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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖アンブロジオ これらのことは全て、前例として彼らに起こった

2013-07-16 22:41:00 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年)ミラノの司教
『秘義についての講話』
 「私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられました※1」 と使徒パウロは教えています。モーセ自身も歌の中で、「あなたが息(霊)を吹きかけると、海は彼らを、覆った※2」と言っています。ヘブライ人がこのように海を通り抜けたときに、エジプト人が滅び、ヘブライ人は逃れましたが、そこに聖なる洗礼の前例がすでに示されていたことに気付くでしょう。事実、日々この秘跡が教えてくれることは、それによって罪が沈没し、過ちが滅ぼされて、敬愛と潔白が損なわれずに通り抜けるということなのです。

 私たちの先祖は雲の下にいたと書かれています。それは、燃えさかる肉欲の熱火を冷ます善い雲であり、聖霊の訪れを受けた人を覆う善い雲です。次いで聖霊は処女(おとめ)マリアに降り、いと高き方の力が彼女を包み、マリアは人類のために贖い主を産んだのです。紅海を通り抜けるという奇跡も、モーセによって前例として行われました。したがって、当時、前例としての霊が現存していたのなら、今は真実に霊が現存しているのではないでしょうか。聖書が、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた※3」と言っているからです。

 マラは苦い水の泉でした。モーセがその中に木を投げ込むと、水は甘くなりました※4。それは、主の十字架を宣言しなければ、水が将来の救いのために何ら役立つことがないからです。しか、救いの十字架の秘義によって水が聖別されてから、霊テク沐浴と救いの杯に用いることができるようになりました。したがって、預言者であるモーセがあの泉に木を投げ込んだように、祭司もまた、この[洗礼の]泉に主の十字架を宣言する言葉を入れ、こうして水は恵みをもたらす甘いものになります。

 ですから、肉眼だけを信じるようなことはやめなさい。肉眼で見えないもののほうがより良く見えます。肉眼で見えるものは時間的なものであり、見えないものは永遠のものだからです。肉眼では見えなくても、心と精神によって見えるものの方が、より良く見えるのです。

 最後に、朗読されたばかりの列王記の箇所※5から学びなさい。ナアマンはシリア人で癩病を患っており、誰も癒すことができませんでした。その頃捕虜として連れて来た一人の少女が、彼の癩病を癒すことのできる預言者がイスラエルにいると言いました。そこでナアマンは、金と銀とを携えてイスラエルの王のもとに出かけました。ナアマンの来訪の理由を聞いた王は、衣を裂き、王の力が及ばないことを求められるのは、むしろ自分に言いがかりをつけようとすることであると言いました。しかし、エリシャは、イスラエルには神がおられることを知るために、あのシリア人を自分のところによこすように王に告げました。そして、その人が来たとき、エリシャはヨルダン川に七度身を浸すように命じました。そこでナアマンはじっと考え始めました。自分の国の川の水はヨルダン川の水よりももっと綺麗だが、たびたびそこにつかったけれど、癩は決して治らなかったではないか。こう考えた彼は、預言者の命令には従わなかったのです。しかし家来たちの勧めと助言を受け入れて、ついにヨルダン川につかったのです。するちたちまち治りました。そして、人が癒されるのは水によるのではなく、恵みによるものであることを悟りました。

 彼は癒される前は疑っていました。しかし、あなたがたはすでに癒されているのですから、疑ってはならないのです。


年間第十五火曜日 読書
第一朗読 列王記上 19:1-21
第二朗読 聖アンプロジオ 『秘義についての講話』

※1 1コリント10:1-4
兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。

※2 出エジプト15:10
あなたが息を吹きかけると海は彼らを覆い彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。

※3 ヨハネ1:17
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

※4 出エジプト15:23-25参照
マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。
民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなった。

※5 列王記下 5:1-14
アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。


聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)

聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=120701

ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm

聖アンブロジオ 水と聖霊によって新たに生まれる

2013-07-15 09:52:08 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教
『秘義についての講話』
 あなたは洗礼場で何を見ましたか。確かに水を見ました。しかし、それだけではなかったのです。そこに仕える助祭と、質問し、聖別する大祭司を見ました。しかし、それだけではなかったのです。そこに仕える助祭と、質問し、聖別する大祭司を見ました。まず第一に、使徒パウロは次のようにあなたに教えました。「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ※1」べきです。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです※2。」他の箇所にも次のように書かれいます。「世界が造られたときから、目に見えない神の本質は被造物に現れており、これを通して神を知ることができ、神の永遠の力と神性を※3」造られたものによって評価することができます。それゆえ主ご自身も言われます。「私を信じなくても、その業を信じなさい※4。」だから洗礼の場に神性(キリスト)がおられる事を信じなさい。あなたは神がそこで行動しておられる事を信じています。そうであれば、神がそこにおられることを信じないと言うことがありえましょうか。神が先におられなければ、そこで行動しはじめることができないはずです。

 ところで、洗礼の神秘がどれほど古いものであるかを考えなさい。世界の初めからあらかじめ示されていたものです。初めに神が天と地を造られたとき、聖書が言っているように「霊が水の面を動いていた※5」のです。水の面を動いていたこの霊は、水に働きかけなかったのでしょうか。預言者の次の言葉から、世界創造のとき霊が働きかけたことを学びなさい。「主の言葉によって天は確立され、主の口の息吹(霊)によって天の万象は確立された※6。」霊が水の面を動いていたことも働きかけていることも、預言の証しによって支えられています。モーセは動いていたと言い、ダビデは働きかけたと証言しています。

 他の証言もあります。すべての肉なるものは自らの罪によって腐敗しました。そこで、「私の霊は人の中に永遠に留まるべきではない。人は肉にすぎないのだから※7」と主は言われました。神はこれによって、肉の汚れと大罪の汚れが霊的恵みを退けることを示されました。そこで、神はご自分が与えたものを回復しようとして洪水を起こし、義人ノアに箱船に乗るよう命じられました。洪水が収まったとき、ノアはまず烏を放しましたが、帰ってきませんでした。次に鳩を放したところ、オリーブの枝を加えて帰ってきたと記されています※8。水の話し、木の話し、鳩の話しです。それでも、ここで[洗礼の]秘儀が暗示されていることを疑うのですか。

 その水が示しているのは、肉的な罪を全て洗い落とすために肉体がつけられる水です。すべての罪はそこに葬られます。木が示しているのは、主イエスが私たちのために苦しみを受けられたとき、はりつけにされた木です。鳩が示しているのは、新約聖書に書かれているように、聖霊が降るときにとった鳩の形です※9。この聖霊は、魂の平和と精神の安らぎをあなたに吹き入れるのです。


年間第十五月曜日 読書
第一朗読 列王記上 18:16b~40 バアルの預言者にまさるエリア
第二朗読 聖アンブロジオ 『秘義についての講話』
※1 2コリント4:18
※2 2コリント4:18
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

※3 ローマ1:20
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

※4 ヨハネ10:38
しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

※5 創世記 1:2
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

※6 詩篇33:6
御言葉によって天は造られ主の口の息吹によって天の万象は造られた。

※7 創世記6:3
主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

※8 創世記8:6-11
四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。
ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。
しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。
鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。

※9 マルコ1:10
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。


聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)
聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
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ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm

聖アンブロジオ 洗礼前の儀式についての教話

2013-07-14 00:00:00 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教
『秘義についての講話』
 太祖たちの言行禄や箴言の教訓が朗読されるにしたがって、私たちは毎日、道徳について説教をしてきました。それは、これらの説明と教育を通して、あなたがたが先祖の道に入って歩みながら同じ旅を続けて、神の言葉に従う習慣を身に付け、こうしてひとたび洗礼によって新しくされた後は、洗われた者に相応しい生活習慣を守るようになるためです。

 今や秘義について語り、秘跡の意味を説き明かすべき時が来ました。そのようなことを、まだ入信していなかったあなたがたに、洗礼前にあえて教えたとすれば、秘義を説明するというよりはそれを不当に暴く者とみなされたでしょう。なお、秘義の光自体は、何らかの説明が先行するよりは、思いがけない人の中により良く入ってゆくものです。

 だから今、耳を開けて、秘跡の恵みによってあなたがたのうちに注ぎ込まれた永遠のいのちの芳しい香りをかぎなさい。耳を開ける秘儀を行いながら、「エッファタ。これは『開け』という意味です※1」と言ったときに、このことをあなたがたに告げたのです。そのようにしたのは、恵みに近づこうとしている者の一人ひとりが、何を質問されるかを知り、何を答えられるかを覚えているようにするためです。福音の中に読むことができるように、キリストは、耳が聞こえず舌の回らない人をいやしたときに、この秘義を行われました※2。

 このことの後、至聖所があなたに開かれ、あなたは新たらしく生まれさせる聖所に入りました。そのとき質問されたことを思い起こし、答えたことを思い出しなさい。あなたは悪魔とその業、この世、およびその贅沢と快楽を拒否しました。あなたのこの言葉は死者の墓の中にではなく、生者の書の中に保存されています。

 あなたはそこに助祭を見、祭司を見、大祭司を見ました。彼らの外見ではなく、奉仕職の恵みを考えなさい。あなたは天使達の面前で話しました。「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ全能の主の天使である※3」と記されているとおりです。誤りはありません。否定することもできません。キリストの国と永遠のいのちを告げる者は天使なのです。あなたは外見ではなく、その任務によって彼を評価しなければなりません。彼があなたに何を伝えたかを考慮し、彼の役割を評価し、彼の地位を認めなさい。

 さて、面と向かってあなたの敵を退けようと思って、その敵を直視するために入りましたが、東に向きを変えました。それは、悪魔を退ける者はキリストの方に向きを変え、まっすぐにキリストに眼差しを注ぐからです。


年間第十五主日 読書
第一朗読 列王記上 16:29~17:16
第二朗読 聖アンブロジオ 『秘儀についての講話』

洗礼の時に、 この場面がでてきます。 司祭が質問します。 「...を退けますか?」  それに対して答えました。この洗礼の秘跡の流れは、アンブロジオの頃から今に受け継がれているのですね。

※1 マルコ7:34 参照
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

※2 マルコ7:32-37 参照
人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

※3 マラキ2:7
祭司の唇は知識を守り 人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)

聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
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ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm

聖アンブロジオ 神殿は聖であり、それはあなたがたである

2013-07-11 20:03:53 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ司教(340~397) ミラノの司教
『詩篇講解』
 「父と私とはその人のところに行き、一緒に住む※1。」訪れる方に扉を開けなさい。簡素の豊かさ、平和の宝、恵みの快さを把握するために、魂を開き、精神のふところを広げなさい。心を広げて、「すべての人を照らす※2」永遠の光の太陽を迎えなさい。確かに、あの真の光はすべての人を照らします。しかし、自分の窓を閉めるならば、その人は、自分を永遠の光を受けない者にしてしまいます。あなたが精神の窓を閉めるならば、キリストは締め出されます。キリストは入ることがおできになりますが、押しつけがましく侵入したり、拒否する人を強制したりすることをお望みになりません。

 キリストは処女(おとめ)から生を受け、その胎を出て、全ての人を照らすために全世界に輝きました。いかなる夜も立ち入らない永遠に輝く光を望む者は、それを受けます。私たちが毎日見る太陽には、暗い夜が続きます。しかし、正義の太陽は沈むことがありません。英知の後に悪意が来る事はないからです。

 ですから、キリストによって戸口をたたかれる人は幸いです。私たちの戸口は信仰であり、それが堅固であれば家全体を守ります。その戸口を通ってキリストが入ってこられるのです。そこで、雅歌の中で教会は次のように行っています。「私の恋しい人の声がする、戸をたたいています※3。」たたいている方、入りたいと望んでいる方の声を聞きなさい。「私の妹、花嫁よ、開けておくれ。私の鳩、清らかな私のおとめよ。私の頭は露に、髪は夜の露に濡れてしまった※4。」

 頭が夜の露で濡れてしまったときにこそ、神であることばが、最も強くあなたの戸口をたたいておられることを考えなさい。それは、人が試練や誘惑に遭っているときにこそ、ことばが彼らを訪れてくださるからです。その人が困難に負けて押しつぶされないようにするためです。キリストの体である私たちが苦しむときには、その頭は夜の露で濡れると言われます。そのときは、花婿が来たのに締め出されることがないように、目覚めていなければ成りません。あなたが眠っていて、心が目覚めていないのならば、彼は戸口をたたく前に去ってしまうでしょう。しかし、あなたの心が目覚めているならば、刈れば戸口をたたき、開けてくれるよう求めます。

 したがって、私たちの魂には戸口があり、城門もあります。その城門について、聖書は次のように行っています。「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が入られる※5。」あなたが信仰の門を開こうとすれば、栄光に輝く王は自らの受難によって勝利を祝い、あなたの中に入って来られます。ところで正義の城門もあります。主イエスが預言者を通して言われたこととして、次のように書き記されているからです。「正義の城門を私のために開きなさい※6。」

 それゆえ、魂には戸口があり、城門があるのです。キリストはこの戸口に来てたたきます。城門をたたくのです。キリストに門を開きなさい。入ることを望んでおられます。目覚めている花嫁を見いだすことを望んでおられます。


年間第十四木曜日 読書
第一朗読 歴代史上 22:5-19
第二朗読 聖アンブロジオ 『詩篇講解』

※1 ヨハネ14:23
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

※2 ヨハネ1:9
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

※3 雅歌 5:2
眠っていてもわたしの心は目覚めていました。恋しい人の声がする、戸をたたいています。「わたしの妹、恋人よ、開けておくれ。わたしの鳩、清らかなおとめよ。わたしの頭は露に髪は夜の露にぬれてしまった。」

※4 雅歌 5:2
眠っていても/わたしの心は目覚めていました。恋しい人の声がする、戸をたたいています。「わたしの妹、恋人よ、開けておくれ。わたしの鳩、清らかなおとめよ。わたしの頭は露に/髪は夜の露にぬれてしまった。」

※5 詩編24:7
 城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。

※6 詩編118:19
正義の城門を開け、わたしは入って主に感謝しよう。




聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)

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聖アンブロジオ 霊で賛美し、理性でも賛美しよう

2013-06-15 19:39:17 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教。教会博士。 
『詩編解説』
 詩編よりも快いものがほかにあるだろうか。だからダビデ自身、次のように言っている。「主をほめ歌えよ。主を讃えることは喜ばしい。私たちの神に快く美しい賛美をささげよう※1。」まさにそのとおりである。実に詩編は民による賛歌であり、神への賛美、民のほめ歌、万人による喝采、万民の言葉、教会の声、美しい信仰宣言、完全な自己奉献、自由の喜び、歓喜の叫び、喜びの躍動である。詩編は怒りを鎮め、心配を退け、悲しみを和らげる。詩編は夜の守り、昼の教訓、恐れの時の楯、信仰深い人の祝祭、静けさの現れ、平和と一致の保証であり、竪琴のように多くの異なる音から一つの歌曲を奏でる。朝には詩編の歌が響き、日没には詩編の歌声が聞こえる。

 詩編の中では教えと楽しみが競い合い、楽しき歌いながら知識も得られる。詩編を読むあなたには、ありとあらゆる感動が生じるのである。詩編の中に「愛する人のための歌※2」と読むとき、私は聖なる愛の願望に燃え、詩編の中に様々な啓示の恵みや復活の証言や約束された報いについての話しを見いだし、また、詩編によって罪を避けることを学び、罪を悔い改めることを恥じないように教えられる。

 したがって、詩編とは何かと言えば、それは徳を奏でる楽器に他ならないのであって、尊敬すべき預言者が聖霊という爪を用いてその楽器を弾き鳴らし、地上に天上の美しい音楽を響かせる。竪琴の弦は動物の亡骸から作られたものだが、詩編作者はそれを用いて種々異なる音からなる旋律を整え、神をたたえる歌を天にまで届かせている。このことによって、彼は私たちがまず罪に対して死に、その後初めて私たちの敬虔さを主によみされる供え物とするために、諸徳の業を身につけるべきであるということを教えている。

 したがって、「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう※3」と言ってパウロが歌ったように、ダビデも私たちが心で歌い、心で詩編を唱和しなければならないことを教え、天に向かって私たちの生活と行動を整えるように諭した。



年間第十土曜日 読書
第一朗読 ヨシュア24:1-28
第二朗読 聖アンブロジオ 『詩編解説』
聖務日課=「教会の祈り」で、朝晩に詩編で祈ります。聖アンブロジオの時代も「朝には詩編の歌が響き、日没には詩編の歌声が聞こえる」のですね。

※1 詩編147:1
ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく神への賛美はいかに美しく快いことか。

※2 詩編45:1(ウルガタ)
指揮者によって。「ゆり」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。(新共同訳)

※3 1コリント14:15
では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)

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