ニッサの聖グレゴリオ司教(330-394年) カッパドキアとニッサの司教、教会博士
説教
主の崇高な声に従って、あたかも山の頂上から見下ろすように名伏しがたい教えの深みを見下ろす私の精神に、高い山の頂上から広大な海を見下ろす者に起こるようなことが起こります。
海に面した所では、山が切り取られたように頂上から下までまっすぐに削り取られ、上の方のとがった部分が深みの上に突き出ている光景を、海岸でしばしば目にしまず。このような展望台、このような高い所から深い海を見下ろす人に良く起こるめまいを、主の偉大な声に聞き入っている私の精神も同様に感じています。それはすなわち、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る※1」という主の声です。
心を清められた人々には、神を見ることが約束されています。ところが偉大なヨハネは、「いまだかつて、神を見た者はいない※2」と言っています。崇高な理解力を持っていたパウロもこの言葉を証し、「誰一人見たことが無く、見ることのできない方です※3」と言いました。ここにこそ、理解のために何の足がかりも提供しない、あの断崖絶壁があります。モーセも教えの中で、人間精神がどんなに理解しようとしても、また自分をどれほど高めることができても、その精神は神を見ることに達することはできないと断言しました。「人は主を見て、なお生きていることはできない※4」と彼は言っています。
神を見ることこそ、永遠の命です。他方で神を見ることは不可能であると、信仰の柱であるヨハネとパウロとモーセが断言しています。これらの言葉を考察するときに吸い込まれるように感じる深さを前にして起こるめまいに、あなたはすでに気付いているでしょう。神がいのちであるなら、神を見ない者はいのちにあずからないのです。他方、神が見られる事はないということを、預言者たちも使徒達も神に導かれて証言しています。それでは、人間にはどのような希望が残されているでしょうか。
崩れそうな希望を、主は支えて下さいます。それは主がペトロになさったことに似ています。ペトロが溺れかかったとき、主はペトロを堅い岩の上に立たせるかのように、水の上に再び立たせられたのです。
みことばであるキリストの手が私たちに差し伸べられ、教えの深さの中で同様している私たちを、あの二つの主張のどちらかにしっかり固めてくださるなら、私たちは恐れから解放されて、私たちの手を引いて導いて下さるみことばをつかみます。キリストははっきり言われます。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」
年間第十二木曜日 読書
第一朗読 サムエル上21:2-22:5
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 説教
※1 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
※2 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
※3 1テモテ6:16
唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。
※4 出エジプト 33:20
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
※5 マタイ 14:30-31
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)
ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm
説教

海に面した所では、山が切り取られたように頂上から下までまっすぐに削り取られ、上の方のとがった部分が深みの上に突き出ている光景を、海岸でしばしば目にしまず。このような展望台、このような高い所から深い海を見下ろす人に良く起こるめまいを、主の偉大な声に聞き入っている私の精神も同様に感じています。それはすなわち、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る※1」という主の声です。
心を清められた人々には、神を見ることが約束されています。ところが偉大なヨハネは、「いまだかつて、神を見た者はいない※2」と言っています。崇高な理解力を持っていたパウロもこの言葉を証し、「誰一人見たことが無く、見ることのできない方です※3」と言いました。ここにこそ、理解のために何の足がかりも提供しない、あの断崖絶壁があります。モーセも教えの中で、人間精神がどんなに理解しようとしても、また自分をどれほど高めることができても、その精神は神を見ることに達することはできないと断言しました。「人は主を見て、なお生きていることはできない※4」と彼は言っています。
神を見ることこそ、永遠の命です。他方で神を見ることは不可能であると、信仰の柱であるヨハネとパウロとモーセが断言しています。これらの言葉を考察するときに吸い込まれるように感じる深さを前にして起こるめまいに、あなたはすでに気付いているでしょう。神がいのちであるなら、神を見ない者はいのちにあずからないのです。他方、神が見られる事はないということを、預言者たちも使徒達も神に導かれて証言しています。それでは、人間にはどのような希望が残されているでしょうか。
崩れそうな希望を、主は支えて下さいます。それは主がペトロになさったことに似ています。ペトロが溺れかかったとき、主はペトロを堅い岩の上に立たせるかのように、水の上に再び立たせられたのです。
みことばであるキリストの手が私たちに差し伸べられ、教えの深さの中で同様している私たちを、あの二つの主張のどちらかにしっかり固めてくださるなら、私たちは恐れから解放されて、私たちの手を引いて導いて下さるみことばをつかみます。キリストははっきり言われます。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」
年間第十二木曜日 読書
第一朗読 サムエル上21:2-22:5
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 説教
※1 マタイ5:8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
※2 ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
※3 1テモテ6:16
唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。
※4 出エジプト 33:20
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
※5 マタイ 14:30-31
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)
ベネディクト十六世が「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話の中で、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm