蛇過ぎて草起き上るなまめかし
こんなに死にまつわりつこうとする句集も、めずらしい。
春の日やあの世この世と馬車を駆り
わが墓を止り木とせよ春の鳥
死後の春先づ長箸がゆき交ひて
死ぬに似る朝顔とめどなく咲くは
人死んで枕残れる大西日
これらは、死、あの世、墓といったものを扱った彼女の句群の一部に過ぎない。しかし、彼女の句は、たとえば次のような句と違って、なまなましい死のにおいというものをほとんど感じさせない。
血を喀いて眼玉の乾く油照 石原八束
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷
あるいは、次のような死への決定的なさびしさを訴えるものでもない。
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫
少女漫画の傑作、萩尾望都の『ポーの一族』では、はるかなるバンパネラは、人間の血を吸って生き、何百年も同じ姿のまま時の流れが彼らのそばを通り過ぎていくのをただ黙って見ているしかないが、唯一、胸に杭をうちこまれたときには、体が砂のように崩れ、そのまま風に消えてしまうと言う。彼女の句における「死」は、たとえばそのようなものに似ていると言えるかもしれない。
貌が棲む芒の中の捨て鏡
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ
生と死の間に明確な境界線を引き、二度と戻ってこれぬ彼岸を恐れ、生きるということをこの世における最大の関心事とする人間たちを、彼女の句はあざ笑っている。生も死も同じ世界の中の異なるフェイズに過ぎないのだ、と。
落ちざまに野に立つ櫛や揚げ雲雀
玫瑰や裏口に立つ見知らぬ子
翁かの桃の遊びをせむと言ふ
どの句を引用しても、そこに死や異界のにおいが忍び込んでくることに、僕は驚きを禁じえない。そして、さらに驚くべきなのは、彼女は異界に旅立ちたがっているのではなく、異界から我々の世界へ帰りたがっているように見える、ということだ。彼女はいったいどこにいると言うのだ?・・・それは、異界、しかないであろう。
彼女とて人間である。一度死んだら生き返ることなどない。「馬車」「春の鳥」「長箸」「朝顔」「捨て鏡」「桃の遊び」これらの言葉は、すべて彼女があの世から戻ってくるためのアイテムであった。彼女はさまざまなものに姿を変えて軽々とこの世に舞い戻ってくる。あるいは、それは彼女が見ていた恐ろしい夢であるかもしれない。
しかし、彼女の本当の願いは、元の姿のままで還ってくることだったのではないか。その寂しさが、彼女に枕を包む西日に目を向かせ、雲雀の揚がる野に櫛を落とさせる。そして、生きているものに羨望の眼差しを向けることになる。
桃のなか別の昔が夕焼けて
こんな崖にも春は来てゐて垂れる蛇
冒頭に挙げた句も、そのような流れの中にあると言えよう。「なまめかし」という言葉が、喉から手が出るような生命力への憧れ、暗いところから手を出そうとしている泥沼の欲望を覗かせている。蛇が過ぎて行ったあとの草は、むんむんする草いきれの中に立ち上がるだろう。句の中における視線は、蛇の過ぎた後も草が立ち上がった後も真夏の空へ上がることなく、ただ彼女はそれを「なまめかしい」と嘆息する。
そんなぞっとするような心の深淵に、本当に生とか死とか、そういったものが関わりあるのだろうか?やはり、生と死は同じ世界の異なったフェイズに過ぎず、生きることとか死ぬこととか、そういったものをぽ-んと越えていってしまう彼女の人間としての業の深さとか、心の洞窟の深さとか、そういったものを僕はおそろしく思う。
そういう彼女にも、いつか、次の句に挙げるような穏やかな春が訪れることだろう。そう思えることに、救いが見出されていると思える。
昨日から木となり春の丘に立つ
作者は中村苑子(1913-2001)
こんなに死にまつわりつこうとする句集も、めずらしい。
春の日やあの世この世と馬車を駆り
わが墓を止り木とせよ春の鳥
死後の春先づ長箸がゆき交ひて
死ぬに似る朝顔とめどなく咲くは
人死んで枕残れる大西日
これらは、死、あの世、墓といったものを扱った彼女の句群の一部に過ぎない。しかし、彼女の句は、たとえば次のような句と違って、なまなましい死のにおいというものをほとんど感じさせない。
血を喀いて眼玉の乾く油照 石原八束
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷
あるいは、次のような死への決定的なさびしさを訴えるものでもない。
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫
少女漫画の傑作、萩尾望都の『ポーの一族』では、はるかなるバンパネラは、人間の血を吸って生き、何百年も同じ姿のまま時の流れが彼らのそばを通り過ぎていくのをただ黙って見ているしかないが、唯一、胸に杭をうちこまれたときには、体が砂のように崩れ、そのまま風に消えてしまうと言う。彼女の句における「死」は、たとえばそのようなものに似ていると言えるかもしれない。
貌が棲む芒の中の捨て鏡
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ
生と死の間に明確な境界線を引き、二度と戻ってこれぬ彼岸を恐れ、生きるということをこの世における最大の関心事とする人間たちを、彼女の句はあざ笑っている。生も死も同じ世界の中の異なるフェイズに過ぎないのだ、と。
落ちざまに野に立つ櫛や揚げ雲雀
玫瑰や裏口に立つ見知らぬ子
翁かの桃の遊びをせむと言ふ
どの句を引用しても、そこに死や異界のにおいが忍び込んでくることに、僕は驚きを禁じえない。そして、さらに驚くべきなのは、彼女は異界に旅立ちたがっているのではなく、異界から我々の世界へ帰りたがっているように見える、ということだ。彼女はいったいどこにいると言うのだ?・・・それは、異界、しかないであろう。
彼女とて人間である。一度死んだら生き返ることなどない。「馬車」「春の鳥」「長箸」「朝顔」「捨て鏡」「桃の遊び」これらの言葉は、すべて彼女があの世から戻ってくるためのアイテムであった。彼女はさまざまなものに姿を変えて軽々とこの世に舞い戻ってくる。あるいは、それは彼女が見ていた恐ろしい夢であるかもしれない。
しかし、彼女の本当の願いは、元の姿のままで還ってくることだったのではないか。その寂しさが、彼女に枕を包む西日に目を向かせ、雲雀の揚がる野に櫛を落とさせる。そして、生きているものに羨望の眼差しを向けることになる。
桃のなか別の昔が夕焼けて
こんな崖にも春は来てゐて垂れる蛇
冒頭に挙げた句も、そのような流れの中にあると言えよう。「なまめかし」という言葉が、喉から手が出るような生命力への憧れ、暗いところから手を出そうとしている泥沼の欲望を覗かせている。蛇が過ぎて行ったあとの草は、むんむんする草いきれの中に立ち上がるだろう。句の中における視線は、蛇の過ぎた後も草が立ち上がった後も真夏の空へ上がることなく、ただ彼女はそれを「なまめかしい」と嘆息する。
そんなぞっとするような心の深淵に、本当に生とか死とか、そういったものが関わりあるのだろうか?やはり、生と死は同じ世界の異なったフェイズに過ぎず、生きることとか死ぬこととか、そういったものをぽ-んと越えていってしまう彼女の人間としての業の深さとか、心の洞窟の深さとか、そういったものを僕はおそろしく思う。
そういう彼女にも、いつか、次の句に挙げるような穏やかな春が訪れることだろう。そう思えることに、救いが見出されていると思える。
昨日から木となり春の丘に立つ
作者は中村苑子(1913-2001)