そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

季語は動くのか

2008-03-18 09:55:23 | Weblog
 季語が動く、という指摘は、さまざまな句会の場で用いられる。誰も彼も無意識に使っている俳句用語の一つだが、無批判にこの言葉を濫用してもいいものだろうか?

 季語が動く、というのは、主に取り合わせの際、その季語以外にもっといい季語があてはまるのではないか、という指摘である。たとえば、

一月の川一月の谷の中 飯田龍太

 という句があるが、この句の「一月」は本当に「動かない」のか、という議論はやはりあるようだ。三月なら三月なりの、十月なら十月なりの句ができるであろう。あるいは、月である必要がそもそもない。

三月の川三月の谷の中
十月の川十月の谷の中
底冷えの川底冷えの谷の中

 いやー、やっぱり一月は動かないよ、という議論をする人たちは、「一月」という季語の必然性を強調することになる。一月の厳しい寒さ、韻律の良さ、全体的に冬の厳しさの似合う措辞であるということ、「一」という字の直線的イメージなど、「一月」がいいのだ、という主張はいくらでも作り上げることは可能だ。

 しかし、そもそも「季語が動く」「いや、動かない」という議論は、その作者の作家性を無視したずいぶんなやり口だとは思わないだろうか?「季語の必然性」を追って理論武装ばかりしていては、その句に純粋に感動し、鑑賞することができなくなってしまうのではないだろうか?

カリフラワーかざす八月十五日 江渡華子

 この句のカリフラワー、僕は生命力があふれているように思えて好きである。しかし、生命力、というだけなら何もカリフラワーでなくても、ほかにいくらでもありそうなものだ。なぜブロッコリーじゃいけないのか?

ブロッコリーかざす八月十五日

 そこで、カリフラワーの必然性を示すために、「カリフラワーはキノコ雲と似ている」という議論が出てくる。しかし、僕は自分の鑑賞とは離れたそのような文言を安易に受け入れて「だからカリフラワーなんだ!」と言いたくはない。そのように受け取る人がいるのは構わないが、僕自身はやはりこのカリフラワーに生命力を見たいのだ。

 しかし、カリフラワーに生命力を見ているだけでは、カリフラワーの必然性は説明できない。この季語は動くということになる。でも、僕の中では動かないのだ。なぜなら、僕にはこの句は一つの光降り注ぐ確かな景色として胸の中に固定されているものなのだから。ブロッコリーなどという添削例は考えられない。

 つまり、季語が動くとか動かないとか言うけれど、「季語は作者が選んだものとして一句に組み込まれているんだから、ごちゃごちゃ言うな!!!」と、僕は言いたいのである。もちろん、指導、という立場であれば、そのような句作りにまで丁寧に分け入っていくことは必要だろう。しかし、純粋に句を鑑賞する、という立場を取るときには、「季語が動く」という言い方は、ちょっと安易に過ぎないだろうか。

 季語が動かない、ということは、季語の必然性を説明できる、ということである。季語の必然性を説明できる、ということは、句の中に既成概念を持ち込んでそれに沿っているとかいないとか議論することになる。もちろん、そのように季語の動かない句の魅力というものを否定するものではないが、季語が動くかもしれない句だって、季語が動くということで良さが損なわれるということはないのではないだろうか。

いきいきと死んでゐるなり水中花 櫂未知子
いきいきと死んでをるなり甲虫 奥坂まや

 何かと話題になった二句であるが、季語だけ替わっていて成り立つ句、ということは「いきいきと死んで」というフレーズについては、「季語が動く」と指摘することもできよう。しかし、だからと言ってこの二句の価値が下がるというものだろうか?

 季語が動くという指摘は「本質が存在に先行する」という無意識に培われた思想の発露のように思えて仕方がない。しかし、俳句(あるいは、俳句に限らず、文学)においては、存在が本質に先行しているからこそ価値のある作品、というものがあるはずだ。具体的な「存在」を切り取ってくることによって、今まで見えなかった「本質」が見えてくる。

 もちろん、句がそもそも既成概念にもたれていたり、逆に意味が分からず鑑賞不能になったりする場合には「季語が動く」という指摘も無意味ではなかろう。しかし、あまりそういうことばかり言っていると、新しい「本質」は発見されないのではないか、と思う。

三月の甘納豆のうふふふふ 坪内稔典

 どうして三月じゃなくちゃいけないのか(六月ではダメなのか)?どうして甘納豆じゃなくちゃいけないのか(豆大福ではダメなのか)?どうしてうふふふふじゃなくちゃいけないのか(およよよよ、ではいけないのか)?

六月の豆大福のおよよよよ

 このような問い方は、ほとんど作家性に対する冒涜としか思えない。