エルサレムの聖チリロ(315-386) エルサレムの司教
教話
キリストのすべての行為を普遍の教会は誇りとしますが、何よりも誇りとしているのは十字架です。パウロはこのことをよく知っていて、「わたしには、キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言っています。
・・・
だから、十字架の勝利は、無知が盲目にしてしまった人々を照らし、罪にとらわれていたすべての人々を会報誌、全世界を贖ったのです。したがって、私たちは救い主の十字架を恥じてはなりません。むしろ、それを誇りとしましょう。十字架の言葉は、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、私たちには救いです。それは滅んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる私たちにとっては神の力です。事実、わたしたちのために死なれたのは、ただの人間ではなく、神の子、人となられた神なのです。
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聖チリロは紀元315年に生まれましたが、奇しくもローマ帝国における十字架刑が廃止された年にあたります。その聖チリロの十字架についての教話です。
教話
キリストのすべての行為を普遍の教会は誇りとしますが、何よりも誇りとしているのは十字架です。パウロはこのことをよく知っていて、「わたしには、キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言っています。
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だから、十字架の勝利は、無知が盲目にしてしまった人々を照らし、罪にとらわれていたすべての人々を会報誌、全世界を贖ったのです。したがって、私たちは救い主の十字架を恥じてはなりません。むしろ、それを誇りとしましょう。十字架の言葉は、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、私たちには救いです。それは滅んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる私たちにとっては神の力です。事実、わたしたちのために死なれたのは、ただの人間ではなく、神の子、人となられた神なのです。
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聖チリロは紀元315年に生まれましたが、奇しくもローマ帝国における十字架刑が廃止された年にあたります。その聖チリロの十字架についての教話です。