そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

ちょっとにちょっと、にあれこれ、にちょっとずつ

2010-02-03 21:34:12 | Weblog
豈ウィークリーに「鶏頭論争もちょっと、にちょっと」(http://haiku-space-ani.blogspot.com/2010/01/blog-post_3050.html)を書かせていただきました。いわゆる、「ゆうむくんのあれ」(http://twitter.com/mone424/status/8563655115)と称されているやつです。

ありたがいことに、思いのほかいろいろな方からご反応をいただきまして、その多くは、拙論がいかに的外れかを指摘してくださっている。これが議論として盛り上がっているものなのか、それとも不毛な論争になっているのか、僕にはよく分からないが、せっかくいろいろな方に書いていただいたので、それらに対する雑感を述べておきたい。

・たじま屋のブログ http://moon.ap.teacup.com/tajima/996.html

たじまさんの言いたいポイントはいったいなんだろうか。たとえば以下に3つのポイントになりそうな段落を抜いてきてみる。

太平洋戦争中に不幸な時代状況のなかで特攻隊として犠牲になった若者たちと、現代社会でうつ病になるまで働いて自殺してしまうサラリーマンのあいだに、「たまたま不幸な時代だったから」という回答しか与えられないとしたら、それはただの想像力の欠如に過ぎないのでは?

「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」からこそ、それを請け負うのは「自分」でしかない。

鶏頭論争の中心課題は、この山口氏が「自分たちの言葉」と呼ぶような領域が実は存在せず、それを請け負う「主体」と呼ぶべきものが作品を後から追ってくる、という点にあるのではないかしらん。

たじまさんが並べるこれらの言説の間にいかなる論理的な関連があるのか、それ以前にこれらの言説がそれぞれ何を言わんとしているのか、僕の頭ではよく分からない。「回答」とはどのような問いに対する回答のことなのだろうか?中心課題って、何に対する課題のこと?

そもそも、「ひとりの人間に起こる出来事は、いつの時代も過不足なく起こる」って本当なのだろうか?ここで言う過不足とは相対的なものか、絶対的なものか…とか言い出したら、結局不毛な議論になりそうな気がしてきた。どういう意味であれ、これを否定することは「想像力の欠如」、ということになるのだろうか。

すみません、本当によく分からないのだけれど、

おい、おい。それは「状況」がふざけているわけではないんじゃないかな?

という指摘に関しては、確かに。「ふざけた状況」と書いたのは適切な言葉遣いではなかった。「不幸が無いのが不幸」というのがふざけた言説だ、というニュアンスで書きたかったのが、言葉が足りなかったです。

・俳句的日常 http://tenki00.exblog.jp/10728023/

「物語を欲しがる君たちへ」というタイトルがついているけれども、これは僕に言っているのだろうか。

いや、別に、物語がほしいわけではないです(きっぱり)。

天気さんはさらに聞いてくる。

「平和な日常を甘受」すること、どこにでもいる人間であること。それでなにか問題があります?

いや、全然問題ないです。

確かに天気さんの引用した部分における僕の記述の仕方は、時代というものに対して不満たらたら、な書き方をしたけれども、それは結論ではない。そもそも、僕が「虚構」などという言葉を使ったからいけなかったのだろうか。別に僕は物語がほしくて虚構を立ち上げるなどと言ったわけではない。過去の俳人の少なくとも一部は物語の中にいることがその面白さの一部を構成していると僕には感じられるわけで、そのような過去の俳人と同様の物語を自分たちは手にしてはいない、ということが僕の主旨である。自分を取り巻く「貧弱」な「物語」から脱却したいと、他の同世代の人たちが考えているかは本当はよく分からないけれども、少なくとも僕自身は思っていて、それは「不遜」と言われるかもしれないけれど、実感なのだから仕方がない。

それがドラマチックであれ、平平凡凡たるものであれ、物語というものから抜け出し、十七字が十七字のままで受け取られる状況を「虚構」と呼んだのだけれど…確かに、うまく伝わらないかもしれない言い方ではありました。最終的には天気さんの言う「俳句の十七音を誠実に読むこと」とそんなに違うことを言ったつもりはないのだけれど。作者名を入れて読んだときに面白い俳句が過去にはあった(もちろん、そうではない俳句もあった)。今は、作者名を入れなくても面白い俳句を作ってゆかざるを得ないのではないか(これは僕の実感に過ぎないので、そうではない方向性もあるかもしれないけれど)。その違いは、時代状況によるのではないか。まとめるとそういうことになる。

だから、別に物語はなくてもいいのですよ。

・青山茂根さんのコメント 

「実験してみたら?というのが私からの提案です。」

という主旨のコメントでしたが、どこからどうして、作者名を消したときにどこまでやれるか、という話になったのか、よく分かりませんでした。たぶん、いろいろな人に自分の意図とは違ったふうにうけとられているということ自体、僕の書き方がとてもまずかったということなのでしょう。

僕の名前がついていようがいまいが、それによって僕の句は影響を受けないと僕は考えています。もし影響を受けるかどうか実験してみたら、という主旨の発言だったとしても、「評価」に影響を与えるかどうかではなく「読まれ方」に影響を与えるかどうかを見なければならないのではないでしょうか。現状でだって、「御若いのに御上手ねえ」という評価をいただく以外では僕の句が読まれるときに僕の人生が引き合いに出されることなんかほとんどありません。つまり、わざわざ作者名を消して実験するようなことは何もない、ということです。

もしも実験することがあるとしたら、逆に、僕の名前が僕の句についているときにどのような読まれ方があり得るか、ということを見るべきであって、それこそが新撰21の100句だった、とも言えるでしょう。やはり、今のところでは、名前がついててもついてなくても、読まれ方そのものには変わりはなかったように僕には思えますが。

新撰21と言えば、やや話はそれるけれども茂根さんはツイッター(http://twitter.com/mone424)上でそろり亭さんのブログ記事「週刊俳句145号(http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2010/01/145.html)」中の「ちょっと、『新撰21』で、盛り上がりすぎじゃないですか?」という発言にも反応されています。そろり亭さんとはやや違うニュアンスかもしれないけれど、僕もずいぶん盛り上がっているなあ、と思っていたところだったのですが、茂根さんはそうは思われなかったようで、どうやら否定的です。僕が気になったのは、

だいたい、「決定打!」って発想もしくは語彙がどこから出てくるんだろう。ハウツー本の読みすぎでは。文学にも芸術にも人生にも俳句にも正解は無い。

と、茂根さんが言っているところ(http://twitter.com/mone424/status/8585210943)。これは、そろり亭さんの

『新撰21』が、決定打!になっては、いけないのです。決定打!なんて、この手の企画で出て良いのかどうかもよくわかりませんが、ともかく、褒めすぎは禁物。

という発言に反応されてのこと。「褒めすぎは禁物。」というのは、確かに茂根さんの「誰もほめたおす会企画してません。」という反論(http://twitter.com/mone424/status/8545856264)も首肯できるのです(ここでいう「褒めすぎ」は、毀誉褒貶含めてそもそも「話題に上らせること」全般を言っているように僕には思えましたが、まあ、そう取られるとも限らないでしょう)。けれども、決定打!になってはいけない、とそろり亭さんは言っているのに(つまり新撰21が若手アンソロジーの決定打になるかもしれない怖れを何かの理由でそろり亭さんは感じ取り、それを忌避すべきだと言っているのに)、なぜ「決定打!って発想」云々の話になるのだろう。人がそれを否定しようとして持ち出してきた語彙を批判する。受験対策の用語(http://twitter.com/mone424/status/8589139948)?そんなこと考えるの、不毛じゃないですか?

茂根さんには、ぜひ、ツイッター中の発言、「これが俳句甲子園出身者の思考なんだと思われてしまうだろうに(http://twitter.com/mone424/status/8563655115)」のところを、詳しく聞きたいと思いました。

・小川春休さんのコメント

書くべき境涯や背景がない、というのも、これまでの世代では有り得なかった特殊な状況なわけで…。

と、小川さんはコメントなさっています。本当にそうなのかどうか、というところが、目下、僕の一番知りたいところです。実感としてはそんなような気もするし、実はもうずっとそういう話になっているような気もするし。

芭蕉や子規、波郷などの境涯や背景とは比較にはならない平々凡々たる我が生活ですが、開き直って「そこ」を描いて、平々凡々の先に何かを見出すという行き方もあるのかな、と。

確かに、そういう「戦略」もあるのだろうな、と思います。僕はまた、違うことを詠んでいきそうです。