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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

エルサレムの聖チリロ 十字架を喜びとしなさい

2011-02-03 20:26:09 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315-386) エルサレムの司教
教話
キリストのすべての行為を普遍の教会は誇りとしますが、何よりも誇りとしているのは十字架です。パウロはこのことをよく知っていて、「わたしには、キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言っています。
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だから、十字架の勝利は、無知が盲目にしてしまった人々を照らし、罪にとらわれていたすべての人々を会報誌、全世界を贖ったのです。したがって、私たちは救い主の十字架を恥じてはなりません。むしろ、それを誇りとしましょう。十字架の言葉は、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、私たちには救いです。それは滅んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる私たちにとっては神の力です。事実、わたしたちのために死なれたのは、ただの人間ではなく、神の子、人となられた神なのです。
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聖チリロは紀元315年に生まれましたが、奇しくもローマ帝国における十字架刑が廃止された年にあたります。その聖チリロの十字架についての教話です。


エルサレムの聖チリロ イエス・キリストの二つの到来

2010-11-29 11:24:21 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315-386年) エルサレムの司教
教話
私たちはキリストの到来を告げます。ただ一つの到来ではなく、第2の到来も告げ知らせます。この第2の到来は、先のものより遙かに輝かしいものです。・・・

私たちの主イエス・キリストに関する出来事は、ほとんどの場合、二とおりの仕方で起こります。二つの誕生、すなわち、世界が始まる前の神からの誕生と、時が満ちたときの乙女からの誕生があります。到来にも二つあり、一つは羊の毛の上に降る雨のように、音もなく目立たない到来であり、もう一つは将来起こる輝かしい到来です。・・・

預言者マラキはこれら二つの到来について、次のように語っています。「あなたたちが待ち望んでいる主は、突如その神殿に来られる。」(マラキ3:1)これは第一の到来です。
第2の到来について預言者は続けて語っています。「あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、全能の神から来られる。だが、この方の来るに日にだれが耐えられようか。まことに、この方は精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、精錬よる者、清める者として座に着く。」(マラキ3:1-3)
パウロのテストにあてた手紙の中で、これら二つの到来について次のように書きしるしています。「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは私たちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」(テトス2:11-13)パウロがまず第一の到来について語り、そのために感謝し、次に、私たちが待っている第2の到来について語ったということがおわかりになったでしょう。
 それで、私たちが宣言する信仰は、今の形で伝えられ、私たちが信じるのは、天に昇って、父の右の座におられる方。その方は栄光のうちに再び来られ、生者と死者を裁き、その支配は終わることがありません、と言うのです。
ですから、わたしたちの主イエス・キリストは天から来られます。この世の終わりに、その最後の日に、栄光を帯びて来られるのです。事実、この世はいつか終わり、造られたこの世は新たにされるのです。
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第2の到来は、宇宙創造(進化)の第2ステップとも言えます。この次の段階は、宇宙における愛の量が、ある臨界点を超えたときに起こるものと思われます。


エルサレムの聖チリロ 信条について

2010-11-05 21:10:50 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315-386年) エルサレムの司教、教会博士
「教話」
信仰を学ぶにせよ信仰を告白するにせよ、教会によってあなたに伝えられたものだけを獲得し、保ちなさい。この信仰こそ、聖書全体によって裏付けられています。ところで、皆が聖書を読むことができるわけではありません。ある人は読み書きができないから、またある人は忙しくて時間がないから、聖書の知識を身につけることができません。それで、この無知のために人の霊魂が滅びないよう、私たちはわずかの言葉の中に信仰の教義全体をまとめています。
生涯、この信条を旅路の糧のように保ち、他のどんな信条も受け入れてはなりません。たとえ私自身が考えを変えて、今教えている信条と違う信条を教えるようなことがあっても、あるいは悪い使いが光の天使を装って、あなたを信仰に関する誤りに導こうとしても、受け入れてはなりません。「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちが今あなたがたに告げたものに反する福音をづけ知らせようとするなら、呪われるがよい」(ガラテヤ1:8)からです。
今のところ、言葉で告げられた信条を聞いて、その信仰の言葉を記憶に留めなさい。時が来れば、それぞれの箇条についての聖書の裏付けを教えられることになります。この信条は、人間の気まぐれによって信仰の内容をまとめたものではなく、聖書全体の中から、最も重要な点を選んで、信仰の教えを一つに要約してものですから。ちょうど、小さなからし種の中に数多くの枝が含まれているように、この信条は、わずかな言葉の中に、旧約聖書と新約聖書に含まれている敬神の知識を全て包み込んでいます。
兄弟たちよ、注意を払い、今伝えられた教えを固く保ち、それを心の板に書き記しなさい。
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すべての人が聖書を読めるわけではありません。そのような時代にあって、信条は重要な役割を持っていました。また、光の天使を装って、間違った教えを伝える人達からも信仰を守ることができます。この信条は、聖書全体を一つに要約してものなのです。

エルサレムの聖チリロ 信仰の力

2010-11-05 20:52:31 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315-386年) エルサレムの司教、教会博士
「教話」
信仰という言葉はただ一つのものでしかありませんが、二つの違った事実を表しています。第1の種類の信仰はは教義に関係するものであり、あることに霊魂が同意することを意味しています。この信仰は、霊魂にとって有益なものです。主は仰せになりました。「私の言葉を聞いて、私がお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることはない。」(ヨハネ5:24)さらに言われます。「御子を信じる者は裁かれない。その者は死から命へと移っている。」(ヨハネ3:18)
人々に対して神がもっておられる愛は、なんと大きいことでしょう。[旧約の]正しい人々は、神によしとされる者となるのに長い時間がかかりました。彼らが真剣に長い年月をかけて努力して得たものを、イエス・キリストは一時のうちにあなたに授けてくださいます。実際、イエス・キリストは主であり、神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるならば、あなたは救われ、強盗を楽園に入れられた方によって楽園に移されます。・・・

もう一つの種類の信仰があります。これは霊的な賜物としてキリストからある人に分け与えられるものです。「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気を癒す力が与えられます。」(1コリント12:8-9)
この聖霊によって賜物として与えられる信仰は、ただ教義に関する者だけではなく、人間の力を超えることを実現します。
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教義に関する信仰と、聖霊によって賜物として与えられる信仰の二つがあるとチリロは言います。教会のなかには、この二つの信仰のバランスのとれた人と、どちらかに偏った人の三種類の人々がいるようにも思います。

エルサレムの聖チリロ キリストの花嫁である教会

2010-07-31 19:55:57 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教
「教話」
「普遍的」教会とは、わたしたちの母であり聖なる教会の固有の名前です。この教会は、神のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストの花嫁です。教会はまた、天のエルサレムの姿、その写しです。この天のエルサレムは、「いわば自由な身の女であつて、わたしたちの母です」(ガラテヤ4:26)彼女は、以前は不妊の女でしたが、今は多くの子を産みます。・・・

・・・そして、王たちの権限が各国民に住む国土に限られているのに対して、聖なる普遍的教会の権限だけが全世界に及びます。聖書に書かれているように、神が教会の「国境に平和を置いて下さった」(詩篇147:14)からです。
私たちは、この聖なる普遍的教会の中でよく教え導かれて、天の国を得、永遠のいのちを継ぐようになります。主が私たちにそれを授けて下さるよう、私たちは全てを堪え忍びます。私たちの目標は取るに足りないものではなく、追い求めているのは永遠の命なのです。ですから、信仰宣言は「肉身のよみがえり」、つまり死者のよみがえりを信じるようにと教え、続いて「永遠のいのち」を信じるようにと教えています。この永遠の命を得るために、キリスト者は戦っているのです。

真実でまことの命は、御父です。この御父は、御子によって、聖霊のうちに、天の賜を皆、泉からのように被造物の上に注いでくださいます。その人間に対する愛によって、御父はわたしたち人間にも永遠の命を与えることをまさに約束されたのです。
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キリストの花嫁である教会、チリロはガラテヤを引用し、天のエルサレム、以前は不妊の女であった、自由な身の女に重ね合わせます。この女は、多くの子を産み、それが私たちなのです。私たちの母である教会は、ユダヤ教の時には不妊でしたが、キリスト教会になり多くの子=キリストを信じる者を産んだのです。