そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『白鳥の歌』を読む

2008-03-11 21:53:18 | Weblog
蛇過ぎて草起き上るなまめかし

 こんなに死にまつわりつこうとする句集も、めずらしい。

春の日やあの世この世と馬車を駆り
わが墓を止り木とせよ春の鳥
死後の春先づ長箸がゆき交ひて
死ぬに似る朝顔とめどなく咲くは
人死んで枕残れる大西日

 これらは、死、あの世、墓といったものを扱った彼女の句群の一部に過ぎない。しかし、彼女の句は、たとえば次のような句と違って、なまなましい死のにおいというものをほとんど感じさせない。

血を喀いて眼玉の乾く油照 石原八束
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷

 あるいは、次のような死への決定的なさびしさを訴えるものでもない。

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫

 少女漫画の傑作、萩尾望都の『ポーの一族』では、はるかなるバンパネラは、人間の血を吸って生き、何百年も同じ姿のまま時の流れが彼らのそばを通り過ぎていくのをただ黙って見ているしかないが、唯一、胸に杭をうちこまれたときには、体が砂のように崩れ、そのまま風に消えてしまうと言う。彼女の句における「死」は、たとえばそのようなものに似ていると言えるかもしれない。

貌が棲む芒の中の捨て鏡
黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ

 生と死の間に明確な境界線を引き、二度と戻ってこれぬ彼岸を恐れ、生きるということをこの世における最大の関心事とする人間たちを、彼女の句はあざ笑っている。生も死も同じ世界の中の異なるフェイズに過ぎないのだ、と。

落ちざまに野に立つ櫛や揚げ雲雀
玫瑰や裏口に立つ見知らぬ子
翁かの桃の遊びをせむと言ふ

 どの句を引用しても、そこに死や異界のにおいが忍び込んでくることに、僕は驚きを禁じえない。そして、さらに驚くべきなのは、彼女は異界に旅立ちたがっているのではなく、異界から我々の世界へ帰りたがっているように見える、ということだ。彼女はいったいどこにいると言うのだ?・・・それは、異界、しかないであろう。

 彼女とて人間である。一度死んだら生き返ることなどない。「馬車」「春の鳥」「長箸」「朝顔」「捨て鏡」「桃の遊び」これらの言葉は、すべて彼女があの世から戻ってくるためのアイテムであった。彼女はさまざまなものに姿を変えて軽々とこの世に舞い戻ってくる。あるいは、それは彼女が見ていた恐ろしい夢であるかもしれない。

 しかし、彼女の本当の願いは、元の姿のままで還ってくることだったのではないか。その寂しさが、彼女に枕を包む西日に目を向かせ、雲雀の揚がる野に櫛を落とさせる。そして、生きているものに羨望の眼差しを向けることになる。

桃のなか別の昔が夕焼けて
こんな崖にも春は来てゐて垂れる蛇

 冒頭に挙げた句も、そのような流れの中にあると言えよう。「なまめかし」という言葉が、喉から手が出るような生命力への憧れ、暗いところから手を出そうとしている泥沼の欲望を覗かせている。蛇が過ぎて行ったあとの草は、むんむんする草いきれの中に立ち上がるだろう。句の中における視線は、蛇の過ぎた後も草が立ち上がった後も真夏の空へ上がることなく、ただ彼女はそれを「なまめかしい」と嘆息する。

 そんなぞっとするような心の深淵に、本当に生とか死とか、そういったものが関わりあるのだろうか?やはり、生と死は同じ世界の異なったフェイズに過ぎず、生きることとか死ぬこととか、そういったものをぽ-んと越えていってしまう彼女の人間としての業の深さとか、心の洞窟の深さとか、そういったものを僕はおそろしく思う。

 そういう彼女にも、いつか、次の句に挙げるような穏やかな春が訪れることだろう。そう思えることに、救いが見出されていると思える。

昨日から木となり春の丘に立つ

作者は中村苑子(1913-2001)

『光陰』を読む

2008-03-10 09:59:13 | Weblog
帰りなさい雲林院町青葉風

 不思議な句だ。句の構成としては、上五、中七、下五でそれぞれ切れているので、三句切れということになる。これは、俳句の構成では通常、失敗とされるものだが、この句では気にならない。むしろ、そこに魅力のある句と言えよう。

 三句切れというだけではなく、「雲」「林」「町」「青葉」「風」と、景色を構成するさまざまな文字が中七・下五に詰め込まれている(もちろん、単語としては「雲林院町」と「青葉風」だが)。これらが何かの説明を加えられることなく、並べられている。なので、文脈がない。しかし、この句の中では、「林」があって「青葉」がある「町」に「雲」が浮かび、「風」が出ている。これら漢字の羅列が、不思議と初夏の爽やかなイメージを喚起する。意味上は切れている「雲林院町」と「青葉風」だが、下手に助詞を用いてつながなかったことで、一連の漢字の羅列となり、つながって感じられているのだ。

 さらに、冒頭に置かれた「帰りなさい」という措辞。これは、梶井基次郎が丸善の平積みの美術の本の上に置いた檸檬のように、中七・下五の爽やかなイメージを統べている。誰の声だろう。母性を感じさせる、懐の深い優しげな声。「帰りなさい」と「雲林院町」の間には、明確で深い切れが存在する。どこに帰れと言うのか、私は今どこにいるのか、あなたは今どこにいるのか。一切説明はされずに「雲林院町青葉風」という措辞が連なる。

 私がどこにいても、あなたがどこにいても、「帰りなさい」という声は聞こえてくるのだろう。そのとき、私は思い出すに違いない。雲林院町という不思議な名前の町と、そこに吹いていた、あの爽やかな青葉風を。

 地名の句というのは難しい。行ったことのない土地だと、なおさらである。僕は雲林院町というのが京都市北区紫野に存在し、そこにある雲林院(うりんいん)というのが、平安時代に建てられた寺で、謡曲「雲林院」の舞台になり、また、「大鏡」の冒頭で二人の翁が話している菩提講というのも、ここが舞台になっている、という知識は持っている(そのくらいネットですぐに調べられる)。しかし、訪れたことはない。上記のようなただの知識を元に鑑賞するのは、僕の性に合わないので、知っていながら、すべて無視して鑑賞してみた次第である。

 食べ物の句の評価軸として「おいしそう」と思えるかどうか、というものが挙げられるとしたら、地名の句の評価軸として「行ってみたい」と思えるかどうか、というものを挙げることもできよう。僕は、この句の「雲林院町」になら、行ってみたい、と思った。

 彼女の句は、不思議だ。

カリフラワーかざす八月十五日
狂わねば秋の河原で影を追う
半身は男のままで春暮れる

 「帰りなさい」がどこから聞こえてくるか分からなかったように、なぜカリフラワーをかざすのか分からないし、秋の河原で影を追う行為はすでに狂っているように思えるし、どこの半分が男のまま(しかも、「まま」ということは、もともとは男だった、ということだ)なのかも分からない。そして、この謎の中にこそ、彼女の句の飛翔力が隠されている。

 高く高くかざされた白いカリフラワーは、きらきらと降ってくる真夏の光を受けて輝くだろう。彼女は、おいしそうなカリフラワーを無邪気に喜んでいるに違いない。それがたまたま終戦記念日だっただけだ。ここには戦争を暗喩する何ものも描かれていない。そこがすがすがしい。キノコ雲とカリフラワーの類似?それは、考えたくない。光の中のカリフラワー、それを掲げる彼女、その生命力こそが、反戦の旗印だ。意図されない無邪気な平和の享受こそが、力強い反戦のメッセージを持つ。

 あるいは、影を追って走る彼女、鬱勃とした男のエネルギーを身のうちに感じている彼女。どの句を鑑賞する際にも、彼女の行為が二重写しになる。それは若さと言えば若さ。あがきと言えばあがき。

電線を切りたくなりぬ夏茜
着やせした夏雲ゆるやかに動く
愛されて生きる人と言われ雪
蜂の巣を横切るバレンタインデー

 彼女が世界に対してどのように働きかけているのか、逆から言えば、彼女の行動の中にどのように世界は入り込んでいるのか、その物語として、この句集は存在している。不思議に思える句が多いのは、それが彼女の行動と彼女を取り巻く世界との新たな出会いだからだ。

 しかし、それは必ずしも全ての句において新たな出会いになっているとは限らない。世界とすれ違ったまま折り合いがついていなかったり、ありきたりの世界になっていたりする句も少なくないことは、指摘しなければならない。あるいは、世界を呼び寄せる技術が不足していたりする点も否めないだろう(たとえば、「愛されて生きる人」の中六はどうにかならなかったものか、と悔やまれる)。

 新奇ではないが、落ち着いて見ると新たな出会いと思えるものには、次のようなものがある。いずれも僕の好きな場面だ。

おやすみと言いおやすみと言われ萩
桜咲くかみそり一本買い足して

 ここで冒頭の句に戻ってみることにしよう。「帰りなさい」という声。これは、句集のほかの句から見えてくるある個性的な「彼女」(夏の夕暮に電線を切りたくなってしまうような)の声に聞こえるだろうか?もちろん、「彼女」の声なのだろうが、「彼女」の中の女の部分、母性の部分がより純粋に蒸留されて出てきた声のような気もする。それが、「雲林院町」という新たな世界に響き合っているのだ。

 つまり、この句はほかの句とは違って、彼女自身の個性が薄れている分、彼女がいままで踏み込めなかった新しい、広い世界が彼女の前に開けていると感じられるのである。個性が前に出るものと、新しい世界に踏み込むもの。どちらの作り方がいいのか、ということは誰にも分かるものではない。どちらもそれぞれに魅力的だし、それは彼女自身がこれから選び取ってゆくものだ(別に選ばなくても、両方作ってもいいと思うが)。ただ、僕が言えるのは、「帰りなさい」の句に流れているおおらかな時間こそ、「光陰」というタイトルにふさわしいのではないか、ということだ。

 いずれにしろ、彼女がどんな行動を取ろうとも、世界はそれを受け入れてくれよう。だからこそ、「愛されて生きる人」といわれるのだろうし、その安心感が、句集全体を包む明るい雰囲気にもなっている。

初空や花が咲く木と知っている

作者は江渡華子(1984-)

『あめふらし』を読む

2008-03-09 10:21:47 | Weblog
夕立の母を見つけぬ車窓より

 いた!いたのだ。半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負い、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立っていたのだ。(『父』太宰治)

 彼の句は、かっこいい。それは、かっこつけているからだ。

やはらかく鯛と西日を煮てをりぬ
煮凝の経て来し夜のしじまかな
寒鴉やさしき屍より翔てり

 「西日を煮」る、煮凝に「夜のしじま」を見る、「屍」に「やさしき」という形容をつける。どれも、一歩間違えば鼻について仕方がないくらい、かっこつけた措辞ではあるが、箸の先でほぐれる鯛の身のやわらかさだとか、しんと皿に立つ煮凝のしずけさだとか、鴉にむさぼり喰われ、捨てられる死体の物言わぬ様子だとか、表現技法が表現しようとする核にきっちりはまっているため、「かっこいいなあ」とほくほくしていられる。

 あるいは、次の句のように、自分を出して、まぶしいような詠みぶりを見せる。その背景には、別れがベースにあることを思わせる。

出航の船見て日記買はうと思ふ

 手紙ではなく、「日記」。誰に見せるあてもない言葉の群れ。ところで、この「日記買ふ」は、季語として機能しているのだろうか?

 季語ならば、船を見ることとは独立に、年末だから日記を買う、という行為があるはずだから、船を見たことと日記を買うことのつながりが淡くなる。知り合いの乗っていない、通りすがりの船かもしれない。「出航の船見て」という割合に淡い言い種は、その可能性を示唆するものであろうが、僕は敢えて、恋人の乗った船だと読みたい。あまりに情が入ってしまっているため、「別れ」などの言葉は逆に使わずに、「船見て」などと他人事のように言っているのだ、と。

 そうすると、この「日記買ふ」は、季語としては淡い。季語にならないとまでは言わないが、立ち位置としてはちょっと危ういところにあるのではないか。このように、句の内容の中で、あるがままのものが彼の作家性によって歪められているのが彼の句の特徴と言えよう。季語を季語以外の領域に踏み出させる、といったような。それは、つまり「かっこつけている」というところにも通じる。

 作家性によってモノが歪められるというのは多かれ少なかれどの作家にもあるものだ。ただ、大雑把に言うと、伝統派は自らを黒子として消す方が多いようである。

鳥の巣に鳥の入つてゆくところ 波多野爽波

 彼の場合、たとえば前衛的な作家たちのようにそのゆがみを特別に強く押し出されているものではない。むしろ、詠みぶりや素材は伝統派に通じるものが大きい。

霜月のしづかな粥となりにけり
みちのくの箪笥の重き冬座敷

 しかし、彼の句は伝統的な世界を素材として扱いながら、そこに「かっこつけ」の要素が入ってくるのを否めない。つまり、彼の句を読むと、その詠まれている素材の存在感を彼の視線を通して感じることになる。なぜ、粥を食べずに、「しづかな粥」を見ているのか?「箪笥の重き冬座敷」と言いながら、そんな室内の様子のどこに「みちのく」を感じているのか?そのような微妙に伝統とずれた感覚が、彼の句の一つの魅力であろう。

 時には影になり、時にはやや強く表に出て、彼の視線は必ず彼の伝統的な句にまとわりつく。あるいは、それ自体は彼の句に限った特徴ではなく、むしろ創作者としては当たり前なのだろうか。しかし、僕がそれを彼の句集を読んで感じたこと、そして「かっこつけている」と表現したくなったことは、確かなことだ。

葉桜となり山の木となりてゐし
糠床の胡瓜の穴の曲りたり
敬老の日の喉仏喉仏

 そこにあるのは特別な誰かや、ドラマとなるような設定ではない。しかし、この句の向こうには、こういう言葉を口にした男の嘆息が聞こえてくる。そこにナルシシズムが見える。彼の句を読むと、むしろ、そのナルシシズムが味わえて、楽しい。

 それは、太宰に通じるものがあるかもしれない。つまり、冒頭の句のようなことになる。このような文脈の中で、次のような句が出てくると、おどけて見せているところなんかが、逆におどけ終わったあとのため息まで聞かせるようだ、とまで言ったら、鑑賞過多だろうか。

マヨネーズかけすぎてゐるプチトマト

 あるいは、次の句を彼がはにかみながら差し出してくる様子も、目に浮かぶようで、素直に好きだと思う。

草いきれ胸の中まで幼き日

作者は坊城俊樹(1957-)

『にもつは絵馬』を読む

2008-03-08 12:23:03 | Weblog
九月みにゆくきれいな一騎にさそわれて

 夢見られた未分化ー。彼の句集を言い表すには、こういった言葉が適切かと思う。そのために、彼の言葉は既に打ち立てられた意味を超えて選び抜かれている。

 「九月」「みにゆく」「きれいな」「一騎に」「さそわれて」。これらの要素は、それぞれ独立だ。つまり、「九月」という言葉は「みにゆく」という言葉を引き出すようなイメージを持たないし、「みにゆく」のが「きれいな」一騎であることもここで新しく発見されていることだ。「きれいな」が「一騎」にかかることも当たり前ではないし、その「一騎」に”連れられて”ゆくのではなく、「さそわれて」ゆく、というのも、意外だ。つまり、言葉と言葉の関係が、旧態依然として意味のレベルの中にとどまっているのではない、常に飛翔する意思を持って並べられている。

 それだけなら、前衛的な句群にはむしろ普通の性質とも言えよう。もっと意外で、完全に意味の通らない言葉の結びつきはいくらでも思い浮かべることが出来る。この句ですごいのは、そうして選び出された言葉たちがきちんと一つのイメージを指し示すように、緊密に有機的に結びついているところだ。

 「九月みにゆく」「きれいな一騎」「一騎にさそわれて」これらの語のつながりには一定のほどよい謎が含まれており、それが詩情を生み出す契機になっている。九月という時間をみにゆく一騎は、時を越えて行くのか。その一騎に誘われてついていったら、果たして帰って来れるのか・・・。美しいゆえに、不安になってしまう、秋。

 これらの語に含まれる謎は、作者の中にある気分(陶酔、不安)から生まれているため、それぞれがバラバラの方向を向いて拡散してしまうことはない。その、核になる「気分」は、とても共感しやすいから、彼の句は散文的な文脈が追えなくても、惹かれるものがあるのだろう。つまり、文脈がなくても統一感がある。この統一感は、文脈を無視して構成されているため、文脈以前の未分化で始原的な世界が句の中に開けていくように感じる。

 あたかも未分化を夢見るために、文脈を殺しているようだ。

透明を葉月がつつみ三河がつつみ
大使に飼われた大きな蝶のいた村なり
十一月あつまつて濃くなつて村人

 「葉」が何かをつつむ、というイメージを下書きにしながらも、包まれているものが「透明」という抽象概念で、しかもつつんでいる側も「葉月」という時間、「三河」という土地である。文脈はずたずたに引き裂かれ、しかし、その合間からは、きらめくような青葉、清冽な川の流れ、それらがキラキラ輝いている光、その中心にある透き通った感覚が見え隠れする。三河は、地名というよりは、「三つの川」として思い浮かべられているのだろう。「大使」「蝶」「村」という三つの単語の合成から立ち上がる物語性、冬に向う中で「あつまつて濃くなつて」いく共同体構成員としての「村人」たち。僕は、歳時記を開いたときにほかの季節に比べて冬には生活の季語がやたらに多いことなどを思い出す。

 文脈を切り裂いた向こう側に立ち上がるのは、どこかなつかしい風景、経験していないのに経験したかのように錯覚する物語、作者の体と共鳴する感覚。今までつながらなかったものが実は始原的にはつながっていたのだ、という未分化な状態を発見した驚きと喜び。そうしたなつかしさへ開いてゆくための一つのアイテムとして、地名が用いられている。

栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
木から落ちるしずかにびわ湖に落ちる
にもつは絵馬風の品川すぎている

 地名は、現実の土地という文脈から切り離されて、あるイメージを喚起する言葉として用いられる。それは、「透明」の句の「三河」然り、「びわ湖」とわざわざ平仮名に開かれた湖の名に然り。この「びわ湖」は、本当にあの「琵琶湖」なのだろうか?果物としての「枇杷」、楽器としての「琵琶」がイメージとして借用されていると読めるように、わざわざ平仮名にされているのだろう。あるいは、これは「びわこ」と読むのではなく、「びわみずうみ」と読むのだろうか。つまり、「びわ」で切って読むことも、まあ、可能だ。「木から落ちるしずかにびわ/湖に落ちる」いずれにせよ、未分化、混沌。

 彼の句に文脈はない。しかし、統一感はある。これは、寺山修司の映画(決して、寺山の俳句ではない)を思い起こさせはしないだろうか。

木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど
紋書いてはらつぱに住むひとりひとり

 たとえば、「田園に死す」。それは、単に方法論の類似だけではなく、土着性ということにも由来するのかもしれない。彼の句の土着性は、しかし、一般に想起される土着性のイメージとは違って、白、がイメージの起点になっていると思われる。

わが紅葉蒼白なればいちにちみる
白い鍋釜つかい白い妹しくしく
この野の上白い化粧のみんないる

 それぞれの「白」は全部違う色合いなのに、想起されるイメージは一つに重なる。それは、すべてを塗りつぶす色、切り裂かれた文脈を統一する色、だ。敢えて言えば、未分化の象徴。

 考えてみると、「きれいな一騎」の馬も、白馬という可能性はある。印象的、効果的に使われる幻想の白。それは、文脈を失った彼のよりどころであり、また、それに統べられてしまうことへの不安の原点でもあるのかもしれない。

葉月八月病名町名書いている
水漬く私を妹らみつめるたちまち景色

作者は阿部完市(1928-)

『山信』を読む

2008-03-06 09:16:32 | Weblog
ラグビーの選手あつまる桜の木

 静かでみずみずしいが、その奥に混沌が見え隠れしている。そんな世界を映し出した句集だ。綺麗な言葉、なつかしい景色、口当たりは淡く、確かに古風めいているところは否めないが、一句一句の奥行きが深い。それは、作者の持つ優しい視線に支えられるところも大きいと言えよう。

紅梅や人の少なき地鎮祭
水澄むや梯子の影が草の中
傘さして庭に出てゐる実南天

 上に挙げた句は、どちらかと言うと景色のはっきり分かるものたちだ。光の量が多かったり少なかったりするが、どれもなつかしい写真の中のように、あるいは8ミリで撮った映画の中のように、どこか手の届かない夢のような趣をたたえている。

 「人の少なき地鎮祭」というのは、普通であればその場の情景をただ説明しているだけで何の情感もたたえ得ないような措辞であるのに、「紅梅」と取り合わせられることで、春の日のおだやかな郊外の一日、始まりの予感でもありながら、どこか景色に溶け込みすぎている不思議さを覚える。

 そう、不思議、なのだ。季語があまりにしっくりはまりすぎている。地鎮祭に紅梅なんてそれほどトリッキーな取り合わせではない、実際に地鎮祭をしているそばの旧家に紅梅が咲いていたっておかしくない。なのに、ありがちだとは思わない。ひたすらに目をひくように作ってあるわけでもないのに、目をひかれてしまう。

コスモスの花粉を吹けり黒表紙
末枯に屈みゐる人大きな穴
長夕焼旅で書く文余白なし

 これらの句を並べれば、この句集の「古風に過ぎる」、という批判はやわらかく否定できよう。そして、このような句には、「水澄むや」などには見られなかった混沌が淡く渦巻いている。それはたとえば「黒表紙」「大きな穴」といった言葉に顕著だ。

 「旅で書く文余白なし」とは、誰もが実感するようでいて、なかなか言えないものだ。彼の「旅」は、故郷とつながっている。漂泊ではないのだ。そこに、胸を焦がす長々とした夕焼けが、安心感とかなつかしさ遠い切なさとか、一つの言葉にはまとめられないそういった感情を覚えさせてくれる。

 全く、この句集をひもとかなければたどり着くことの出来ないある国が、確かに存在しているように思えてくるのが不思議だ。それはこの句集の前書きで時折出てくるような「熊野」とか「鞍馬」とか「木曾」とかではない。現実の土地ではないが、我々の心に最も近い土地。

口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし
ゑんどうや網戸が水に浸りをり
戸を閉めて人すぐ座る山清水

 この国は、ある種の理想郷のようだ。句が些細な出来事を詠めばそれだけ、なぜか現実感が薄れてゆく。しかし、そう感じた同じ句に、またはっと現実のにおいを感じて立ち止まる瞬間がある。読み込むほど、句と自分との距離感が揺れて、くらくらしてくる。

 冒頭に挙げた句は、ラグビーというがちゃがちゃした、男臭い、戦闘的なものを詠みながら、少しもさわがしくない。正しく言えば、おそらくうるさいのだが、ざわめきがどこか遠い。ぶつかりあっている瞬間ではなく、試合前か、タイムの間か、そういったものを詠んでいるということが分かる。そして、ラグビーという冬のものに取り合わせられた桜の木。

 まだ咲いていないこのごつごつした桜の木に、この世のざわめきを統べるような不思議な力を感じる。たぶん、この句は一瞬なのだ。一瞬、ざわめきが遠くなった、そのときなのだ。この句の次の一瞬には、ラグビーの力強さがまた戻ってくる。それを予感させる桜の木。

 我々の心に近い土地。それはどこにも偏在し、いつでも静けさを与えてくれる。

木蓮は開ききつたり犬を抱く
大学も葵祭のきのふけふ

作者は田中裕明(1959-2004)

『星の地図』を読む

2008-03-05 09:33:03 | Weblog
葉桜のサイドミラーのさようなら

 ブログのこの句集を読むシリーズでは、冒頭に自分の一番気に入った句を置いて、その鑑賞を念頭に置きつつ、句集全体の特徴やほかの好きな句の鑑賞を織り交ぜて書いているのだが、今回は、冒頭に置く句を選ぶのに最も悩んだ句集だった。

 好きな句が多い、というのももちろんある。それと同時に、もう一つ悩んだ理由として挙げられるのが、彼女の句の統一性と個別性だ。

起立礼着席青葉風過ぎた
白玉や言わねばならぬことひとつ
ひきだしに海を映さぬサングラス
長き夜の渋谷センター街に靴
寂しいと言い私を蔦にせよ

 彼女の句の統一性は、ハイティーンの女性の持つ繊細であふれるような叙情である。日常の風景を切り取ると同時に、そこに透き通った思春期のきらめきがまぶしいほどに見えている。教室の1シーン、ドラマの始まり(あるいは終わり)の予感、笑顔で抑えている裏に見え隠れする寂しさのかたまり・・・。

 彼女の句の個別性は、その自由自在な句法の使いこなし方に見られる。起立礼着席、と中切れの句を作ったかと思うと、上五の「や」のあとに心の中の呟きを取り合わせ、「海を映さぬ」と否定することでむしろ波音と引き出しを二重写しにする手法を用い、「渋谷センター街」なんて長い単語をなんなく句に取り入れ、命令形と季語の暗喩という高等テクニックを駆使する。

 もちろん、彼女の句の内容もそれぞれに異なるのだが、それは結局、彼女の句の総体の中に含めることができる。これはなかなか凄いことではないだろうか。彼女には詠むべきテーマが心の中に溢れている。彼女という思春期の女性の内面が、句集全体から爽やかに、あるいは切なげに、立ち上がってくる。それを可能にしているのは、彼女が身につけた豊富なテクニックによるのだ。

 彼女の句に対してテクニックの話をするのが憚られるほど、つまり、テクニックよりももっと内容の話をしたくなるほど、彼女の句にはテクニックが自然に身についているのだ。それこそ、テクニックの面目躍如といったところではないか。

 僕が迷ったのは、どの句も持っている青春の眩しい光に惹かれながらも、どれか一つの句を選ぶことが、その句の内容よりはむしろ、句の持つテクニックの評価に結びついてしまいそうな気がして、気が引けたからだ(考えすぎ、なのは認める)。どの句も一句としてきちんと成り立っているが、この句集は句集全体として味わいたい、という気持ちがある。

 では、僕はどうして冒頭の句を選んだのか。この句は、三つの単語を「の」で結んだだけのシンプルな形をしているが、これらの「の」が普通の意味でつながっていないところにテクニックがある。そして、僕の中では、テクニックと内容との距離、というか、時間差のようなものが、最も短い句だったのだ。

 「葉桜の」と言ったところで、葉桜が見えてくる。花びらが散ったあとの、しかしほかの花の散ったあととは違って荒涼さのない、あのキラキラ。「サイドミラーの」と言ったところで、ああ、私は車に乗っていたんだ、と思い出す。サイドミラーを見ている余裕がある、この助手席という定位置で。私は道沿いに流れていくキラキラを見つめている。その人の運転する車で、ぼんやりと、幸せを噛みしめている。

「さようなら」

 この下五には、場面転換はない。私は相変わらずサイドミラーを見ているし、道沿いには葉桜が流れるし、一見、世界は一瞬前と何も変わらないように見える。しかし、私の耳は、いま、確かに「さようなら」と聞いた。あの人の声で。その言葉のあとの沈黙は、いつまでもいつまでも、葉桜の季節に響き渡る。

 「の」で畳み掛けて、途中で切れを作らなかったことが、逆にこの句が走り去った後の深い沈黙を呼び起こす。テクニックが即内容のかなしみに響いている。そこに僕は惚れる。

 このように、この句集は、彼女の中にあるやわらかな心と、俳句形式との幸福な出会いとも言うべきものだ。それは、俳句形式にとっても、自らを更新する契機となりうる点からして幸福であったと言うべきだろう。それはたとえば、こんな句に表れている。

日記買い自由の女神ぽく抱く
黒板にDo your bestぼたん雪

 「ぽく」という口語調の比喩、Do your bestという英語は、決して俳句形式を更新しようと、その新奇さを買われて使われた措辞ではなく、彼女のいたずらで楽しげな心情や、日本語で言ったらなんだか恥ずかしすぎるような照れを効果的に表すために用いられ、それが結果として俳句形式の更新に結びついている(あるいは、そう見えるように作っている)。Do your bestは、そのD音やB音のもったりした感じが、ぼたん雪に合っているところも指摘できよう。

 最後に、彼女の句にまつわる水音を聴いて締めにしよう。

ごめんねの夜より青い水中花
目を閉じておる寒椿沈み来る

 彼女の句のテーマはこれからどこへ向かうのか。青春は二度と戻らないから美しい。彼女の句には、俳句形式の内部に留まらない、もっと俳句の外側からやってくる何かを、いつでも期待したい。

作者は神野紗希(1983-)

『猿樂』を読む

2008-03-04 21:54:16 | Weblog
弥生三月壺が行つたり来たりする

 彼女の句は、取り合わせで出来ているが、基本的に文脈がある場合が多い。つまり、切れによって二つのものをぽーんと読者の前に放り投げるのではなくて、二つのものが意味を持って結ばれているのだが、その意味がかなり奇異であることが多い。

愛人を水鳥にして帰るかな

 文脈があるくせに、意味を追うことにほとんど意味がない。そこに、今まで知らなかった新しい世界がある。新しい世界、だから、「さびしさ」とか「あきらめ」とか「やさしさ」とか、一つの言葉に集約できない。ただ、飛び立つ水鳥を見送るように、この句の奇妙なあかるさにあてられてしまうだけなのだ。

 そうして、そのような、彼女によって発見される新しい文脈には、実は、一つのパターンが強く見られる。それは、ある「モノ」の内部に思いもよらない「モノ」を見ている、というものだ。いきおい、句に「なか」という言葉が含まれることが多くなる。

セルロイドの筆箱のなか雪降れり
氷柱の中はあざやかな難民
向日葵は兵士のなかに倒れけり
恐竜のなかの夕焼け取りだしぬ
肋骨をひらいて閉づる桜どき
蓮根の穴を無数の父が過ぐ
軍隊が桃のなかへと消えてゆく

 「肋骨」の句と「蓮根」の句には「なか」(あるいは「中」)という言葉は使われていないが、モノの内部と外部の差異を感じている点では、発想の源は同一のように思われる。

 「筆箱」「氷柱」「桃」など、日常的で、実は見ようとすれば簡単に中を見ることの出来る、そういう意味で永続性のない、あやうい存在の中に、「雪」「難民」「軍隊」などの物理的にも意味的にも過剰に大きなものが入っている。

 あるモノの内部を幻想してみると、そこに平衡感覚を狂わせる未踏の夢が息づいている。それを次々と明らかにしてみせる彼女の視線は、あくまで無邪気で楽しげで、だから愛人も戦争も難民も不思議に明るくとらえられてしまっている。言葉が本来持っている重さや深刻さを、知らずに作っているのではない、そうではなく、重さを知りながらあえて意図的に無視して作っているから、諧謔となり、くらくらするような詩たりうることができる。

 彼女の明るさは、ほとんど全ての句の基調をなす。それは、普通の文脈を無視した、彼女の見つけた不思議な世界を祝祭に変える。読者はその世界に遊んでいればいい。しかし、そこにあやうさが一つ。「筆箱」「氷柱」「桃」それらは簡単に壊すことが出来る、中を開けることができる。「雪」も「難民」も「軍隊」も、いともたやすく我々の現実世界に漏れ出してしまう。内部に閉じ込められているから祝祭になるものが、もしも我々の世界に侵入してきたらどうなるのか。

喉ぼとけ桜のなかに駅がある
冬雲の裏に冬雲広辞苑
雛の日や小さきおじぎ恐ろしき

 冒頭に挙げた壺の句は、なんだか楽しげだ。昼下がり、ふと目覚めると、目の前には三月のあたたかな空気の中、壺を持って歩く幾人もの女たち。みんな鼻歌なんぞを歌いながら、右へ左へ一つの壺が行き来する。軽やかに持ち運ぶようだが、壺自体はとても立派なものに見える。

 ・・・一体、何のために壺は行き来しているのだろうか?そもそも、壺の中に入っているものは何なのか。ここでは、ほかの句とは異なり、その中にある異常なものは幻想されていない。しかしその分、中身が気になって仕方がないのだ。あたたかな光を浴びているうちにふと気付く。彼女の明るさの裏に隠れているものは一体なんだ。・・・それは、明るいというだけで我々が親しみを持っていい、そういうタイプのものだったろうか。

 ここに来てようやく、我々は芥川の『トロッコ』の少年のように、奇妙にねじれていて恐ろしい何かに途方に暮れる自分自身を発見するのだった。

桃咲くや鳥はまぶたを失ひぬ

 この、明るさというグロテスクに。

作者はあざ蓉子(1947-)

『人体オペラ』を読む

2008-03-03 11:13:33 | Weblog
月光が無限の「もしも」を戸口へ運ぶ

 その戸口を開けてはいけない。そうしたら、正気を保ってはいられない。さまざまな過去の亡霊が月光の中に浮かび出て、気持ちいい幻想にいざなわれて、二度とここに帰っては来られない。ほら、もうすぐそこ、亡霊たちが押し寄せて、戸口をぎしぎし言わせている。我々はこんなちっぽけな一軒家で、このおそろしい誘惑の一夜を耐えていかなければならぬ。ゆめゆめ、その戸口は開かぬように・・・。

 戸口の向こうに押し寄せている亡霊たちは、たとえばこんな姿で迫ってくる。

天文学的数字を刻まん子宮の絶壁
今は昔、富士の高嶺のつわり重し
鉛筆を子宮に立てない場合は不正行為とみなします
薔薇色ノ便器ガ戦士ノ祭壇カ

 作者の言うところの、「人体パーツと西洋音楽を機軸に、想像力の深夜パーティー」が開かれている。言葉と言葉の破壊的な衝撃力と、一句における文脈の幻想的な再構成。それが、言語から完全に意味を奪い、その代わりに肉体のぬらぬらした生理を持ち込めたときに限って、これらの句群は成功する。はっきり言って、これは隘路なのだ。

 たとえば、「天文学的数字」に「子宮」を取り合わせると、性交によって子宮に向かって噴出された幾億幾兆の精子が必然的に思われる。ここには表には表れない「意味」が発生してしまっているのだ。それは、つまらない。ただ射精のことを回りくどく言ったに過ぎない。しかし、この句の救いは、「絶壁」という言葉にある。見上げるばかりの子宮壁を思うことで、視点は一つの精子になり、幻想的な肉体感覚を獲得し、意味性は幾分か和らぐ。

 鉛筆を子宮に立てる、という行為はほとんど意味を持たない上に、そこへ入試などの試験監督を想起させるような「不正行為」という言い種は、ますます無意味の荒原に読者を放り投げてやまない。しかしここには、鉛筆が膣へ飲み込まれいく際の生々しい感覚、つまり、ぬらぬらと光った鉛筆が女性器のにおいを放ちながら息づくように上下する動きや、ヒクヒクと動く膣の襞の手触りが感じられる。それは、ペニスが子宮に突き立てられるという普通の感覚からはやっぱりちょっとずれている。そこに、汗かくような新しいねっとりした感覚がある。

 さらに、その光景に対して息を荒くし、目を血走らせながら「あなたもこうしないと不正行為とみなしますよ、ペニスじゃない、きゅうりでもない、鉛筆をここに立てないと不正行為ですよ」と喚く男がいる。このくらくらするような無意味、無意味はしかし、本当に本質的なものなのか?意味なんて、ただの文化の慣習、なぜバイブなら差し込んでもおかしくなくて、鉛筆だとおかしいのか?そこに無限のパラレルワールドが生まれていると思うことに何の不思議があろうか?

銀舎利をゆめゆめ鳴らすことなかれ
やえざくら吐息の帰還はありうるか
橋姫やありのとわたりのひるさがり
猿が私に寺院の影にしゃがめと言うのか

 作者は、ほとんど意味に取り込まれそうになりながらも、どうにかその引力を振りきろうともがいている。その試みは、この句集において失敗しているものも多い。意味を失っただけでは、言葉がただのガラクタになるだけで、我々を恐ろしがらせたりはしない。そういう句も、確かにこの句集には多くある。こわいのは、意味が生理に換わるとき、だ。それによって、我々文明人の立場を相対化し、嘲笑しようとしている。

 だから、その戸口を開けてはならない。

 作者は夏石番矢(1955-)

『キリトリセン』を読む

2008-03-01 12:29:28 | Weblog
春雪や産み月の身のうすくれなゐ

 率直に、母性の美しさを感じる。血のにおいさえ穏やかに、彼女は母になってゆく。春の雪に祝福されながら。

 ・・・しかし、この句集について語るとしたら、それは俳句のみについて語るのでは不足であろう。句集の体裁が、従来の句集とは根本的に異なるところが多いのだ。この句集ではひとつひとつの句に、美しい写真がつけられていたり、かわいいデザインが施されたりしている。基本的には、見開き1ページについて俳句は一つ。俳句以外にも、その俳句で使われている季語の説明と、作者自身の感興を表す詩のような文章が2行から3行つけられている。

 たとえば、冒頭に挙げた句で言えば、まず俳句が目に入ってきて、それよりも小さなフォントで「季=春雪(春) 春の雪は淡くはかなく消えやすい。」とあり、その隣に

もうすぐ、もうすぐ。
母となるまでの時間を、数えている。

 という、作者の言葉、そしてページの隅の方に、より小さなフォントで「しゅんせつやうみづきのみのうすくれない」と、現代仮名遣いで俳句の読み仮名が書かれている。見開きのページの中に書かれた文字は、これで全てである。これらの言葉のバックを、茶色の背景に糸電話がぽつんと置かれている写真が静かに満たしている。この糸電話の糸は、ぴんと張ったままページの端まで続いており、次のページにまでその糸は続いている、という洒落た構成だ。

 他にも、風船の句は赤い風船に白い文字で書かれてあったり、子供の言葉を詠み込んだ句は、わざと幼く見えるような大きな書体で、漢字を使わずに書いていたりと、随所に作者およびデザイナーらの工夫が見られる力作だ。

 このような新しい形の句集に対しては、もちろん俳壇側から多くの異論反論が上がるのが当然であって、たとえば坪内稔典は以下のように述べている。

この句集、デザイナー、コピーライター、写真家などが力を合わせて作っている。1句1句がデザインや写真などを変えて配置されており、詩画集の趣である。その工夫は楽しいのだが、読むのはややつらい。1句の読みの方向がかなり決められているから。つまり、この句集は、このように句を読め、とデザインや写真、作者の自解などが主張する。別の言い方をすればとてもおしゃべりな句集である。俳句はしゃべらないことを特色とする。その意味では、この句集は反俳句的に作られている。(「e船団 この一句」より)

 基本的に、僕もこの見解には賛成する。問題は、「反俳句的に作られている」ことを楽しめるか、否かだ。「読むのはややつらい」と述べているくらいだから、稔典氏にとってはこれは楽しめなかったのであろう。

 僕としては、このような試みは大変おもしろいし、貴重だと思う。むしろ、彼女がこういう方向一本に絞ってやっても良いのではないというくらいに。必ずしも全ての句について試みが成功しているとは言いがたいが、季語の説明も、ただの歳時記的な知識に留まらず、ややリリックに書かれていたりするし、作者の言葉も俳句をパラフレーズしてしまっているようなものではなく、連句のようにうまくつけられているものは、より想像が膨らんで楽しいと感じた(そういう意味では、冒頭に挙げた句に対する言葉の付け方は不満である)。

 ただ、そのようにうまくつけられている例は、むしろ少ないかもしれない。俳句のパラフレーズにならないようにする、というのは、考える以上に大変なことなのだ。たとえば、次のような句がこの句集における成功例かと思う。

(俳句)
君は私の舟だつたのに秋麗

(文章)
東京が海に沈んだら舟で逃げようって、いつか、そんな話をした。
今も、この町が海のように感じられる時、いないはずのあなたを探す。
遥か彼方で、悠々と、舟の上にいるあなたが見える気がする。

(俳句)
ひとり旅凍星のどを通り過ぐ

(文章)
さっき、銀色の星が、のどを、きらきらと走り抜けた。
ほら、わたしの底に、小さな光が点滅している。つかまえた。

 これらの文章も、人によっては俳句とイメージがダブりすぎるし、読みを限定してしまうと考えるかもしれない。しかし、僕には、文章で付与された「東京が海に沈んだら」とか「つかまえた」とかいう文言は、翻って俳句の世界を押し広げているように感じる。それは、新しい形での連句、と言えないだろうか。

 それは、写真・デザインについてもまた同様である。たとえば、「春雪や・・・」の句に糸電話の写真、といったような取り合わせは、とてもイメージを広げてくれる。まるで、母と子が体の中で糸電話を使って話しているような。

 ただ、この句集については、収められている俳句そのものの魅力が分かり易すぎるものが多いのではないか。揺れやすい青春、繊細な女性、愛情あふれる母親。それらの枠におさまっていては、新たな詩情を獲得する契機は遠い。

 今までここで挙げた句は、その中でも、その枠からいくばくか飛翔し、彼女の見た生の景色が伝えられていると感じたものである。さらにいくつかを、以下に挙げておく。

薔薇の香に吾より痩せて吾の影
日傘さす光と影をしたがへて
鳥渡る山のぽかんと美しく
菜の花に吾がつまさきを見失ふ

作者は大高翔(1977-)