goo blog サービス終了のお知らせ 

毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

エルサレムの聖チリロ 生きた水である聖霊

2012-05-21 00:28:46 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教、教会博士
教話
「私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちにいたる生きた水が湧き出る。※1」それは新しい生きた水であり、湧き出る水です。しかも、その水を受けるに相応しい人々のために湧き出る水です。主はなぜ聖霊の恵みを、「水」と呼ばれたのでしょうか。それは、水が万物の根底であるからです。水は草木を生えさせ、いのちを与え、空から雨となって下り、雨というただ一つの姿で下っても様々な姿で働きます。水は、やしの木とぶどうの木の中に別々の姿となります。水は、すべてのものの中にすべてとなります。それでも、そのものの姿は一つであって、それ自体の姿は変わりません。ここに降っても、あそこに降っても、雨の姿は変わりません。しかし、雨を受けるもののありさまに自分を合わせ、それぞれのものに適したものを生じさせます。

これと同様に、聖霊もそれ自体唯一で、その姿はいつも同じで分かたれないものでありながら、望みのままに様々な賜物を一人ひとりに分け与えられるのです※2。 枯れたような木は、水を注がれると芽を出します。同様に、罪深い魂が悔い改めて聖霊を受けることができるようになると、義の実を結びます。いつも同じ姿である聖霊は、神の命令により、キリストの名において数多くの徳を育てます。

すなわち、聖性は知恵を語るためにある人の口を用い、ある人の魂を預言を述べるように照らし、ある人に悪魔を追い出す力を与え、ある人には聖書を解釈する能力を与えます。また、ある人の節制を強め、ある人には施しの仕方を教え、またある人には断食と禁欲を教えます。また、ある人に肉体の利害を軽視することを教え、ある人に殉教する心構えを与えます。つまり聖霊は様々な人のうちで違っていながら、自らは別々のものではありません。「一人ひとりに霊の働きが現れるのは、その利益となるためです※3」と聖書に書かれているとおりです。

聖霊は静かに私たちの中に入って来ます。芳しく感じ取られます。その軛は非常に負いやすいものです※4。聖霊の到来を告げて先に来るのは、光りと知識の光線です。聖霊は真実の保護者としてのいつくしみを持っています。事実、聖霊は、救い、いやし、教え、勧告し、強め、慰め、治世を照らしに来ます。まず聖霊を受け取る本人の中でこれらの働きをし、次いで、聖霊を受けたその人を通して他の人々の中で同じ働きをします。

そして、以前は闇の中にいた人が突然、太陽を見て目に光を受け、それまで見えなかったものをはっきりと見るようになるのと同様に、聖霊を与えられた人の魂は照らされ、彼はそれまで知らなかったものを、人間の力を超えた方法で見るようになります。


復活節第七月曜日
第一朗読 1ヨハネ4:1-10
第二朗読 エルサレムの聖チリロ司教の教話

※1 ヨハネ4:13-14
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

※2 1コリント12:11
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

※3:1コリント12:7
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

※4 マタイ11:30
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。



エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

エルサレムの聖チリロ 聖霊を受け入れるために

2012-03-18 21:16:46 | エルサレムの聖チリロ
聖チリロ(エルサレム) (315~386年) エルサレムの司教、教会博士
教話
「天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ※1。」ヒソプの枝で水をかけられる者たち※2。ご受難のときに、ヒソプと葦の棒で飲み物を与えられたキリストの恵みにより、霊的なヒソプによって清められた者たちの故に、天にいる力ある者たちも喜びますように。そして、霊的な花婿に一致しようとしている魂たちよ、準備しなさい。「荒れ野で叫ぶ肥えがする。『主の道を整えよ※3。』」

ですから、義の子らよ、ヨハネに従いなさい。ヨハネは勧めて言っています。「主の道をまっすぐにせよ。※4」まっすくに歩いて永遠のいのちに着くために、つまずかせる石と妨げをすべて除きなさい。聖霊を受け入れるために、真心からの信仰によってあなたたちの魂の器を清めて準備しなさい。花婿の部屋に招かれるときに、清い者であるために、悔いあらためによってあなたたちの服を洗いはじめなさい。

恵みは寛大に与えられるので、花婿はだれをも招きます。伝令者たちは、大きな声をあげてすべての人を集めます。そして、婚礼の部屋に入る人を花婿ご自身が選びます。

洗礼を希望して申し出ている人の中で、今になって「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか※5」という言葉を聞く不幸な目にだれも遭いませんように。

そうではなく、あなたたち皆が、「忠実良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ※6」と言う言葉を聞くことができますように。


3月18日 聖チリロ(エルサレム)司教 教会博士 
第三朗読 エルサレムの聖チリロ司教の教話
※1 イザヤ49:13
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。

※2 詩編 51:9
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。

※3 マルコ1:3
荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

※4 ヨハネ1:23
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

※5 マタイ22:12
王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。

※6 マタイ25:21
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』



エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

エルサレムの聖チリロ キリストの花嫁である教会

2011-07-28 07:00:00 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教
「教話」
「普遍的」教会とは、私たちの母であり聖なる教会の固有の名前です。この教会は、神のひとり子、私たちの主イエス・キリストの花嫁です。教会はまた、天のエルサレムの姿、その写しです。この天のエルサレムは、「いわば自由な身の女であつて、私たちの母です」(ガラテヤ4:26)彼女は、以前は不妊の女でしたが、今は多くの子を産みます。

先の集いが退けられてから、第2の集いである普遍的な教会の中で、神は使徒パウロが言っているように、「第一に使徒、第2に預言者、第3に教師、次ぎに奇跡を行う者、その次ぎに病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者をお建てになりました。※3」 また、神はこの教会にあらゆる種類の徳、すなわち知恵と知識、節制と義、憐れみと人間に対する愛、さらに迫害の中でくじけることのない忍耐をお授けになりました。

この教会は、左右の手に義の武器を持ち、ほめられても、そしられても※4、まず迫害と苦しみの時代に、聖なる殉教者の頭にさまざまな花で編まれた忍耐の冠をかぶせました。そして今、平和が訪れた時代に、教会は神の恵みにより、王達や貴人たち、さらにあらゆる身分の人々からもふさわしい栄誉を受けています。そして、王たちの権限が各国民に住む国土に限られているのに対して、聖なる普遍的教会の権限だけが全世界に及びます。聖書に書かれているように、神が教会の「国境に平和を置いて下さった」(詩篇147:14)からです。
私たちは、この聖なる普遍的教会の中でよく教え導かれて、天の国を得、永遠のいのちを継ぐようになります。主が私たちにそれを授けて下さるよう、私たちは全てを堪え忍びます。私たちの目標は取るに足りないものではなく、追い求めているのは永遠の命なのです。ですから、信仰宣言は「肉身のよみがえり」、つまり死者のよみがえりを信じるようにと教え、続いて「永遠のいのち」を信じるようにと教えています。この永遠の命を得るために、キリスト者は戦っているのです。

真実でまことの命は、御父です。この御父は、御子によって、聖霊のうちに、天の賜を皆、泉からのように被造物の上に注いでくださいます。その人間に対する愛によって、御父はわたしたち人間にも永遠の命を与えることをまさに約束されたのです。
----------------------------
年間第十七木曜日
※3 1コリント12:28
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

※4 2コリント6:7~8
真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

エルサレムの聖チリロ 神の民の集いである教会

2011-07-27 23:43:17 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教
「教話」
教会は「普遍的教会」と呼ばれています。それは、教会が世界中に、地の果てから果てにまであるからです。また、教会は見えるものと見えないもの、天のものと地のものとについて、人類が知る必要のあるすべての教義を、欠けることなくすべての人に教えるからでもあります。さらに、教会が「普遍的」と呼ばれるのは、国の君主をも、国民をも、学者をも、無学な人をも、つまり全人類を神に向かわせるらでもあります。また、心身が犯したあらゆる種類の罪の手当をしていやすことからも、教会は「普遍的」と呼ばれます。この教会は、行為と言葉に関するあらゆる種類の得や、あらゆる霊的賜物を自分の内に持っているのです。

「招集された者の集い」を意味するエクレシア(教会)という名は、大変ふさわしい名前です。教会がすべての人を招集し、一つに集めるからです。神はレビ記の中で、「共同体全員を臨在の幕屋の入口に招集しなさい※1」と言っておられます。「招集する」とう言葉が聖書の中で用いられたのは、これが初めてであることに注目しましょう。そのとき、神はアロンを大祭司とされたのでした。また、申命記では、神はモーセに仰せになりまする「民を私の元に招集しなさい。私の言葉を彼らに聞かせ、私を畏れる事を学ぶようにしよう。※2」さらに、律法の石の板について話されるときにも、集会のことが出て来ます。「その上には、集会の日に主が山で火の中から、あなたたちに告げられた言葉がすべてそのまま書かれていた※3」もっとはっきり言えば、「主によって招集されたあなたがたが集まった日に」ということです。詩編作者も、「主よ、優れた会衆の中であなたをたたえ、偉大な民の中であなたを賛美します※4」と言っています。
----------------------------
年間第十七水曜日
※1 レビ8:3
また共同体全員を臨在の幕屋の入り口に召集しなさい。

※2 申命記 4:10
あなたがホレブであなたの神、主の御前に立った日、主はわたしに言われた。「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」

※3 申命記 9:10
主は、神の指で記された二枚の石の板をわたしにお授けになった。その上には、集会の日に、主が山で火の中からあなたたちに告げられた言葉がすべてそのとおりに記されていた。

※4 詩編35:18

優れた会衆の中であなたに感謝をささげ偉大な民の中であなたを賛美できますように。


エルサレムの聖チリロ 生きた水である聖霊

2011-06-06 07:00:00 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教、教会博士
教話
「私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちにいたる生きた水が湧き出る。※1」それは新しい生きた水であり、湧き出る水です。しかも、その水を受けるに相応しい人々のために湧き出る水です。主はなぜ聖霊の恵みを、「水」と呼ばれたのでしょうか。それは、水が万物の根底であるからです。水は草木を生えさせ、いのちを与え、空から雨となって下り、雨というただ一つの姿で下っても様々な姿で働きます。水は、やしの木とぶどうの木の中に別々の姿となります。水は、すべてのものの中にすへてとなります。それでも、そのものの姿は一つであって、それ自体の姿は変わりません。ここに降っても、あそこに降っても、雨の姿は変わりません。しかし、雨を受けるもののありさまに自分を合わせ、それぞれのものに適したものを生じさせます。

これと同様に、聖霊もそれ自体唯一で、その姿はいつも同じで分かたれない者でありながら、望みのままに様々な賜物を一人ひとりに分け与えられるのです。※2 枯れたような木は、水を注がれると芽を出します。同様に、罪深い魂が悔い改めて聖霊を受けることができるようになると、義の実を結びます。いつも同じ姿である聖霊は、神の命令により、キリストの名において数多くの徳を育てます。

すなわち、聖性は知恵を語るためにある人の口を用い、ある人の魂を預言を述べるように照らし、ある人に悪魔を追い出す力を与え、ある人には聖書を解釈する能力を与えます。また、ある人の節制を強め、ある人には施しの仕方を教え、またある人には断食と禁欲を教えます。また、ある人に肉体の利害を軽視することを教え、ある人に殉教する心構えを与えます。つまり聖霊は様々な人のうちで違っていながら、自らは別々のものではありません。
----------------------------
復活節第七月曜日
※1 ヨハネ4:14
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

※2 1コリント12:11
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。