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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

ニッサの聖グレゴリオ 生活全体をもってキリストを示そう

2012-06-26 00:37:24 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330-394年) カッパドキアとニッサの司教、教会博士
『キリスト者の完全な姿について』
キリスト者の生活には、行い、言葉、考えの三つの点で特徴がある。すべての言葉の出発点は考えである。考えの後に来るのは言葉である。言葉は魂に生じる考えを声によって表す。考えと言葉の後、第三に来るのは行いである。それは考えられたことを実行することである。したがって、言葉と行いと考えの三つが私たちの生活を導くときに、その全てに於いて、キリストの特徴であり、その様々な名称となっている神的な諸理念を入念に考察しなければならない。それは、私たちが、それらの崇高な名称が意味することとは異なることを何も行ったり、話したり、考えたりしないためである。

では、キリストの偉大な名前をいただいて「キリスト者」と呼ばれているという栄誉を受けた者は、何を行うべきであろうか。それは、自分のすべての考え、言葉、行いを入念に調べて、その一つひとつがキリストを目指しているか、それともキリストから引き離すものであるかどうかを判断するということである。この判断は容易である。事実、激情にかられて行われたり、考えられたり、話されたりすることは、いずれもキリストと調和するものではない。かえってそれは、あの反対者の特徴を帯びている。この反対者は、真珠に泥でもかけるかのように魂に欲情を塗りつけて、その輝きを曇らせるのである。

あらゆる欲情から清められた態度は、清さへの導き手であるキリストを目指すものである。自ずから湧き出る清い泉から汲むように、このキリストから諸理念を自分の中に汲み取る者は、その源泉に似る者となる。それは丁度泉から汲み取られて器に入れられた水が、泉の水と似ているのと同様であるる。

事実、キリストの中に見られる清さとキリストにあずかる者に見られる清さとは、本質的に同一のものである。しかし前者は湧き出る泉のようなものであり、後者はそこから流れ出たものである。この清さは、キリストの諸理念の美しさを生活に導き入れる。こうして、内なる隠れた人間と外に現れる人間が調和するようになり、生活の正しさはキリストに従って働いている諸理念に一致する。したがってキリスト者の生活の完全性は、キリストの名前を表す全ての名称にあずかって、それらを魂と言葉と生活によって表すことである。


年間第十二火曜日
第一朗読 サムエル上17:57~18:30
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 『キリスト者の完全な姿について』



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオが紹介されています。教会の歴史の中でも大きな役割を果たした一人なのでしょう。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ キリスト者はもう一人のキリスト

2012-06-25 00:04:39 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330頃~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
『キリスト者の完全な姿について』
パウロはキリストがだれであるかを誰よりも正確に知り、またキリストの名をいただくキリスト者がどのような者でなければならないかを、自分の行いによって示した。彼は自分のうちに主ご自身の姿を現すほど、正確にキリストにならっていたのである。実にパウロは、生きかつ語っているのがもはや自分ではなく、キリストが自分のうちに生きておられると思われるほど、きわめて正確にキリストにならい、自分の魂の姿を模範であるキリストの姿に変えたのである。彼は自分自身の良い点を正しく熟知して、次のように言っている。「あなたがたはキリストが私たちによって語っておられる証拠を求めています※1」また「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです※2。」

パウロはキリストという名の意味を私たちに知らせて、キリストが神の力、神の知恵であると言い※3、またキリストを平和と名付け※4、さらにそこに神が住まわれる近寄りがたい光と名づけ※5、聖と贖い※6、大祭司※7、過越※8、魂の罪を贖う供え物※9、栄光の繁栄であり神の本質の完全な現れ※10、世界の創造者※11、霊的な食物と霊的な飲み物※12、岩と水※13、信仰の土台※14、隅の親石※15、見えない神の姿※16、偉大なる神※17、その体である教会の頭※18、新しい被造物の長子※19、眠りについた人たちの初穂※20、死者の中から最初に生まれた方※21、兄弟の中の長子※22、神と人間との間の仲介者※23、栄光と栄誉の冠を授けられた御ひとり子※24、栄光の王※25、万物の初めの者※26、さらに義の王であり平和の王※27、制限のない王的支配権を有している万物の王※28と名付けた。

パウロはこれに類する他の多くの名でもキリストのことを呼んだが、それらはあまりにも多すぎるので、容易に数え上げることはできないほどである。これら全ての名は、一つひとつの意味が吟味されてまとめられると、キリストというこの名の意味を印象深く私たちに示し、わたしたちが理解しうるかぎり、キリストの名伏しがたい偉大さを明かしてくれる。

主は慈しみ深く、すべての名の中で最も偉大で最も神聖な第一の名を私たちに分け与えてくださり、私たちはキリストの名を与えられて「キリスト者」という呼び名を受けるようになったのである。だから、このキリストという名の意味を明らかにするすべての名称が、私たちの中でも現れるようにしなければならない。それは、私たちが偽って「キリスト者」と呼ばれるのではなく、かえって生活によってこの名を証しするためである。


年間第十二月曜日

第一朗読 サムエル上 1:10-51
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 論述『キリスト者の完全な姿について』

私たちキリスト者は、生活によってこの名=「キリスト」を証しする者です。

※1 2コリント13:3
なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。

※2 ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

※3 1コリント1:24
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

※4 エフェソ2:14
実に、キリストはわたしたちの平和であります。

※5 1テモテ6:16
唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

※6 1コリント 1:30
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。

※7 ヘブライ2:17
それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

※8 1コリント5:7
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。

※9 ローマ3:25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

※10 ヘブライ1:3
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

※11 ヘブライ1:2
この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

※12 1コリント10:3-4
皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。
彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

※13 1コリント10:4
皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

※14 1コリント3:11
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

※15 1ペトロ2:7
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、

※16 コロサイ1:15
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※17 テトス2:13
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。

※18 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※19 コロサイ1:15
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

※20 1コリント15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

※21 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※22 ローマ8:29
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。

※23 1テモテ2:5
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

※24 へプライ2:7
あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」

※25 1コリント2:8
この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

※26 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

※27 ヘブライ7:2
アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。

※28 黙示録19:6
わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。



ニッサの聖グレゴリオ

正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ あなたがくださった栄光

2012-05-19 00:30:40 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394)カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
雅歌についての説教

愛が完全に恐れを締め出し※1、恐れが変化して愛になるとき、救われたものが一つになっていることが明らかになるでしょう。そのとき、鳩に見られる完全性によって、すべてのものがただ一つの善と統合されて互いに一つとされるのです。

私たちは以上のことを、雅歌の次の言葉から理解します。「私の鳩、私の全き者はただ一人、その母のただ一人の娘、産みの親が選んだ娘※2。」

このことは福音書の中で、主の言葉によってもっと明らかに説明されています。実に、主は祝福してあらゆる力を弟子たちに授けながら、御父への言葉を通して聖徒たちに様々なよいものを与えられました。さらに、最高の恵みとして、彼らが見解の相違からどの判断が正しいかをめぐって分裂するおそれのあるとき、かえって全員があのただ一つの善に統合されて一つになるという恵みをも加えられました。それは、使徒パウロが言ったように、聖霊による一致によって平和のきずなで結ばれて、すべての者が一つの希望にあずかるように招かれている者として、そ希望によって、一つのからだ、一つの霊となるためです※3。

ここで、福音書に書かれたキリストの言葉そのものを、そのまま引用するのが良いでしょう。「すべての人を一つにしてください。父よ、あなたが私のうちにおられ、私があなたのうちにいるのは、彼らが一つになるためです※4。」



復活節第六土曜日
第一朗読 1ヨハネ3:18-24
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ 雅歌についての説教

※1 1ヨハネ4:18
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

※2 雅歌6:9
わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘、産みの親のかけがえのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し、王妃も側女も彼女をたたえる。

※3 エフェソ4:3-4
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

※4 ヨハネ17:21
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 新しい創造のときに最初に生まれた方

2012-05-07 13:54:43 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ(330-394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教
説教
命の国が来て、死の支配が解消されました。別の誕生、別の命、別の生き方、私たちの人間性そのものの変化が現れたのです。どのような誕生でしょうか。「血によってではなく、人の欲によってでもなく、肉の欲によってでもなく、神による※1」誕生です。

このことはどのように起こりうるのでしょうか。この恵みをはっきり説明しましょう。この誕生にあたり、懐胎は信仰により、光を見るようにする誕生は再生の洗礼により、養育は教会によって行われ、乳房は教えであり、食物は天上のパンであり、成人への到達は徳高い生き方であり、結婚は英知とともに過ごすことであり、生まれる子供は希望であり、家はみ国であり、遺産と富は楽園の楽しみであり、終わりは死ではなく、聖徒たちのために準備された至福の永遠の命です。

「今日こそ主のみ業の日※2。」これは、世界創造の初めに設けられた日とは全く異なる日です。あの日は時間を計るためのものでした。しかし、この日は別の創造の始まりです。この日に、神は預言者イザヤが言っているように、新しい天と新しい地を創造されるのです※3。どの天でしょうか。その天の屋根はキリストへの信仰です。どの地でしょうか。主が仰せられたように、よい心なのです※4。この地は降ってくる雨を呑み込み、多くの実を受けた穂を出します※5。

この創造の場合、太陽は汚れない生き方であり、星々は諸徳であり、空気は透明なふるまいであり、海は「富と知恵と知識の深さ※6」であり、草と芽は神の群れである牧場の民が食べて養われる正しい教理と聖なる教訓であり、実を結ぶ木は掟の順受です。

この日に、神にかたどり、神に似せて作られた真の人間が創造されます※7。この始まり、この「主のみ業の日」は、あなたにとって世界となっているのではないでしょぅか。預言者ゼカリヤは、この日が他の日に、この夜が他の夜に似ていないと言っています※8。

しかし、この恵みの中で最もぐれた者については、まだ説明していません。それは、この日が死の苦しみを解消した日であるということです。この日は死者の中から最初に生まれた方※9を生み出した日です。



復活節第五月曜日
第一朗読 黙示録 19:11-21
第二朗読 ニッサの聖グレゴリオ司教の説教

※1 ヨハネ1:13
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

※2 詩編118:24
今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

※3 イザヤ65:17
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。

※4 ルカ8:15
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。

※5 イザヤ61:11
大地が草の芽を萌えいでさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

※6 ローマ11:33
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

※7 創世記1:26-27
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

※8 ゼカリヤ14:7
しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく夕べになっても光がある。

※9 コロサイ1:18
また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。



ニッサの聖グレゴリオ
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人。(Wikipediaではニュッサのグレゴリオス)

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の連続講話のなかで、二回にわたってニッサのグレゴリオを解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message240.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message241.htm

ニッサの聖グレゴリオ 生まれる時と、死ぬ時がある

2012-02-21 00:00:00 | ニッサの聖グレゴリオ
ニッサの聖グレゴリオ司教(330年~394年) カッパドキアのニッサとセバステの司教、教会博士
コヘレト書についての説教
「生まれる時と、死ぬ時がある※1」と聖書は言っています。著者は、話の始めに誕生と死を結び合わせて、この必然的な結びつきを言葉でみごとに著しています。それは誕生の後には死が必ずやって来て、生まれたあらゆるものは腐敗して消えていくからです。

「生まれるときと、死ぬ時がある。」わたしもふさわしい時に生まれ、ふさわしい時に死にたいものです。著者がここで、自由意志によらない陣痛のことや自然に起こる死のことを、徳による正しさでもあるかのように語っているとは考えられません。事実、陣痛の時は女性の意志によって起こるのでもなく、死の時は世を去る人の自由意志によって決まるのでもありません。人間の自由意志によって決まるのでもありません。人間の自由な選択によらないことを、だれも徳や悪徳とみなすことはないでしょう。したがって、ふさわしい時の誕生とふさわしい時の死はなんであるかということを、よく理解しなければなりません。


年間第七火曜日
※1 コヘレト3:2
3:1何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時植える時、植えたものを抜く時

※2 イザヤ26:18
わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず/地上に住む者を/産み出すこともできませんでした。

何事にも、時がある。この言葉が、しみじみ感じられるようになって来ました。