聖アンブロジオ(340~397年)ミラノの司教
『秘義についての講話』
「私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられました※1」 と使徒パウロは教えています。モーセ自身も歌の中で、「あなたが息(霊)を吹きかけると、海は彼らを、覆った※2」と言っています。ヘブライ人がこのように海を通り抜けたときに、エジプト人が滅び、ヘブライ人は逃れましたが、そこに聖なる洗礼の前例がすでに示されていたことに気付くでしょう。事実、日々この秘跡が教えてくれることは、それによって罪が沈没し、過ちが滅ぼされて、敬愛と潔白が損なわれずに通り抜けるということなのです。
私たちの先祖は雲の下にいたと書かれています。それは、燃えさかる肉欲の熱火を冷ます善い雲であり、聖霊の訪れを受けた人を覆う善い雲です。次いで聖霊は処女(おとめ)マリアに降り、いと高き方の力が彼女を包み、マリアは人類のために贖い主を産んだのです。紅海を通り抜けるという奇跡も、モーセによって前例として行われました。したがって、当時、前例としての霊が現存していたのなら、今は真実に霊が現存しているのではないでしょうか。聖書が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた※3」と言っているからです。
マラは苦い水の泉でした。モーセがその中に木を投げ込むと、水は甘くなりました※4。それは、主の十字架を宣言しなければ、水が将来の救いのために何ら役立つことがないからです。しか、救いの十字架の秘義によって水が聖別されてから、霊テク沐浴と救いの杯に用いることができるようになりました。したがって、預言者であるモーセがあの泉に木を投げ込んだように、祭司もまた、この[洗礼の]泉に主の十字架を宣言する言葉を入れ、こうして水は恵みをもたらす甘いものになります。
ですから、肉眼だけを信じるようなことはやめなさい。肉眼で見えないもののほうがより良く見えます。肉眼で見えるものは時間的なものであり、見えないものは永遠のものだからです。肉眼では見えなくても、心と精神によって見えるものの方が、より良く見えるのです。
最後に、朗読されたばかりの列王記の箇所※5から学びなさい。ナアマンはシリア人で癩病を患っており、誰も癒すことができませんでした。その頃捕虜として連れて来た一人の少女が、彼の癩病を癒すことのできる預言者がイスラエルにいると言いました。そこでナアマンは、金と銀とを携えてイスラエルの王のもとに出かけました。ナアマンの来訪の理由を聞いた王は、衣を裂き、王の力が及ばないことを求められるのは、むしろ自分に言いがかりをつけようとすることであると言いました。しかし、エリシャは、イスラエルには神がおられることを知るために、あのシリア人を自分のところによこすように王に告げました。そして、その人が来たとき、エリシャはヨルダン川に七度身を浸すように命じました。そこでナアマンはじっと考え始めました。自分の国の川の水はヨルダン川の水よりももっと綺麗だが、たびたびそこにつかったけれど、癩は決して治らなかったではないか。こう考えた彼は、預言者の命令には従わなかったのです。しかし家来たちの勧めと助言を受け入れて、ついにヨルダン川につかったのです。するちたちまち治りました。そして、人が癒されるのは水によるのではなく、恵みによるものであることを悟りました。
彼は癒される前は疑っていました。しかし、あなたがたはすでに癒されているのですから、疑ってはならないのです。
年間第十五火曜日 読書
第一朗読 列王記上 19:1-21
第二朗読 聖アンプロジオ 『秘義についての講話』
※1 1コリント10:1-4
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。
※2 出エジプト15:10
あなたが息を吹きかけると海は彼らを覆い彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
※3 ヨハネ1:17
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
※4 出エジプト15:23-25参照
マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。
※5 列王記下 5:1-14
アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)
聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=120701
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm
『秘義についての講話』

私たちの先祖は雲の下にいたと書かれています。それは、燃えさかる肉欲の熱火を冷ます善い雲であり、聖霊の訪れを受けた人を覆う善い雲です。次いで聖霊は処女(おとめ)マリアに降り、いと高き方の力が彼女を包み、マリアは人類のために贖い主を産んだのです。紅海を通り抜けるという奇跡も、モーセによって前例として行われました。したがって、当時、前例としての霊が現存していたのなら、今は真実に霊が現存しているのではないでしょうか。聖書が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた※3」と言っているからです。
マラは苦い水の泉でした。モーセがその中に木を投げ込むと、水は甘くなりました※4。それは、主の十字架を宣言しなければ、水が将来の救いのために何ら役立つことがないからです。しか、救いの十字架の秘義によって水が聖別されてから、霊テク沐浴と救いの杯に用いることができるようになりました。したがって、預言者であるモーセがあの泉に木を投げ込んだように、祭司もまた、この[洗礼の]泉に主の十字架を宣言する言葉を入れ、こうして水は恵みをもたらす甘いものになります。
ですから、肉眼だけを信じるようなことはやめなさい。肉眼で見えないもののほうがより良く見えます。肉眼で見えるものは時間的なものであり、見えないものは永遠のものだからです。肉眼では見えなくても、心と精神によって見えるものの方が、より良く見えるのです。
最後に、朗読されたばかりの列王記の箇所※5から学びなさい。ナアマンはシリア人で癩病を患っており、誰も癒すことができませんでした。その頃捕虜として連れて来た一人の少女が、彼の癩病を癒すことのできる預言者がイスラエルにいると言いました。そこでナアマンは、金と銀とを携えてイスラエルの王のもとに出かけました。ナアマンの来訪の理由を聞いた王は、衣を裂き、王の力が及ばないことを求められるのは、むしろ自分に言いがかりをつけようとすることであると言いました。しかし、エリシャは、イスラエルには神がおられることを知るために、あのシリア人を自分のところによこすように王に告げました。そして、その人が来たとき、エリシャはヨルダン川に七度身を浸すように命じました。そこでナアマンはじっと考え始めました。自分の国の川の水はヨルダン川の水よりももっと綺麗だが、たびたびそこにつかったけれど、癩は決して治らなかったではないか。こう考えた彼は、預言者の命令には従わなかったのです。しかし家来たちの勧めと助言を受け入れて、ついにヨルダン川につかったのです。するちたちまち治りました。そして、人が癒されるのは水によるのではなく、恵みによるものであることを悟りました。
彼は癒される前は疑っていました。しかし、あなたがたはすでに癒されているのですから、疑ってはならないのです。
年間第十五火曜日 読書
第一朗読 列王記上 19:1-21
第二朗読 聖アンプロジオ 『秘義についての講話』
※1 1コリント10:1-4
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。
※2 出エジプト15:10
あなたが息を吹きかけると海は彼らを覆い彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。
※3 ヨハネ1:17
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
※4 出エジプト15:23-25参照
マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。
※5 列王記下 5:1-14
アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)
聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=120701
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm