現れる人間が調和するようになり、生活の正しさはキリストに従って働いている諸理念に一致する。したがってキリスト者の生活の完全性は、キリストの名前を表す全ての名称にあずかって、それらを魂と言葉と生活によって表すことである。


年間第十二火曜日 読書
第一朗読 サムエル上17:57~18:30
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 『キリスト者の完全な姿について』


ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ キリスト者はもう一人のキリスト

2013-06-24 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330頃~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
『キリスト者の完全な姿について』
 パウロはキリストがだれであるかを誰よりも正確に知り、またキリストの名をいただくキリスト者がどのような者でなければならないかを、自分の行いによって示した。彼は自分のうちに主ご自身の姿を現すほど、正確にキリストにならっていたのである。実にパウロは、生きかつ語っているのがもはや自分ではなく、キリストが自分のうちに生きておられると思われるほど、きわめて正確にキリストにならい、自分の魂の姿を模範であるキリストの姿に変えたのである。彼は自分自身の良い点を正しく熟知して、次のように言っている。「あなたがたはキリストが私たちによって語っておられる証拠を求めています※1」また「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです※2。」

 パウロはキリストという名の意味を私たちに知らせて、キリストが神の力、神の知恵であると言い※3、またキリストを平和と名付け※4、さらにそこに神が住まわれる近寄りがたい光と名づけ※5、聖と贖い※6、大祭司※7、過越※8、魂の罪を贖う供え物※9、栄光の繁栄であり神の本質の完全な現れ※10、世界の創造者※11、霊的な食物と霊的な飲み物※12、岩と水※13、信仰の土台※14、隅の親石※15、見えない神の姿※16、偉大なる神※17、その体である教会の頭※18、新しい被造物の長子※19、眠りについた人たちの初穂※20、死者の中から最初に生まれた方※21、兄弟の中の長子※22、神と人間との間の仲介者※23、栄光と栄誉の冠を授けられた御ひとり子※24、栄光の王※25、万物の初めの者※26、さらに義の王であり平和の王※27、制限のない王的支配権を有している万物の王※28と名付けた。

 パウロはこれに類する他の多くの名でもキリストのことを呼んだが、それらはあまりにも多すぎるので、容易に数え上げることはできないほどである。これら全ての名は、一つひとつの意味が吟味されてまとめられると、キリストというこの名の意味を印象深く私たちに示し、私たちが理解しうるかぎり、キリストの名伏しがたい偉大さを明かしてくれる。

 主は慈しみ深く、すべての名の中で最も偉大で最も神聖な第一の名を私たちに分け与えてくださり、私たちはキリストの名を与えられて「キリスト者」という呼び名を受けるようになったのである。だから、このキリストという名の意味を明らかにするすべての名称が、私たちの中でも現れるようにしなければならない。それは、私たちが偽って「キリスト者」と呼ばれるのではなく、かえって生活によってこの名を証しするためである。


年間第十二月曜日 読書
第一朗読 サムエル上 1:10-51
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 論述『キリスト者の完全な姿について』

私たちキリスト者は、生活によってこの名=「キリスト」を証しする者です。

※1 2コリント13:3
なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。

※2 ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

※3 1コリント1:24
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

※4 エフェソ2:14
実に、キリストはわたしたちの平和であります。

※5 1テモテ6:16
唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

※6 1コリント 1:30
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

※7 ヘブライ2:17
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

※8 1コリント5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

※9 ローマ3:25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

※10 ヘブライ1:3
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

※11 ヘブライ1:2
この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

※12 1コリント10:3-4
皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。
彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

※13 1コリント10:4
皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

※14 1コリント3:11
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

※15 1ペトロ2:7
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、

※16 コロサイ1:15
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※17 テトス2:13
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

※18 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※19 コロサイ1:15
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※20 1コリント15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

※21 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※22 ローマ8:29
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

※23 1テモテ2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

※24 へプライ2:7
あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」

※25 1コリント2:8
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

※26 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※27 ヘブライ7:2
アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。

※28 黙示録19:6
わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)
ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 生まれる時と、死ぬ時がある

2013-05-21 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330年~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
コヘレト書についての説教
 「生まれる時と、死ぬ時がある※1」と聖書は言っています。著者は、話の始めに誕生と死を結び合わせて、この必然的な結びつきを言葉でみごとに著しています。それは誕生の後には死が必ずやって来て、生まれたあらゆるものは腐敗して消えていくからです。

 「生まれる時と、死ぬ時がある。」私もふさわしい時に生まれ、ふさわしい時に死にたいものです。著者がここで、自由意志によらない陣痛のことや自然に起こる死のことを、徳による正しさでもあるかのように語っているとは考えられません。事実、陣痛の時は女性の意志によって起こるのでもなく、死の時は世を去る人の自由意志によって決まるのでもありません。人間の自由な選択によらないことを、だれも徳や悪徳とみなすことはないでしょう。したがって、ふさわしい時の誕生とふさわしい時の死はなんであるかということを、よく理解しなければなりません。

 私が思うには、早産ではなく時が満ちて起こる誕生とは、イザヤが言っているように、人が神に対する畏れからはらみ、魂の陣痛によって自分の救いを生み出すということです※2。私たちが正しい選択によって自分自身を形作り、産み、光のもとに出すとき、私たちは自分自身にとってある意味で生みの親なのです。



年間第七火曜日 読書
第一朗読 コヘレト3:1-22 すべてに時がある
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ司教 コヘレト書についての説教

※1 コヘレト3:2
3:1何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時

※2 イザヤ26:18
わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず地上に住む者を産み出すこともできませんでした。

何事にも、時がある。この言葉が、しみじみ感じられるようになって来ました。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 賢い者の目はその頭の中にある

2013-05-20 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
コヘレト書についての説教
 [魂の主導能力が魂の「頭」と呼ばれ、その感覚的能力が魂の「足」と呼ばれます。したがって、魂の瞑想能力が感覚的なものの考察にふけっているときに、魂の目はその足に移ります。反対に、]魂が自分の頭のところ、それはパウロが説明しているようにキリストですが、そこに目を持ち上げるなら、その魂は鋭い透視力の故に、幸いなものと見なされるべきでしょう。悪の暗さがないところにその魂は目を持っているからです。あの偉大なパウロ、またパウロのように偉大な人が他にいれば、その人も頭の中に目を持っていました。また、キリストのうちに生き、働き、存在する※1すべての人もそうです。

 光の中にいる人が暗闇を見ることがないように、キリストの中に目を持っている人は、空虚なものに目を据えるということはありえません。頭の中に目がある者は、ここでは頭を全き源の意味にとりますが、あらゆる徳の中に目があるのです。(キリストは全く完全な徳です。)その人には、真理の中に、正義の中に、不朽性の中に、あらゆる善の中に、目があるのです。したがって、「賢い者の目はその頭の中にあり、愚かな者は暗闇の中を歩く※2」のです。自分のともし火を燭台の上に置かず、それを寝床の下に置く者は※3、光が自分にとって闇となるようなことを行うのです。

 反対に、崇高な戦いに励み、真に存在するものの瞑想にふけって、世間的な事柄に関して盲目で無関心であると思われている人々がいかに多いことでしょうか。彼らは、自分がキリストのために愚かな者となっていると言って誇っているパウロのようです。パウロの分別と知恵は、人がこの地上で追求してているものの何ものにも向けられてはいませんでした。それで、「私たちはキリストのために愚かな者となっている※4」と言っています。換言すれば、私たちは上の世界にあるものに目を向けており、目が頭の中にあるから、この下の世界で営まれる生活に関して盲目です、と言っているかのようです。そのためにパウロは、住む家も食べるものも持たず、貧しく、めぐり歩き、裸で、上と渇きに苦しめられたのです。



年間第七月曜日 読書
第一朗読 コヘレト2:1-26
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ コヘレト書についての説教

※1 使徒言行禄 17:28参照
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。

※2 コヘレト 2:14
賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている両者に同じことが起こるのだということを。

※3 マタイ5:15
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

※4 1コリント4:10
わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm