そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

『菊子』を読む

2008-03-29 08:51:08 | Weblog
覚めてなほ車窓に秋の渚かな

 世の中には伝統を受け継いでいることに価値のある句集や、現代を切り取ったことに価値を置いた句集はあるが、この句集はどちらでもなく、伝統(あるいは、時代)の連なりの上に現代を感じさせるところがある。

無花果や虚子先生はやさをとこ
金色に塗りたる爪やうたかるた
たらの芽の天麩羅くちのかるきひと

 虚子のことを詠み込んだ句はいくらもあるが(そうして、おおむね凡庸な上に気取りが鼻について、読んだことを後悔するのだが)、この句は実におもしろい。虚子がやさおとこだったかどうか。「をとこ」というのは「おとこ」とは違って若い男性を指す。虚子の若いころと言えば明治時代、まだ子規が生きていて、誰も彼も時代を作っていこうと必死だったころのはず。実際の人柄は僕の知るところではないが、明治の男・虚子に、無花果から想起される女性のイメージを取り合わせることによって、今まで思っていたのと違う彼の一面が浮かび上がってくる。それは歴史上の人物という重々しくしつらえられた虚像に対する現代的で血の通った楽しい想像だ。

 あるいは、つめを金色に塗るようなうら若い女性が歌留多取りをしていたり(下五にうたかるたを持ってくることで予想を裏切る巧みさ)、風流な料亭などでたらの芽を食べながら「ここだけの話」をついつい広めてしまうような人がいたり(くちのかるきひと、という平仮名の吹けば飛ぶような軽さ)、これまで培われてきた伝統とか時代とかそういったものを受け止めながら飄々と現代に生きる自らの感覚を取り込んでいるのである。

 たとえば次のような句も、そのうちの一つだ。

東風吹かば吾をきちんと口説きみよ

 ここまで来ると若干、歴史との取り合わせ(つまり、「東風吹かば」からすぐ思われる道真のこと)があざとく見えてしまうのは否めないが、道真の歌の本歌取りとして意外性があって楽しい。平安時代の男と平成時代の女。この二人にとって「東風」は、キラキラの光が見えていることに変わりはないのに、なんと異なったイメージとして心の中を吹くものであろうか。

 時代の終着駅としての現代、あるいは時間の終点としての現在。そして、現在・現代の中心にいるのは自分、中心にあるのは自分の身体的な感覚。だからこそ、時間性と身体感覚が心地よく混ざり合う余地が生まれる。

鳥の巣の中をさらして育てけり
ぞんぶんに人待たせゐて磯菜摘み
永日や線香束のまま灰に
手花火の火の点きたるを貰ひけり

 どの句も、一瞬を切り取ったものというよりは、時間の流れの中にモノを置いてその移り変わりを五感いっぱいに感じている。身体感覚を忘れないから、時間の流れが論理や理性に回収されてしまわない、詩としての強さがある。

 彼女の中で、時間は大変ゆっくり流れているように思える。変化が緩慢なのだ。それはひな鳥が風を浴びながらじっくり育ってゆく様子だとか、墓参りに行ったときに供えた線香がだんだん灰になってゆく様だとかによく表れている。

 あるいは、虚子先生をあたかも自分のまわりにいる人のようにやさをとこと言う感覚、うたかるたを現代的な派手ななりの女性がやっているという情景、これらに見られるように時代を自分にひきつけて捉えてしまうことができるのは、緩慢な変化を追ってゆっくりゆっくり時代の糸を自分の方へ手繰り寄せることができるからなのかもしれない。

 それが極まってゆくと、冒頭に挙げた句のようになる。いったい列車はどこを走っているのだろう。うとうととする前も、そして目が覚めた後も車窓には渚が広がっている。それは永遠というものの一諸相なのかもしれない。まだ夢を見ているようなセピアがかった感覚。車窓の向こうにある景色はいつまでも変わらず、そして自分はいつまでも車窓のこちら側の人間として、ただおそろしい夢のようにどこまでも広がる渚を見つめるしかない。胸を締め付けられるような、秋。

 この句集では彼女は自分の身体感覚で時代を、そして時間を捉えなおし、再生させることに成功させている。しかし、そこに彼女自身の行動・営為はほとんど見えないことは注目に値する。つまり、それは未来に開いてゆくものではなく、現代でぽつんと途切れてしまう。秋の渚はいつまでも車窓の向こうにある。

 あるいは、それが彼女の時間感覚なのかもしれない。

ぢきに来る夕立雲や夏期講座

 夕立雲を止めるすべはなく、夏期講座をあきらめるすべもない。

作者は如月真菜(1975-)