YAMAKOME

気まぐれ山・旅日記

畠山重忠公5(駕籠塚)

2014-05-16 09:47:46 | Weblog
畠山重忠公5(駕籠塚)
H26.05.14 晴れのち曇り
 重忠公の人柄は良く、英雄視され、鎌倉武士の鏡とされ、後々に語り継がれたそうだ。これらのほかにも「すずり石水」「矢畑・腰し巻き」「清来寺」「頼朝の鬢ガ池」(頼朝が立ち寄り髪を整えた)など史跡が多々ある。また帷子川(かたびらがわ)は、昔は今の平地ぐらいの所を流れていたものと思われる(親水緑道の高さから想像できる)。鶴が飛来していたらしく鶴舞橋もある(鶴ヶ峰の由来か?)。しばし、地元の昔々を偲んでみるのもいいものだ。暑い中、よくぞ歩いたなあ!(写真:駕籠塚。重忠公の妻が合戦の報を聞き駆け付けたが、重忠公の戦死を聞いて悲しみ、自害した。そして駕籠ごと埋葬された塚)
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畠山重忠公4(六ツ塚)

2014-05-16 09:14:16 | Weblog
畠山重忠公4(六ツ塚)
H26.05.14 晴れのち曇り
 北条時政(北条政子(頼朝の妻)の父、初代執権)は、重忠公を幕府に背く謀反者として討伐を企てた。そして重忠公を鎌倉に呼び出すことになった。この時、北条義時(時政の次男、後に2代執権)は重忠公の討伐に反対したが、やむなく鎌倉幕府軍として兵を出した。重忠公は鎌倉行きの途中で義時の鎌倉幕府軍の大軍と戦うことになった。その戦場が鶴ヶ峰、二俣川付近である。幕府軍は数万騎(現在の万騎が原に布陣)、重忠公は134騎。勝ち目のない戦であったが、「陰謀などない!」と唱えつつ潔く戦い戦死した。(写真:六ツ塚(薬王寺内)。畠山重忠公ら戦死した一族郎党134名を六つに分けて埋葬した塚)

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畠山重忠公3(鎧の渡し)

2014-05-16 09:05:41 | Weblog
畠山重忠公3(鎧の渡し)
H26.05.14 晴れのち曇り
 ちなみに、頼朝は相模川にかけられた橋の供養に出かけた帰り道に落馬したのが原因で亡くなったと言われている。その死の間際に重忠公を枕元に呼び、頼朝亡き後の子供たちのことを頼んだそうだ。その後、強い指導者を失った鎌倉幕府は、北条家が絡んだ権力争いとなった。この権力争いに重忠公が巻き込まれた。(写真:鎧の渡しの跡。昔は舟を使って渡るほどの幅が広い川(今の帷子川)であった。武士は鎧を脱いで歩いて渡ったことから「鎧の渡し」となった。重忠公の首洗い井戸もこの付近にあった。旭区役所の裏側)
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畠山重忠公2(首塚)

2014-05-16 09:03:43 | Weblog
畠山重忠公2(首塚)
H26.05.14 晴れのち曇り
重忠公は、源義経と共に平家との戦いで功績を遺した。その後、義経が頼朝と対立して京を追われることになる。これをかくまった奥州藤原氏を打つために頼朝は奥州征伐に旅立つが、この時の頼朝の命で先陣を切ったのは畠山重忠公であった。(写真:重忠公の首塚。旭区役所の裏側)
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畠山重忠公1(畠山重忠公碑)

2014-05-16 08:58:04 | Weblog
畠山重忠公1
H26.05.14 晴れのち曇り
 暑い!関東、東北の一部で真夏日とか。我が地元、鶴ヶ峰に残る史跡の畠山重忠公を訪ね歩いた。以前から気になっていたので、今日はその探訪である。重忠公は、菅谷(埼玉県比企郡嵐山町)を本拠としていた。重忠公は源頼朝に大変な信頼を受けた。平家との戦いでは源義経と共に一の谷の合戦「ひよどり越え」等で活躍した。その後の鎌倉幕府を開設に力を尽くした武将である。しかし、頼朝亡き後、鎌倉幕府の執権を握った北条時政の策略で戦死したが、その戦場、戦死場所が鶴ヶ峰付近である。(写真:畠山重忠公碑。水道道と厚木街道の交差点。いつも通っている場所だが、車なので・・・)
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